ここに幸あれ
「この目で見たかった」
元"枯れ底"の大草原の湖畔で、ローガンはさめざめと嘆いた。
「お気持ちはわかりますけれど、あの時は生身の人間がのんびり観覧できるような状態ではなかったので、先生はこちらにいらっしゃらなくて正解だったと思いますよ」
ヴィクトリアは、リラが用意してくれた野外用の椅子に腰かけて微笑んだ。
ヴィクトリアは、あの天変地異の翌朝には支援物資と共に領主館を出立してその日のうちにトリルの避難民の元に出向いていた。領主代理自ら現地に出向いての直接の差配で、事態は混乱もなく収束した。
「フォス村は無事です。さぁ、帰りましょう」と自信をもって言い切った領主夫人と共に村に戻った人々は、そこで、一夜にして現れた広大な草原と湖に仰天し、大きな損壊を免れた我が家を見て安堵した。
ユンはじっちゃに怒られ、ケノの両親は娘の無事を喜び、子供らを守ってくれた黒騎士とその従者に泣いて礼を言った。
村人たちが毎日見ていた風景はすっかり変わり、伏鉢山は消え、ルオボ川の舟着場はすっかりダメになっていたが、それでも死傷者はなく、人々の顔は明るかった。
タキリの町からケトゥスが遡った痕跡を辿ってやってきた調査隊の一団がフォス村に到着したところで、ヴィクトリアはローガンと共に、エレバスが遺した地の検分のために湖畔に出向いたのだった。
§§§
穏やかにきらめく湖の上を渡ってくる風は心地よく、豊かに芽吹いた草原は良い香りがした。
私の向かいに用意された椅子に座りながら、ローガン先生は大きなため息をついた。
「伝説の証人になり損ねました。研究者にとって一生の不覚です」
「その一生が終わってしまわなくてよかったではありませんか。研究者としてなら、起きた事象を検証できる最前線にいる今、雨に濡れて一晩中凍えたかったなんて嘆いている暇なんてないと思いますよ」
ログ先生は「それはその通りだ」と肯いて、席を立つと草地に膝をついて、土をひと握り手に取った。
「良い土です。ほんの数日前に見たここの土とはまるで違う」
"枯れ底"だったこの場所の土は、あの恐ろしい一夜で激変していた。
本来、開墾時に根気よく取り除かねばならない低木の堅い根や大小の石は、エレバスによってすっかり焼かれ、磨り潰され、土壌は深く耕されていた。焼き畑を大規模にやってもらったようなものだ。
「灰や炭だけでなく、腐葉土も多く含まれている」
決壊した山の湖から押し寄せた水は、溜められていた山の森林の土も運んで来ていた。さらに、狂乱したエレバスの触手の魔力暴走によって引き起こされた植物の過剰かつ高速な増殖と腐敗のサイクルの結果、ここにはまるで何年も植物が繁茂した後のような豊かな土壌が形成されていた。
「水持ちがいいうえに、しっとりとしてとても良い土だ」
「一度、全体が水浸しになった上に、全部流れてしまう前に散々掘り返された奥にまで染み込みましたからね」
単に乾いた荒野に水があふれただけなら、水は表層を削ってさらに土地をやせさせただけだろう。だが、水の眷属のケトゥスを喰らったエレバスの触手は、水の加護と生命の魔力を放出しながら、流れ込んだ水を土地に結び付けた。生育と繁殖の霊獣の身体ごと梳き込まれた土だ。悪いわけがない。
「それに、先生は以前、畑を作るには貝の殻の粉が少量あるといいとおっしゃっていましたよね」
「ケトゥスの腹に付いていたアレか……」
「粉々に砕かれてわからないんですけれど、おそらく広範に撒かれています」
ローガン先生は手の中の土を見て唸った。
私は先生に、再生を司る鳳雷鳥の稲妻も全域にまんべんなく降り注いだ話も伝えた。
「エレバスによる大地の不滅と育成の力に加えて、水妖のケトゥス、天空の鳳雷鳥と大盤振る舞いだな」
「大気全体に濃厚に充満した高位の魔力が最終的に全部土壌に吸われておりますの。魔術師の立場から言わせていただくと、とてつもない土地ですわね」
「それでこの早春にここまで緑の野になっているのか……いや? よく見ると芝と牧草が多いな。なぜだ? ここにあった草木が増殖したなら植生は変わらないだろう」
「それが……」
私は先生に、今回、春蒔き用にフォス村に運び込んでいた種子が落ちて広がったらしいと教えた。
「いや、しかし、こちらで用意した量などたかが知れているだろう? こんなに一面には……」
「荒地の低木や棘のある硬い雑草が増えずに、この柔らかい牧草が優先された理由はわかりません」
ただ、一番エレバスの力が暴走していたあの狂乱のさなかに、誰かの意思が働いた可能性はある。
「ただの混沌ではなく、わずかにでも方向付けがなされたので、結果がこのように揃ったのかもしれません」
「貴女かね?」
「いいえ。あの時は必死だったので」
花の咲く春の若草が広がるイメージなんて思い浮かべる余裕は私にはなかった。
「……この土地自身の過去の記憶かもしれませんね」
「貴女にしては存外に迷信深いことを言う」
「神話の幻獣を倒したばかりなので」
私と先生は顔を見合わせて笑った。
「フォス村配給分にも麦の袋を入れておけばよかった。そうしたら麦畑が広がっていたかもしれん」
「あら、麦が一面に実っても、収穫する人手も、脱穀する農機具も、粉を挽く臼も何もかも足りないからダメですよ」
10年かかっても無理そうな運河工事も、開墾も、土壌改良も、全部一夜にして実現してしまったのだ。麦畑は人の生活に合わせて人の力で作るべきだろう。
「予定通り家畜と雑穀と野菜を順番に。でもそうね、色々前倒しはできそう」
何をどうしようかと先生と相談していたら、周辺の見回りに行っていた黒騎士が帰ってきた。
フィヨ~。
「お帰り、フィヨ」
飛んできて私の膝に乗った鳳雷鳥の雛をローガン先生が少し羨ましそうに見たので、彼の手の上に乗せてあげる。フィヨは先生の手に付いていた土を羽先で器用に払い落としてから、丸くなって座った。
黒騎士は立ち上がって出迎えようとした私に"そのままで"と身振りで伝えた。私は隣に来た黒騎士の手を取って、感謝の気持ちを伝えた。ここしばらく無理を押して働いていたので、わずかなことだがこうして楽にさせてもらえるのはありがたい。
「周辺の安全確認終わりました。エレバスの断片の生き残りや大型肉食獣類は発見しておりません」
同行させた斥候がきびきびと報告してくれた。たしかラリーという名前だったと思う。有能だとローガン先生もほめていた。
「牧草地はかなり広範囲に広がっています。それから南東の複数個所でこれらの群生地を見つけました」
ラリーが袋から取り出したのは、無萎花莧と羊豆だった。
「それは……春蒔き用の種子袋の豆由来か!」
「よく見ると牧草の間にもときおり混ざっているんですが、ちょっとくぼんで低くなったところに沢山ありましたよ」
「豆は牧草の種より重いから、広く流されなかったんだわ」
「村に近いところで、勝手に畑ができてるって、エーレ様も気が利いてますね」
あっけらかんとした口調で古き神を語るラリーに、ローガン先生は唖然とした。
「禍福の神はただ与える……災いも幸も汝がなしたものを受け取れ」
「あ、それ、ばあちゃんから聞いたことあります。"鱗のある獣"を追い払ってくれた老人に親切にした子供を親の元に送っちゃった人々は、すっかり何もかも失った。目の前の己の利益だけ求めずに、良き行いをせよ。悪いことするとバチが当たるぞって意味ですよね」
ラリーは「でも……」とちょっと思案気に首をひねった。
「今回、こんなに良くしてもらえるほどのこと、僕ら何かしましたかね? むしろ杖石や根付き石をぶち壊しちゃったんですが」
全員の視線が黒騎士に集まった。黒騎士はわたわたと両手を振って必死に弁解し始めた。
「大丈夫。誰もあなたのせいだなんて思っていないわ」
私は立ち上がって黒騎士の手を取った。
「私達、一生懸命にやったでしょう。ここで皆で幸せに生きていくんだって。それがいい結果につながったのよ」
黒騎士は私をじっと見降ろして、カタリと一度、面頬を鳴らして力強くうなずいた。
ともにこの地で生きよう。大地からあふれる力が私達を寿いでくれているようだ。
私は緑の香りを胸いっぱいに吸い込んで、天を仰いだ。
晴れ渡った春のバロールの空には、鳥が一羽、高く舞っていた。
緑の野をもたらしたのは、あの日の若草色の君との思い出。
ーー
お読みいただきありがとうございました。
これにて第2章閉幕です。
この後、また閑話を挟んでから、第3章があります。
閑話はもう少しフェス村周りの話ですが、3章は舞台がバロールから王都に……?
3章書き溜めのため一時更新をお休みさせていただきます。(余裕があったら閑話は出せるかも?)
シリーズの短編「花冠の騎士」をまだお読みでない方はこの機会にぜひどうぞ。
若草色のドレスを着た16歳の初々しいヴィクトリア様と生身時代の黒騎士の出会いのお話です。
タイトル上のリンクからご覧いただけます。
おかげさまで3か月目で[四半期] 連載中ランキング総合 145位、異世界〔恋愛〕45 位に入れました。
第2章読み終えたこの折に感想、評価☆、いいねなどいただけますと大変励みになります。
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