足りないものは満たされた
目を覚まして自分が寝ていたことに気が付いた。
「ヴィクトリア様、お目覚めですか」
リラの声で意識が覚醒する。さっきまで隣に黒騎士がいたような気がしたが気のせいだろうか。
「どこ?」
「あなた様が起きたと知らせに来てくれたので、朝食を取りに行ってもらいました」
「そんな仕事をさせてはいけないわ」
「いいんですよ。ヴィクトリア様がアレの中身が何だと思っているかは置いておくとして、立場上はうちの居候の怪異なんですから」
本人にしかできないことであなたの役に立てることが嬉しくて、自発的に嬉々としてやっているんだからやらせてあげなさいと言われて、私は黙った。たぶんそれはリラ自身とも重なる話だと感じたからだ。
リラといい、ヴァントといい、私の周りの人は自分のためだと言って私のために動いてくれる。
「朝食前ですが、まずこちらをどうぞ。お水も飲んでください」
そういえばろくに何も食べていなかった気がする。王都の高級菓子店の砂糖菓子を差し出されて、おなかが鳴った。どういうルートで持ち込んだのかはわからないが、ヴァントが用意してくれたのだろう。白い小花柄のケースに入っている小さなボンボンと、アニスが香るクッキーはたまらなく美味だった。
寝台や小テーブルが運び込まれてすっかり居心地よく整えられた小部屋で、リラに身支度を整えてもらいながら、私は自分の周りの皆の善意と好意に感謝した。
「サムソンとラリーは?」
「遺跡の使用人通路の探索に出かけています」
扉の間に来る前に通った中二階の通路がどこにどうつながっているのかマッピングしに行ったという。
「暇を持て余したんですよ。あの階層ならヴィクトリア様がいないとどうにもならない魔導系の仕掛けはないだろうからって」
「たしかにそうね」
「それにあの辺りまで戻ると、明り取りから日が差すので昼夜がわかるって」
そういえば普通の人は魔導師と違って、昼夜の区別がわからない生活を送ると不安になるのだった。
「長く付き合わせて悪いわね」
「気になさらないでください。ヴィクトリア様がご無理をなさっていることの方が心配です」
「私が無理をするのはいつものことでしょ」
それがいけないのだといつも通り叱られながら、私は青いローブを羽織って小部屋を出た。
このローブはここで見つけたものだが、保存系の術が掛けられていたせいで状態が良く、色合いもデザインも着心地も大変良いので、着用させてもらっているのだ。石造りの遺跡は思ったより冷えるし、やはりいかにも魔導師なローブを着ると、文献を読むのにも気合が入る。
それに裏地に初代魔導王の紋章の刺繍が入っているローブなんて、いまどき入手できる品ではない。
「朝食を取りに行ったなら、戻ってくるのは食堂かしらね」
私は食堂に入って明かりを灯した。
ここも掃除され、テーブルの脇に簡単な椅子が運び込まれていて、最初に見た時より整っている。
リラは優秀だ。
黒騎士はまだ戻ってきていないようなので、私はその場で待つことにした。
壁画と昔の研究者の落書きを眺めながら、これまでの調査結果を頭の中で整理し直す。
十分な睡眠と、さっき取った糖分と水分のおかげで、急速に頭が冴えてきた。
寝る前に叩き込んだ諸々の断片が、一気に整理されて組み上がっていく。
同時に寝る前には完璧だと思っていた推論の欠点も見えてくる。疲労して栄養の足りない脳は間違いの源だ。あと少し足りない何かを無理やり妄想で繋いで、もういいやと手っ取り早い結論に飛びついてしまう。
そういう時に理論の検証を行える対話相手がいると良いのだが、今の私にそれは望めない。
「あなた方ならどう思われます?」
壁に書きなぐられた複数の魔導師のたわいない落書きの文字を目で追いながら、当時、この場にいた者達の議論に混ざる気分で問いかける。
幽世と現世は表裏一体。幽世の水底は現世のすべての地点と等距離である。
肉体は魂の器であり意識によって形づけられるが、魂もまた器によって変質する。
自我を発する存在の意識の連続性を持って個と認識する場合、肉体の物質としての連続性の断絶は死を意味しない。日々の食事により鳥の肉が人に取り込まれても人は鳥にならない。太った男が痩せても男の名は変わらない。(注釈:少々痩せたぐらいでモテると思うなよ! お前は根本から性格を治せ)
瓶に入ったワインは瓶が割れると損なわれるが、適切な酒杯に注げばワインであることは維持される。杯から皿に注げば零れて損なわれるが、別の杯に慎重に移し替えれば、ワインの価値は損なわれない。
戯言に見える落書きとその周囲に書き添えられた初日に見た時は意味をなさなかった図や数式が、意味を持って立ち上がってくる。
私は……。
「ヴィクトリア様」
リラの焦った声が、私を現実に引き戻した。
「侵入者です」
遠くで大きな音がした。青銅の扉が打ち破られる音か。
「研究室と泉の部屋との境の戸は?」
「閉まっています。研究室の燭台は消せないので持ってきました」
「上出来」
私は携帯にはかさばる燭台を受け取って、魔導の明かりを消した。ついでに食堂の明かりも消して、リラには自分の腕輪に小さな暗い明かりをつけたものを持たせる。
「あなたはここに」
「ヴィクトリア様!」
「リラ。緊急時に感情を優先しないで。あなたがあなたの能力を正しく発揮して賢明にふるまう想定で私は動くから、そのつもりでいて」
「っ……はい」
「あなたは私の大事な隠し札よ」
「切り札になれない己がふがいないです」
「そう言わないの。私の切り札がここに帰ってきたら上手く事情を伝えてちょうだい」
黒騎士にフィヨと人形経由で連絡しようとしたら、ラリーの金髪が見えた。
今すぐに黒騎士を呼び戻す方法が私にはない。
「一人でどうなさるおつもりですか」
「安心して。自分は一人だと思っている子供時代の私じゃないから。みんなが人使いが荒いと怒るぐらいあてにしているわ。ただ、今は一足先に行ってバカなことが起こらないように隠れて様子を見るだけよ」
相手がもし鍛冶屋の炉に火を入れて火遊びをする子供だった場合は止める必要がある。
「知ってる? 実は私、一人だと意外にかくれんぼは上手なのよ」
私は舌先で指を濡らして、そこに息を吹きかけながら、蜃の気の術式を略式で全身を覆うように展開した。これで私の姿は光の下で人の目に正しく認識されなくなる。
「光陰隠身」
私は、リラに微笑みを残して闇に溶けるように姿を消した。
暗い通路の奥……八角形の泉の間の方向から、聞き覚えのある大きな声が響いた。




