第八話「隣村の苦境と委託」
東街道の直売所が朝の賑わいを終え、昼下がりの静けさが畑を包み込んでいた。
初夏の強い日差しの中、リツは麦わら帽子を被り、新しく広げた第二農区の畝に甘小カブの種を蒔いていた。
指先から微弱な魔力を流し、【土壌感応】で地中の水分と土壌菌の働きを確かめる。
土が心地よく呼吸し、種が水を吸い上げていく微細な感覚が指先を通じて伝わってきた。
そこへ、街道の砂利を踏みしめる重い足音が近づいてきた。
すり減った木靴を引きずるような、不揃いで重苦しい歩調。
リツが顔を上げると、畑の畦道に一人の老人が立っていた。
深く刻まれた眉間の皺、日に焼けてひび割れた浅黒い肌、曲がった腰。
着古した麻の野良着には無数の継ぎ当てがあり、背負った荷籠は空だった。
近隣の農村『ルカ村』の村長、トマスだった。
「お前さんが……街道で無人販売なんてふざけた真似をしとる、リツという若造かい」
トマスの声は、長年の苦労でしゃがれ、強い警戒心と険しさを帯びていた。
リツは立ち上がり、作業着の泥を軽く払って頭を下げた。
「こんにちは。俺がリツです。ルカ村の村長さんですね」
「知っとるのか。……単刀直入に言う。悪いことは言わん、こんなばかな真似は今すぐやめろ」
トマスは直売所の木製スタンドを杖の先で指差し、苦々しげに吐き捨てた。
「ギルドの鑑札も持たずに城外で野菜を売るなんざ、虎の尾を踏むようなもんじゃ。中央青果ギルドのガルシア支部長を怒らせたらどうなるか、分かっとらんのか。あの男は蛇のように執念深い。目障りな農民なんぞ、騎士団の上層部に手を回して冤罪を着せるか、ゴロツキを使って畑ごと焼き払うような奴じゃぞ!」
老人の言葉には、過去にギルドに逆らって痛い目を見せられた者特有の、拭い去れない恐怖がにじんでいる。
だが、リツの表情に動揺はない。
穏やかな琥珀色の瞳でトマスを真っ直ぐ見つめ返す。
「忠告、ありがとうございます。でも村長さん、やめるわけにはいきません。ギルドが不当に買い叩いて市民を飢えさせているなら、誰かが別の道を切り拓かなきゃいけないはずです」
「青臭い理想を言うな! 現実に潰されるだけじゃ!」
トマスが怒鳴り、足元の土を木靴で苛立たしげに蹴りつける。
まさに、その瞬間のことである。
老農夫の顔が驚愕に固まる。
靴底に伝わってきた感触が、あまりにも異様である。
硬い粘土質の土塊が跳ねるはずの足元から、まるで焼き立ての上等なパンのような、ふかふかとした柔らかい弾力が返ってきた。
トマスは目を見張り、思わずその場にしゃがみ込む。
老いた節くれだった指で、畝の土をすくい上げる。
黒々とした湿り気を帯びた土は、微細な粒が集まった見事な団粒構造を成し、豊かな森の腐葉土のような香りを放っていた。
「な、なんじゃ……この土は……!? ここは街道沿いの見捨てられた酸性痩せ地だったはずじゃぞ……!?」
「酸度を草木灰で中和し、近隣の落葉と麦殻で完熟堆肥を作って漉き込んだんです。土着の菌を活性化させれば、どんな痩せ地でも作物が呼吸できるふかふかの土に生まれ変わります」
リツは水桶から冷えた赤丸トマトを一つ取り出し、服の裾で水気を拭ってトマスへと手渡した。
「村長さん、これを食べてみてください」
トマスは怪訝な顔をしながらも、手の中の深紅の果実を見つめた。
傷一つなく張り詰めた薄皮、ずっしりとした確かな重量感。
おそるおそるかぶりついた瞬間、サクッと薄皮が弾け、芳醇で濃厚な果汁が口いっぱいに広がった。
大地の旨みと爽やかな酸味、そして果物のような強烈な甘みが、老農夫の乾いた舌を震わせた。
「……っ!? な、なんという味じゃ……! 青臭さが微塵もない……!」
長年土と向き合ってきたトマスだからこそ、これが一朝一夕の奇跡ではなく、卓越した農業理論と途方もない愛情の結晶であることが痛いほど理解できた。
「信じられん……儂らが何十年耕しても、こんな土も、こんな見事なトマトも作れんかった……」
トマスの肩から力が抜け、長いため息が漏れた。
老人は畑の縁の丸太にへたり込むように腰を下ろし、深くうなだれた。
「すまんかったな、若いの。……儂らはもう、限界なんじゃ」
絞り出すようなトマスの告白が始まった。
ルカ村はオルバール近郊で最大の青果供給地だった。
しかし、数年前からギルド長ガルシアが厳しい統制を敷き、出荷ノルマを課すようになった。
市場に持ち込んだ野菜は、わずかな曲がりや小傷を理由に法外な安値で買い叩かれる。
種苗代や肥料代はギルドから高利で前借りさせられ、働いても働いても借金が増えていく。
村の若者たちは希望を失って都市の鉱山や日雇いへ逃げ出し、残された老人や子どもたちは飢えに怯えながら泥水をすする毎日だという。
「昨日も、村総出で収穫した夏大根と玉ねぎを市場へ運んだが……半分以上が屑野菜だと撥ねつけられ、残りを二束三文で買い叩かれた。持って帰る旅費にもならん銅貨数枚を握らされて、村の連中に合わせる顔がないんじゃ……」
トマスの節くれだった手のひらに、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
生涯を農業に捧げてきた誇り高き老農夫が、理不尽な搾取の前に完全に心を折られていた。
リツは静かにトマスの隣に腰を下ろした。
前世で過労死した自分と、同じ苦しみを背負う農民たちがここにいた。
守るべきなのは、自分一人の畑だけではない。
丹精込めて土を耕す生産者たちが、正当に報われる仕組みを作らなければ、この世界の農業は死んでしまう。
「トマスさん。うちの直売所に、ルカ村の野菜を置きませんか」
トマスが驚いたように顔を上げた。
「……何を言っとるんじゃ? 儂らの野菜を、ここに……?」
「はい。委託販売です。棚をもう一つ増設して、ルカ村専用のコーナーを作ります。『ルカ村の朝採れ大根と玉ねぎ』と生産者の名前を大きく掲げて並べましょう。売れた代金は手数料なしで全額、ルカ村にお返しします」
「て、手数料も取らんのか!? そんなことをしてお前に何の得がある!」
「得ならありますよ。直売所の品揃えが増えれば、買いに来てくれる都市の人たちがもっと喜んでくれます。それに……」
リツはトマスの目を見つめ、微笑んだ。
「一生懸命育てた作物が正当な値段で売れて、食べた人が笑顔になる。それを見られること以上に、農夫にとって嬉しいことはないでしょう?」
トマスの喉がくっと詰まった。
リツは穏やかな眼差しで言葉を重ねる。
「もちろん、ただ野菜を並べるだけじゃありません。俺がルカ村へ出向いて、土壌改良の技術を教えます。連作障害を防ぐ輪作のやり方や、草木灰を使った酸度調整、完熟堆肥の作り方を覚えれば、村の畑の収量は倍以上に増えますし、味も見違えるほど良くなります」
「儂らに……その神業のような技術を教えてくれるというのか……?」
「神業でも何でもありません。自然の理に従った、正しい農業の知恵です。一緒にやりましょう、トマスさん。ギルドの言いなりになるのは、もう終わりです」
リツが差し出した右手を、トマスは震える両手で固く握りしめた。
老農夫の瞳から、再び熱い涙があふれ出る。
しかし今度は、絶望の涙ではない。
諦めかけていた誇りと希望が、胸の奥で力強く蘇った証である。
「……頼む、リツの若いの。儂らの村を……作物を救ってくれ……!」
二人の農夫の固い握手によって、街道の無人直売所は、一人の挑戦から『農民たちの反撃の砦』へと進化を遂げていく。
だが、その急激な連帯の動きを、都市の青果ギルドが見逃すはずもない。




