第十二話「毒物混入の罠」
街道封鎖の暴挙が失敗に終わった翌々日の未明、東街道は濃密な霧に包まれていた。
自警団の見回りが交代するわずかな隙間、夜明け前の最も深い闇の中を、一つの黒い影が這うように畑へと忍び寄っていた。
男の外套の懐には、厳重にコルク栓をされた数本の小さなガラス小瓶が収められていた。
中に入っているのは、魔の森に自生する猛毒茸『マダラシメジ』から抽出した、無色無臭の遅効性毒液だ。
ごく微量を口にするだけで、数時間後に激しい嘔吐と腹痛、高熱を引き起こし、体力の弱い老人や子どもなら命を落としかねない危険極まりない毒物。
男は素早く小瓶の栓を抜き、直売所の棚に残された野菜と、収穫を待つ畑のトマトやキャベツの表面へ、刷毛を使って手早く毒液を塗りたくっていった。
朝露に紛れさせれば、目視で見分けることは絶対に不可能だ。
(へへっ、せいぜい美味そうに食って、腹を抱えてのたうち回りな……)
買いに来た市民たちがバタバタと中毒で倒れれば、ギルドと癒着した市政官が即座に動く。
不衛生な無認可露店による集団食中毒事件として大々的に騒ぎ立て、畑の全面強制封鎖と作物の焼却処分を命じるシナリオだった。
人の命を危険に晒してでも己の利益と支配を守ろうとする、ガルシアの狂気じみた悪意。
男は空になった瓶の一つを草むらに投げ捨てると、夜明け前の闇に紛れて足早に都市へと消え去っていった。
それから半刻後、東の空が白み始め、リツは収穫用の背負い籠を抱えて畑へと足を踏み入れた。
朝露を帯びた空気が清々しく、畝の上には今日も立派に実った赤丸トマトが深紅の光を放っている。
リツは笑顔を浮かべ、一番手前のみずみずしい大玉トマトへと手を伸ばした。
指先が冷たい果実に触れた、まさにその瞬間だった。
バチン、と指先に静電気のような激しい衝撃が走り抜けた。
(……っ!? な、なんだこれは……!?)
胸の奥の生活魔法【土壌感応】が、かつてない激しい警報を鳴り響かせた。
大地の温かな養分と、朝露を吸い上げた清らかな生命の循環。
その美しい調和の中に、細胞を破壊し、命を蝕むどす黒く濁った魔素が、薄皮の表面にびっしりと張り付いていたのだ。
リツは瞬時に手を引っ込め、膝をついた。
手のひらを地面すれすれにかざして【土壌感応】の知覚を畑全体へと広げていく。
見えない魔力の波が、畝の作物を優しくなでていく。
五玉のトマト、三玉のキャベツ、そして直売所の棚に残されていた大根。
その特定の表面だけに、不自然な毒性の反応が浮かび上がっていた。
「毒……!? 作物の表面に、毒が塗られている……!」
リツの背筋に、氷水を注ぎ込まれたような激しい寒気が走った。
もし気づかずに収穫し、直売所の棚に並べてしまっていたら。
何も知らずに買いに来た下町の子どもたちや、赤ん坊を抱えた主婦たちがこれを口にしていたら。
想像しただけで、激しい怒りと恐ろしさで奥歯がガチガチと音を立てて震えた。
畑を荒らすだけならまだしも、何の罪もない市民や子どもの命を奪ってまで直売所を陥れようとする、吐き気を催すほどの外道。
「リツさん! おはよう! 今日も早起きだね!」
街道の向こうから、いつものように快活な声を上げてミーシャが駆け寄ってきた。
腰には小太刀を佩き、元気に手を振っている。
リツは立ち上がり、鋭い声で制した。
「ミーシャ、待ってくれ! 絶対に野菜に触っちゃいけない!」
「えっ……? ど、どうしたのリツさん、そんな怖い顔して……」
普段の穏やかなリツからは想像もつかない厳しい表情に、ミーシャが足を止めた。
リツは手袋を二重にはめ、毒が塗られたトマトのヘタを慎重につまみ上げると、草木灰を溶かした水桶の中へと浸した。
強アルカリの灰水に触れた瞬間、トマトの表面からシューッと微細な泡が立ち上り、水面がわずかに濁りを見せる。
「毒だ。何者かが昨夜のうちに畑へ忍び込み、作物の表面に遅効性の毒草の汁を塗りたくっていった」
「ど、毒……!? 嘘でしょ……!? そんな酷いこと……!」
ミーシャが青ざめ、口元を押さえた。
リツは草むらに目を凝らし、わずかに踏み荒らされた足跡を辿った。
すると、潅木の根元に、転がり落ちていた小さなガラス瓶の破片が見つかった。
ピンセットで破片を拾い上げ、底面に刻まれた小さな刻印を確認する。
三日月と天秤を組み合わせた、特徴的な紋章。
「これ……都市の高級薬舗『月光堂』の特注遮光瓶の破片だわ!」
ミーシャが破片を見て叫んだ。
「月光堂って、青果ギルドの本部ビルのすぐ隣にあって、ガルシアが一番贔屓にしてる専属薬舗だよ! あそこの店主、裏で危険な毒薬を密売してるって冒険者ギルドでも噂になってた!」
「やっぱり、ガルシアの差し金か……」
リツは静かに目を細めた。
怒りで胸が張り裂けそうになりながらも、頭は氷のように冷徹に冴え渡っている。
敵は直売所を食中毒の発生源に仕立て上げ、公的に破滅させようと企んだのだ。
だが、その毒物の小瓶と足跡、そして未遂に終わった毒付きの野菜そのものが、今やガルシアを法的に断罪するための動かぬ物的証拠へと反転していく。
リツはすぐにアルベルト小隊長へ密使を送り、現場の保全と鑑定を依頼した。
駆けつけたアルベルトは、薬瓶の破片と灰水に反応した野菜を見るなり、苦み走った顔を険しく引き締めた。
「月光堂の帳簿と毒物の流通記録は、騎士団の特命捜査官を通じて秘密裏に差し押さえさせる。領主直属の監察官にもすでに話を通した。これはもはや流通紛争ではない、明確な無差別毒殺未遂の重罪だ」
アルベルトの力強い言葉に、リツは深く頭を下げた。
「ミーシャ、この瓶の破片と、毒が付着した野菜を清潔な布で包んでアルベルトさんに預けよう」
「うん! でもリツさん、今日の直売所はどうするの……? もうすぐ開門の時間だよ」
リツは畑の奥、毒が塗られていない健全な畝へと視線を向けた。
幸いなことに、敵が塗りたくったのは街道に近い一部の作物だけだった。
【土壌感応】で徹底的に検査した結果、第二農区のキャベツやトマト、そしてルカ村から届く予定の野菜は完全に無傷である。
「予定通り開けるよ。毒が塗られた野菜はすべて隔離して証拠として保全した。残りの野菜は、俺がすべて土壌魔法で無害を確認してから棚に並べる」
リツは井戸水で顔を洗い、麦わら帽子を被り直した。
恐怖に縮こまって店を閉めれば、それこそ敵の思う壺にほかならない。
信頼を寄せて買いに来てくれる市民たちのために、安全で本物の野菜を届け続けること。
それこそが、悪意に対する最大の報復だった。
開門とともにやってきた客たちに、リツはいつも以上の温かい笑顔で採れたての野菜を手渡した。
いつもありがとう、今日も甘くて美味しいトマトが採れたよ、このハーブはお腹を温めてくれるからね、と声をかける。
リツの優しい言葉に、主婦や職人たちが嬉しそうにうなずき、料金箱にチャリンとコインを落としていく。
何も知らない市民たちの笑顔を見るたび、この日常を何としても守り抜くという誓いがリツの胸に深く刻み込まれた。
悪意に屈してはならない。
作物を育て、人を笑顔にする農業の誇りを、汚泥に塗れさせるわけにはいかなかった。
「ガルシアに思い知らせてやる。作物を穢し、人の命を軽んじる奴に、この大地を踏む資格なんてないってことをな」
朝露が光る畑に、リツの静かな決意が染み渡っていった。
決定的な証拠を手に入れたリツたちは、強欲な怪物に最後の一撃を食らわせるための反撃計画を、水面下で着実に進め始めたのだった。




