第十三話「人工飢餓と焼き討ち」
毒物工作が完全に失敗し、愛用していた高級薬舗『月光堂』に騎士団の監察が入ったという凶報は、ギルド長ガルシアを狂乱の淵へと叩き落とした。
青果ギルド本部ビルの最上階執務室。
分厚い絨毯の上には粉々に砕けた酒瓶と散乱した帳簿が転がり、部屋中に饐えた酒の臭いが立ち込めていた。
ガルシアは贅沢な絹の外套をはだけさせ、血走った目で窓の外の都市オルバールを見下ろしていた。
下町の方角から、東門へと向かう人々の賑やかな列が今日も見えている。
あの東街道の直売所が、自分の築き上げてきた帝国の足元を食い破り続けている。
このまま騎士団と監察官の捜査が進めば、毒殺未遂の教唆犯として自らが捕縛され、全財産を没収された上で断頭台に送られるのは時間の問題だった。
「おのれ……おのれ、野良百姓どもが……! この私をここまで追い詰めおって……!」
ガルシアは震える指で宝石指輪を噛み砕かんばかりに食いしばった。
追いつめられた強欲な獣は、破滅を避けるために最後の狂気の決断を下す。
権力も法律も通用しないのなら、都市そのものを人質に取り、力尽くですべてを灰燼に帰すまでだ。
「おい、手代どもを呼べ! 金庫の金をすべて吐き出せ!」
ガルシアの怒号が響いた。
男が命じたのは、前代未聞の悪魔の策動である。
ギルドが長年蓄え込んできた膨大な資金を投入し、オルバール近郊の全農村から出荷されるあらゆる野菜を、通常の三倍の価格で強引に買い占めさせたのだ。
断ろうとする農家には私兵を差し向け、畑ごと差し押さえると脅迫した。
そして買い占めた野菜を市場へ流さず、ギルドが所有する巨大な地下石造倉庫へとすべて隠匿した。
都市内の市場から、一夜にしてすべての青果が完全に消え去った。
八百屋の棚は空っぽになり、大衆食堂の鍋は火を落とし、下町の平民たちは一口の野菜すら手に入らない。
小さな子どもたちが空腹で泣き叫び、母親たちが市場の空の木箱の前で立ち尽くす。
ガルシアが意図的に作り出した『人工の飢餓』だった。
さらにガルシアは、雇い入れた町の辻語りやゴロツキたちを使い、都市中に悪質なデマをばら撒かせた。
城外の不法露店が近隣の野菜を買い占めて密輸しているため、都市内が飢饉に陥っている、不法農民リツこそが市民を飢えさせている元凶だ、と。
野菜の価格は平時の十倍に跳ね上がり、飢えと不安に苛まれた市民たちの間に、不穏な動揺が広がり始めた。
だが、ガルシアの狂行はそれだけにとどまらなかった。
執務室の暗がりに、黒装束をまとった傭兵崩れの暗殺部隊の隊長が立っていた。
手には油の染み込んだ松明と、投擲用の火炎瓶が握られている。
「手はずは分かっているな」
ガルシアは脂ぎった笑みを歪め、毒々しい声で命じた。
「今夜未明、東街道の直売所の棚、そしてあの忌々しい畑の畝を、一坪残らず焼き払え。乾草に油を撒いて火を放てば、夜風に乗って一瞬で燃え尽きる。逃げ出す百姓がいれば、足の骨を折って火の中に放り込んでやれ」
「へっ、造作もねえ仕事だ。跡形もなく消し炭にして差し上げますよ」
男が薄笑いを浮かべて闇の中へと消えていった。
全農産物の買い占めによる都市の麻痺と、直売所の物理的焼失。
明日の朝、都市の人々が目にするのは、煙を上げて燃え落ちた直売所の残骸と、飢えた自分たちの絶望だけだ。
そうなれば、倉庫に溜め込んだ野菜を高値で放出し、救世主として都市に君臨できる。
己の罪をすべて灰の中に埋め尽くすための、冷酷非道な焼き討ち計画そのもの。
同じ頃、東街道のリツの畑には、重苦しい空気が漂っていた。
都市内の市場が完全に干上がり、野菜を求める下町の人々が朝から直売所へと殺到していた。
リツとトマスは、畑の野菜を限界まで収穫し、ルカ村の備蓄もすべて放出して棚に並べ続けたが、押し寄せる人々の胃袋を満たすには到底及ばない。
夕暮れ時、棚の野菜が一玉残らず売り切れた後、息を切らしたミーシャが長屋の鍛冶屋の親方とともに畑へと駆け込んできた。
ミーシャの顔は蒼白で、その瞳には焦燥の色が色濃い。
「リツさん……! 大変なことになってるよ!」
「都市の様子はどうだった?」
リツが井戸水を差し出すと、ミーシャは一気に飲み干し、震える声で告げた。
「ガルシアの豚野郎、街中の野菜を買い占めて倉庫に隠しちゃったの! 市場には腐った芋ひとつ残ってない! そのくせ、リツさんが野菜を独占して街を飢えさせてるなんて嘘の噂を流して……!」
鍛冶屋の親方が太い腕を振り回し、怒りを爆発させた。
「ふざけやがって! 誰のおかげで俺たちが生きてると思ってやがるんだ! 長屋の連中は誰もそんな嘘信じちゃいねえが、上町の連中や事情を知らねえ市民たちがギルドに煽られて騒ぎ始めてる!」
「……それだけじゃないんだ」
ミーシャが声を落とし、周囲を警戒するように見回した。
斥候としての鋭い勘が、都市の裏社会でうごめく不穏な空気を完璧に捉えている。
「あたし、ギルド本部の裏路地で傭兵たちが集まってるのを見たの。大量の油樽と火炎瓶を荷車に積んでた。……奴ら、今夜この畑を焼き討ちにする気だよ」
その場にいたトマスが、顔色を変えて後退った。
「や、焼き討ちじゃと……!? この畑を……全部燃やす気か!?」
「ええ。直売所も、畑も、全部燃やして証拠を消す気です」
リツは静かに畑を見渡す。
初夏の夕暮れの中、青々と葉を広げるキャベツ、深紅に熟れ始めたトマト、そしてふかふかに耕された黒い畝。
前世の記憶を胸に、血と汗を流して荒れ地から育て上げてきた、かけがえのない大地の命。
そして何より、この場所は飢えに苦しむ人々が笑顔を取り戻し、人と人との信頼を取り戻した希望の砦だった。
これを、己の私腹と保身のためだけに焼き払おうというのか。
リツの琥珀色の瞳の奥に、かつてないほど強大で、揺るぎない怒りの炎が静かに灯った。
許すことなど絶対にできない。
農夫として、土を愛する人間として、この暴虐を看過することはできなかった。
「やらせはしない。絶対に、この畑を焼かせたりはしない」
リツは拳を固く握り締め、仲間たちの顔を真っ直ぐに見据えた。
「みんな、聞いてくれ。敵が全力を挙げて夜襲を仕掛けてくるなら、これこそが奴らを完全に叩き潰す最大の好機だ」
「好機……? リツの若いの、一体何を企んどるんじゃ?」
トマスがおそるおそる尋ねると、リツは納屋の作業台の上に古い都市周辺図を広げた。
「敵の狙いは、放火による証拠隠滅と、買い占めた野菜による市場の完全支配です。なら、深夜の畑で焼き討ち部隊を現行犯で完全捕縛し、さらにガルシアが野菜を隠匿している中央倉庫を同時に押さえれば、奴の悪事はすべて白日の下に晒されます」
リツは作業台の上で、テキパキと迎撃の手順を指示していった。
畑の周囲の水路を満水にして延焼を防ぎ、【土壌感応】で侵入経路の土壌を極限まで泥濘化させる足止めトラップ。
ミーシャの斥候網による誘導と、アルベルト率いる警備小隊の潜伏配置。
そしてトマス率いるルカ村の農夫たちによる、畑外周の完全包囲網。
農民の知恵と市民の結束を総動員した、完璧な迎撃陣形が瞬く間に組み立てられていった。
鍛冶屋の親方が力強く胸板を叩き、ミーシャが鋭くうなずいてみせる。
農夫の凛とした声が、夕闇の迫る畑に力強く響き渡った。
受けて立つ防衛戦ではない。
強欲な怪物を永遠に葬り去るための、決死の反撃作戦が始まろうとしていた。
夕日が完全に地平線へと沈み、東街道は嵐の前の静寂へと呑み込まれていった。




