ルオボの流れはさらさらと
木々の生い茂る山中を下ってきたルオボの清流は、舟小屋の脇をさらさらと流れている。
黒騎士は月魄の鞍上から、対岸の小さな舟小屋を眺めた。
小さな舟小屋は健在だった。
以前黒騎士が来た時には老人一人しかいなかったが、今は数人の男達がいて、屋根や壁板の修繕に精を出している。嵐で傷んだのか、元からボロ屋だったから直すことにしたのかはわからない。
東のトールス山系から西に流れてくるルオボ川は、その水源と流域がわずかに北側だったことから、エレバスが放った熱線による山の湖の決壊の影響を免れていた。
黒騎士は川の流れに沿って、上流から下流に視線を転じた。
周囲はまるで無傷というわけではなかった。
ここは東からの流れが崖にぶつかって北に折れる場所だったが、その断崖は、エレバスが動いたときに一部崩れていた。黒ずんでいた岩肌はまだらに崩落し、地衣と苔で覆われていないむき出しの断面に、裂けた木の根や千切れた蔦が垂れ下がっている。
落ちた土砂や巨岩が淵を埋めたのだろう。青かった淵は水深と岩塊の影響で浅くなり、そのために以前より速くなった流れは不規則に渦を巻いて、崖端の岩場はあちこちに白波が立っていた。
舟小屋脇の白かった川原にも、崩落した土砂が打ち寄せたらしい。以前より泥が多く堆積していて茶色くぬかるんでいる。
黒騎士は月魄の手綱をとると、川の中の岩を器用に渡って舟小屋のある対岸に渡った。
「うわ、こりゃ、黒の旦那じゃねぇですか。どうしました。今日はなんにも起こってないですぜ」
小屋の前で頓狂な声を上げたのは、山賊顔の男……ワルドだった。
§§§
「見てのとおり平和なもんです」
ワルドは馬を降りた黒騎士を小屋に案内しながら「もう、非常識な騒ぎのおかわりは勘弁してくださいよ」と気安く笑った。
ワルドは、今回、調査隊の一員として、タキリの町から早々にフォス村入りしていた。
正確に言えば、学者のローガンの求めに応じてタキリからフォスへの調査隊なるものを編成したのは、実質ワルドだった。
実のところ、騒ぎがどう転ぶかもわからないその日のうちに、怪魚ケトゥスの後を追おうなどというのは、正気の沙汰ではない。
しかし、貴族の学者先生がどうしても行きたいと言っている状況なら、いっちょ噛みしても損はない。
ワルドはそう考え、なんだかんだ周囲を適当に丸め込んで調査隊を仕立て、タキリを出立した。
彼は若い頃から、火中の栗を拾うために、栗があるかどうか確認できる前に火に手を突っ込むタイプだった。その性分のせいで、これまでの人生で何度か大火傷を負っていたのだが、本人は懲りるどころか、己の悪癖を自覚することすらなかった。
とはいえ、フットワークが軽くて、野営が得意で、出たとこ勝負に強い親分肌というのは、こういうとき重宝な資質ではあった。ワルドはあっさり調査隊を仕切り、それでいて責任者ではないという良い具合のポジションに収まった。
彼はローガンに大変に感謝された。
なにせ、まともな神経なら退散するのが当たり前な状況でも、ワルドは、先に進みたいというローガンの肩を持ったのだ。これから行こうという先に、おどろおどろしい雷雲が不自然に垂れこめ、突如、謎の怪光線が放たれて夜空をよぎり、荒野の反対側の西の山を打ち砕く……という事態が発生した時でも、ワルドは目を輝かせているローガンを軽くなだめるだけにとどめた。
もちろん、ワルド基準でも、探求欲より命の方が大事なのは間違いない。
しかし彼は、部下を食わせるためには山賊仕事も辞さない程度にはイレギュラーな対応に強い男で、山賊働きで軍営が荒らせるぐらい、ハイリスクな案件に対する臭覚はめっぽう鋭かった。
ワルドはケトゥスの這った跡から外れた位置に避けて、一晩様子を見ることを提案しただけだった。
結果として調査隊がフォス村に着く頃には騒動は大方収束していて何の危険もなかった。
そこまでは上々だったのだが……。
「姐さん……あー、いや、ヴィクトリア様に見つかって、ここに送られたんだが、この通りだ」
簡素なサンダル履きで上半身は裸も同然なのに、なぜか毛皮のチョッキだけ羽織っているという、どうにも胡散臭い姿の髭面の男は、のどかでオンボロな舟小屋の前で肩をすくめた。
「たいしてできることも、やることもないし、暇なんだが、何かこう配置転換の命令書とか預かってきてねえか?」
無ければ酒でも……と本命の提案を始めたワルドに、黒騎士は丁寧に畳まれた紙片を渡した。
「ん? ホントになんか出てきやがった。えーっと、なになに?」
視察に行くので、それまでに現地の状況と、タキリへの河川交通の復旧の目途を報告できるようにまとめておくこと……紙片にはヴィクトリアの流麗な筆跡で簡潔にその旨が書かれていた。
「それからタキリ方面への輸送手段の整備と、石切り場への……だあああっ! なんだこの仕事の量は。何考えてんだあのアマっ子は。一体いつこっちに来るつもりなのか知らないが、とてもじゃないがこんなにいっぺんにこなせるもんか」
『あら、残念』
急にヴィクトリアの声が聞こえて、ワルドはビクリとして目をぎょろぎょろさせ、あたりを確認した。
『あなたなら数日あったんだから、もうそれぐらい把握していると思ってたわ』
黒騎士の腰の小物入れの中から顔を出している小さな人形がしゃべっていると気づいて、ワルドは野太い悲鳴を上げた。
§§§
『では、ルオボ川からタキリへの舟は従来通り出せそうなのね』
黒騎士の大きな鉄の両手に、フワフワの鳥の雛と一緒にすっぽり収まった小さな人形は、小さな手を頤に当てて、もっともらしくフムフムと肯いた。
ワルドはどうにもげんなりした顔で、それでも殊勝に人形に向かって川の方を指さして見せた。
「流量は問題ない。淵は多少埋まったが、水深の方も平底の川船なら大丈夫だ」
『では、もう舟を運ばせてもいい?』
「いや、そいつはまだだな」
ワルドは細かく白波が立つ淵を見ながら、山賊髭の生えた顎をさすった。
「瀬が荒れてる。少し舟着き場周りの川底を浚うか均すかした方がいいかもしれん」
『他には?』
ワルドは下流に向かう川縁に目をやった。
「牛が舟を曳いて上がってこれるよう、道を確保する必要がある」
『すぐに斥候を出しましょう』
「ああ、ここからナジェール河の中継小屋までは確認済みだ」
ナジェール河沿いも、念のために確認するように手配してあると応えたワルドを、ヴィクトリア人形と雛鳥と黒騎士は、揃って無言で見つめた。全員、表情のない顔なのに「顔に似合わず働いてるな、この男」とあまりありがたくない感心の仕方をしていそうなのがありありとわかって、ワルドは顔をしかめた。
「この人数でやれることはやったから暇してただけで、さぼってたわけじゃねぇよ」
『人手の手配がいるのね』
「川原が泥でぬかるんでる。小屋まで牛を歩かせるなら一時的にでも板を敷くなり何なりした方がいいが、ここにいる数人でろくな道具もなしでは難しい。ナジェール河の中継小屋に行ったときに、タキリにいる俺の部下どもに伝言を頼んだから、おっつけやってくるだろうが……命令違反だの越権行為だの煩いことは言わないでくれよ」
『言わないわよ。臨機応変と出たとこ勝負があなたの信条でしょ』
上出来だと、ヴィクトリア人形は満足そうに丸い頭をこくこく振った。
『やっぱり頼りになるわ。ローガン先生もあなたのこと褒めてたわよ』
「よせやい。おだてられても俺は踊らねぇぞ」
『踊らなくていいわ。その調子で働いて』
「げっ」
やっぱり! と、ワルドはちっちゃなかわいい人形から一歩身を引いた。
『この後、タキリから本格的に人と物資をよこすわ。河川の浚渫と輸送路の整備の指揮をお願い』
「いやいや、大事にしなくても呼んである俺の部下だけで……」
『原状復帰だけではなくて、ここからフォス方面への輸送経路も新しく計画して欲しいのよ』
「はあっ?!」
ちっちゃなヴィクトリア人形は雛の背に乗ると、雛を飛ばせて、黒騎士の手の中からその肩に上った。
『ほら、元々はここからフォスの向こうに水が引けないか計画してたでしょう? あれの続きよ』
以前は台地と伏鉢山の硬い岩盤をどうにも越えられなくて断念したが、今は伏鉢山がなくなって、西に流れ出る新たな川ができている。
「水がそっちの川から荒地に行くならそれでいいじゃねぇですか」
『水はね。でも物も運べた方が便利でしょ』
「こんな山奥から運ぶものなんて水以外、何にもないですぜ」
『今はそうだけど、昔は違ったでしょ? そもそも何でここに舟着き場があると思ってるの』
ワルドは口をポカンと開けた。
「石切り場……?」
『様子を見に行きたいわ。案内してね』
「無茶苦茶だ! 石切り場からの石ってのは、そんな手軽に牛に乗せて山道を運べる代物じゃないぞ」
『でしょうね』
ほんのり笑顔の造形の人形は「でも」と、こともなげに言った。
『ここと新しい川を運河でつないだら、舟で運べるわよ』
ただし、ただ繋ぐだけだと問題があると、ヴィクトリアは灰白色の丸い雛の上で解説を始めた。
地形的には、フォス村のある南の台地側と、この舟小屋の向かいの崖がある北の台地側の間に、南北の分水嶺がある。決壊した山の湖から流れ出た新しい川と、山中の細い流れが集まってできているルオボ川は水源が異なるし標高も若干違う。
『単純に二つの川を一番近いところで繋いじゃうと、たぶん水喰い現象が起きて、こっちの水があっちに行っちゃってルオボ川の水量が減っちゃうのよ』
「それじゃあ、ルオボからナジェールへの水運がなくなっちまう。石切り場からならそっちを残した方が断然いいから悪手だ」
『そうなの。だから作るなら閘門式運河かなって』
聞き慣れない単語に、ワルドはもちろん黒騎士も首をひねってヴィクトリア人形をまじまじと眺めた。
『閘門よ。かっこいいでしょう?』
機構の概要を説明されて、ワルドはめまいがした。
「まずそういう遠大な計画をどうこうする前に、ちゃんと地に足の着いた検証をしましょうぜ」
カタリ(同意)
ばくち打ちな性分の男と動く鎧に"地に足の着いた検証"を勧められた領主夫人は朗らかに笑った。
ロックだぜ!




