根っ子
悔しくて。
しゃがみ込んだ私に。
「君は強いよ。ずっと続けたらいいと想うよ。ちゃんとしたコートでやったら僕の方が負けてた」
「いいよ。慰めなくても」
「ごめん。でも君のさっきのサーブは手が痺れたよ」
「だから、いいよ慰めなくて」
彼は私の前にしゃがんだ。
「これ、受け取って」
「なに?」
「集中力を保つおまじない」
彼が手にしてたのは。
親指くらいの小さな瓶。
その中に透明な液体が入っていた。
首をかしげる私。
彼はその瓶のキャップを回して。
「手出して」
「ん?」
言われるがまま。
手を差し出す。
「じっとしててね」
「うん」
彼はそっと私の手に触れて。
手の甲を表にして。
逆さにした瓶を。
軽く一振りした。
雫が一つ。
冷たさを連れて。
手の甲に落ちる。
彼は。
指で雫を私の肌に馴染ませていく。
優しく撫でる指に。
顔が赤くなる。
「よし。匂い嗅いでみて」
「うん」
手の甲を鼻に近づける。
「あっ」
思わず見た彼の顔は。
木漏れ日を浴びて。
ゆらゆらしていた。
もう一度。
匂いを嗅いでみる。
つんとした。
爽やかな香り。
なんかすごく落ち着いて。
とても懐かしい気がした。
「これ何の匂い?」
「樟脳って言って、クスノキっていう木が原料なんだ。えーと、他にも混ぜてるみたいだけどね」
「ふーん」
「僕のおばあちゃんが作ってくれたんだ、これは……」
「大事なものじゃないの?」
彼は両手を前に突き出した。
「最後まで聞いて」
「あっ、ごめん」
「これには、心を落ち着けたり、集中力が増す効果があるんだって」
「へぇー。でもそんな大事なの貰えないよ」
「僕は、また、おばあちゃんが作ってくれるから。遠慮しないで」
「ほんとにいいの?」
「うん。いいよ」
笑って見せた白い歯が。
眩しくて。
でも。
目が離れなくて。
不思議そうに首をかしげる彼を見て。
ハッとして。
視線が定まらなくて。
前髪を直すふりして。
小さな瓶を握った手を。
胸元に引き寄せた。
「じゃあ、ありがとう。あっ、でも、私はお返しできない」
「そんなのいらないよ。僕が君にあげたいから」
「……ありがとう」
なんでだろ。
息がしづらくて。
胸の辺りが苦しい。
「どういたしまして」
「あ、私は相川菫。あの……」
「僕は……」
ざわざわと木々が騒いで。
砂埃が巻き上がる。
砂が目に入りそうで。
ぎゅっと目をつむって。
顔を背けた。
ザーッツ……
風にかき消された彼の声。
閉じた目を開けると。
彼は立ち上がっていた。
「じゃあね、相川さん。君とテニスしたことは宝物だ」
微笑みながら。
私を見下ろす彼の瞳が揺れている。
ような気がした。
「え? あ、ありがとう、あの……」
「ん? なに?」
「あ、また練習しよ。来週どうかな?」
「ああ、分かった」
手を振る彼に。
私も小さく手を振り返す。
膝を抱えて。
瓶を見つめた。
あっ……
地面に指で書いた文字。
「君が好きでした」
すぐに立ち上がって。
彼が去った方向を見つめた。
けど。
姿はなくて。
風に震えた葉が光を弾いて。
蝉が鳴き叫んでいた。
その後。
彼が姿を見せることはなかった。
今想えば。
彼がいたからテニスを頑張れたまである。
あの小瓶の香りは本当によく効いて。
その年の小学校3年生の大会で優勝した。
私のテニス人生のピーク。
赤みを帯びた光線が。
咲き誇る桜を染め上げている。
その濃い桃色が。
美しくも儚く見える。
公園は遊具が少なくなって。
鯉がいた大きな池も埋められて。
テニスを楽しんだ。
ゲートボール場は。
今は芝生になっている。
あの頃の気配は記憶の彼方。
でも。
私はショルダーバッグから小瓶を取り出した。
もうとっくに中身はない。
でも。
蓋を開けて。
小瓶に鼻を近づけた。
かすかに。
本当にかすかに。
爽やかな香りが鼻に抜ける。
あの時の二人が。
そこにいるような気にさえなる。
あっ!?
お読み下さりありがとうございます。
感謝しております。




