第二十五夜・割り箸
割り箸から森の匂いがした。
木の匂いではなく、明確に森の匂いだ。土と、木と、水気を含んだ静謐な香り。
割り箸はご入用ですか? と言われ反射的に「ハイ」と返事をしたわけだが、何故だか一人前の寿司に対して割り箸は二膳ついていたのである。
まあいい、とにかく食事だ。
気分よくいただきますを済ませ、さて割り箸を使おうという時になってその異変は訪れたのである。
ふわりと漂う森の匂い。
森林浴に赴いた時のあの香りだ。
それだけならまだいいのだが、割り箸からはなにやら「ブツブツ」と奇妙な音がするのである。
訝しみながら耳をそばだてると、それはどうやら話し声のようだ。
ブツブツブツブツと、まるで念仏でも唱えるかのように抑揚なく音を立て続けているではないか。
なんと気味の悪い。
こんな割り箸など捨ててしまえと、エイヤと割ろうかと指先にグッと力を入れた瞬間、悲鳴じみた声が部屋いっぱいに響いたのである。
椅子から転げ落ちかける。
ご近所迷惑だろう。いや、それ以前に『何やら悲鳴が聞こえた、事件でないか』などと通報されてはたまったものではない。
一体なんだというのだ。仕方なく、その薄気味の悪い音を聞き取ろうと再び耳を傾けると、割り箸からは男女の声が交互に聞こえてくるのである。
最初はよくわからない言葉を発していたが、やがて日本語の形をとり始め、よくよく聞けばそれは己へと話しかける声のようだった。
「お願いですお願いです割らないでください……後生ですから」
いや、その願いは聞けない。今から食事をするのだからそれは無理だと告げると、こともあろうか、この割り箸のやつは「ならば悲鳴をあげるぞ」と脅してくるではないか。
それは困る。腹は減っていたが、仕方がなく割り箸をそこに置き、ひとまずそいつの話を聞くことにしたのである。
「ありがとうございます。いやぁ話のわかるお方でよかった。なあお前」
「ええ本当にねあなた」
なんということだ。この割り箸は夫婦だったのである。
なるほど悪いことをした。まさかこちらも割り箸が夫婦とは思わず、危うく一つのご家庭を離婚に導こうとしていたとは。
謝罪もそこそこに彼らの仲を引き裂くのはやめて、もう一膳頂いた箸があるのを思い出しそちらを使うことにする。
すると今度はそちらの箸から何やら怒鳴り声が聞こえるではないか。
一体なんだというのだ。
「嫌だわ、あの人よ。あなた」
「そうだな、お前。あれは森にいた頃、隣に生えていた感じの悪い木だ。もし、そこの人間さん、その割り箸をお使いになるのはおよしになったほうがいい」
世間は意外と狭いものだ。なおも紙袋からは意味不明な罵声が飛んでくる。
「あの木は我々が日陰になるようわざとこちらに枝を伸ばして来たんです」
「全く嫌なやつだ」
複雑な人間関係、いや、木材関係だが、片方の話ばかりを聞くのはよくないだろう。
少し悩む。
だがやはり公平であるべきであろうと考え、彼らの制止を振り切りエイと袋を破くと、部屋はあっという間に何の言語かもよく判らぬ罵詈雑言が飛び交い始める。
おそらく木の間で使われる言語なのだろう。
テーブルの上に放られた二膳の箸からはとめどなく言葉が行き来している。一応は相手の言葉が途切れた瞬間に反論を述べているようだ。お行儀の良いことである。
どれくらいそうしていたのだろう。とにかく、割り箸を使うことを諦めいつもの箸で寿司を食べ終わった頃、ようやく静かになったのだ。
ひとしきりああではない、こうではないと繰り返されていた討論会は、ようやく閉幕を迎えた様子である。
「もし!」
夫婦の箸が先に声をかけた。
「話の決着がつきました! 今後は枝を伸ばさぬと約束を取り付けました」
随分と満足気であるが、そもそも彼らにはすでに枝はないわけで、これから先その約束が果たされることはあるのだろうか。
だがそこは空気を読んで口に出さぬのが大人というもの。自身は取り敢えず無難に「それはよかった」と返事をしたのである。
「そこでお願いがあるのです」
女の声が言った。
「私たちを庭に植えてくれませんか」
植えてどうなるというのか、と思いつつも快く了承をすることにした。なにせ自身は大人だ。割り箸の心を折ることに抵抗があったのだ。
鉢植えを用意した方がいいだろうかと尋ねるも、大地に根付かせてくれという。
ならばと庭の一角に割り箸コーナーを設けることにした。
日当たりのいい場所である。木材関係に配慮して、二膳はやや離して植え込んだ。
割り箸は満足気に礼を述べる。
翌日割り箸は——、成長していた。一回り、いや、二回りほど大きくなっていたのである。割り箸の形のまま、だ。
なんということだ。
このまま割り箸は成長を続けるのだろうか。
困惑を隠しつつ「調子はどうだろうか」と尋ねると、彼らは実に晴れやかな声で「最高ですよ」と言うのである。
続けて彼らは「明日になったらもっと大きくなる」などと恐ろしいことを宣言する始末だ。
そこではたと気づく。
よもや、こいつら、実りの季節を迎えたりしないだろうな——。
残念ながら、果たしてその懸念は当たっていたのである。
三メートルほどに成長した割り箸を見上げ、ため息をつく。
なんということだろう、たわわに実ったミニ割り箸は落下し勝手に庭へと根を張り始めているのである。
割り箸は相変わらず庭に突き刺さっているし、巨大化は日々進行中。
一体どこまで大きくなる予定なのだと尋ねれば、彼らは「そりゃあ」と続けるのある。
「ここいらが割り箸の森になるまでですよ」
気づけばあたり一面、いや、町内中に割り箸が生えているのである。
困ったことになった。この惨状、その原因を町内の皆さんにどう説明したらいいのやら。
「あと二、三日もすれば、ここは割り箸でいっぱいになりますよ。ね、あなた」
人の気も知らず、楽し気である。
ふいに、森の香りがした。土の香りもする。
ああ、これは侵略であったのだとようやっと気づく。
早急にこいつらを切り倒さねばならない。でなけばこの町内が割り箸の楽園になってしまう。
——チェンソーはあっただろうか。
そう、確か物置にあったはずだ。古いが使えないことはないだろう。
割り箸は悲鳴をあげている。
あたり一面には芳しい森の香りが漂っていた。耳栓の向こうでは、微かにチェンソーの駆動音が聞こえていた。
おしまい。




