王よ、在りし日のあなたを想う
おぞましい肉塊が青白い焔を上げてぐずぐずと崩れ落ちていく。
「あなた、手を貸して」
私はこちらに背を向けている黒騎士に手を差し伸べた。
一拍、反応が遅れた後、彼は少しぎこちなく振り返った。先ほど放った散解の術の影響を受けているのだろう。彼もまた、霊魂が鎧に定着した存在だ。加護で守り、術の対象から外していても、これほど大規模な術の渦中にいれば多少の影響は避けられない。
「まだ、終わりじゃないわ。こちらに来て」
声に魔力を乗せて呼ぶ。
頭の上に飛び乗ったフィヨにチョンと突かれて、彼ははっとしたように姿勢を正した。フィヨは満足そうに胸を張ると、まるでやれやれというようにフィ~と鳴いた。偉そうな小さな羽毛玉は、ラリーが鞘を拾って持ってくると、彼の金髪頭に移動してポテンと寝た。
黒騎士はラリーに剣を渡して、私の手を取った。
「あなたは還っちゃダメ」
黒鉄の手甲を握って、兜の暗いスリットをじっと見つめる。その奥に人の目はない。
「必ず迎えに行くから、今はまだこのままで。いいわね」
カタリ。
いつもの返事に安心すると同時に、必ずこの人を取り戻そうと決意を新たにする。
それは本来は大元に還るべき幽世の魂を縛る行為なのではないかとどこかで恐れつつ、それでもこれはこの人を失わないための、自分に与えられた唯一のチャンスなのだと信じて我を通す。
大術式の発動で消耗して身体はふらつくが、気力はまだ十二分にある。
私は、持っていた杖ごと自分の身体を彼に預けた。
「あの正面の台座のところまで運んでくださいな」
黒騎士は私を抱きかかえて、最初にジ・ボーダンの像が座っていた台座の上に下ろしてくれた。
瑠璃の花弁で飾られた、象形化した蓮の台座に座る。ああ、やはりここは魔力的に静謐だ。
「あの琵琶を持ってきて、この剣を棹に戻して」
台座の脇に転がっていた六弦の琵琶は、幸いにも割れていなかった。
サムソンを下に呼んで、弦の調子を見てもらう。自分は楽士ではないから、正確にはわからないと言いつつも、サムソンは棹と胴の歪みがないか確認し、弦の張りを調整してくれた。
「それにしても、こんなに大きな琵琶、人では弾けないでしょう」
「ヴィクトリア様、無理はなさらないでくださいまし」
「手で弾くわけではないから大丈夫よ。そこで支えていてちょうだい」
黒騎士とサムソンが大きな琵琶を、斜めに立ててくれた。
リラに背を支えられながら、私は正式な瞑想の姿勢に座り直した。
「リラ、シャーザーはどうなったかわかる?」
「わかりません。先ほどの落雷から気配がわからなくなっています」
「そう」
「呼びますか?」
「いいえ、いないのならそれはそれで構わないわ」
リラを下がらせて背を伸ばす。
青白い焔に包まれていた怪物の躯はすっかり燃え落ちて、石像だった石の破片にへばりついた黒いシミになっている。熱と煙のない焔がまだチロチロと立ち昇っている躯を前に、私は青い蓮の中に座って目を閉じた。
最初の音は四の弦。
弦が唸り、大きな丸い胴で増幅された音が響く。曲は鎮魂と葬送。
閉ざした視界の闇の中で白い影が立ち昇る。それは怪異として討伐された双頭の蛇だ。人の欲や執着の淀みが焼き清められたその蛇頭は、神使エレバスにも似て卑俗さがなくなっている。
琵琶の低い調べに、高く心地よい鳥の囀りが加わる。霊鳥の歌……フィヨだ。
幻の視界の中で、白く揺らめく双頭の蛇が、鳳のような翼を広げた。
「言祝の儀に従いて命の幸をたたえる。源に還りて、雫巡り満ちよ。還露」
一滴の滴りが波紋となって広がった。幻想の蛇身に沿って浄樹の葉と生命を象徴する花蔦が現れる。
……ああ、これは学院のドアノブの意匠だわ。
智への扉のシンボルを連想して思わず笑みが漏れた。集中が緩んだためか巨大な双頭の蛇の幻が、まるで一本の杖のように姿を変えて、すっと遠ざかるように小さくなった。
あっ、と思ったとき、私は強大な存在がその杖を手に取り、そこにいるのを感じた。
§§§
体の感覚が失われるほどの深い瞑想の中、唐突に心象風景が暗から明に変わった。
天と地の境がわからない白い霞の中に清廉な緑の蕾が揺れる。それは深淵からまっすぐに立った茎の先に着いた蕾で、大きさは人が両の手を緩やかに合わせたほど。明るい緑の萼の間から青白い花弁が覗いている。
どこかで心象の雫がひとしずく落ち、波紋が広がる。
硬く閉じていた蕾はポンと爆ぜ、ゆるゆるとほどけて、大輪の青い花となった。
泥濘より立ち出ずる青い蓮。
認識と同時に霞の中に、蓮の葉が浮かび上がってきた。その間から、一つ、また一つと蕾が現れ、次々と開いていく。碧の丸い葉と青い花弁には、水晶のような露が宿り静かに煌めいている。
私はその静謐の中に佇む人影を視た。
魔導王!
『様を付けてもらいたいものだが、残念ながら"我"というのもおこがましいかくのごとき断片の存在なれば、名で呼ばれることすら望むべくもないか』
うわ! めんどくさい人だ。
『同感だが、筒抜けになるから、あまり率直な強い思考は手加減してくれよ』
王家のシンボルである青い蓮の上に浮かぶ魔導王は、私によく似た角を持つ黒髪の美丈夫で、青いローブを着た魔導師の姿として像を結んだ。物言いがあまりにも自分の同類すぎて、自己を投影してしまったらしい。……美丈夫なのは私の願望の投影だろうか? だとしたら恥ずかしい。
私は慎重に思考を整えて、肉体で声を出すときのように意識して相手に伝えたい言葉だけを表層に出すようにした。
『申し訳ありません。あの……散解の術は失敗でしたか?』
『いいや。おかげでつまらない釣り針が外れてせいせいした。記憶だけの存在だとしても、記憶に従って状況を推測すれば、かりそめながら煩わしいだのつまらないだのという判断が出てくるのは何ともいただけないことだな』
記憶だけの存在? 意思や情動を分離して本来一つであった魂を分割されたということか。
『死後に魂を分かたれたのですか? なんと酷いことを』
『ううむ。どうだろうな。どちらかというと、無理に分断されたわけではなく、大いなる源に還る際に本来失われるはずだった我が記憶だけが保存されてしまっていると言った方が良いだろうか』
言葉として理解できる簡潔な表現以外に、付帯情報として非言語で圧縮された膨大な理論と概念が与えられる。瞑想中の精神体同士の交感だからといって無茶をする。
『ちょっ、そんなに押し付けられても半分ぐらいしかわかりません!』
『今のを解するうえに半分もわかるのか。優秀だ』
悪癖!
『そういうの嫌われますよって叱ってくれる人は身近にいなかったんですか』
『お前は優秀な上に臣下にも恵まれていてよかったな』
この無駄に偉そうで、いちいち癇に障るが、どうにも身に覚えのある感じは何とかならないものだろうか。魔導王は愉快でたまらないという顔で笑った。
『記憶だけの存在なのに、無駄に朗らかなのは何なんですか』
『お前が為したことだ。和たまえ、幸たまえと言祝いだだろう』
術のせいか。だとすれば私もまた王の存在をゆがめてしまった者だということなのかもしれない、
『気にするな。元より"我"は、荒ぶるよりも心安き語らいの方を好む気質……だった覚えがある』
『……力及ばず、本来のあなた様と一つに戻して差し上げることができず、申し訳ありません』
『良いさ。どうせ記憶など散ってしまうものだ。還った"我"はとうにまた生まれ直して愉快に新しい生を謳歌しているだろうよ』
『では、魔導王様の生まれ変わりはもう存在したということですか?』
歴史上、初代に比類するような王は存在しない。
『それらしいものはいなかったのか? ふむ……かけられた術のせいでいささか引っかかって、生まれ変わりが遅れて変なことになっているかもしれんが』
そうだったら大変な話を、なんとも気楽にさらりと語って、魔導王は「まぁ、どうせ」と軽い調子で肩をすくめて見せた。
『どう生まれたところで、好きなように堂々と生きるのが我だ。遅かれ早かれなるようになるだろう』
記憶だけの不完全な存在でこれとは!
私は初代魔導王という人物が、己の延命や不死化は望まずあっさり死んで、その後継者たちが完全な復活ではなく、能力だけ引っ張り出したいと望んだ理由をなんとなく理解して……臣下には同情するが、自分はこの人を嫌いではないな、と思った。
『魂の巡りから外れてしまったあなた様はこれからどうなさるおつもりですか』
『さぁな。奇し身の上だ。意思はないから自ら望むことはない。このまま揺蕩うしかあるまい。呪いが消えても、沿う魂がなければ大元に溶けることもできない』
情動を持たない存在であるからどのような情感もかりそめにすぎないと本人は主張するだろうが、それでも私は彼のその諦観に、一抹の寂寥と哀惜を確かに感じた。
『ならば……ビクター・バロウド、提案があります』
『我をその名で呼ぶか』
かの存在は私の提案を聞いて高笑いした。
やっぱり高笑いする人だった。




