交感 覚悟
蝉の声も途絶えてきて。
カナカナカナ……
ヒグラシが夜を誘い出す。
私は。
とっておきの服に身を包む。
紺地に白の水玉模様のワンピース。
襟元と袖口の白い刺繍が宛がわれている。
髪は三つ網に。
お化粧は。
白粉を薄くのせて。
唇に紅を塗る。
いつもより丁寧に。
鏡に映る顔が。
少し女らしく。
艶かしく見えて。
とくん。
心臓が優しく跳ねる。
結婚式が日延べとなった私たちの為に。
お互いの両親が。
レストランを予約してくれた。
これから。
2人で。
デートです。
「お姉ちゃん、きれいだな」
幸一が鏡の中に現れた。
「ほんとだ。仙次郎兄ちゃんも、惚れ直すぞ」
知吉が私の三つ編みを。
ぽんぽんと手で弄ぶ。
「こら。二人ともお姉ちゃんをからかうの?」
「違うよ、お姉ちゃん楽しそうだなったて」
「そうそう。ずっとニヤニヤしてるし、顔赤いぞ」
「もう! 幸一! 知吉!」
「わぁー!」
「逃げろー!」
二人は声を上げて。
部屋を出ていった。
「ふう……」
私は肩を落とした。
ボン、ボン、ボン、ボン。
振り子時計が呼ぶ。
「いけない」
約束の時間。
私は白いハンドバッグを手に取って。
パタパタと。
玄関へと急ぐ。
「もう忙しい子だね」
「お母さん。行って参ります」
「気を付けて。楽しんできなさい」
「はあい」
床に腰かけて。
白のストラップシューズを履いて。
足の甲の部分のベルトを。
カチッと止めた。
がらがらがら……
昼の名残りの暑さの中。
涼やかにそよぐ風が。
スカートをふわりと持ち上げる。
タンタンタン。
弾ませた足音を引き連れて。
ほんのり赤く染まる。
路地に出たら。
「やあ」
清々しい声が迎えてくれた。
「お待たせして、ごめんなさい」
「いえ、構いませんよ」
目尻にシワを寄せる仙次郎さん。
夕焼け色に照らされている。
糊の効いた白いワイシャツに。
淡いグレーのスラックス。
ピカピカに磨かれた黒い靴。
スッと。
近寄って来られて。
「じゃあ、行きましょう」
「はい」
あっ。
仙次郎さんは。
そっと。
私の手を取った。
大きなぬくもりが。
安心と。
ときめきと。
恥じらいを呼び起こす。
「みんなに見られます」
「許嫁。つまり婚約者同士なんだから。今日ぐらいいいでしょ。それとも、困りますか?」
「いえ、嬉しいです」
「僕もです」
かーっと。
私の顔も夕焼け小焼け。
手はずっと繋がれたまま。
バスに揺られてやって来た繁華街。
赤レンガの壁のレストラン。
私はステーキを初めて口にした。
ナイフとフォークが上手に使えなくて。
悪戦苦闘したら。
仙次郎さんが切り分けて下さった。
柔らかな肉の味もさることながら。
仙次郎さんと。
二人きりで。
食事が出来たのが。
何よりのご馳走。
食後のデザート。
フルーツポンチを口に運ぶ。
桃の甘さを噛みしめていると。
不意に仙次郎さんは。
白い封筒をテーブルに置かれた。
「これは? 何ですか」
表には『海軍省』と堂々とした文字が記されていた。
「辞令です。僕の赴任先が決まったんです。美鈴さん、中を見てみて」
「あっ。はい」
両手を伸ばして。
手に取ると。
普通の封筒より。
少し厚みがあるようで。
しっかりとしている。
封筒の口を開けて。
中身を指先でつまむ。
ざらりとした触感がして。
ゆっくりと。
引き抜いた。
出てきたのは。
三つ折りの生成り色の和紙。
それを広げると。
かすかに。
朱肉と墨の匂いが鼻腔に届いた。
赤い枠線で囲まれた中に。
達筆の黒い毛筆が踊っていた。
『海軍少尉候補生 土岐仙次郎
海軍少尉に任官する
第二航空戦隊司令部附に補する
昭和十六年七月七日
内閣総理大臣 公爵 近衛文麿
海軍大臣 海軍大将 及川古志郎』
偉い人の名前。
すごいことなのだろうけど。
よく分からない。
「そこにある第二航空戦隊と言うのは、聯合艦隊の空母の部隊なんだ」
「くうぼ?」
顔を突き出して。
首をひねる私。
「そう、戦闘機を搭載した船で。第二戦隊の司令長官であられる山口多聞少将の部下なんだ。僕の憧れの人で、希望通りの配属先なんだ」
「そうなんですね。おめでとうございます。仙次郎さん」
「ハハハ、ありがとう美鈴さん。いまいちピンとこないだろうけど。知っておいてほしいから」
「はい。少尉閣下」
私はおどけて敬礼をする。
仙次郎さんは。
背筋を伸ばして。
微笑みを湛えたまま。
すっと。
右手をかざした。
楽しい時間は過ぎるのが早い。
夜も更けて。
満開の星屑。
煌々と浮かぶ満月。
外灯よりも明るい月明かりが。
辺りをぼんやりと青白く映し出す。
りー、りー……
鈴虫の音が寄り添う。
村のバス停から。
家までの道すがら。
私の手は。
しっかりと優しさに。
捕まえられている。
「美鈴さん。僕が海軍を目指した理由、何だと思う?」
「それは、仙次郎さんは英明でいらっしゃるから、秀才なら、江田島か帝大を目指されるのが世の常と耳にしましたけど」
「それ、僕の父の口癖でしょ?」
「あ、はい。ごめんなさい。お国のためでしょうか?」
「もちろん。それもあります。日本男児たるもの。天下国家のためにというのはね」
「他にもあるのですか?」
「ええ。一番の理由は、美鈴さん。あなたを守りたいからです」
「え……!?」
ハンドバッグを握った手を。
胸に引き寄せて。
思わず立ち止まる私。
「脅す訳じゃないけど、アヘン戦争時の記録を読んだことがあってね」
「はい」
「イギリスに侵略された清国の人々に起こった惨劇、女性たちはイギリス兵に凌辱され、ある場所では貞操を守るため、女性たちは集団自決したという」
ぐっと。
つないだ手に。
力が入った私。
仙次郎さんは。
つないだ手を持ち上げて。
もう一方の手で。
私の手を包み込んだ。
「怖がらせてしまったね。けどね。これが、戦争の実態なんだ。だから、僕は美鈴さんを守るために海軍を選んだ」
上目遣いに見た。
仙次郎さんの瞳は。
艶やかに潤んでいた。
「大丈夫。そんなことにはならない。我が大日本帝国の軍隊は強いから」
「はい」
「ただ、僕の想いを伝えたくて。どれだけ美鈴さんが、そ、その好きかということを……」
言い澱む。
仙次郎さんが。
愛おしくて。
たまらなく。
少し。
かわいらしくて。
私は――
踵をあげて。
唇を重ねていた。
初めての感触。
柔らかくて。
あたたかい。
はしたないとか。
恥ずかしいとか。
なかった訳じゃないけど。
仙次郎さんの想いや言葉。
そして。
軍人になられた行動に。
私が応える。
精一杯だった。
ふわりとした気分に。
足がとろけてしまいそうで。
私の腰に回った仙次郎さんの手が。
ぐっと。
抱きしめてくれて。
重ねた唇は。
吸い付いて離れない。
お互いの鼻息が。
顔にかかって混ざる。
何度も。
何度も。
交わす口づけ。
つないだ手はそのままに。
呼吸は乱れて。
鼓動は壊れて。
体は溶けそうに熱い。
いつしか。
このまま――
そう。
ただ。
仙次郎さんを求めていた私。
すっと。
顔を引かれた仙次郎さん。
私は。
仙次郎さんの唇と瞳を交互に見つめて。
仙次郎さんの胸に寄りかかった。
私と同じくらい。
駆け足な心臓の音が耳に届く。
「美鈴さん、帰りましょう」
私は小さく首を振る。
「……嫌です」
ふり絞って出した。
かすれた声。
「美鈴さん?」
私は仙次郎さんにしがみつく。
りー、りー……
涼やかな鳴き声が。
時を包んでいた。
お読み下さりありがとうございます。
感謝しております。




