第一話 聖マルタ女学院高校演劇部
聖マルタ女学院の高等部校舎の最上階には、使われていない講堂へと続く古い廊下がある。
その突き当たりにある演劇部の部室の扉。そこに一枚の更紙が貼り出されたのは、初夏を告げるような、激しい雨が降る放課後のことだった。
「決まったわ」
誰かが小さく息を呑む音が、薄暗い廊下に響いた。
学校指定の濃紺のジャンパースカートに身を包んだ部員たちが、吸い寄せられるようにその紙を囲んでいる。
『海辺の聖母』
三年に一度、創立以来百年以上に渡ってこの聖マルタ女学院高等学校で上演されてきた、演劇部最大の伝統。
この劇のヒロインだけは、顧問や役員の独断では決まらない。部員全員による「匿名投票」で選ぶのが習わしだった。
「……嘘。私?」
呆然とした声を上げたのは、朝倉真帆だった。
高校から一般入試で聖マルタ女学院へ入ってきた外部生である真帆は、いつも声が大きくて、太陽のように明るい。女優志望を公言しているものの、この伝統ある演劇部では、声質が「マルタ生らしくない」という理由で、これまで町娘Cや、背景のような群衆の役ばかりをあてがわれてきた。
その真帆の名前が、配役表の最上段、――【海辺の聖母:朝倉真帆(全会一致)】の文字の横に、厳然と刻まれていた。
「おめでとう、真帆……!」
衣装係の道具箱を抱えた高瀬澪は、親友の肩をそっと叩いた。真帆は「どうしよう、どうしよう」と頬を紅潮させ、信じられないといった様子で自分の胸に手を当てている。純粋な喜びが、彼女の全身から溢れていた。
「ふん。まあ、お似合いなんじゃないかしら」
冷ややかな声が、廊下の奥から響いた。
現れたのは九条華蓮だった。幼稚舎から澪と同じ伝統の空気を吸って育ってきた、演劇部の絶対的な主役常連。資産家の令嬢であり、成績もトップな上、ずば抜けた容姿を持つ。誰もが今回の聖母は彼女になるだろうと噂していたし、実力も実績も容姿も、華蓮が頭一つ抜けていた。
華蓮は長い黒髪を優雅に揺らし、真帆を一瞥すると、形の良い唇を皮肉げに歪めた。
「『海辺の聖母』って、ほら、なんかアレでしょう? 泥臭くて、お説教臭くて、地味な話。いつも泥まみれで這い回るような役ばかりやってるあなたには、ぴったりよね。私みたいな華のあるタイプには、ちょっと荷が重いわ」
嫌味な言葉だった。彼女はいつもこうなのだが、今回は嫌味のトーンに乱れがあるように思えた。動揺しているのだ。理由は知れた。
なぜなら――。
澪は、自分のポケットの中にある、投票用紙の控えに触れた。
昨日の放課後、部員全員が劇の台本を読み終えた後、一枚ずつ配られた白紙の投票用紙。
澪は思い返そうとした。自分は昨日、あの紙に誰の名前を書いたのだろうか。
主役常連の華蓮の名前を書こうとした気がする。あるいは、親友の真帆を応援したくて「朝倉真帆」と書いたような気もする。
だが、どうしても、ペンを握って文字を走らせたその瞬間の記憶だけが、霧がかかったように思い出せない。
——それは澪だけではなかった。
周囲で配役表を見上げている部員たちも、同じだったようでどこか虚ろな表情をしている。
誰もが「自分が誰に投票したか」を明確に語ろうとはしない。
ただ、開票結果は【朝倉真帆:三十二票、白票:〇、その他:〇】。
三十二人いる部員全員が、一人の例外もなく「朝倉真帆」と書いた。
実力派の九条華蓮にすら、一票も入っていない。華蓮の取り巻きたちですら、華蓮の名前を書かなかったのだ。そして華蓮本人さえも――。
「さあ、衣装係さん」
華蓮は澪に視線を移すと、形の良い顎をしゃくった。その指先が、夏服のポケットの中でかすかに震えている。
「さっそくお仕事ね。地下の開かずの間から、あの薄汚れた古いドレスを引っ張り出してこなきゃ。……カビて死なないように気をつけてね」
そう言い残して、華蓮は足早に去っていった。まるで、その場に留まること自体が穢れであるとでも言うかのように。
静まり返った廊下で、真帆だけがまだ、配役表の自分の名前を夢見心地で見つめていた。彼女には華蓮の嫌味など全く耳に届いてないようだ。
澪は抱えた道具箱をきつく抱きしめる。
全員一致。
意思を持たない機械のように、自分たちは全員、同じ名前を書き込んだ。
窓の外で、激しい雨の音が校舎を叩いていた。
**
その日の夜、激しい雨の音はさらに勢いを増し、澪の部屋の窓を激しく叩いていた。
机の上のスタンドライトだけを点け、澪は大きなハトロン紙に向き合っていた。シャーペンを握り、カッターと定規を使って、真帆のための新しい型紙を引いていく。
『カビて死なないように気をつけてね』
昼間、華蓮が言い放った嫌味が耳の奥に残っていた。
地下の倉庫にある歴代の衣装なんて、何十年分の生徒の汗や涙が染み込んでカビだらけに決まっている。いや、問題は物理的な汚れだけではない。それ以上の何かが染み付いている気がする。
——そんなの、真帆に着せられるわけがない。
真帆はあんなに喜んでいたのだ。
放課後、誰もいなくなった部室の廊下で、真帆は澪の両手を強く握りしめて言った。
「やっと主役に選ばれた! 澪も喜んでくれるよね?」
太陽が弾けたような、満面の笑みだった。
「……喜んで、あげたいのに」
澪は手を止め、ぽつりと呟いた。
胸の奥にあるのは、冷たい澱のような不安だ。
真帆は高校から入ってきたから知らない。でも、幼稚舎からこの聖マルタ女学院という閉鎖された箱庭で育ってきた澪は、嫌というほど知っている。
三年に一度、あの劇の配役が発表されるたび、校内に流れる奇妙な空気。上級生たちのひそひそ話。「海辺の聖母」という言葉が出た瞬間に、先生たちが見せる一瞬の強張った顔。
——あの劇は、いわくつきだ。
ヒロインに選ばれた先輩たちは、みんな卒業後、何か決定的な変化を迎えてしまったと言われている。それが何なのかは澪も知らないのだが。
ガサリ、と部屋の引き戸が開いた。
「澪、まだ起きていたの。夜更かしは体に響くわよ」
お盆に載せた温かいハーブティーを持って入ってきたのは、母の志保だった。母もまた、聖マルタ女学院の卒業生だ。
志保は澪の机の上に広げられた、独特の長袖と長い裾を持つ修道服の型紙に目を留めた。その瞬間、母の顔からすっと血の気が引くのを、澪は見逃さなかった。
「……それは、まさか」
手元のお盆が、かすかにカタカタと震える。
「『海辺の聖母』よ」
澪は母の目を真っ直ぐに見つめた。
「今日、配役が発表されたの。真帆が――主役に選ばれたわ」
「そ、そう……。あの子が……」
母はそれ以上言葉を続けられず、力なく視線を彷徨わせた。
そこへ、廊下からゆっくりとした足音が近づいてきた。部屋の入り口に現れたのは、祖母の澄子だった。祖母もまた、半世紀以上前に聖マルタを卒業した一員だ。
祖母は澪の机の上の型紙をじっと見つめ、深く、重い息を吐き出した。
「あんたたちの代も、とうとう来たんだね」
その言葉に背中を押されるように、澪はハサミを置き、母と祖母を交互に見つめた。ずっと胸に溜め込んでいた疑問を、今こそぶつける時だと思った。
「二人とも、マルタの卒業生なんでしょ? 『海辺の聖母』について、何か知っているの? 私も幼稚舎からずっといる。でも、みんなあの劇の話になると、どうしてそんなに気まずそうな顔をするの? 何があるの?」
「そんな、別に何かあるとか、そんなんじゃないわよ……」
母はハーブティーのカップを机に置きながら、明らかに動揺した声で否定した。視線を頑なに型紙から逸らし、髪を触る手つきが落ち着かない。
一方、祖母の澄子は、窓の外の暗闇へ視線を向けた。その目は雨ではなく、遠い過去の記憶を見つめているようだった。
「……胸をぎゅっと掴まれるような劇だったことは、よく覚えているわ」
祖母の声は、低く、どこか懐かしむようでもあり、同時に恐れているようでもあった。
「舞台の上でね、『海辺の聖母』はただ、海に向かって祈るの。観ている私たちはね、息をすることすら忘れて、その姿を見つめるしかなかった。胸が締め付けられて、涙が止まらなくなるのよ。……でも、それ以上のことは、本当に何も分からないの。何もね」
分からない。
そう言った祖母の横顔は、ひどく静かだった。
嘘をついているようには見えない。本当に「分からない」のだ。
ただ、五〇年以上経った今でも、その身に刻まれた「何か」だけが、祖母の声を震わせている。
母はそそくさと祖母の肩に手をかけ、「お母さん、もう寝ましょ。澪も早く休みなさい」と、逃げるように部屋を出ていこうとした。
引き戸が閉まり、再び部屋に雨の音だけが戻る。
澪は一人、無機質な型紙を見つめ直した。
母の明らかな動揺と、祖母の「分からない」という不穏な記憶。
その劇のヒロインに、何も知らない、ただ無邪気に喜んでいる真帆が選ばれてしまった。
澪はシャーペンを強く握り直した。
——真帆はきっと大丈夫。
澪は薄明かりの中で、再び型紙に線を引き始めた。




