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霧雨が降っていた。墨で描かれたように淡くけぶる山河を眺めながら、涼香達一行は大きな松の下で雨宿りをしていた。
「なかなかやみませんね」
木の真下に涼香を押し込み、自らはその前に立って吹き込む水滴から彼女を守っている悟空が、黒く広がる雨雲を見上げながら言った。
「細かい雨なのに、長引いてるよねえ」
悟空の言葉に八戒が、干し杏をもぐもぐとやりながら頷く。涼香を挟んでその反対側では、人の姿になった玉龍が鬱陶しげに長い髪を一つに束ねていた。
人型の玉龍は、それは美しい青年だった。白皙の肌にすっと通った鼻筋、細い眉の下に輝く灰色の瞳の、涼やかで怜悧な印象を受ける美貌の青年。
思わず目を奪われてしまった涼香に罪はないだろう。悟空の冷笑を受けて肝を冷やした彼女以上に、青ざめて震えていた玉龍にも、もちろん罪はないのだが。
涼香に対する悟空の態度はあからさまで、玉龍は涼香との間に一定の距離をおくことにしたらしい。一歩ではなく三歩の距離をとって立つ玉龍の姿に、涼香は内心溜め息をこぼす。
執着。悟空が見せる態度はそれしか考えられない。
(でも、なぜ?)
どうして自分なのか。なぜ涼香にこだわるのか。
わからずに涼香は悟空を見る。
まず目に入るのは男物の衣。どこから調達したのか、悟空の着ている服はとても仕立ての良いものだ。
黒いズボンと黄色の帯。見事な紅の衣の上から虎の毛皮を腰に巻いている。彼の髪と同じ紅の衣は、合わせ目に金糸で細かな刺繍がほどこされており、華美だが下品ではない。それをさらりと着こなす悟空は、玉龍とはまた違う美男子だ。
陽に焼けた褐色の肌、男らしい凛々しい眉、切れ長の鋭い瞳。精悍でどこか少年のような部分を持つ、斜に構えた青年。それが悟空だ。
その太い首筋を見るともなしに見ていると、ふいに悟空が肩越しに彼女を見た。
にやり、と笑む顔に浮かぶ不敵なほどの自信と、――息を飲むほどの、色香。
「なにか用ですか、お師匠さん」
悪戯っぽく、されど甘い誘いの色を含む低い声で問い掛けられて、涼香の心音が跳ね上がる。カッと赤くなる頬が煩わしい。
熱をもつ頬ごと顔を隠すために俯いて、涼香は必死に冷静さを取り繕おうとした。
「いえ、その。……雨が」
「雨が?」
「……このまま雨が止まなければ、どうしようかと」
するりと出た言葉は、先ほどから考えていたものだった。
このまま夕刻になっても雨があがらなかったら? 当然、雨に耐えつつ野宿だ。
憂鬱な気持ちになる涼香に、悟空もやや真面目な顔つきになる。
「俺もそれを考えていました。ちと濡れますが、今のうちに麓まで降りたほうがいいかもしれません。――おい、玉龍」
「……わかった」
ぞんざいな口調で呼びつけられたのは、竜の青年だ。彼はとても嫌そうに顔を顰めたが、素直に馬に変化した。利口になったものである。
ついほろりとしてしまいながら、涼香は悟空の手を借りて馬上の身となった。ついで、どこからか大きな外套を取り出した悟空は、それで涼香をすっぽりと覆い、雨避けとすると先導して山を降りはじめた。
涼香は外套の前を片手で抑えて吹き込む雨を避けつつ、ふと視線を空へと向けた。雲は厚く、別段変わったところはないが、しかし――。
(……気のせいかな)
緩く頭を振り、涼香は馬から落ちないように集中することにした。
“どこかからか見られている気がした”なんて、きっと気のせいだと断じて。
*****
一行が麓近くまで降りると、一軒の大きな屋敷が建っているのが見えた。風雅な門構えといい、広々とした庭といい、なかなかのものである。
「やあ、ちょうどいいところにお屋敷だ。お師匠様、今宵はあの屋敷に一泊の宿を求めましょうよ」
「そうですね。……悟空? どうかしましたか?」
涼香はふと悟空が難しい顔をしているのに気付いて声をかけた。
「ええ、あの屋敷は……いえ、いいです。ひとまず行ってみましょうか」
「え、なにかあるのですか?」
「今はなんとも。ほら、進め、馬」
「……馬呼ばわりは止めてくれ」
玉龍は悟空に促され、溜め息を吐きながら脚を動かす。その背に乗ったまま、涼香はなんとなく不安な気持ちを抱きながら、屋敷の門をくぐったのであった。
「いらっしゃいませ、旅の方々」
一行を出迎えたのは、歳の頃十歳前後の愛らしい女童だった。
「我々は西へ取経の旅をしている僧の一行だ。今宵の宿を借りたいが、いいか」
「はい。わたしどもの主人である沢夫人から手厚く持て成すようにと言い付けられております。さあ、こちらへどうぞ。熱い湯を張った湯殿も用意してございます」
悟空の言葉に女童は笑顔で一行を中へと招き入れる。涼香はいっそう落ち着かない気持ちになった。
「……ずいぶん準備万端ですね」
「よく気が付く主人なんでしょうね。さ、中にはいりましょうや、お師匠様」
八戒はご馳走を思い浮かべているのか、うきうきと中に進む。涼香は溜め息を付くと人型になった玉龍と共に先に行く悟空を追って中へと入った。
屋敷の中は豪華な調度品が品良く置かれていて、女主人だという沢夫人の趣味の良さを表していた。
一行は湯船で暖まり、豪華な食事に舌鼓を打ったが、沢夫人は姿を見せなかった。
「こちらの主人に感謝を申し上げたいのですが」
と、涼香が申し出ても、女童は首を横に振り、申し訳なさそうに眉を下げた。
「わたしどもの主人は、あまり人前に出たがりません。申し訳ありませんが、ご遠慮くださいませ」
「そう、ですか。わかりました」
涼香はなにやら釈然としないものを感じながらも引き下がるほかなく、頷いた。
その夜のことである。
「う……ん」
涼香は寝苦しさに目が覚めて、寝台の上に起き上がった。涼香達はそれぞれに一部屋ずつ与えられており、涼香の部屋は悟空と八戒に挟まれた真ん中で、八戒の向こう側が玉龍の部屋となっていた。
水でも飲もう、と寝台を降り、卓の上に置いてある水差しに手を伸ばした涼香は、ふと動きを止めた。
――ぽちゃん。ぽちゃん。
「……なんの音?」
なにかが水に落ちる音が連続して聞こえてくる。何が、どこで落ちているというのか。
不気味に思った涼香はごくりと唾を飲み、勇気を出して確かめることにした。
(こういうのって、確かめてみると意外とたいしたことなかったりするんだよね。幽霊の正体見たり……っていうしね)
どのみち、確かめないことには気になって眠れないだろう。涼香はそろりそろりと廊下に出てみた。
音は湯殿から聞こえてくる。
(ほら、きっと水滴が落ちる音なんだよ)
涼香はほっとして湯殿に向かう。水滴にしてはずいぶんと大きな音であるのに、その点には気付いていない。
覗いた湯殿の中は薄暗く、いつの間にか雨は止んだようで月明かりが差し込んでいた。
――ぼちゃん、ぼちゃん。
「……なに?」
ここに来てようやく、水滴の音ではないことに涼香は気付いた。恐る恐る中に入り、その広い湯船の中を覗き込んだ。
「ひっ……」
涼香は悲鳴を上げた。湯船の中には何十匹もの蛇が浮かんでいたのである。赤い目を光らせたその蛇達が涼香に向かって飛び掛かり、首や手首に絡み付いた。
「うわあっ、あっ!?」
ずるり、と身体が滑った。涼香は蛇に絡み付かれたまま、湯船の中に落ちる。中にはまだ十分に水が入れられたままで、涼香は蛇に身体を縛られ身動きとれない状態で水に沈む。
(く、苦しい……誰かっ)
もがきながら必死で上げた手を、誰かが掴んだ。
「――なにしてんですか、お師匠さん」
やや呆れた口調で言いながら涼香を水から引き上げたのは、猿の大妖、悟空であった。




