15
湯船から引っ張り出された涼香は、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、思い切りむせながらとっさに自分の前にある何かにしがみついた。
「へ、蛇が……ごほっ、ごほっ」
「ああ、ほら落ち着いて」
涼香がしがみついている誰かが背をさすり、もう大丈夫ですよ、と宥める。ややして落ち着いてきた涼香はまだ肩で息をしながら周囲を見回し、目を見開いた。
「――ひっ」
湯船は蛇の死体で埋まっていた。何十匹という蛇が皆死んでいる。力なく湯に浮かぶそれらに固まっていると、クックッと喉の奥で笑う声が頭上から降ってきた。
「取り敢えず、蛇は皆始末しときましたよ。それにしても、これは役得というやつですね」
「え」
今さらながら涼香は自分が何にしがみついているのかに気が付いた。男物の紅の衣。――これは、まさか。
「ご、悟空っ!?」
「はい、なんですか?」
見上げた先には、やはり飄々とした表情の赤毛に金の瞳の青年。
「どうしてここに……」
「お師匠さんが部屋を出た事に気付いて様子を見に来たんですよ。夜にうろつくのは危険ですから止めてくださいね」
そういえば、湯から引き上げられた時の声は、と混乱しながら涼香は思い出した。蛇に気を取られて、そちらには意識がいってなかったのだ。
そんな彼女を悟空は目を細め、見下ろす。
頬から顎へ、その下へと滑り落ちていく視線。そこで涼香はハッと我に返った。
今の彼女は寝間着用の薄い衣一枚であった。それが水に濡れて、うら若き乙女としては有り得ない有様と化している。
「――――っ!!」
声にならない悲鳴をあげ、真っ赤になった涼香は悟空から手を離し、身体を隠そうとした。しかし。
「わっ」
「おっと危ない」
つるりと滑りかけた涼香を、やすやすと悟空は腕に抱え込む。そのまま持ち上げられ、涼香は赤くなったり青くなったりしながら抗議した。
「ちょっ、止めてくださいっ! お、おろして……つ」
「駄目ですよ。こんな石床の上で転んだら、柔なお師匠さんじゃ骨折っちまいますからね」
暴れる涼香を肩に押し付けるようにして固定し、左手で足を抱え、悟空は危なげなく歩きだす。歩きはじめるとさすがに落とされるのが怖く、涼香は仕方なく抵抗を止めておとなしくなった。
だが、おとなしく運ばれていると、今度は濡れた衣を通して感じる体温や堅い筋肉を意識して、そわそわとしてしまう。
(な、何か考えよう。そ、そう……蛇の事とか)
涼香は水に浮かぶ蛇に目を向けた。
「どうして、こんなに大量の蛇が……」
「この屋敷の気に惹かれて、でしょうね」
「屋敷の気?」
「ええ。でもまずは着替えてください。風邪をひきますからね」
軽い調子で答える悟空。しかし、その言葉の内容よりも、常にない近さから響く声に、涼香の心臓は早鐘を打つ。
(うう……だ、駄目だ。とにかく今は無心になっていよう)
涼香はひたすら無心を心がけ、部屋にたどり着くまでは目を閉じたままだった。
部屋につき、衣服を整えた涼香は先ほどの言葉を悟空に問いただした。
「悟空。この屋敷の気とはいったいどういう意味ですか? もしや、何か危険があるのでは」
「お師匠さんは俺が守ってますから、大丈夫ですよ」
「……私は? では、他の者は?」
悟空はこれには答えず、意味深に笑う。涼香はとたんに嫌な予感がして歩きだした。
「お師匠さん、どこへ?」
「八戒と、玉龍のところへです」
「……勘がいいですね。玉龍は部屋にいないと思いますよ」
「では、どこに?」
足を止めた涼香が詰め寄ると、悟空は片眉を上げた。
「……気になりますか? 命は無事だと思いますよ?」
「命は……って、そういう問題じゃないでしょう! ここが危険だというなら、早く助けに行かないと!」
「……わかりました。仕方ないですね」
悟空は溜め息をつくと言った。
「行きましょうか。おそらく、奥です」
「……この屋敷はなんなんですか?」
「決まってるでしょう。妖の棲み家ですよ」
さらりと告げられ、やはり、と涼香は息を飲む。二人は部屋で寝ていた八戒を連れて屋敷の奥へと向かった。
*****
――その頃、玉龍は窮地に陥っていた。
「うふふ。竜の若君が手に入るなんて嬉しいこと」
鈴を鳴らすような笑い声を上げるのは、妙齢の美女。この屋敷の主人、沢夫人だった。
玉龍は夫人の部屋で、寝台に横たわっていた。
(ふ、不覚……っ、まさか、痺れ薬が晩餐に仕込まれていたとは……っ)
遅効性のそれに気付いたのは、つい今しがただった。部屋でもがいているところを下男らしき者に抱えられ、ここへ連れてこられたのだ。
動けない玉龍を見下ろし、沢夫人は嬉しげに微笑む。
「あのお方は小娘を捕えるようおっしゃったけど、あの忌々しい猿めが邪魔するもの、無理難題だわ。それに、竜の若君が手に入ったのだもの、もうどうでもいいわね」
沢夫人の言葉に玉龍は眉根を寄せた。
(……あのお方? 誰のことだ。それに、私をどうするつもりだ)
沢夫人は玉龍のきつい視線を受けても笑みを絶やすことなく、その白い手で彼の頬を撫でた。
「竜の生き血も欲しいけど……まずは子供から、かしら。うふふ、可愛がってあげますからね、我が背の君」
「っ!?」
思いがけない言葉に玉龍はぎょっと目を見開いた。
(馬鹿な、なんということを考えるのだ! はしたない!)
いささか潔癖なところのある玉龍にとっては、堪え難き所業だった。そのままだと彼は沢夫人のいいようにされてしまっただろうが、そこへ悟空と八戒を連れた涼香がやってきた。
「玉龍、無事ですか!?」
今の玉龍にとっては、まさに天の助け。やせっぽちの小娘である涼香が天女のようにも見えた。
それに、ふと気付いたのだが、涼香の気は涼やかで心地よいのだ。それだけでなく、どこか暖かな気配もする。
(単なる小娘と侮っていたが、やはり取経の旅をする者。只人というわけでもないのだろうか)
そう考える玉龍の前で、楽しみを邪魔された沢夫人は不機嫌な表情で涼香を睨み付けていた。
「まあ。客人という分際で屋敷の主人の部屋へ押し入るなど、どういうことでしょう」
「白々しい芝居はたくさんです。あなたが妖だということはもうわかっています。私の仲間を返してください」
「……本当に可愛くない小娘だこと」
正体を見破られていると知った沢夫人は、ゆらりと身体を揺らめかせ、なんと巨大な白い大蛇となった。
「やや。あんな綺麗な人が、蛇だったなんて!」
「お前なんて豚だろ、八戒。いいから、お前はお師匠さんを守ってろ」
如意棒を手に前に出た悟空は、少々面倒そうに言った。
「妖でも女に手を出すのは気が向かない。おい、今なら見逃してやるから逃げないか?」
「ふん。ふざけた事を言うんじゃないわよ」
「やはり言っても無駄か。恨んでくれるなよ」
溜め息を落とし、悟空は如意棒を構えた。
「それはこちらの言うことよ」
そう言って沢夫人が巨体を揺らすと、どこからともなく大群の蛇がやってきて、悟空に襲い掛かった。
「悟空!」
涼香は思わず悲鳴をあげる。しかし、あわや、と思われた悟空は術を使い、逆に蛇達を返り討ちにすると沢夫人に如意棒を向けた。
沢夫人もよく戦ったが、悟空の敵ではなく、四半刻もせぬうちにあっさりと打ち倒されたのだった。
戦いが終わり、ようやく痺れがとれた玉龍は寝台から起き上がり、涼香達のもとへ歩み寄った。
「玉龍、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。その……ありがとう、感謝する」
「いいえ、仲間ですから、当然です」
ほっとしたように柔らかく微笑む涼香に、玉龍はなにやらむず痒いような心地になり、視線を逸らす。と、冷たい目を向けている悟空に気付き、冷や汗を流した。
(ち、違う! 別に不埒な考えを起こしたわけではない! 単に少しばかり見直しただけだ!)
悟空が彼女に執着していることは周知の事実である。必死に頭を振ってみせる玉龍は、先ほど以上に命の危機を感じていた。
*****
屋敷は一晩あけると無人となっていた。
「あの女の子とか、どこへ行ったのでしょう」
「さて。おそらく近くの妖が使役されていたのでしょうから、元の棲み家にでも戻ったんじゃないですかね」
屋敷を出発しながら涼香が悟空と話していると、八戒が、「それにしても」と口を挟んだ。
「兄貴はあの屋敷が怪しいことに初めから気付いていたんだよね? なら、どうして反対しなかったんだい?」
「なに、あの程度の相手なら俺の敵じゃないからな。雨の中にお師匠さんを置いておくよりは、ましだと思ったまでさ」
「……おかげで私は酷い目に遭った」
「まあまあ。こうして無事でしたし、いいじゃないですか」
憮然とする玉龍を涼香が慰めていると、ふいに悟空が低い声で問い掛けてきた。
「……お師匠さん。その馬が気に入ったんですか?」
馬、と呼ばれても玉龍は何も言い返さない。それほどに悟空の放つ妖気は恐ろしかった。八戒もカタカタと小さく震えながらことの成り行きを見守っている。
“違うと言え! 今すぐにだ!”そんな玉龍の心の声が聞こえてくる気がしながら、涼香はごくりと唾を飲み込み、よくよく考えながら言葉を紡いだ。
「……気に入った、というのは少し違います。私が玉龍を気に掛けるのは、一緒に西へ行く仲間だからです」
「それ以外の理由はないと?」
「もちろんです」
決して悟空が怪しむようなものではない。そうはっきり告げると、悟空はしばし無言で涼香を見つめ、いつもの調子に戻った。
「まあ、その馬じゃ足の代わりにしかなりませんしね」
さらに毒を吐かれた玉龍だが、殺気にさらされていたため疲労困憊で、やはり無言だった。涼香の方も困惑しきりでなんと言ったものかわからない。
唯一、八戒だけが「兄貴の嫉妬、怖え……」と小さく呟いていたが、幸運なことに誰の耳にも入らなかった。
西へ。再び一行は西へ向かう。
次はいかなる難に遭うことか……涼香は九環の錫杖を固く握り締め、重く溜め息をつく。
ほどなく一行は難所の一つである流沙河にさしかかるのであった。




