激流と雷
楢の木は雷の木だ。
ユンは祖父からそう教えられて育った。
だから天が雷雲で覆われたとき、ユン達は楢の木から離れすぎず近づきすぎない位置にいた。
枯れ底のすべてのものに雷が降り注いだとき、フォス村にも落雷はあったが、ユン達は楢の木のおかげで無事だった。雷に打たれた楢の幹は裂け、大枝が折れて落ちてきたものの、ユンやディック達にはギリギリのところで当たらなかったのだ。
だがこの未曽有の混乱の中で、四人はまだ助かったという状態からは程遠かった。
「ユン、怖いよ」
「黒さん、どうなったんだろう」
「わからない。ここからだと見えない」
「ひゃっ」
エレバスの上げる怪音や、火球や熱線の光と轟音で揺さぶられ、四人はもう立つこともできない状態になってしまっていた。
「ああ、どうか私達をお助けください」
「僕らと、ええっと……黒さんも!」
「黒さんも?」
「黒さんは大丈夫な気がするけど、ちょっと心配だから」
「う、うん」
その時、闇の向こうから「おーい」という少し間の抜けた男の声がした。
小さな旅人用の灯りを手に村の方からやってきたのは、見覚えのある大男だった。
「あっ、塩売りさん!」
「ここは危ない。水が……」
「水?」
エレバスが移動する音とは別の轟きが東の方から迫ってきているのにユンは気が付いた。
「なにこれ」
「早く、この下へ」
塩売りはユンとケノを抱えて、楢の落ちた大枝の下に潜り込んだ。ディックとボーも訳がわからないながら急いで同じようにした。物がわかっていそうな人の様子を真似て生き延びるのは、ディックとボーは得意だった。伊達に王都の下町から戦火をくぐってバロールまで落ち延びてきてはいない。
全員が大枝の下に身を寄せ合って、塩売りの旅人用マントを被ったのと、ドーンという大きな音がしたのが同時だった。
§§§
黒騎士がその背にいた時に、エレバスの主首が放った熱線は、東のトールスの山肌を焼き、山中の小さな湖の湖岸を決壊させた。熱線で抉られて赤く溶解した巨大な溝に、大量の水が押し寄せた。水は赤熱した岩土に触れて急激に沸騰した。立ち上る水蒸気と焼かれた草木の上げる黒煙が混ざった雲は、もうもうと天に昇り、低く垂れこめた雷雲にまで達した。
湖水は白煙を押しのけ、沸き立つ水を押しつぶし、また泡立ち煮えたぎりながら留まることなく流れ落ちる。怒涛の流れは疾駆する騎馬のような速さでまっすぐに斜面を下り、元伏鉢山があった場所でも勢いを緩めることなく、そのまま台地の間を通過して枯れ底に出た。
元いた位置から南西に動いていたエレバスは、ちょうど旋回して晒していた右半身に水流の直撃を受けた。
激しい音と共に巨大な水飛沫が上がる。
その高さは15ヒロ以上………エレバスの体高の三分の一ほどにも及び、扇状に広がって、周囲に大量の熱水をまき散らした。
エレバスの灼熱の横腹に当たった水が、爆発と共に盛大な白煙をあげる。エレバスの右半身に残っていた首の残骸は衝撃ですべて千切れ飛び、主首は大地を震わせて絶叫した。
フォス村、特に逃げ損ねていたユン達にとって幸運なことに、大量に巻き上げられた土砂入りの水はエレバスの右側に斜めに当たったせいで、大半がその北西方向に落下した。滝よりも激しい土砂入りの熱水の塊がエレバスより北の荒野を打ち、そこで蠢いていた触手をことごとく粉砕した。
直撃は免れたものの、ユン達のところにも、焼けた岩の匂いがする強い風と共に濃い霧が流れてきて、後を追うように生暖かい雨がザーッと降り始めた。
ユンとケノはマントの端を握って塩売りの身体にしがみつき、ディックとボーは塩売りと一緒に大枝を掴んで、吹き飛ばされないように踏ん張った。落雷の後、燃えていた楢の幹の火は一瞬で消え、あたりの様子はまるでわからなくなった。
§§§
生命の奔流がすべてを飲み込んでいた。
黒騎士と呼ばれていた存在は、泡立つ濁流に翻弄され意識を失いかけていた。生育と繁殖を象徴する蛇の幻獣の暴走により辺りは混沌と化し、彼という存在は自我を保てない断片に粉砕され、原初の命の深淵に還元されかけていた。
ソレハイヤダ!
どこかで誰かが叫ぶ。あるいはそれは自分の叫びだったかもしれない。ところで自分とは誰だろう。
思考がまとまらない。四肢も腹も、己の姿が捉えられずに溶けていく……。
『大丈夫』
どこかで聞いた声を思い出した。
『あなたはいつだって大丈夫。そうよね?』
そうだろうか? そうかもしれない。あなたがそう言うのなら。でも、あなたは誰だ?
胸がざわりと湧き立つ。
とても大切なことを思い出すためにもがく。愛しい人を思い出すために意識を集中する。
愛しい人? あなたは己の愛しい人なのか? ああ、とてもとても大切な我が最愛。
ヴィクトリア!
何もかもがぼんやりとした中で美しい黒髪が揺れ、泡が集まって麗しい人の形を創る。
ああ、ヴィクトリア。間違いない。彼女だ。
目を閉じたまま、彼女はその繊細な細い手をしなやかにこちらに差し出した。
『あなた? そこにいるのね』
そうだ。と応えて彼女の手を取ろうとしたが、己の身体がどんな姿なのかわからなかった。
なぜだ。それでは困る。早く彼女に応えなければ。もう一歩近づいて、今すぐ彼女を抱きしめたい。
もどかしいほどぼんやりと自分の身体の形に泡が集まってくる。だがはっきりしない。これでは動けない。なぜだ。病なのか? 薬が必要なのだろうか?
薬のことを考えたら、不意にとろけるように甘い味と唇の感触が心に浮かんだ。
ないはずの喉が鳴った。
目の前の彼女の唇が色づき、その顔が、首筋が、指先が、細かい泡の集合ではなく滑らかな白い肌になっていく。その変化を目で追いながら、自然に引き寄せられるように向かい合う形になり、彼女の背におぼろげな己の両腕を回す。若草のドレスが彼女を包んで、スカートがふわりと広がった。
ヴィクトリア。君に触れたい。
焦がれる想いに沸き立った泡が急速に収束して、胸を四肢を頭を確かなものとする。彼女の手がこちらの首元に触れたとたん、己を構成する泡は一斉に弾けて、白銀の鎧となった。
鎧?
次の瞬間、鎧が漆黒に染まる。
『どうしたの? 鎧の具合が悪い?』
彼女が目を開いた。燃えるような緑の目。
『なんともないわね』
そうだ。思い出した。鎧だ。
彼女は、その鎧はかくあれと意識さえすれば、致命的な損傷も汚れも本来発生しないのだと言っていた。
ふいに、大鍋を運ばされたときのことを思い出す。鍋のような只の金物とは違い、この鎧は半ば幽世の存在であるために、自身の姿はこうだという意識によって正しい像が結ばれているらしい。
一つ思い出したら次々に思い出された。
そういえば、泥沼に落ちたときは、泥を掻き出されてくすぐられた。
後から教えてもらったのだが、己の表層的な形を思うだけではなく、内側も含めてしっかり全部の管理者が自分だと認識すれば、余計なものが内側に入ることがなく、許可したものだけが入れるようにできるのだそうだ。彼女の結界はそのように張られているらしい。たしか「鎧に小石や羽虫が入ると煩わしいでしょう?」と言われた。もちろんそれが防げるのなら素晴らしい。
そうだ。その方法で自分は彼女を大切に自分の中にしまっていた。
ああ、思い出した。彼女と今こうして何もないところで向かい合って話ができているのは、ここが意識の混沌の中だからだろう。彼女は本当は領主館にいて、自分とは小さな形代人形を通して会っている。
そう。彼女は、偉大なる魔導王の血を引く"有角の公女"、バロールの領主夫人……我が最愛の妻。
彼女の姿が急に現実味を帯び、そのドレスが鎧と同じ漆黒に染まった。
金色に輝く角を頂いた彼女の、真っ赤な唇の両端がにいっと上がる。
『最後の一撃の前に、加護をもう一度強化しておきましょう』
大きな彼女はその姿のままで鎧の頬の位置に口づけしてくれた。
つま先から頭のてっぺんまでが新品になって、身体が一気に浮上するような心地だった。
お返しを……と思ったら、「重ねがけするならさっきと同じようにして」と言われて、手で前髪を上げて額を近づけられた。なぜ俺は人形の頭なんかにキスしてしまったんだろう、と後悔しながら額への口づけを長めに返す。次の機会があったら額なんかにはしない。
小さな人形の姿に戻った彼女を胸の中にしまう。
己の意識を覆っていた混沌の奔流が渦を巻きながら晴れる。すべての感覚が戻ってきた。
今、自分は泥濘の中に落ちて全身が濁流にのまれている。
だが底なし沼から出る方法などもう知っている。
黒騎士は怪異を討つべく天を仰いだ。
§§§
ォオオオオオォオオオォ……。
エレバスは、轟々たる濁流に身を打たれながら山鳴りのような叫びを上げ続けていた。
水は荒野に広がっていき、白く発光する触手を泥濘に沈めた。泥の上に立ち込める濃い霧は、幽かに白く照らされ、エレバスは闇のなかにありながら、雲上にいるかのようだった。
『戒めの儀に従いて、我、統御せり』
赤い蝋燭の火一つだけが灯る部屋で、黒檀の椅子に深く座ったヴィクトリアが詠唱を始める。力ある言葉は形代を通して遠く離れた地におよび、理を支配し始めた。
『集まれ、鎮まれ、高まれ。そは我が猛き回廊……』
詠唱に合わせて、大地の水と天の雲がゆっくりと渦を巻き始める。
渦は低きは高みを目指し、高きは奈落に降りた。大地と天空から同時に伸びる細い円錐は限界まで引き延ばされて中空でつながった。
『駆動定置』
黒騎士の直上に、水と暴風の回廊が開かれた。見上げる先には、そこだけ晴れた夜空に星が一つ。
漆黒の鎧に金色の光の筋が奔り、黒騎士の胸部装甲の内側から金色の輝きが迸った。
大地に広がる霧の雲海に黒々とうずくまるエレバスの正面。まっすぐに立つ魔導の竜巻の中を、金色の光が上昇する。輝きはエレバスの頭部よりも高く登ると、渦が一番細くなっている位置で止まった。それと同時に水の渦が下方から白く氷結し、中央の輝き……金色の光に包まれた黒騎士、の足元まで凍ってそこに花弁のような足場を作った。上空の雲の渦はそのまま雷光の巣となって、黒騎士の頭上でより激しく渦を巻き始めた。
たった一つ残ったエレバスの巨大な首は狂乱状態にあり、目前に現れた黒騎士にも気づかないのか、ただむやみに大きく左右に頭を振っていた。これでは首を落とそうにも迂闊には近づけない。
黒騎士は右手を掲げた。その上の空間がゆらりと揺らぐ。
黒檀の椅子に座るヴィクトリアは馬の嘶きを聞いた。と同時に彼女の両の角が淡く発光し始め、その頭上にも虹色の揺らぎが発生した。
「グレン、槍を」
ヴィクトリアの頭上の揺らぎが馬の蹄で蹴り破られた。揺らいだ空間の真ん中に開いた穴の彼方にグレンは確かに巨大な怪物の姿を見た。
「ヤーフラー!!」
忠義の家宰グレンは手にした黒い鉄槍を揺らぎの彼方に向かって力いっぱいぶん投げた。
槍は虹色の揺らぎを貫通し、黒騎士の掲げた右手の直上に出現した。
上空から伸びた雲の渦を伝って、雷電が一斉に黒い槍に流れ込む。"バロールの荒鷲"は氷の塔から跳躍すると、雷の槍を掴み、自身も一筋の雷撃となってエレバスに向かって飛翔した。
目標は蛇頭ではない。その首の付け根、甲羅にあたる岩山に生えた一本の大木の洞だ。
『貫け!』
杖岩に奉じられていた黒杖から作った槍は、あやまたずに木の洞に突き刺さった。エレバスの堅い岩の甲羅に深々と根を張った木の中心目がけて、天空からすべての雷撃が金の奔流となって注ぎ込まれた。




