第五話「広まる野菜の噂」
翌朝、商業都市オルバールの下町、薄暗い路地裏の長屋に小さな奇跡が起きていた。
数日前から高熱にうなされ、水すら喉を通らなかったミーシャの弟ルカが、朝の光の中でぱっちりと目を開けたのだ。
昨晩、ミーシャが涙ながらに持ち帰った半分のトマトを口にした直後から、ルカの青ざめていた頬に血色が戻り、荒かった呼吸が穏やかさを取り戻していく。
そして今朝、ルカは自力で藁の寝床からむっくりと起き上がり、空腹を訴えて笑顔を見せたのだ。
ミーシャは弟を強く抱きしめ、喜びの涙をボロボロとこぼした。
あの街道沿いのトマトが持つ豊かな大地の滋養と、丹精込めて育てられた生命力が、少年の身体を芯から救い上げた証拠にほかならない。
「ねえ、ミーシャ。あの甘くて美味しい果物、また食べたいな」
弟の無邪気な言葉に、ミーシャは大きくうなずいた。
「うん! 絶対また買ってくる! あたし、今日もお仕事頑張るからね!」
この出来事は、狭い下町の中で瞬く間に駆け巡った。
長屋の主婦仲間や、日頃から食料事情に頭を悩ませていた下級冒険者たちが、色めき立ってミーシャの部屋へと集まってきた。
昨夜まで瀕死だった子どもが、朝採れトマトを一口食べただけで目覚ましく回復したというのだ。
しかもそのトマトは、強欲なギルドの市場で売られている古野菜の半値以下、たった銅貨一枚で手に入ったという。
最初は誰もが疑いの目を向けた。
東街道沿いに店番のいない野菜売り場があるなど、おとぎ話でも聞いたことがない。
だが、ミーシャの真剣な瞳と、元気に長屋の井戸端を走るルカの姿が、何よりも雄弁な証拠だった。
オルバールの下町では、まともな野菜を口にできず、壊血病や栄養失調で倒れる者が後を絶たない。
ギルドが市場を独占し、庶民には手が出ない高値で古野菜を売りつけているせいだ。
もし本当に、新鮮で滋養に満ちた野菜が銅貨一枚で手に入るのなら、それは下町の人々にとってまさに命の綱そのものである。
その日の早朝、オルバールの東門が開門の鐘を鳴らした瞬間、異様な光景が繰り広げられた。
普段なら日雇いの仕事場へと急ぐはずの下町の住人たちや主婦、怪我で前線を退いた元冒険者たちが、背負い籠や麻袋を手に東街道へと足早に向かったのだ。
初夏の爽やかな朝日が、街道の並木を黄金色に染め上げている。
先頭を歩いていた主婦のマーサは、半信半疑のまま早足で歩き続け、やがて街道の脇に立つ素朴な木製のスタンドを見つけ出した。
「……あ、あったわ! 本当にあった!」
歓声とともに、十数人の人々が直売所の棚へと駆け寄った。
棚の上には、今朝収穫されたばかりの野菜が、整然と並べられていた。
朝露をまとい、日の光を浴びて宝石のように深紅に輝く赤丸トマト。
葉がぎっしりと巻き込み、ずっしりとした重みを感じさせる濃い緑の滋養キャベツ。
さらに今日は、透き通るような白さとみずみずしい緑の葉をつけた、採れたての甘小カブの束も新しく並んでいた。
その圧倒的な新鮮さと生命力に、人々は感嘆の声を漏らした。
市場の腐りかけた野菜しか見たことがない都市住民にとって、それは眩しいほどに新鮮な光景だった。
カブの葉からは大地の清々しい匂いが立ち上り、トマトの皮は張り裂けんばかりに艶めいている。
「見てよ、このトマト……傷一つないわ。それにこのキャベツ、市場の倍以上の大きさがあるのに、たったの銅貨二枚だなんて……」
「嘘だろ、本当に店番が誰もいないぞ。木札に『代金は箱の中へ』って書いてあるだけだ」
男たちが困惑したように顔を見合わせる。
棚の中央に据え付けられた樫の木の料金箱。
鉄のボルトで太い支柱にガッチリと固定され、投入口がぽっかりと口を開けている。
マーサは財布から銅貨を三枚取り出し、震える手で投入口へと落とし入れた。
カラン、チリン、チリン――
涼やかな澄んだ鈴の音が、朝の街道に響き渡った。
その清らかな音色を聞いた瞬間、人々の緊張が潮が引くように解けていった。
「本当に、お金を入れるだけでいいんだ……!」
マーサはトマトを一玉とキャベツを一玉、大事そうに麻袋へと抱え入れた。
その場にいた人々が、我先にと料金箱へと手を伸ばす。
チリン、チリン、カラン――
街道に心地よい金属の共鳴音が途切れることなく鳴り響いた。
誰もが銅貨を誇らしげに投入口へ落とし、野菜を手に取っていく。
その時、列の後ろにいた身なりの貧しい男が、周囲の熱気に紛れて、銅貨を入れずにキャベツを懐へねじ込もうとした。
その瞬間だった。
隣にいた恰幅の良い鍛冶屋の親方が、男の手首を万力のような力で掴み上げた。
「おい、てめえ! 今、金を入れずに手を出そうとしただろ!」
「ひっ……! な、なんだよ、誰のものでもないだろ! 店番もいねえんだから、早い者勝ちじゃねえか!」
男が喚き散らしたが、周囲の主婦たちや男たちが一斉に厳しい視線を男に突き刺した。
「ふざけたこと言うんじゃないよ! こんなに安くて美味い野菜を、あたしたちのために置いてくれたんだ! あんたみたいな盗っ人が出たら、店主さんが店を閉めちまうだろうが!」
「そうだ! 次代金をごまかしたら、そのまま衛兵所に引きずっていくからな!」
群衆の怒号に圧された男は、青ざめてキャベツを棚に戻し、一目散に街道を逃げ去っていった。
良いものを適正な価格で手に入れたいという住民たちの切実な願いが、誰に強制されることもなく、強固な相互監視の防犯網を生み出していく。
正午少し前、畑での追肥作業を終えたリツが、様子を見に街道のスタンドへと足を運んだ。
棚の前で、リツは信じられない思いで目を瞠る。
今朝並べたトマト二十玉、キャベツ十玉、小カブ十束が、一玉残らず綺麗に消えていたのだ。
棚板には乾草が散らばっているだけで、盗まれた気配や荒らされた跡は微塵も見当たらない。
リツは胸を高鳴らせながら、樫の木の料金箱の鍵を開けた。
蓋を持ち上げると、底には山のような銅貨がぎっしりと敷き詰められていた。
手のひらに受けると、ずっしりとした確かな重みが皮膚を押し沈める。
一枚、二枚と数えていく。
トマト二十玉で銅貨二十枚。
キャベツ十玉で銅貨二十枚。
小カブ十束で銅貨十枚。
合計五十枚の銅貨。
過不足は一枚もなかった。
それどころか、底には手書きの小さな羊皮紙の切れ端が、何枚か紛れ込んでいた。
『おいしい野菜をありがとう』『うちの子が元気になりました』『また明日も買いに来ます』。
拙い文字で、炭の粉で記されていたのだ。
過酷な重労働に耐え、泥にまみれて土を耕してきた苦労が、一瞬で報われた気がした。
都市の支配層がどれほど腐敗していようと、そこで汗を流して生きる市井の人々は、誠意を誠意で返してくれる。
信頼は確かに繋がったのだ。
五十枚の銅貨があれば、新しい種子を買い足し、畑の作付け面積をさらに広げることができる。
もっとたくさんの野菜を育て、もっと多くの人々に届けられる。
リツは畑へと戻り、さらに広い区画の開墾作業に取り掛かった。
草を刈り、石を拾い、堆肥を漉き込み、【土壌感応】で土の声に耳を傾ける。
汗が目に入っても、リツの唇には自然と笑みがこぼれていた。
自分が作ったもので誰かが救われ、笑顔になってくれる。
それこそが、前世で果たせなかったリツの夢であり、農業を愛する農夫としての最高の生き甲斐だった。
夕暮れ時、西の空が美しい茜色に染まる頃、畑には新しくふかふかの畝が十列も完成していた。
明日には新しい種を蒔き、ハーブの苗を混植する予定だ。
リツは井戸水で道具を洗いながら、街道沿いの小さな直売所を見つめた。
薄暗い街道にぽつんと佇む木箱は、もはやただの棚ではない。
人と人の心を結ぶ、希望の灯火になっていた。
だが、この無人直売所の繁盛は、都市の市場を牛耳る強欲な怪物たちの耳にも、確実に届き始めていた。




