闇深き深層
朝食の入った大きな籠を手に遺跡の食堂跡に戻った黒騎士はリラに「遅い!」と叱られた。
「侵入者が来て、ヴィクトリア様が危険なのよ」
なにがなんだかわからないまま、それは大変だと、リラと八角の泉の間の方へ向かう途中で、黒騎士は激しい眩暈に襲われた。急速に手足の感覚が失われ、視野が狭まり、その場にいるという感覚が遠ざかる。視界が傾いで床か壁かわからない暗い面しか見えなくなり、リラの声が遠くなって、かすれて消える。
どぶんと水に沈んでしまったような重い浮遊感と、つかみどころのない閉塞感に覆われて自由が利かなくなった。
なんだ?
こんなことをしている場合ではない、という焦りはあるが、思考が妙にぼやけて自分の現状がわからなくなる。何か重要なことをする途中だったはずなのに、それがなんだか思い出せない。
ここがいつで、今がどこかが混濁する。
深い深い淵の底。底なし沼よりさらに下。
光の射さぬ、陽の射さぬ。生まれる前の、死の後の。
魂沈む、水の底……。
いや、自分は死んではいないぞ?
たしか、自分は戦場にいて……と思ったら急にその時の光景が目の前に広がった。
敵と味方の旗がなびくシロツカの平原。白茶けた地平には煙が幾筋か細く斜めに立ち昇って、低く垂れこめた灰色の雲に消えている。エンデミールの黒い大森林は遠く、故郷の山々は見えない。
戦況は拮抗していたが、軍勢は疲弊していた。
単騎がいかに強くても戦は勝てない。敵方の理不尽な強さを誇る"勇者"という存在を封じて、相手に思うような戦をさせない程度に暴れることはできてもそこまでだ。
"バロールの荒鷲"の名は敵にも味方にも知れ渡り、戦功は褒章が足りないほど積み上がったが、それでも、負けないでいるのが精一杯だった。もっと違う使い方をしてくれれば、と思う局面も多かったが、結局のところ彼は単なる英雄で、田舎貴族という地位の裁量以上は与えられなかったのだ。
送られた死地で勝ちを拾い続けるしかできない日々の最後にその命は下された。
一騎打ち。
膠着した戦を終わらせるための名誉ある戦い……のはずだった。
磨き上げた全身甲冑で臨んだその戦場は、公正な戦いの場などではなかった。ランスを手に敵の将に向かって駆けたバロールの荒鷲を待ち受けていたのは、神聖帝国の祭司達による呪法だったのだ。
突然、立ち昇った真っ黒い炎に包まれたと思ったら、いつの間にかこの不可解な水底にいた。
そうだ。帰らねば。
水底から出ようとしたが、枷か檻のようなものがあって身動きが取れなかった。
周囲には己と同じように囚われている存在の気配がある。だが、己を包む水自体が何者かであった存在の溶け合った混合物で、ともすると自分自身もそこに溶け出していきそうになる。この水底で個を保っているのは難しく、枷は拘束であり、崩壊を防ぐ防具であった。
そこでふと、防具という概念に、発散していた思考が収束した。
でも、防具ならば、俺には専用の鎧があるしな。妻が仕立ててくれた立派なやつだ。
誇らしい気持ちと共に、紋章の刻まれた全身甲冑が思い浮かぶ。兜に翼の飾りがある白銀の……いや、漆黒の鎧。そうそう。妻はこれに似せた手縫いの小さな人形まで作ってくれたのだ。
だんだん思い出してきた。
水に長く浸かっていると錆の元だからきちんと手入れしなくては、と言って隅々まで磨いてくれた。
こうしてはいられない。こんなところにいたら錆びてしまうではないか。
どうすれば? と思った時、静かだった淵に何か暴力的なほどの強い力が差し込まれるのを感じた。
水のようなものが渦を巻く。ぞわりとする硬質で異質な感触の何かが己を撫でて、これは違うとでもいうようにすぐにすり抜けていった。
互いの位置関係というものが無意味な、左右も東西もない水が攪拌されて、己よりも深い奥底から何者かが引きずり出されていくのを感じた。……存在ではなく、力だけが。
あれはいかんだろう。
悪しき力ではない。だがあれは悪しきやり方だ。
渦巻き泡立ちながら引き出されていく力に胸騒ぎを覚えながら、俺はその力が向けられた先に、大切な妻の存在を感じた。
§§§
儀式というものは通常、ひどく面倒な手続きと入念な準備を必要とする。
これには政治的都合や歴史的な伝統への敬意や先人への配慮など、魔導的には割とどうでもよい事情が多く含まれるのだが、それらを全部無視しても、なお必要な段取りというのは多い。実行する魔導術式が大規模で、扱う魔力が大きいほど、安全にその術を行使するための手順は複雑になり、安全策を何重にも仕込むのが常だ。
魔導王の復活などという大それた術式ともなると、当然それは単独の術者で執り行えるような代物ではなく、高位魔導師複数名を動員した大規模な儀式が必要になる。本来、魔導術式というのは術者によって行使方法がばらつきがちであり、連携は至難の業である。ただし、術者同士が互いに術式の構成の基本原則を共有していれば、すり合わせが楽になり、比較的容易に連携が可能になる。
このために魔導王国は王立学院を設立し、魔導師を養成して大規模魔導術式の儀式発動を可能にした。
……が、創設理念というのは、総じて見失われがちだ。
改善と効率化の名のもとに古典的手法は廃れ、学院内派閥の権力争いと学士による固有術式の秘匿で、連携のための情報共有どころか、古い術式の継承すら、今の学院ではろくにできていなかった。
塔内派閥や出世に興味はなくて、趣味で古書を片っ端から読み漁っていた私のような者しか、古語による術式を辞書なしで解読できる者がいなくなっていたのだから、先人の千年の計も台無しである。
王墓にこれだけの大規模術式の設備を備えていながら、これまで魔導王の復活の儀式が執り行われていなかったのは、それが原因だろう。
ここが作られたときには、この術式を発動できるだけの魔力が蓄えられておらず、その後、国土全域を範囲とする大規模結界から少しずつ魔力を蓄積して、十分な魔力が溜まった時には、王家の側で術式自体が失伝してしまっていたというわけだ。マヌケすぎて涙が出る。
そのマヌケの集大成のような男が、今まさにこの大規模魔導施設の中枢で、明らかにイレギュラーな方法で禁忌の術を発動させてしまっていた。
儀礼の間の壁に描かれた植物モチーフの幾何学文様に仕込まれた古代語の呪文の文字が、青白い光を放つ。文字の光は壁面をぐるりと一周し、不規則に瞬いて消えた。
天井から鼓動のような重低音が降り始める。
セイルーンに射していた明かりは収束して一筋の強い赤い光となり、彼の額に第三の目のように赤い点を描いた。床の陣の輝きもセイルーン中心の放射状に変わる。その床の文様も含めた壁面に連なる幾何学文様全面が赤く染まり、すべての光が不穏な拍動音に合わせて赤く明滅し始める。
儀礼の間全体が封鎖され、セイルーンの権限以下の者の出入りが完全に禁じられた。
「おお……力が、力が満ちてくる」
輿から投げ出されたままだったセイルーンが立ち上がった。
その動きに足や腰の痛みをかばうぎこちなさはない。自分自身がそのことに驚いているかのように、セイルーンは目を見張って己の身体を見下ろした。その全身が足元からほのかに輝き始める。
「すごいぞ。なんという圧倒的な力だ。これが魔導王の力か」
セイルーンは愉悦を顔に浮かばせた。色艶が失せて深いしわが刻まれていたその顔も、往年の美貌を取り戻していた。彼は自信にあふれた様で哄笑し、私の方を見た。
「どうだ、ヴィクトリア。私は魔導王となったぞ」
彼は、どれほどの力を得ようと変わらない、本性から滲み出る厭らしさを顔に浮かべて、にやりと笑った。
「悔しいか。知っているぞ、お前が私を、けして魔導王の座にはつけぬ男だと見下していたことを」
セイルーンは勝ち誇って「だが」と続けた。
「私はこうして魔導王になった。それに対してお前はそうやって膝を突き屈服させられている」
惨めなものだと言い放つ声は、劣等感が反転した優越感に満ちている。
一呼吸ごとに、彼の身体に力が注ぎ込まれていくのがわかる。放出される魔力光で、彼は輝いていた。
「呪われた魔女め。お前が選んだバロールの領主夫妻は横死し、夫としようとした男は戦で惨敗した。お前は正しい妻になることもできぬままバロールなどという最果ての僻地に押し込められた惨めな女だ」
「バロール? この女、"バロールの荒鷲"の妻か」
私を押さえつけている勇者が、私を見下ろして「へぇえ」と片眉を上げた。
「あの荒鷲とやらは、なかなか厄介な奴だったが最期はあっけないものだったぞ」
「一騎打ちだなどと出しゃばって、何もできぬまま敗北。守ろうと一命を賭した王太子軍は壊滅。とんだ恥さらしの戦犯よ」
「ふん、よく言う。あの一騎打ち、裏で画策したのはお前だろうが。勝てる勝負を覆して国を売るほどの動機がわからんと思っていたが……この女か」
「おかげで戦に勝って、やりたい放題の身分を手に入れたのは勇者殿であろう。貴殿はバロールの田舎武者にやられっぱなしだったのだ。今生きていることを感謝されこそすれ、そしられるいわれはないぞ」
此奴らのせいか。
あまりの怒りに身が震えて耳鳴りがした。喉を押さえつけられていなければ大声で叫んでいただろう。
「どうした、ヴィクトリア。恐ろしいか。安心しろ、私は寛大だ。今そこで這いつくばって許しを請い、そこの勇者殿に神聖なる神への帰順を誓えば、王となった私が作る後宮に入れてやってもよいぞ。男も知らぬまま辺境で朽ち果てるよりも、その方が嬉しいだろう」
「なんだセイルーン、貴様、他の男に嫁した女などにまだ未練があるのか」
「嫁いだ相手は田舎から出てきたその挙式の日に招集した。初夜さえ迎えておらぬよ」
「はっ、そいつは酷いことをしたものだ。ふふん。とはいえ、これだけの美人だ。旦那の留守中に田舎で適当に男を咥え込んでいたんじゃないのか?」
私はベルトから下げていた装身小物の小刀を、勇者の防具がない二の腕の内側に突き刺した。
「つっ!」
相手の反応を確かめるより早く、手が緩んだ瞬間に身をひるがえして、背後に転がっている短杖に手を伸ばす。
「魔女め」
ジャリンという音と共に白銀の鎖が伸びて、私の手がもう少しで届きそうだった短杖を弾き飛ばした。バチンと閃光が奔って、規則的だった赤い明滅と拍動音が一瞬止まる。
勇者の手甲から伸びた白銀の鎖は、私の身体に巻き付き身動きを封じた。
「とんでもねぇ女だ」
床に倒れた私のところにやってきた勇者は、手も脚も鎖でぐるぐる巻きに封じられた私を足で転がした。
「おい、セイルーン。こんな女を後宮に入れるのはやめておけ」
勇者装備から伸びる鎖は、イラーナが追っていた怪異のそれと同種だ。
精神体を捕らえるための術式が実体化したもので、現実の物にも作用するがその本領は怪異などの非実体の存在を拘束することにある。そして、魔術師である私の力もまたこの鎖に強く干渉されていた。
「これは飼いならせる類の女じゃない」
すべての音が止まり、薄暗い赤い明かりに兵士の人影が黒く並ぶ儀礼の間で、仄白く輝く装備に身を包んだ勇者は、鎖を引き上げて私を吊り上げた。
「飼わずに嬲って遊んだほうが楽しいぞ」
この邪悪な存在に聖の称号を与えた神聖帝国は呪われるがよい。
身動きも魔導も封じられた自分を、この先どうとでもできると思っている男達の視線に、身の毛がよだった。
「させるかーーーーーっ!!」
リラの叫び声が儀礼の間に響き渡った。
大きな破壊音と共に天井の一部が外れて崩落するとともに、空いた穴から漆黒の鎖が伸びて私を拘束していた白銀の鎖をからめとった。
……ここでリラなんですか?
ここでリラです(きっぱり)
隠し札と言われて、奥様のピンチに出番を待つような女じゃなかったよw
残りは何やっとん? なんでリラ入ってこれたん? は以下次号!




