満たされて
「ねえ? 志帆」
私は蕎麦をつまみながら。
小さく囁いた。
「ん? なに?」
「あのさっきのお婆さんなんだけどさ、さっきからこっちを見てるんだよね」
首をかしげた志帆は。
蕎麦をすすって。
視線を動かす。
「どこ?」
そっか。
志帆からの位置じゃ見えないか。
私は。
丼の陰で人差し指で。
その方向を指差した。
気づいた志帆は。
くるりと横を向いて。
軽く頭を下げて。
笑顔を作る。
目の端で捉えていた。
年配の女性も。
笑っていた。
「たまたまじゃないの」
顔を突き出した志帆。
「そうかな、なんかさ、私を見てる気がするんだよね」
「菫のこと? なんで?」
「料理持ってきてくれた時も、そんな感じがしたんだよね」
「ふーん、今は?」
志帆は。
つるつると。
蕎麦をすすった。
チラリと送った視線の先には。
年配の女性の姿はなかった。
「いなくなった」
「なら、気にし過ぎじゃないの」
「そっかなぁ」
年配の女性の姿は。
店内や厨房。
見える範囲にはなかった。
ひらひらさせた志帆の手が。
視界に入る。
「ほれほれ、食べよ」
「そうだね」
私はワサビを乗せて。
蕎麦をすする。
ん!?
ツーン。
と。
ワサビの刺激に襲われて。
顔をしかめた。
「食べた、美味しかったー」
満面の笑みの志帆を見て。
満たされた心とお腹。
「確かに美味しかった、風崎くんにお礼言わなきゃね」
「律儀だね、菫は。でも、連絡先知らないでしょ?」
「あっ、そうか」
「ゆっくりしたいけど、菫のお楽しみもあるし、そろそろ帰ろ」
「もう、志帆ってば」
「だって、滅多にいじれないもん、こんなにどぎまぎする菫」
「ハハハ……深読みしたら、ちょっと切ない」
「いいじゃん。今夜は~」
志帆は。
組んだ両手を頬に添えて。
目を閉じた。
「よし、じゃあ帰るよ」
伝票を手に立ち上がる。
「そうしよ、そうしよ、夜のために支度しないとだもんね」
「もう」
「はいはい、志帆様は外で待ってるよん」
ガラガラと。
扉を開けて出て行った。
「ありがとうございました」
来店した時の女性が応対してくれる。
「お願いします」
伝票を差し出す。
ピッ、ピッ……
レジカウンターの背後の壁には。
モノクロの写真たちが。
一つ一つ違ったデザインの額におさめられ掲示されていた。
店の前での集合写真。
蕎麦打ちをする男性。
湯気に満たされた厨房。
風に揺れる暖簾。
昔から続いてるお店なんだね。
「2000円になります」
「あ、はい」
スマホをかざして決済して。
レシートを受け取った。
「ありがとうございました、またお越し下さい」
「ごちそうさまでした」
ガラガラ……
扉を開けて。
暖簾をくぐると。
空は焼けていて。
街はオレンジ色に染まっていた。
「菫、ごちそうさまでした」
志帆は。
両手を重ねて。
ペコリとお辞儀をする。
「どういたしまして」
外灯が灯り。
車もライトをつけ始める。
昼間のぽかぽかした陽気は。
東の空からやって来た。
群青に冷やされて。
自転車で走っていると肌寒い。
賑わってた運動公園も。
ひっそりと静まりかえっていた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。今日はありがとう志帆」
「こちらこそ。ちゃんとかわいい下着にするんだよ」
「あのねー」
「報告待ってるよん。あっ、出来なかったらいいから」
志帆は。
ウインク一つ弾かせ。
片手をグーパーさせると。
自転車を漕ぎ出した。
「はいはい」
もう。
私は苦笑い一つ。
そんな。
今日の今日。
そんなことになるわけないじゃん……
……。
ちょっと。
妄想しかけて。
熱くなった顔を。
ひやりとした風が。
冷ましていく。
さわさわと。
木々を揺らして。
よし。
ちょっとだけ。
高鳴り始める鼓動。
ゆっくりと。
ペダルを踏み込んだ。
視線の先には。
煌々と白く輝く。
満ちかけの月が。
微笑みかけているようだった。




