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海辺の聖母  作者: 神井


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6/6

最終話 還るべき海


 その日は聖マルタ女学院の創立記念日だった。

 旧講堂の客席は、保護者や卒業生、生徒たち、招待を受けた他校の生徒で超満員だった。独特の熱気と、どこか冷ややかな緊張感が、暗転した会場に充満している。

 舞台袖に立つ澪は、新調した白い修道服を着た真帆の背中を見つめていた。

 真帆は、もう周囲の誰とも目を合わせない。ただ、じっと前だけを見つめている。その先になにか大切なものが見えるかのように。

 ブー、というブザーの音とともに、幕が上がる。

 そして「ゴーン……」と響き渡る教会の鐘の音とともにこの物語は始まる。

 「朝のミサの時間です」

 第一幕。舞台は、中世の地中海沿岸の小さな町。真帆演じるヒロインは敬虔で慈悲深い修道女。彼女は誰にでも優しく接し、よく働き、異教徒にも慈悲をかけ、近づくことさえ危険な伝染病に冒された者にさえ施しを与えていた。

 第二幕。町を豪雨が襲う。

「鐘を鳴らせ!!」

 若い修道士が鐘楼へ駆け上がる。ゴーン……ゴーン……と厳かな鐘の音が再び町へ——劇場へ響く。

 「皆さん!! 修道院へ避難して下さい!!」

 ヒロインは高い声で町民たちへ呼びかける。

 町民たちは「洪水だ!」と荷物を抱えて高台にある修道院へ避難してくる。

 そして、第三幕。彼女の住む小さな港町に恐ろしい疫病——ペスト(黒死病)が拡がる。

 絶望に支配された町民や修道女たちは、町を放棄し、我先にと船に乗って水平線の向こうへと逃げ出していく。

 この時代の船旅は戦よりも命懸けだ。生き残るためには、病人、老人、そして孤児たちを連れて行くことはできない。人間たちの生々しいエゴと叫びが、舞台上で交錯する。

 華蓮が演じる修道院長が、泣き叫ぶ孤児たちを振り払って船へと急ぐ。

「あなたも来なさい! 最後の船よ! ここにいてもペストで死ぬだけよ!」

 修道院長がヒロインに叫ぶ。しかし、彼女は首を横に振った。

「いいえ。私はこの方たちと残ります」

 避難船が水平線の向こうへ消えていくのを、真帆演じるヒロインは、ただ静かに見送っていた。彼女の周りには、見捨てられた老人や子供たちが力なく立ち尽くしている。

「そろそろ夕べのミサの時間ですね。鐘は……」

 真帆演じるヒロインの静かな声に、男装した上級生が演じる老修道士が、悲痛な面持ちで首を振った。

「もう鳴りません。鐘番のヨハンも最後の船で出ていってしまいましたから。……もう鐘楼に昇れる者は、誰もいないのです」

 ヒロインは鐘楼を見上げる。この時代の教会の鐘は単なる時報ではなかった。「共同体の声」だったのだ。

「そう。……では、みんなで歌いましょうか」

 ヒロインは慈愛に満ちた笑みを浮かべ、老人たちの手を握り、孤児を抱き寄せた。

 そして、夕暮れを模したオレンジ色の照明の中、浜辺を模したステージの上で、ヒロインを中心に、全員でグレゴリオ聖歌を歌い始めた。


 Ave, maris stella,


 Dei Mater alma


(めでたし海の星、

 慈しみ深き神の母よ)


 優しく、どこか哀切な旋律が講堂の天井へ響き渡る。ペストという死の病に囲まれながらも、彼女たちの歌声だけはどこまでも澄んでいた。


 ——行かないで、真帆。

 舞台袖で、澪は心の中で激しく叫んでいた。

 手が届く距離にいるのに、真帆の周囲には目に見えない強固な「境界線」が引かれている。

 彼女はもう、この聖マルタ女学院という箱庭に閉じ込められた人間ではない。


 歌い終わると、老修道士が震える声でヒロインに問う。

「私たちも、死ぬのでしょうか」

 彼女は「わかりません」と、ただ静かに答えた。

 そして、客席——海に向かって真っ直ぐに両手を広げ、朗々と聖書の一節を唱え始める。


「私は確信しています。

 死も、生も、

 私たちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、

 私たちを引き離すことはできません」



 その瞬間だった。

 澪の鼻腔を、強烈な潮の匂いが駆け抜けた。

 講堂の中のはずなのに。外はただの学校の敷地のはずなのに。

 確かに、ざざん、ざざん、という、重く深い「波の音」が聞こえたのだ。

 

 最後の祈りを捧げる真帆の横顔。それは、六十五年前の理事長の写真とも、二十五年前に病死した華蓮の叔母玲子の写真とも、完全に一致する「あの顔」をしていた。すべてを諦め、すべてを許し、ただ一人で死を受け入れる、血の通わない聖女の顔。

 幕が、静かに下りていく。

 割れんばかりの拍手が講堂に響き渡った。観客席からはスタンディングオベーションが沸き起こり、大石先生も、松永先生も、涙を流して拍手を送っている。


 **


 舞台が終わって数日、学校にはいつもの日常が戻っていた。

 真帆は相変わらず「楽しかったー! またお芝居やりたいな!」と元気に笑っており、澪の部屋で型紙作りに付き合ったり、購買でパンを選んだりしていた。

 ——よかった……やっぱり『海辺の聖母』にいわくがあるなんて、ただの噂話だったんだ。真帆はいつもの真帆に戻ったんだ。

 澪は心の底から安堵し、胸のつかえが取れたような気がしていた。

 しかし、その日の放課後。教室で帰る準備をしていた時、真帆がいつものようにニコニコしながら、お喋りのついでのようにさらりと言った。

「ねえ、澪。私、やっぱりもっとお芝居の勉強をしたいから、高校を卒業したら、バルセロナの学校に行こうと思うの」

 澪の手からペンケースが落ちて高い音を立てた。全身の血が、一瞬で凍りつく。

「バルセロナって……スペインの? なんで、またいきなり。海外に行きたいなんて、これまで一度も言ったことなかったじゃん……!」

「うーん、そうなんだけどね」

 真帆は首を傾げ、窓の外の空を見つめた。その瞳は、いつか劇の背景を見つめていた時と同じ、遠い色をしていた。

「なんかね、ずっと昔から、そこに行きたかったような気がするんだよね。不思議だけど。……応援してね、澪!」

 真帆の無邪気な笑顔が、今は何よりも恐ろしかった。

 澪が恐怖に震えながら、ふと、教室の少し離れた席に座っている華蓮の方を見た。

 華蓮は、澪以上に顔を真っ青に強張らせ、ガタガタと震える手でカバンを掴んだ。そして弾かれたように目を逸らし、そさくさと逃げるように教室から出ていった。

 


 **


 それから、三十年の月日が流れた。

「お母さん。おばあちゃん」

 夕暮れ時、玄関の扉を開けて入ってきたのは、高校生になった澪の娘だった。

 母の志保、祖母の澄子、そして澪。代々この聖マルタ女学院で育ってきた血筋の通り、娘もまた、濃紺のジャンパースカートを端正に着こなしている。

 娘は通学カバンを置くと、真面目な顔をして、二人を見つめた。

「私、『海辺の聖母』に選ばれたわ」

 真帆の時のように、無邪気に飛び跳ねて喜んではいなかった。ただ、聖マルタ女学院の生徒らしく、淡々と事実を受け止めている。

「無記名投票で、全員一致だったんですって。……名誉なことなんでしょ? 私、頑張るわ」

 澪は息を吸うこともできず、ただ青ざめて、隣にいる母、志保の顔を見た。

 今はもうすっかり年老いた母もまた、幽霊でも見たかのように顔を強張らせ、震える唇を固く結んでいた。

 ああ、と澪は心の中で絶望の声を上げる。

 あの全員一致の投票が、また行われたのだ。人間の意志をねじ伏せる、あの不可抗力のシステムが。

 今度は、自分の娘をあちら側の海へ連れ去るために。


 リビングの壁にかかったコルクボードには、いくつかの写真が飾られていた。

 高校の卒業式の日、満面の笑みを浮かべる真帆と、隣で少し硬い表情をした澪の、ツーショット写真。

 その隣には、澪お手製の純白の修道服を身にまとい、すべてを見通したような聖女の顔で微笑む、舞台の上の真帆の写真。

 そしてそのすぐ下には、いつかのスペインから届いた一枚の絵葉書がピンで留められていた。

 抜けるような青空と、どこまでも広く、全てを飲み込むように煌めく――バルセロナの海の写真。

『ずっとここにいたような気がするの』

 そう書かれた真帆の筆跡が、夕暮れの光の中に、静かに浮かび上がっていた。



 fin.


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