第二十八夜・桜の海岸
海岸が淡いピンク色に染まっていた。
砂浜などというものは存在せず、ただ海岸一面から灰色や黒といった色合いのもの、つまり砂は消滅していたのである。
これは一体なんだ。
視線を移し海を見ると、ササァササァと寄せては返す波さえもピンクに染まっているのであった。
海岸に降り立ち波のその向こうを見遣る。遥か彼方、地平線が見えるべきそこ。
そこには、満開の桜並木があったのである。
桜たちは当然のような顔で横一列に並び、まるでひな壇のようにその後ろ、そのまた後ろに、いやずっとずっと向こうまで、まるで山のように並んでいるのである。
一面に桜の海。こんな不思議な光景に首を傾げるばかりだ。
試しに海水を掌で掬ってみる。
冷たい感覚が手一面、指先どころか手の甲にまで広がって、椀を作った掌には液体が転がる感覚さえ残る。
見えるのは大量の花びらだけであったから、結局これが何であるのかまったく判らない。
だがその上、手は少しも濡れていないとくれば、この不可思議な現象を解き明かそうという気持ちにもなれなかった。
すなわち不思議を不思議として受け入れるのみということだ。そんな日があってもいいだろう。
この奇妙な風景を楽しんでいると、遠くで船がスーッといくのが見えた。
見たところ輸送船の類ではなくどうやら漁船。しかし一体何を獲っているのやら。
海岸では子供が当たり前といった顔で遊んでいる。
付き添いの大人もこの砂浜、いや花浜を不思議に思っている様子はない。
そうだ、素足で歩いてみようと思い立つ。
靴を脱ぎ桜で埋め尽くされたそこに足を乗せると、花びらを踏み締めるような不快感はまるでなく、足裏が感知するのは砂の感触そのものであった。
地平線ではピンク色の木々が風に揺れ、留めどなく花びらを風に乗せていた。
きっとあの桜の山は、永久に花を咲かせそして散り続けるのだろう。
春の桜に有り難みがなくなるな、などと考える。
足に花びらが大量にくっ付いているのが見えた。
いっそこのまま泳いでみようか。
あまり泳ぎは得意ではないが、だがそうだ、泳がずとも足を桜の水に浸すことくらいはいいかもしれない。
いそいそと一歩足を踏み出そうとすると、おかしなことに、乱暴と感じるほどに強い力でグイッと腕を引かれたのだ。
不審に思い振り返るが、腕を引かれた感覚が残るばかりで、そこには何もなかった。
ああ、これはよくないのかもしれない。
踏み出しかけていた足を引っ込め後退すると、掴む力は依然強いものの、引っ張られるような感覚はなくなった。
遠くではしゃいでいた子供がこちらをじっと見ている。付き添いの大人の陰も、ぼんやりとゆらめいていた。
靴を履き直し、なるべく自然な動作で堤防へと登る。
道中、ふわりと花びらが頬を掠めていったが、振り返るようなことはしなかった。
未だ手首に感じる掴まれる感覚、それが「決して振り返ってはならない」と言うように力を込めてきたからだ。
嫌な感覚を背中に覚えたまま、堤防を乗り越え道路に至る頃、ふ、と手首の力が消えた。
残されたのは仄かにぬるい体温。
一体誰が腕を掴んでいてくれたのだろう。
振り返った先に見た海は至って普通の、何の変哲もない海だった。
目覚めたその時、スマホを見ると日付は八月十四日であった。
——お盆には海や川には近づいてはいけないという。
桜の海岸。あれはもしかしたら、この世のものではなかったのかもしれない。
それほどに儚くて美しいものだったのだ。
まるで、誰かを誘い込むためにあるかのように。
おしまい。




