第十四話「嵐の前の包囲網」
夜の闇が深く沈み、東街道は吸い込まれそうな深い静寂に包まれていた。
街道の街灯もなく、空を覆う厚い雲が月明かりを完全に遮っている。
だが、その暗闇の奥底では、かつてないほど緊迫した準備が静かに、そして凄まじい集中力で進められていた。
納屋の奥では、アルベルト小隊長が銀の胸当てを外した軽装の姿で、リツと向かい合っていた。
手には、領主の印章が朱色に輝く一枚の羊皮紙が握られている。
「手配はすべて完了した、リツ殿」
アルベルトの引き締まった声音が、闇の中に低く響いた。
「月光堂の隠し帳簿と、君が保全してくれた毒の薬瓶を領主特命監察官へ直接提出した。監察官殿は激怒され、即座にギルド長ガルシアに対する国家反逆・毒殺未遂の逮捕状、およびギルド所有施設の全捜索令状に署名された」
「ありがとうございます、アルベルトさん。これで公的な正義はこちらにありますね」
「ああ。だが、確実に首根っこを押さえるためには、今夜の焼き討ち部隊をこの畑の現行犯で完全捕縛し、さらにガルシアが野菜を隠匿している中央倉庫を同時に差し押さえなければならない。奴に言い逃れの余地を一切与えんためにな」
アルベルトは真剣な眼差しでリツを見つめた。
「リツ殿、君の作った野菜は私の胃痛を救っただけではない。都市の下町で飢えに怯えていた何千もの市民に、生きる希望と笑顔を取り戻してくれた。不正を見過ごし、権力に阿る騎士など、この剣を帯びる資格はない。今夜、私の誇りにかけて君たちの畑を守り抜く」
二人は力強くうなずき合った。
畑の迎撃準備は、リツの【土壌感応】によって人知れず完成していた。
リツは畑の境界に膝をつき、両手のひらを深く黒土へと沈めていた。
体内を巡る全魔力を指先から地中深くへと注ぎ込む。
土の中に眠る有用菌や微生物と意識を繋ぎ、土の声を聴く。
前世で過労死する前、実家の小さな畑で祖父とともに土を耕していた記憶が蘇る。
あの時も、土はいつも無言でリツの汗と努力を受け止めてくれた。
そして今世、絶望の痩せ地だったこの場所を切り拓き、トマトやキャベツを育て、ミーシャやトマス、下町の人々と出会えた。
この畑は、ただの農地ではない。
人と人が信頼で結ばれ、命を分かち合う、かけがえのない絆そのものだった。
『守ってやるからな、絶対に燃やさせはしない』と心の中で土に語りかけると、大地が応えるように温かく微かに震えた。
敵の侵入予想ルートである街道側のあぜ道と畝の土壌構造を、魔力で急速に変化させていく。
通常は団粒構造でふかふかの土を、極限まで水分を含ませた粘土質の泥濘――一度足を踏み入れれば膝まで沈み込み、自力では抜け出せなくなる『底なしの泥罠』へと作り変えたのだ。
さらに、近隣の小川から引いた用水路の堰を開き、畑の外周を囲む溝に冷たい水を満々と湛えさせた。
火炎瓶が投げ込まれても、水幕が火を即座に消し止め、大切な作物への延焼を完全に遮断する防壁だった。
「リツさん、下町の方の準備もバッチリだよ!」
夜風のように音もなく駆け寄ってきたのは、黒い革鎧を身にまとったミーシャだった。
その瞳は獲物を狙う猫のように鋭く輝いている。
「鍛冶屋の親方や食堂の店主たちが、長屋の若者たち百人近くを集めてくれたの。今、ギルド本部と中央倉庫の周りの路地を、市民たちで完全に包囲してる。ネズミ一匹逃がさないよ!」
「ルカ村の連中も全員揃ったぞ、リツの若いの」
トマスが力強い足取りで進み出てきた。
老人の背後には、鍬や鋤、頑丈な棍棒を手にしたルカ村の屈強な農民たち三十名が、息を潜めて整列していた。
かつてギルドの理不尽な搾取に怯え、涙を呑んでいた農民たちの顔には、もう恐怖の色はなかった。
自分たちの希望であり、恩人であるリツの畑を守るため、そして奪われた誇りを取り戻すための、不退転の闘志が瞳の奥に燃え盛る。
トマスは使い込まれた鍬の柄をぎゅっと握り締め、リツに囁いた。
「儂らの村を救ってくれたお前さんの畑を、一握りの灰にすらさせん。土を汚す悪党どもに、百姓の底力を見せてやるわい」
「みんな、本当にありがとう」
リツは集まった仲間たちの顔をひとりひとり見つめ、静かに告げる。
「敵は油と火炎瓶を持った傭兵たちだ。決して無理をして前に出る必要はない。俺の泥罠と水路で足を止めさせたところを、アルベルトさんの騎士団と連携して一網打尽にする。誰一人として怪我をせず、明日の朝を笑顔で迎えよう」
「おうっ!」
仲間たちが声を押し殺し、力強く拳を突き合わせた。
ルカ村の農民たちと市民自警団は、畑の外周を取り囲む麦畑や潅木の茂みへと散り、息を潜めて配置についた。
アルベルト率いる警備小隊の精鋭たちも、納屋の裏手と水車小屋の影に潜み、抜刀の合図を待つ。
リツは麦わら帽子を深く被り、誰もいない直売所のスタンドの前にぽつんと一人、静かに立った。
木製の棚にそっと手を触れると、木のぬくもりと、これまで料金箱に落とされた無数のコインの清らかな音が胸に蘇ってきた。
何百人もの温かい笑顔、感謝の言葉、子どもたちの嬉しそうな顔。
そのすべてが、リツの背中を力強く押していた。
自らを囮とし、敵のすべての悪意を正面から引き受けるための配置だった。
その頃、都市東門の裏門から、黒装束の集団が音もなく滑り出していた。
隊長を務める凶悪な傭兵は、懐の金貨袋の重みを確かめ、品性のない舌打ちを漏らしていた。
ガルシアからの密命は単純明快だった。
『畑と直売所を焼き尽くし、農民どもは皆殺しにしろ。灰の中に骨すら残すな』。
金のために数え切れぬ血を流してきた暗殺部隊にとって、無防備な農夫を襲うことなど夜の散歩程度にしか思えていなかった。
男たちは街道の暗がりに潜みながら、足早に東街道を進んでいく。
深夜二時。
東街道を吹き抜ける風が、ピタリと止まった。
死んだような静寂の中、街道の闇の奥から、無数の靴音が砂利を踏みしめる音が近づいてきた。
鼻を突く強烈な石油と獣脂の臭いが、夜風に乗って漂ってくる。
黒装束に身を包み、布で顔を覆った二十名以上の武装集団。
手には油の滴る松明と、怪しく揺れるガラスの火炎瓶。
腰には抜き身の蛮刀がギラギラと鈍い光を放っている。
ギルド長ガルシアが放った、直売所焼き討ち部隊の姿である。
先頭に立つ傷だらけの隊長が、直売所の前に佇むリツの姿を認め、意地の悪い嘲笑を漏らした。
「おいおい、こんな夜更けに一人で店番かよ。ご苦労なこったな、野良百姓」
リツは動じることなく、静かに男を見据える。
「こんな時間に大勢で押し寄せて、何の真似だ」
「とぼけるなよ。お前が育てた野菜も、その生意気な木箱も、全部この世から消し炭にしてやるために来てやったのさ。生かして返すなという依頼なんでね、あの世で土の相手でもしてな!」
「後悔することになるぞ。土を汚し、命を奪おうとする者に、報いは必ず訪れる」
「ほざけ! おい野郎ども、松明に火をつけろ! 一坪残らず焼き払え!」
カチリ、と火打石が火花を散らし、松明の先端にボッと紅蓮の炎が燃え盛った。
夜の闇の中に、凶暴な炎の光が揺らめき、直売所の棚を赤く照らし出していく。
男たちが火炎瓶を振りかぶり、畑へと雪崩を打って踏み込んできた。
まさにその瞬間だった。
リツの琥珀色の瞳が、鋭く研ぎ澄まされる。
(……かかったな)
大地が、静かに怒りの唸りを上げる。
闇夜を切り裂く反撃の時が、ついに訪れたのだ。




