第三話「木箱の無人直売」
東街道沿いの我が家へと戻る頃には、初夏の太陽が天頂へと昇り、照りつける陽光が肌をじりじりと焦がしていた。
リツは背負い籠を土間に下ろし、井戸の釣瓶を巻き上げて、清らかな地下水を水桶になみなみと満たした。
水桶の中に赤丸トマトと滋養キャベツを浸すと、ぷかぷかと浮かぶ鮮烈な赤と緑が水面を涼しげに彩っていく。
水底から立ち上る心地よい冷気が、歩き疲れた身体の芯まで染み渡る。
手桶の冷水で顔を洗い、納屋の前に置いた丸太の腰掛けに腰を下ろして麦わら帽子を脱いだ。
風通しの良い軒下で額の汗を麻布で拭いながら、リツは深く息を吐き出した。
(……さて、どうやってこの子たちを求めている人へ届けるかだな)
中央市場の査定員の傲慢な嘲笑が、いまだに耳の奥底にこびりついて離れない。
あそこへ戻る選択肢は最初から存在しなかった。
農民の尊厳を踏みにじり、作物の価値を無視して私腹を肥やす組織に、一粒の果実すら渡す気はない。
だが、都市の中でゲリラ的に辻売りをすることも不可能だった。
オルバールの都市法は極めて厳格で、鑑札のない商人が路地で物を売れば、巡回中の都市警備騎士団に即座に捕縛されてしまう。
前世のような近代法治国家ではないとはいえ、ギルドの息がかかった衛兵たちに目をつけられれば、作物を没収されるだけでなく、丹精込めて耕したこの畑まで奪われかねない。
しかし、ここ――城壁の外側である東街道沿いは事情が決定的に異なっていた。
オルバールの巨大な城門から一歩外に出れば、そこは領主直轄の公道であり、都市法の排他的支配が及ばない緩衝地帯だ。
ギルドが持つ独占販売権の効力は、都市の城壁の内側に限定されている。
城外の街道脇で何を売ろうと、ギルドに法的な差し押さえ権限は一切ない。
いわば都市法と領主法の隙間に生じた、自由な境界線だった。
立地条件としても申し分ない。
東街道は近隣の農村や鉱山町、さらには隣接する小領邦へと続く幹線道路であり、早朝から夕暮れまで旅人や荷馬車、都市へ通う行商人や冒険者たちが頻繁に行き交う。
都市の市場へ行けず、空腹を抱えて行き来する者たちの目に留まる可能性は十分に高かった。
(場所はある。だが、最大の問題は……人手だな)
リツは腕を組み、目の前に広がる畑へと視線を向けた。
新しく開墾した黒々とした畝には、順調に育ちつつある第二陣のトマトやキャベツ、そして追加で種を蒔いた甘小カブや滋養香草の小さな双葉が力強く顔を出している。
毎日の水やり、除草、害虫の駆除、【土壌感応】による微細な土壌調整。
農業は作物の命と向き合う仕事であり、農夫の手は日の出から日没まで途切れることなく動き続ける。
街道の脇に立ち、誰かが通りかかるのを一日中待って店番をする時間など、どこを探してもなかった。
人を雇う余裕も当然ない。
今の蓄えは、種苗代と最低限の生活費でほとんど底をつきかけていた。
(店番ができない。人を雇う金もない。なら……最初から店番を置かなければいい)
ふと、前世の実家近くにあった田舎道の懐かしい風景が鮮明に脳裏をよぎった。
緑豊かな田んぼのあぜ道、プレハブ小屋の脇にぽつんと置かれた、素朴な木製の棚。
朝採れの新鮮なキュウリやナスが並び、その横には小さな木箱が置かれていた。
通りかかった近所の人やトラックの運転手が、車を止めて野菜を選び、木箱に小銭をチャリンと落として持ち帰る。
誰が見張っているわけでもない、売り手と買い手の信頼だけで成り立つ仕組み――『野菜の無人直売所』だ。
あの温かな光景を思い出し、リツの胸が高鳴った。
(……無人直売所、か)
しかし次の瞬間、冷静な現実感がリツの思考を引き留めた。
思わず苦笑いが漏れる。
治安が行き届き、法と道徳が浸透していた前世の日本だからこそ成り立っていた仕組みだ。
ここは魔物が徘徊し、貧困と格差が蔓延する異世界である。
見張りもいない場所に極上の野菜を無防備に並べておけば、通りかかったゴロツキや飢えた浮浪者に、野菜どころか料金箱ごと根こそぎ持ち去られるのがオチではないか。
常識的に考えれば、あまりにも無謀な試みだった。
誰かに話せば、正気を疑われて大笑いされるに違いない。
(でも、やる前から諦めるのは性に合わない)
前世で亡くなった祖父の穏やかな笑顔が、胸の奥で温かく灯った。
祖父は毎朝、誰よりも早く直売所の棚を磨き、一番みずみずしい野菜を並べていた。
『人を疑って並べた野菜は、どこか苦い味がする。客を信じて真っ直ぐ並べれば、人は必ず誠意で応えてくれるものだ』。
あの言葉は、単なるお人好しの戯言ではなかった。
祖父の直売所では、何十年もの間、代金が合わなかったことなど一度もなかったのだ。
もちろん、この異世界で盲目的な善意だけにすがるつもりはない。
盗難のリスクを最小限に抑える構造と、知恵を絞った防犯の仕掛けは不可欠だ。
リツは立ち上がり、納屋の奥へと足早に向かった。
開墾の際に小屋を修繕した余りの頑丈な角材や、厚い樫の木の板が、埃をかぶって積まれていた。
壁から使い古された鋸と金槌、鉄のノミを引っ張り出し、作業台の上へと並べた。
「まずは、雨風や強い陽光を防ぐしっかりしたスタンドだな」
寸法を丁寧に測り、墨壺で線を引き、頑丈な木枠を組んでいく。
街道を行き交う旅人や馬車の目線に自然と入るよう、棚板には緩やかな傾斜をつけた。
上段には直射日光を遮るための小さな杉皮葺きの庇をしっかりと渡す。
急な夕立に見舞われても、大切な野菜が雨水で傷むのを防ぐための工夫だ。
木組みの継ぎ目には木栓を打ち込み、揺すっても軋み一つ上がらない頑丈なスタンドを作り上げた。
そして、最も神経を使う『料金箱』の製作に取り掛かった。
納屋の隅に転がっていた、樹齢百年の樫の古材を手に取る。
樫は乾燥すると鉄のように硬くなり、刃物を通さないほどの強度を持つ。
リツはノミと金槌を振るい、角材の中心部を丁寧にくり抜いて、ずっしりとした重みのある小箱の形に削り出した。
蓋には硬貨がちょうど一枚通る細長い投入口を刻み、内部に薄い青銅の小片を斜めに二枚仕込んだ。
硬貨が投入口から滑り落ちると、傾斜した青銅片に当たって澄んだ音を立て、箱の底へと導かれる仕掛けだ。
(……よし、鳴り方を試してみるか)
リツは作業着のポケットから手持ちの銅貨を一枚取り出し、投入口へと落とした。
カラン、チリン――
澄んだ美しい金属音が、静かな作業場に心地よく共鳴した。
本物の硬貨の適度な重みと金属の硬度があるからこそ生まれる、心地よい共鳴音だった。
これなら、軽い木片や泥の塊を詰め込んでも音は鳴らず、傾斜の隙間に引っかかって外へ吐き出される。
小石や木片でごまかそうとする悪戯を未然に防ぐことができるのだ。
さらにリツは、料金箱の底面を棚板の極太の支柱に対し、太い鉄のボルトでしっかりと固定した。
大人の男が両手で力任せに引っ張った程度では、びくともしない強度だ。
箱ごと持ち去るには、大木を伐採するような大斧で支柱ごとへし折るしかない。
最後に、平らな木板の端材をカンナで滑らかに削り、炭を使って大きく読みやすい文字を書き込んだ。
『東街道の朝採れ野菜。赤丸トマトは一玉で銅貨一枚。滋養キャベツは一玉で銅貨二枚。代金は箱の中へお願いします。おいしく召し上がってください』。
文字の読めない旅人や下町の人々のために、トマトとキャベツの輪郭と、銅貨の枚数を示す丸印を丁寧に描き添えた。
完成したスタンドを両腕で抱え、街道沿いの畑の角へと運び出した。
オルバール東門から伸びる街道のすぐ脇、旅人の足が自然と止まる木陰の場所に、太い杭を四本打ち込んで頑丈に据え付けた。
水桶から引き上げたばかりのトマト五玉と、大ぶりのキャベツ二玉を、籠に敷いた柔らかい乾草の上に並べる。
朝露を拭き取ったばかりの深紅と鮮やかな緑が、傾き始めた夕日を浴びて宝石のように輝いていた。
「よし、これで街道の直売所、開店だ」
太陽は西の地平線へと傾き、街道には長い影が伸びていた。
通りを吹き抜ける夕暮れの風が、畑の香草の香りを優しく運んでいく。
見張りは誰もいない。
木箱に並べられた極上の野菜と、樫の木の料金箱が、街道の片隅に静かに佇んでいた。
(頼むぞ……ちゃんと届いてくれ)
全財産を賭けた無謀な博打ではない。
もし盗まれれば、その時は防犯の仕掛けをさらに強化するか、別の販売手段を考え直せばいいだけのことだ。
だが、もし誰かが正規の代金を払って野菜を持ち帰ってくれたなら。
それはこの過酷で閉鎖的な異世界において、人と人との新しい信頼が芽生えた確かな証明になる。
リツは木箱の野菜にそっと触れ、夕暮れの畑作業へと戻っていった。




