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第二十九夜・『あ』が追いかけてくる

 あ、に付けられている。尾行されている、という意味だ。

 あ、とは『あ』である。平仮名の『あ』である。


 いや、自身も何を言っているのか判らないが、とにかくそういう状況であるとしか思えないのであるから仕方がない。

 気づいた時にはそれは始まっていたである。


 最初は小さな違和感だった。本当に、あの時に見逃すべきではなかった。

 そう、あれはアイスを買いに行った時のことだ。

 近所にあるアイスクリーム専門店の看板が『美味しいアイスクリーム店』から『美味しいあイスクリーム店』に変わっていたのである。

 見たところ、店名を彩るネオンサインも『あ』だけが妙に真新しい。


 きっと『ア』だけが老朽化で破損し付け替えたのだろう。それで、なんらかの発注ミスがあって『あ』が届いてしまったに違いない。


 その時はそう思ったのだが、翌日は事態が悪化していたのである。


 近所の『かきくけ公園』がシレッと『あきくけ公園』に変わっていたのである。

 それから『おかだ工務店』も『あかだ工務店』になっていたし、『肉のさわぐち』も『肉のあわぐち』になっている始末である。


 明らかな異常事態だ。


 あまりの衝撃に、近くを通りかかったご夫婦に「あちらの精肉店は『さわぐち』さんではなかったか」と尋ねれば「その通りだ」と怪訝な様子。

 振り返り肉のあわぐちを見れば、確かにそこには『あ』はなく、いつもと同じ風景、『肉のさわぐち』が佇んでいたのである。

 ご夫婦に礼を言って立ち去るが、二人はこちらを始終不審者を見る目をしていた。誠に申し訳ない。


 どうやら『あ』による乗っ取りは自身のみの目撃である場合にだけ発生するようだった。

 その証拠に、先程までは電気のあまだ、であったり、ベーカリーあSあDあ、になっていたりの奇妙な異常は、誰かにそちらを見るよう促すと即座に解消されたのである。

 

 ゆえに、奇妙であるが困ることはない。


 そりゃあ自身の名前が『あ』だらけに改変されたら大変であるが、そう言った事情がないのだからまあいいかと放っておくことにしたのである。


 だがである、そう、実害が出てきてしまったのだ。


 ある朝スマホを見るとキーボードがすべて『あ』になっていたのだ。フリックの意味をなさぬほど、すべての文字が『あ』。あいうえおもわをんも存在せずどこをみてもあああああだしあああである。


 あに生活が侵されている。あに付けられあまみれでもうどうしたらいいか判らないのだ。

 おまけに遣り口があまりにも露骨だ。


 しかしこんなものはまだ序の口で、翌日には更なる悪化が観測されたのだ。


 侵蝕は止まることがなく続き、テレビのリモコンも数字が『あ』に置き換わっているし、果てはアナウンサーが「あはようございます、本日あ月あ日あ曜日のあサあ時です!」などという始末。


 思い切り実害が出ている。このままではアイスはあああになり肉もああになり傘立てでさえああああになってしまう。そうなっては識別が不可能だ。


 さてどうしたものか。

 困り果ててスマホでググルグーグルググググと検索を続けているが、世界の不具合についてのニュースはひとつもない。

 つまりこれは自身にのみ現れている異常ということだ。

 参ったな、と解決の糸口を検索していると、通知が鳴ったのである。


 メールボックスを見ると迷惑メールに混じって「あ使用料の請求」などという文字が目に飛び込んできたのだ。


 使用料だと? 勝手に人の生活に入り込み尾行よろしくあっちにもこっちにも現れた挙句に使用料を要求するとはなんと浅ましい。

 なになに、ご利用金額を期日にまでにお支払い頂けない場合はあなたの生活から使用済みの『あ』を削除させていただきます? 知ったことではない。


 大体こちらは被害者だ。無視をするに限る。

 ぷりぷりしながらスマホを放ると立てて付けに通知が鳴ったが完全に無視である。

 


 さてはて数日が経ち『■』が日常から去った。

 不払いにより平和な日常を取り戻せるに至ったわけでは■るが、使用料を払わなかったせいだろう、自身の世界から『■』が完全に消えてしまったので■る。


 カタカナのアや漢字はいけるがとにかくどこへ行っても■がない。

 人の言葉も■の発音だけはなんだか急に不明瞭となり聞こえづらくなるのだ。

 迫り来る■がないのは快適ではあるが、部分的に音が聞こえず文字が消えてゆくのは不便で■った。

 スマホがぴろりんと鳴った。


 ■使用に関するお知らせ。本日中に以下の金額をお支払いいだける場合に限り、■の復元を致します。※■の暴走の被害に遭われたお客様にのみこちらのお知らせをしております。


 ため息をつきながら街頭モニターを見た。


 ■りがとうキャンペーン、■ー!これは美味い!

 

 虫食いだらけの放送が何とも間抜けだ。苦笑し、仕方がなく電子決済を済ませる。


 通り過ぎた女が「あたしさー」などと言っているのを確認し、ほっと息をついた。

 五千円はちょっと痛いなぁ、などと思いながら『あ』にまみれた雑踏をゆくのであった。


おしまい。

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