【4.夫の恋人】
さて、結婚からしばらくしたある日。
ローゼンストック男爵家の令嬢が王都に構えたタウン・ハウスの一室でのこと。
この家の令嬢ナターシャは、長椅子に腰かけるブラッドレイにしなだれかかりながら、恨みがましい声で詰った。
「最近あなた結婚したそうじゃないの。めっきり付き合いが悪くなって」
「あ、ああ、たしかに一カ月ぶりかな。放っておいてすまなかったね」
ブラッドレイは内心冷や汗をかきながら答える。
自分もまさか結婚して、こんなに女遊びから遠ざかるとは思っていなかったのだ。
契約妻のドリーローズなど放っておいて、なんなら結婚翌日から遊び歩くつもりだった。
そうはならなかった理由は……自分でもよく分からない。
なぜだかドリーローズを放っておけなかったのだ。
いや、別にドリーローズに構っていたわけではない。
なぜだか彼女の行動を監視したい気持ちにさせられていたのだ。
なんでそんな気持ちになっていたのかは自分でもまったく不明だが。
今もドリーローズの素っ気ない態度を思うと、いようにむしゃくしゃしてくる。
ナターシャはなんとなくブラッドレイのそんな気持ちを感じ取っていて、
「ほんとよ、寂しかったんだから」
と誘惑するように体を全部ブラッドレイに預けた。
すると、単純にブラッドレイはメナーシャの香水の匂いに胸を躍らせた。
久しぶりだ、こういうの!
ドリーローズを娶ってから何やら気が落ち着かなくって、女の肌の感触を忘れていたなあ。
い、いや別に、ドリーローズと夫婦生活をしたかったとか、そ、そんなんではないがな……! あんな田舎娘に俺が食指を伸ばすわけがないからな!
ブラッドレイはドリーローズの影を追い払うようにナターシャの体を胸いっぱいに抱いた。
「私が来なかった間、浮気とかしてなかったろうな?」
「あらー、自分は結婚とかしておいて、私にはそんな嫉妬めいた戯言? 全く調子がいいんだからぁ」
ナターシャは、抱きしめられて満足そうな笑い声をあげた。
「ははは、すまなかった。だが俺の結婚なんか気にするな。うちの新しい妻ときたら自分も恋人作ると宣言しおったからね」
「まあー最低っ! そんな妻、捨てちゃえばいいのに」
半分本気でナターシャが言った。
ブラッドレイも空の威勢で同調する。
「そうだな! 捨ててしまえばいっそ気が楽なのだがな。だが、まあ、このご時世そういうわけにもいかなくてね。困ったものだよ」
だが、最後はため息に変わっていた。
結婚によって調子が狂わされていることを自覚しているのだ。
気軽に遊びにも出かけられなくなって、いったい俺はどうしてしまったんだ? なんの遠慮もいらないはずなんだけどな。
しかし、次の瞬間、ブラッドレイの脳裏にイケメンドッグトレーナーが思い浮かび、またブラッドレイは落ち着かない気持ちになった。
ああ、くそっ!
あのドッグトレーナーとは何でもないとドリーローズは言ったではないか! なんで思い出すんだ、くそっ!
「でも、いいわね。奥さんも浮気するならあなたも浮気し放題♡」
メナーシャが軽くブラッドレイにキスしたので、ブラッドレイはハッとして、急いでイケメンドッグトレーナーを頭から振り払った。そして、にっこりと微笑み返した。
「ま、そういうことだね♡」
「来てくれて嬉しいわ。王宮内で、あなたがたくさんの令嬢に熱い視線を注がれてるの知ってる。そんな大人気のあなたが、結婚してまでも、私を捨てずに通ってくれるなんて、なんて鼻が高いんでしょう。ふふっ、私がどんなにいい女かって話じゃない?」
「ああ。おまえは最高にいい女だよ」
ブラッドレイは耳元で甘く囁く。
するとナターシャはもっと気分がよくなって、両腕をブラッドレイの首に巻き付けた。
「でしょう? 私、あなたの奥さんには負ける気しないもの。あなたの奥さんなんて、ジェラルド・ゴルトベルク伯爵と結婚した方がお似合いだったのに……」
ブラッドレイの動きがピタッと止まった。
「ん!? 誰だね、そのジェラルド・ゴルトベルクってのは」
「あら、ご存じないの? あなたの奥さんの幼馴染で、ゴルトベルク公爵家の次男さんよ。なんでも国王陛下の覚えがめでたくて、ジェラルドさんは個別に伯爵の地位を授かっているみたいだけど」
「その男が何だって? っていうか、なぜそんな男がドリーローズと接点あるんだ、ドリーローズはずっと田舎の領地で生活していたはずでは……」
混乱したようにブラッドレイが聞く。
「ふふっ、あなたって本当にずっと奥さんのこと興味なかったのね。さすがに生産階級からの突き上げが強くなってきてるこのご時世、貴族が結束するのは当たり前だわ。あなたの奥さんだって社交まったくなしでやってこられるわけないじゃない。近隣の社交場には顔を出していたはずよ」
ナターシャは、夫も知らなかった妻の秘密をバラすのが楽しいようで得意げに言った。
しかし、ブラッドレイは余裕のある態度をとれなかった。
「だから、なんでそんな男とドリーローズが噂になっていたんだ!?」
「いやだ、ちょっと。何をムキになっているのよ……」
ナターシャは、ちょっと様子が変だぞと思いブラッドレイを見つめた。
しかし、ブラッドレイはナターシャが変な顔をしていることなど関心が無い。
「ドリーローズはもう何年も前から私と婚約関係にあったんだぞ!?」
と話題を変えずに詳細を聞き出そうとした。
ナターシャはちょっとドン引きのように顔をひきつらせた。
「あなた、なんか必死でみっともないわ……」
「必死なんかになっていないっ!」
ブラッドレイはナターシャの腕を首からはずし、彼女の膝の上に押し付けた。
「ちょっと、手を放してちょうだい。私だって、あなたが結婚するって聞いて、いい気持ちでいたわけじゃないんだからね! 相手がどんな女なのか多少調べてみたりしたわよ。そうしたらドリーローズさんが夜会でジェラルドさんと親しそうに話をしていたって噂を聞いたから!」
「話をしていた?」
「そうよ、そんな血相を変えて、なによ。でもお話していただけですってよ!」
ナターシャは、泣きそうになって叫んだ。
甘い気分だったのが、ドリーローズの話のせいで一気に台無しだ。
なによ、妻なんかどうでもいいようなフリをしていたけど、けっきょく妻がいいってこと?
しかし、ナターシャの恨みがましい目には気付かずに、ブラッドレイは露骨にほっとしたような顔をした。
「ああ、話をしただけか……」
「何よ、そんなに気になるの? でもその時期、ずーっとあなたは私をエスコートしてあちこちの夜会に出ていたんですからね! あなたの奥さんがどこで誰と話していようが、あなたがとやかく言える筋合いじゃないってことよ」
ナターシャは悔しくなって言ってやった。
しかし、もう機嫌の直っていたブラッドレイは気の抜けたような笑顔を見せている。
「ははは、いや、いいんだ。ドリーローズはその男と話をしていただけなんだろう? えっと、いや、ははは、俺の結婚は貴族間同盟みたいなものだから、離婚とかになると家が煩いんでね。離婚の種になりそうな話は、ちょっと、ほら、ね、ちゃんと聞いておかなきゃみたいなところさ」
ブラッドレイはそう言って、押さえ付けていたナターシャの手を自分の両手で包み込んだ。
そして、そのまま唇の高さまで持ち上げると、そっと手の甲にキスをした。
甘い夜の続きをやろう、という意味だ。
しかし、ナターシャは冷たい目でブラッドレイを見つめる。完全に興がさめていた。
「ブラッドレイ様、あなた本当は奥さんの事、だいぶ気になっているんじゃありませんこと?」
「まさか! そんなはずないだろう!」
ブラッドレイはナターシャが続きに応じてくれないので、不愉快そうに声を荒げた。
そしてナターシャを誘うように強引に腰を引き寄せようとした。
しかし、ナターシャは身を任せることはせずに、ずんと抵抗して動かない。
俺が妻を気にしてるだと!?
ブラッドレイは首を横に振った。
そんなはずはない! ドリーローズなど好みじゃないんだ! しかも外に恋人を作ると宣言した女だぞ。恋人を作ると宣言……。
――こ、恋人……ジェラルド!?
「すまない、ナターシャ。急用を思い出した!」
ブラッドレイは、がばっと長椅子から体を起こした。
「やっぱり行くのね。嘘つき。今日はゆっくり泊まってくれるって言ってたのにね」
ブラッドレイを拒否しておきながら、嘘つきと悪者にして詰るナターシャ。
「ああ、すまないな……」
ブラッドレイはそわそわしながら立ち上がり、ぱぱっと襟を正し始めた。
今のブラッドレイの頭には、ナターシャに拒否されたことよりも、ジェラルド・ゴルトベルクという名前の方がくるくると回っている。
「やらなきゃいけない仕事を思い出したのだよ。後回しにすると落ち着かないからね……」
そんな嘘を呟く。
「まああっ! なんて仕事熱心な伯爵様ですこと!」
簡単に見破れる嘘をつくブラッドレイに呆れて、ナターシャはプリプリと怒った。
「知らないわ、そんなブラッドレイ様なんか!」
しかし、ブラッドレイが無言のままくるりと背を向けてコート掛けから上着を取ると、ナターシャは急に不安になった。そして猫なで声で言った。
「嘘よ、ブラッドレイ様。また今度、お仕事が終わったら、ちゃんとナターシャのところに会いに来てくださいましね!」
ナターシャはそっとブラッドレイの腰に腕を回しぎゅっと抱きつく。
ブラッドレイはそれをそっと引き剥がしながら、
「すまないね。落ち着いたらまた来るから」
と一応ナターシャの耳元で囁くと、振り返りもせずに部屋を出ていってしまった。




