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海辺の聖母  作者: 神井


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第二話 六十五年前の聖母


 翌日の放課後、澪は息を潜めるようにして、本校舎の隅にある旧資料室にいた。

 カビと古い紙の匂いが充満する薄暗い部屋で、歴代の卒業アルバムや学院の記念誌を片っ端からめくっていく。

 どうしても、確かめずにはいられなかった。

 昨夜の母の動揺と、祖母のあの遠い目。

 何かが、確実にあの劇に隠されている。

 棚の最上段、埃をかぶった重い一冊を引き出す。六十五年ほど前――昭和三〇年代初頭の、分厚い卒業アルバムだ。経年劣化で茶色く変色したページをめくっていくと、演劇部の活動記録のページで、澪の指が止まった。

 銀塩の粒子が粗く浮き立つ、一枚の古い白黒写真。

 そこに写っていたのは、白い修道服を身にまとい、舞台の上で一人、両手を組んで虚空を見つめる少女の姿だった。

 現代のカラー写真とは違う、光と影だけで構成されたその姿は、凄まじいまでの冷徹さと、周囲を拒絶するような神聖さを放っている。

 これが、「海辺の聖母」。

 劇の内容は、幼稚舎の頃から何度も見聞きしてきた。

 舞台は一〇から一四世紀頃の、地中海沿岸にある小さな町。

 ヒロインは、町の人々に尽くし、よく働く信心深い若い修道女。

 彼女の住む町でペストが流行り、住民たちは生まれ故郷を捨てて船旅へ出ていく。老人や病人、孤児たちを残して。

 しかし、彼女だけは町に残り、置き去りにされた人々を落ち着かせ、最後に海に向かって祈り、聖歌を歌うところで舞台は終わる。


「懐かしいわね」

 背後から突然かけられた、かすれてはいるが、深く、気品のある声に、澪は心臓が跳ね上がるのを感じた。

 はっと振り返ると、そこには黒いベールをまとい、背筋をすっと伸ばした老シスターが立っていた。学院の最高権力者であり、御年八〇歳を超える理事長、シスター・エレナ・藤堂だった。

「と、藤堂先生……」

「驚かせてごめんなさいね。そのアルバム……そこに写っているの、私よ」

 シスター・エレナは穏やかに微笑み、深く刻まれた目元の皺を和らげて、澪の隣で写真を見つめた。

 澪は目を見張った。六十五年前の、あの冷徹なまでに神々しいヒロインは、目の前に佇む老シスターの若かりし日の姿だったのだ。

「藤堂先生も、『海辺の聖母』を演じられたのですね」

「ええ。もう随分と昔のことだけれど。あの役を演じられて本当に良かったと、今でも思っているわ」

 シスター・エレナの横顔は慈愛に満ちていた。しかし、澪の胸のざわつきは収まらない。澪は思い切って、胸の疑問をぶつけた。

「あの……『海辺の聖母』って、一体何者なのでしょうか。実話なのですか?」

「それもよく分からないのよ。この学院を設立したイタリアの修道会の誰かが伝えた話ということはわかっているのだけれど」

「モデルになった人物とかは、いないんですか?」

「さあ。生没年はおろか、本名すら不明だもの」

「カトリックの聖人ではないのですか?」

「ええ。なぜなら彼女が殉教した記録も、奇跡を起こした記録もないの。だからカトリック教会が認めた聖人ではないわ。列福すらされていない」

「それじゃ何もわからないじゃないですか……」

 澪の戸惑うような声に、シスター・エレナは「そうね」と小さく同意した。

「ただ中世の地中海沿いの町で生涯を過ごして……人々から"Virgo Maritimaヴィルゴ・マリティマ"——『海辺の聖母』と呼ばれていたとは伝えられているわ。逆に言うとそれしかわからないのよ」

 シスター・エレナは遠い記憶を辿るような目をして続ける。

「演じた子たちのキャラクターも、本当に様々だったわ。優等生もいたし、少し不良っぽい子もいた。派手で目立つ子もいれば、あなたのように控えめな子もいたわ。卒業後の進路も、みんなバラバラよ。……ただ」

 シスター・エレナはそこで言葉を区切り、窓の外に目を向けた。

「ただ?」

「学院に戻ってくる子が多いのよ。私もそうだし、校長先生も、演劇部顧問の大石先生も、あなたの担任の松永先生も、みんな『元・海辺の聖母』よ」

「え……」

 頭の芯が、冷たくなるような感覚がした。

 八〇代の理事長先生からこないだ還暦を迎えた校長先生、中堅の松永先生、まだ三〇代の大石先生にいたるまで。この学校の歴史の節目節目で生徒を指導し、管理してきた主要な人間が、全員あの劇のヒロインだったというのか。まるで、何世代にもわたって、同じ糸で手繰り寄せられているかのように。

「もちろん、みんながみんなじゃないわ。海外に移住した子もたくさんいるのよ」

 シスター・エレナのその言葉に、澪は一瞬、せき止められていた息を吐き出し、ホッとした。呪いのように全員がこの学校に縛り付けられているわけではないのだ、と。

 しかし、シスター・エレナの口から漏れた言葉は、その安堵を瞬時に凍りつかせた。

「イタリア、スペイン、ギリシャ、クロアチア、エジプト、モロッコ……」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 澪は思わず、シスター・エレナの言葉を遮っていた。頭の中で、世界地図が急速に組み上がっていく。

「偏りすぎです……! それ、全部地中海周辺じゃないですか!」

 ヨーロッパの南、アフリカの北。あの劇の舞台となった、あの海を囲む国々ばかりだ。

「そうね」

 シスター・エレナは否定も肯定もせず、ただ困ったような笑みを浮かべて苦笑した。その瞳の奥には、六十五年経っても色褪せない、あの白黒写真と同じ「何か」が静かに宿っているように見えた。

 資料室に、重苦しい沈黙が流れる。古い紙の匂いが、急に息苦しく感じられた。

 しばらくして、シスター・エレナは何かを思い出したように、いつもの穏やかな口調で澪に尋ねた。

「ところで、今年の『海辺の聖母』はどなたかしら?」

 澪は喉の渇きを感じながら、かろうじてその名前を絞り出した。

「……朝倉真帆、です。私の友人で、高校から入ってきた外部生です」

「そう」

 シスター・エレナは、深く、満足そうに目を細めた。

「きっと、素晴らしい『海辺の聖母』になるわ」

 その声は優しかったが、澪には、それが半世紀以上前から繰り返されてきた、逃れられない宣告のように聞こえてならなかった。


 ***



 放課後の講堂には、張り詰めた空気が満ちていた。

「――主よ、この者たちに、どうか慈悲を」

 舞台の真ん中で、真帆が膝をつき、天を仰いで両手を組む。

 その瞬間、講堂の空気ががらがらと音を立てて変わるのを、舞台袖で真帆のために新調した衣装を抱えていた澪は肌で感じていた。

 真帆の演技は、凄まじかった。

 普段の太陽のように明るく元気な彼女の面影は、そこにはひとかけらもない。ただひたすらに、静かで、冷徹で、けれど深い慈愛に満ちた「名もなき修道女」がそこに立っていた。

 女優志望を公言しながらも、これまで声質を理由に脇役ばかりをあてがわれてきた真帆。

 しかし、今舞台にいる彼女は、声のトーンから指先のわずかな震えに至るまで、完全に役を我が物にしている。

「素晴らしいわ、朝倉さん……」

 客席の前列で、顧問の大石先生が、うっとりとした声で呟いた。その目はどこか遠くを見ており、他の部員たちも、息を呑んで真帆の圧倒的な芝居に釘付けになっている。

 誰もが、彼女の隠された才能に圧倒されていた。

 けれど、澪だけは、胸の奥を冷たい指で引っ掻かれるような違和感を拭えずにいた。

「はい、前半の通しはここまで。十五分休憩にします」

 大石先生の声で、舞台の照明が通常の灯りに切り替わった。

 部員たちが一斉に息を吐き出し、お互いに水分を配り始める。真帆もまた、一瞬でいつもの「朝倉真帆」に戻ったかのように見えた。

「澪ー! 水ちょうだい!」

「うん、はい。お疲れ様、真帆。すごかったよ」

「本当? 嬉しい! 大石先生に褒められちゃった」

 真帆はそう言って無邪気に笑い、ペットボトルを受け取って喉を鳴らした。いつもの親友の姿に、澪は少しだけ肩の力を抜く。

 しかし、真帆は水を飲み終えると、ふと視線を舞台の奥へと向けた。そこには、演劇部の美術係が描いた、劇の背景である「古い地中海の町並み」の大きなパネルが立てかけられていた。

 真帆はペットボトルを握ったまま、その絵をじっと見つめ、ぽつりと呟いた。

「違う」

 低く、ひどく落ち着いた声だった。いつもの真帆のトーンとは明らかに違う。その響きに、澪の心臓がどきりと跳ね上がった。

「……何が?」

 澪が恐る恐る尋ねると、真帆は視線を絵に固定したまま、歌うような調子で言葉を続けた。

「修道院の鐘楼は、もっと高かったの。中庭には、ローズマリーやラベンダーがたくさん植えてあって……風が吹くと、いつもあの青くて苦い匂いが、礼拝堂まで漂ってきたのよ」

「え? なんで、そんなこと分かるの……?」

 澪の声が、かすかに震える。真帆はそこでようやく、はっとしたように澪を振り返った。

「さあ? 自分でもよく分からないの。台本を読んでいるうちに、なんとなくそんな風景が頭に浮かんだだけ」

 真帆はそう言って、いつものようにケラケラと笑った。

 澪は落ち着かない気持ちのまま、話題を変えようと、抱えていた白いドレスを差し出した。

「そ、そう。あ、そういえば、新しい衣装なんだけど……裾の長さとか大丈夫? 動きにくかったら、なんなら少し調節するよ?」

「ううん、大丈夫! ぴったり!」

 真帆はそう言って、再び明るい笑顔を見せた。

 その笑顔は間違いなくいつもの親友のものだったが、澪の背中には、氷を押し当てられたような冷たい戦慄が走っていた。

 真帆は「演じて」いるのではない。

 まるで、彼女の知らない彼女自身の記憶を、ただ「思い出して」いるかのように見えた。




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