その数あまたにして、その力……強大
パキリ……ボリ…グチョリ……。
暗雲垂れ込める夜の底、蠢くモノらの狭間で、ケトゥスの影が形を失っていく。
ケトゥスの肚だったところが弾け、淡く光る薄赤い珠がざらざらと零れ落ちて、たちまち闇に呑まれる。
芯が赤く光る半透明の珠を我先にと喰らい尽くし、哀れな水妖の身をも取り込んだ蛇頭は、幽かに白く光り始めた。エレバス本体から伸びた頭部だけではなく、ケトゥスに切り落とされた頭部や、その後から生えた触手も緩やかに明滅しながら次々と発光を始める。
闇の中でぬらぬらと光りながら、仄白い蛇身はまるで水に潜るように安々と、固いはずの地面に潜り込んでは鎌首をもたげ、また潜り込んでいく。一度、地を割り、潜るごとにその蛇身は分裂し、どんどん枝分かれして伸びながら、黒い大地をぐずぐずにしていった。
エレバス本体から生えている四つの大きな頭部が持ち上がる。岩を頂いたそれらの頭以外は、異形の触手と化して、蚯蚓の大群のように大地に潜り込み、うねうねとのたうちながら広がっていった。
「なんだ……あれ」
「ユン、怖いよ……"枯れ底"が…真っ白に腐っていく」
村の西のはずれにある台地の端に近い楢の木の下で身を寄せ合う子供達は、脈動するように白く発光する触手が、うぞうぞと一面に浸透していく光景を、おののきながら見ていた。
「どうしよう、ディック。ここは危ないから、どこかに逃げなきゃだよ」
「あっちに納屋がある。ほら、昨日、牧草の種とか運んだところ」
枯れ底からの光で、納屋のシルエットはわかる。ここよりも台地の端に近いが怪物の本体からは遠い側だ。ディックとボーが震える手で子供達を抱き上げようとしたその時だった。
向かおうとした納屋の向こう側が明るくなり、巨大な白い触手の先端がせりあがった。
「ひゃっ」
思わずストンと座り込んでしまった彼らの目の前で、触手は大きな弧を描いて下降し、恐ろしくゆっくりと崖端を納屋ごと削り取っていった。
「あ……種が……」
崩落する岩塊に巻き込まれて粉々に砕けていく納屋が現実と思えなくて、一同はただ茫然としていた。
幸運なことに、触手は納屋のあるあたりを削り取っただけで沈んで行ってしまい、楢の木の方までは来なかった。だからと言って、四人はもう腰が抜けてしまって動くこともできない。
どうしたらいいかわからない。
この世の終わりのような光景を前に全員の目が暗い穴のようになってしまったとき、ユンが一つの希望を見つけた。
「見て、あそこ……ほら、"しらんじゃ"が避けている」
ユンが指さした先には、地を覆いつくすように広がっていく仄白い光がそこだけぽっかりと避けていく部分があった。
「黒騎士様」
本来ならこんな星明りもない夜にはけして見えなかったであろう先に、ユンは確かに黒い騎馬の姿を見た。
§§§
『無茶苦茶ね』
私は、黒騎士の肩に乗ったフィヨの上から、燃える大地を埋め尽くす無数の白蛇と、その向こうにそびえ立つ黒い岩山を見た。
まったくバカバカしい惨状だ。
誰だ。こんなものをどうにかしようなんて思っている奴は。
私は形代人形に意識を集中しながら己の口角が上がるのを感じた。
『大丈夫。状況は酷いけれど、やるだけやってみましょう。フィヨ、いけるわね』
フィヨ〜♪
ふわふわの頭をポンポン叩くと、飾り羽がぴょこぴょこ揺れる。やる気満々だ。
私はすぐ隣にある黒騎士の兜に目をやった。スリットがあるだけの兜の視線はわからないが、心配そうなのはわかる。
『怖い?』
彼の鉄の手が上がり、肩の上にいる私とフィヨを庇うように添えられて……でも、触れようとはせずに止まる。
ああ、この人が怖がっているのは私達が傷つくことなのだ。
『心配ないわ。もうこの前みたいに、雷に撃たれて怪我をするようなヘマはしないわ』
フィフィ!
フィヨとの連携はバッチリだ。なんなら意思疎通も結構できている。この形代がフィヨの魔力で動いているからだろう。フィヨに乗っている限り、私は魔導的にはフィヨと同一座標のオブジェクトとして扱われる。
つまり、フィヨが持つ雷の加護は私にも有効だ。
『あなたにも加護のお裾分けよ』
私はフィヨの上から身を乗り出して、兜の側面に人形の口元をあてた。
非常に形式的なものだが、キスというのは古典的で象徴性の高い動作様式で、魔導の発動条件としては効果が高い。
ブルリと黒騎士の全身に震えが走って、先ほどまでの変な力みが取れ、何やらやる気に満ちた熱意が立ち昇って来た。
……思ったより効果が高い。やはり魔導現象で動いている霊的な鎧にはこの手のシンボリックな術式が効果を発揮しやすいのかも。
『相手は昔話の大怪物かもしれないけれど、私達だって相当なものよ』
動く鎧、霊鳥、魔導で動く人形……そして。
『月魄、このメンバーであなたが一番凄いかもしれないわね』
黒騎士の肩から、月魄の頭にぴょいと飛び移ったフィヨの背から、馬の耳先……全身を覆う黒い装甲から僅かに出ている生身部分、に軽く触れる。
『期待してるわ』
耳をふるりと振った馬は、私の激励に応えるように力強く前脚で大地を一度蹴った。生身の普通の馬のはずなのに、尋常でなく頼もしすぎる。
フィヨが月魄にも加護を付けてくれた。大きな馬の頭の上に乗ったこのおチビさんはすっかり大将気分だ。
『打ち合わせどおり……に行かないときは臨機応変で』
つまり行き当たりばったり。とてもバロール的。
そしてこういう非常識事態には、それが最強。
フィィィィィィィィィ!
鳳雷鳥の雛の鳴く声が高らかに響く。飾り羽が揺れ灰白色の羽毛がほんのりと金色に光り始める。
あたりに雷の気が満ちていき、垂れこめた暗雲の合間に雷光が走り始める。ゴロゴロという低い轟きが天から降りてくる。その音にいざなわれるように黒い雲がゆっくりと回転し始め、その雲の奥でいくつもの光が明滅し、渦に沿って細い稲光がほとばしる。
異変を感じ取ったのか、エレバスの四つの大きな頭部が一斉に天を仰いで伸びあがる。それらの大きく開いた口から白煙と陽炎が立ち上った。
灼熱の何かがエレバスの喉をせりあがってくる。
エレバスの四つの頭から、夜目にも明るい炎熱の光弾が、一斉に天に向かって放たれようとした。
パシン。
黒雲の中で光が弾けた。
『撃て』
千の稲妻が降り注いだ。
あたりにまぶしい光があふれ、轟音がすべてを圧倒する。雷撃はエレバスの頭はもちろん、周囲一帯に見境なく降り注いだ。
フィヨが発動する雷撃の効果を私の魔導術式で拡大するときに、エレバスの身体の大きさだと個体として認識して指定することが困難で、フィヨに数学的概念が足りないために座標指定もできず、やむなく範囲指定としたら思いのほか広域が対象になってしまった。さすが霊鳥。生まれたての雛でこの出力とは。
よく考えたらフィヨはこの土地で生まれているので、その補正も入っているのかもしれない。
雷の雨は大地を埋め尽くした白い触手をことごとく焼き千切った。
大きな四つの頭は特に集中して雷撃を浴び、逆さにした帚のようになっている。
いまだ!
『戒めの儀に従いて、我、統御せり。未知、道となり導け。そは我が征く路。巡征行路』
千切れた触手から零れ落ちた赤黒いドロドロが、雷の間で冷え固まり、彼方に見える山のごとき本体に向かう道を形成する。黒騎士の合図で、月魄は雷電の回廊を一気に駆けだした。
近づけば近づくほど、エレバスの本体は視界のほとんどを占めるようになり、岩山そのものの巨体は圧倒的な威圧感に満ちていた。こんなものを何とかする気の自分に笑ってしまう。
さて、どう登ればよいかと思ったら、"巡征行路"で形成した道が途切れる寸前で、月魄は本体の下部から生えている触手の一本に難なく飛び移った。そのまま触手から触手に飛び移って一番大きな首のある側に回り込んでいく。あまりの高機動に振り落とされそうになったフィヨと私を黒騎士の手が掬い上げた。
鎧の胸元に入れられたと思ったら、目の前が真っ暗になる。黒騎士が"揺らぎ"に入ったことによる断絶だ。
形代人形は黒騎士と共に、あの虹色の揺らぎの中に入ってもなんともないが、私は人形が揺らぎの中にいる間その感覚を共有できない。
次に視覚が復活すると目の前に巨大な蛇の頭部があった。
視野の端で黒騎士の腕が振るわれる。長剣に似た鉄棍の一撃が大蛇の頭部に付いた白い岩塊を打ち砕いた。
のけぞった蛇頭は何を血迷ったのか、そのすぐ後ろからこちらを狙っていたもう一本の大蛇の首に噛みついた。噛みつかれた方の蛇は報復とばかりに岩なし頭の首に噛みつき返す。
同士討ちだ。
あの岩が蛇の知性に何かしら連動しているか、単に岩が割れるほどぶん殴られてバカになったのかはわからないが、これはありがたい。そう思ったところで視界がぐぅんとせりあがった。
下を見ると、月魄はおらず、なんと黒騎士は一番大きな蛇頭の上にいた。エレバスが亀だとしたらその頭の位置に当たる部分から生えている主首である。エレバスの大きな四つの首のうち主首を除いた三つはすべて身体の右半身にある。右に向きを変えたその首は仲間同士で噛みつきあっている蛇頭をしかりつけるようにオオォンと鳴いた。
頭の真上で空洞の鎧の中で聞くその振動はもはや音というレベルではない。
くらくらした私の霞む焦点の向こうで赤い輝きが大きくなった。側面の頭のうち、一番後ろにいる頭が大きく開いた口をこちらに向けている。三つに割れた口の内側が赤く輝き陽炎が立ち上る。これは!
『光弾、来ます! 避けて』
黒騎士が主首の頭部から飛び降りて太い首を滑り降りたのと、灼熱の光弾が放たれたのは同時だった。
エレバスの一番大きな頭の額部分に付いた白い岩をかすめ、弾かれた光弾は西の遥か地平の彼方まで飛んで爆発した。海辺のデボン山地まで届いたのかどうかは定かでないが、西の空が赤く染まり、遅れて低い轟音が微かに届いた。光弾をはじいた蛇頭上の白い岩の片側は赤熱してドロドロに溶けて崩れ落ちている。
理性をなくしたのか、主首の真っ赤な口に亀裂が入った。まず上あごと下あごに、それから下あごが左右に大きく開く。
首の付け根まで滑り落ちた黒騎士は、断面が六角形の黒い石柱がそそり立つエレバスの背の岩山を駆け上り始めた。視界が悪いにもかかわらずその足取りは勝手知ったる者のそれだ。
エレバスの主首は己の黒い背の岩の間を駆け上がる小さな黒騎士ではなく、先ほど己を攻撃した一番後ろの首を標的に定めた。異形の蛇頭の喉奥で赤熱した輝きが膨れ上がる。
カッ!
黒騎士が岩の間に生えた木の洞に飛び込んだタイミングで、巨大な蛇頭の方からまばゆい光と熱波が押し寄せた。強い熱風に木は激しく揺れた。しかし、この古い大木は、根がエレバスの岩の甲羅の奥に入り込んでいるらしい。抜けたり倒れたりすることはなく、枝が折れただけで、幹はかろうじて衝撃に耐えた。
光が収まって、黒騎士は洞から顔を出した。東の空が赤く染まっていた。そちらから轟音が届く。
木から出た黒騎士が甲羅の岩山を駆け抜けていくと、岩と木の間から徐々にエレバスの右半身の様子が見えてきた。
一番後ろの首の上半分が消し飛んでいる。それどころか争っていた二つの首も頭が半分千切れて火を噴いている。その後ろでトールスの山に向かって一本の赤い筋が抉られており、周囲の木々が燃え上がっていた。夜の闇に赤く浮かび上がる山のシルエットを背景に盛大に煙が立ち上っている。
こんなものを人里の方向に向かって撃たれたらたまらない。
『敵は弱っています。再生が始まる前に残りの首、何とかできそう?』
黒騎士は自分の武器を確認した。燃えさかる炎に照らされた鉄棍の表面には一面にひびが入っていた。打撃武器とはいえ打った相手が悪かった。保ってあと一回だろうか?
『一番後ろと残り二本はもう放置してもいいでしょう。先頭の一番大きな頭に、タキリで使った技を叩き込みます。フィヨ、いける?』
フィ~ィ。
お疲れ気味の返事が、それでもしっかりと返ってくる。よし。
『あなたはいつだって大丈夫。そうよね?』
私は鎧の首元から身を乗り出して、兜の下の端をぺちぺち叩いた。
黒騎士の手がスッと上がって、鉄の指が私の人形を摘まみ上げ、祈るようにその頭部に兜の口元を押し当ててから、キュッと胸元に押し込んだ。
むう。
領主館にいる私本体は、両手を頭に当て、ずり下がり気味に椅子の背に身を預けた。
不意打ちで、そういう正式な作法に乗っ取らない行動はびっくりするのよ。
それでも私はその祈りに全身全霊で応えるべく精神を研ぎ澄まし、順番に術の重ねがけを始めた。弱い加護から強い加護へ。対象の選定。効果の強化。範囲の拡大。
高出力の精密な魔術を制御するために両の角が熱を帯びて伸びていく。
その間に再び主首の方に走り出した黒騎士の足元が激しく揺れた。
脇の副頭をほぼ失い、自身も狂乱状態に陥った主首は敵を見失った状態のまま次の標的を探してフラフラと大きく頭を振っていた。エレバス本体の山自体もずるずると南西に進み始める。身体の左半身側の首をケトゥスの水撃によって失い、今、右半身側の首が損傷して狂乱しているからだろうか、その動きは不規則だが、蛇身が左右非対称なため、進行方向が左に寄っている。このままでは回頭してフォス村側に行ってしまう。
焦った黒騎士が黒い岩山から主首の付け根に向かって跳んだ時に、エレバスは急に首を大きく振って旋回した。着地し損ねた黒騎士はそのまま触手が蠢くエレバスの足元の泥濘に落下した。
そのとき。
激しい熱波を伴う衝撃音と共に、山からなだれ落ちてきた大量の水がエレバスに直撃した。




