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『冴えた勘にも、見抜けない嘘』  作者: 平松豊政


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第2部 それぞれの再出発、二人の帰る場所

信じたい気持ちがあっても、相手のすべてが分かるわけではありません。


会社を育てようとする愛菜。

大きな責任を背負う大虎。

過去の選択と向き合い、自分の足で歩き始めるゆみ。


それぞれの仕事と暮らしが動く中で、近くにいるからこそ言えなかった思いや、離れて初めて気づくことが見えてきます。


第2部「それぞれの再出発、二人の帰る場所」。

迷いながら進む彼らの日々を、見守っていただけたら嬉しいです。

第21章 残したい一着


榊原の事務所へ伺ったのは、懇親会の翌週だった。


愛菜は、営業担当者と二人で訪ねた。


応接室には、数着の上着が掛けられていた。


新しいものもあれば、生地に柔らかい皺がついたものもある。


榊原は、紺の上着を一着取り出した。


「これが、一番困っているの」


愛菜は、差し出された服を受け取った。


軽い生地だった。


裏地は背中の途中までで、袖口には小さなボタンが三つ並んでいた。


「着ている時と、着る時。どちらが気になりますか」


「着る時。特に、右の腕を通す時ね」


榊原は右肩へ手を当てた。


「昔のようには、上がらなくて」


愛菜は頷いた。


「普段、どのように着ていらっしゃるか、見せていただいてもいいですか。無理のないところまでで」


榊原は、上着を受け取った。


先に右腕を入れる。


肩へ生地を引き上げてから、左腕を探す。


その途中で、背中の布が張った。


営業担当者が、手を貸しかけた。


榊原は笑った。


「今みたいに、誰かがいればいいの。でも、朝は一人だから」


愛菜は、襟の位置と袖の向きを見た。


着終えると、形はきれいだった。


座っても、大きく崩れない。


「脱ぐ時は?」


榊原は、少し困った顔になった。


「もっと嫌い」


愛菜も笑った。


そのあとで、ゆっくり動いてもらった。


どこで手が止まるのか。


どの布を掴もうとしているのか。


見ていると、着た姿だけでは分からないことがいくつもあった。


***


一着ずつ見ていく途中で、榊原は薄い茶色の上着に触れた。


ほかの服より、袖口が擦れていた。


「これは、直せるかしら」


愛菜は、明るい窓際へ持っていった。


袖口。


脇。


背中の縫い代。


順番に確認する。


襟の内側に、小さな縫い直しの跡があった。


「大切に着ていらっしゃるんですね」


榊原は頷いた。


「夫が、初めて選んだ服なの」


愛菜の手が止まった。


「買い物なんて、いつも私任せだった人がね。出張先から、これを買ってきた」


榊原は、椅子へ腰を下ろした。


「袖が長すぎて、笑ったわ。本人は、ぴったりだと思っていたらしいけど」


愛菜は、短く直された袖を見た。


縫い目の内側に、折り返した生地が残っていた。


「今は、なかなか着なくなったんですか」


「手を通すのに時間がかかるから、出かける前に諦めてしまうの」


榊原は、上着へ目を向けた。


「着ないなら、しまっておけばいいと言われるんだけど。私は、まだ着たいのよ」


愛菜は、襟を整えた。


「形を大きく変えずにできるか、縫製の担当と考えさせてください」


「無理に急がなくていいわ」


「一度、似た形の服で試してからにします。こちらへ直接手を入れるのは、そのあとで」


榊原は、ほっとしたように笑った。


「お願いします」


***


帰りの車で、営業担当者が言った。


「新しい服を作る話になるかと思っていました」


愛菜は、預かった上着の袋を見た。


「私も、少し」


袋には、榊原が普段どの順番で袖を通すかを書いた紙が入っていた。


商品の注文書はなかった。


まとまった数量の相談もなかった。


それでも、今日聞いた話は、会社へ持ち帰りたかった。


「直す方が難しい場合もありますよね」


「うん。だから、できると言い切らなくてよかった」


車が角を曲がった。


愛菜は、袋が倒れないよう手を添えた。


***


会社へ戻ると、試作の担当者が上着を見た。


縫製を担当する年配の女性も、呼ばれて来た。


名前は、小野寺。


愛菜が会社を始めた頃から、難しい直しを何度も頼んでいる人だった。


小野寺は上着を裏返し、脇の縫い目を指で辿った。


「これを、そのまま着やすくするの?」


「できれば。外から見た形は、気に入っていらっしゃるので」


「じゃあ、まず、どこまで変えていいかね」


愛菜は、榊原に確認した内容を伝えた。


裏地の変更は構わない。


内側に、目立たない工夫を加えるのもよい。


襟と、表のボタンは残したい。


小野寺は頷き、上着を机に広げた。


「一度、似た生地で動かしてみよう」


その机から少し離れたところで、紗良が資料を整理していた。


愛菜は、彼女が一瞬こちらを見たことに気づいた。


けれど、声はかけなかった。


小野寺と担当者で、まず検討を始めることになった。


***


夕方、愛菜の机へ、一枚の紙が届いた。


試作担当者からだった。


「桐生さんが、引継ぎの資料にあった図を見つけてくれました。袖を通す時の動きについて、以前調べていたものだそうです」


愛菜は紙を受け取った。


腕を上げる角度と、服のどこに引っ張りが出るか。


簡単な線で描かれていた。


余白には、紗良の字があった。


《今回の上着に使えるかは、分かりません。小野寺さんの確認が必要です》


愛菜は、図の端を見た。


以前なら、ここを直せばよくなる、と書かれていたかもしれない。


今は、自分が分かるところまでしか書いていなかった。


「小野寺さんにも、渡してください」


「はい」


「桐生さんには、資料を受け取ったと伝えてもらえますか」


担当者は頷いた。


愛菜は、もう一度図を見た。


それから、検討用のファイルへ入れた。


***


その夜、大虎は食卓で、愛菜の話を聞いていた。


「榊原さん、服をたくさん持ってた?」


「うん。でも、買い替えたいわけじゃなかった」


愛菜は、箸を置いた。


「ご主人が選んでくれた上着を、また着たいんだって」


大虎は頷いた。


「茶色の?」


愛菜が顔を上げた。


「知ってるの?」


「見たことがある。昔、よく着てたから」


大虎は少し考えた。


「旦那さん、買ってきた時に、かなり得意そうだったよ。似合うと思ったんだって」


愛菜は、長かったという袖を思い出した。


「丈が合ってなかったらしいけど」


「言われてた」


大虎が笑った。


「それでも、次に会った時には着てた」


愛菜も笑った。


預かった服の重さが、少し変わった気がした。


生地の値段や、仕立ての良さだけではなかった。


誰かが選んだ時の顔まで、あの上着には残っている。


「ちゃんと、考えたい」


愛菜が言うと、大虎は頷いた。


「うん」


***


懇親会の写真が届いたのは、その翌日だった。


カルソックの広報担当者から、秘書を通して確認が来た。


会の報告として掲載する写真に、愛菜も写っている。


夫婦で並んだ一枚だった。


大虎は会社の端末で開き、愛菜へ見せた。


「これ、出しても大丈夫?」


愛菜は画面を覗いた。


二人とも、カメラを見ていた。


大虎の横に立つ自分が、思ったより緊張していない。


紹介文には、会長夫妻とあった。


まなブランドの名は書かれていなかった。


「どこに載るの?」


「会社の開催報告。外からも見られる」


愛菜は、しばらく写真を見た。


大虎は返事を待った。


「私は、大丈夫」


「分かった」


「だいちゃんは?」


「俺も」


愛菜は、写真を指した。


「私、こんな顔してたんだ」


「嫌?」


「ううん。楽しそう」


大虎も画面を見た。


「楽しかっただろ」


「うん」


その写真は、数日後、短い開催報告とともに掲載された。


***


海王グループの役員室で、冬彦は端末を見ていた。


最初に開いたのは、取引先から送られてきた記事だった。


カルソックの会合。


出席者。


今後の事業方針。


画面を下へ動かしたところで、指が止まった。


写真の中に、愛菜がいた。


隣には、大虎。


説明を読んでから、もう一度写真を見た。


会長夫妻。


冬彦は端末を机へ置いた。


少し前まで、自分との結婚を拒んで家を出た女だった。


会社を続けたい。


自分で決めたい。


そう言っていた顔を、覚えている。


写真の中の愛菜は、その時とは違う顔をしていた。


冬彦は椅子へ背中を預けた。


しばらくして、机の電話を取った。


「誉の件で、確認したい」


相手の返事を聞きながら、もう一度写真を開いた。


「結婚の話は、いつ把握していた?」


***


愛菜がその動きを知ったのは、翌日の午後だった。


父から、携帯電話に直接連絡が入った。


仕事中にかかってくるのは、久しぶりだった。


愛菜は手を止め、電話に出た。


「はい」


『今、話せるか』


「少しなら」


父は挨拶を重ねなかった。


『冬彦君から連絡があった』


愛菜の背筋が伸びた。


窓の外で、車がゆっくり曲がっていった。


『近いうちに、一度会って話したいそうだ』


「何の話?」


『お前の結婚についてだ』


愛菜は、机に置いていたペンを静かに離した。


「それなら、会う必要はないと思う」


父が黙った。


愛菜は、自分の言葉を取り消さなかった。


『愛菜。こちらにも、これまでの付き合いがある』


「私が結婚したことについて、冬彦さんに説明しなければならないことはないよ」


父の息が、電話越しに聞こえた。


『お前だけの問題では——』


「お父さん」


愛菜は遮った。


声を大きくはしなかった。


「冬彦さんとの結婚は、お断りした。今も、その返事は変わっていない」


しばらく、返事がなかった。


その間に、会議室の前を社員が通った。


愛菜を見て会釈し、行き過ぎた。


会社の中は、いつもどおりだった。


『……分かった。今日は、それでいい』


電話が切れた。


愛菜は、しばらく画面を見ていた。


終わった話だと思っていた。


けれど父の言い方は、まだ、次の返事を待っているようだった。


愛菜は大虎とのメッセージ画面を開いた。


少し考えて、文字を打った。


《今夜、話したいことがある。父から、冬彦さんのことで連絡が来た》


送ると、すぐに既読がついた。


返事は短かった。


《分かった。帰ったら聞く》


愛菜は携帯電話を伏せた。


机の上には、茶色の上着について、小野寺から届いた確認事項があった。


読みかけの一行へ戻る。


袖口のボタンは、そのまま残す。


愛菜はペンを取り、その横へ返事を書いた。


第22章 娘の席


大虎が帰宅すると、愛菜は食卓に座っていた。


手元には、何も置いていなかった。


「待たせた?」


愛菜は首を振った。


大虎は上着を掛け、向かいではなく、隣の椅子へ座った。


「お父さん、何て?」


愛菜は、電話の内容を伝えた。


冬彦が会いたがっていること。


父は、その場を設けようとしていること。


断ると、これまでの付き合いがあると言われたこと。


大虎は、途中で口を挟まなかった。


「私、もう済んだ話だと思ってた」


愛菜は、自分の手を見た。


「家を出た時も、結婚するつもりはないって言った。あの時は、私が意地を張っているだけだと思われたのかもしれない。でも、もう——」


「愛菜は、俺と結婚してる」


大虎が言った。


愛菜は頷いた。


大虎は、椅子の背へ預けていた体を起こした。


「冬彦と、今さら何を話す必要があるのか、俺にも分からない」


その声を聞いて、愛菜は初めて顔を上げた。


「だいちゃんも、そう思う?」


「思うよ」


大虎は愛菜を見た。


「ただ、お父さんが何を困っているのかは、聞いた方がよさそうだ」


「付き合いだって」


「それだけなら、断られたと伝えれば済むはずだろ」


愛菜は黙った。


父の声を思い返した。


怒っているようでもあり、急いでいるようでもあった。


「……お父さんとは、話した方がいいのかな」


「愛菜が話したいなら、一緒に行く」


大虎の返事は早かった。


「今度は、俺も関わる話だから」


***


父との面会は、二日後に決まった。


場所は、誉グループの本社だった。


愛菜は事前に、冬彦との面会には応じないこと、大虎も同席することを伝えた。


父からの返事は、時刻と部屋の指定だけだった。


当日、大虎は自分で車を運転した。


会社へ向かう道を、愛菜が案内する。


近づくにつれ、窓の外に見覚えのある建物が増えた。


幼い頃、父に連れられて入った店。


学生の時、迎えの車を待った場所。


家を出る少し前には、何も見ずに通り過ぎていた道だった。


駐車場へ入ると、大虎がエンジンを止めた。


愛菜はすぐにはベルトを外さなかった。


「ここに来ると、ちゃんと説明しないとって思う」


「うん」


「断るだけじゃ、足りない気がするの」


大虎は、ハンドルから手を離した。


「理由を話しても、認めてもらえないことはある」


愛菜は彼を見た。


「その時、愛菜が返事を変えなきゃいけないわけじゃないよ」


愛菜は小さく頷いた。


ベルトを外した。


***


応接室の扉が開くと、父は立っていた。


愛菜を見る。


そのあと、大虎へ視線が移った。


「お越しいただき、ありがとうございます」


父は、大虎へ頭を下げた。


愛菜は、その動きを見ていた。


大虎も挨拶を返した。


「今日は、夫として伺いました」


父の表情が、わずかに変わった。


「どうぞ、お掛けください」


向かい合って座る。


茶が運ばれ、秘書が下がった。


扉が閉まると、父は愛菜へ向き直った。


「写真を見た」


「うん」


「立派な会だったようだな」


愛菜は返事に迷った。


会の話をしに来たわけではなかった。


父は、大虎を見た。


「娘がお世話になっております」


「こちらも、愛菜に支えてもらっています」


大虎は穏やかに答えた。


父は少し頷き、茶碗へ手を伸ばした。


そのまま、誰も飲まなかった。


愛菜が口を開いた。


「お父さん。冬彦さんは、何を話したいと言っているの?」


父は茶碗を置いた。


「直接会って、区切りをつけたいそうだ」


「私は、前にお断りしたよ」


「それは分かっている」


「じゃあ、どこが終わっていないの?」


父は眉を寄せた。


「先方にも、立場がある。長く話を進めてきたんだ」


愛菜は、膝の上で手を重ねた。


「その間に、私が結婚すると返事をしたことはある?」


父は答えなかった。


大虎は隣で、父の返事を待っていた。


「お前が納得するよう、時間をかけて——」


「私は、嫌だと伝えていた」


愛菜の声が、少し震えた。


一度、息を吸う。


父は大虎へ目を向けた。


娘が言い過ぎていると、同意を求めるような目だった。


大虎は姿勢を変えなかった。


「私からも、伺いたいです」


父が大虎を見る。


「今回、愛菜が会うことで、何を終わらせるおつもりですか」


***


父は、しばらく黙っていた。


廊下で、台車の音がした。


通り過ぎて、聞こえなくなる。


やがて父は、机の端へ置いていた眼鏡を取った。


掛けることはせず、指で持っていた。


「海王とは、事業の話も進めている」


愛菜は顔を上げた。


「どんな話?」


「不動産と、流通の一部だ。お前が詳しく知る必要はない」


「私の結婚と関係があるなら、知る必要があると思う」


父の指が止まった。


大虎は口を挟まなかった。


愛菜が尋ねた。


「結婚することが、条件だったの?」


「契約に、そんなことは書かない」


「でも、そういうつもりで話していた?」


父は、愛菜を見た。


長い沈黙だった。


その間に、愛菜は答えを少しずつ理解していった。


父は、断られた縁談の後始末だけをしたかったのではない。


自分が断ったことで、別の話まで止まるのを恐れていた。


「先方は、今回のことを面白く思っていない」


父が言った。


「こちらだけが軽く扱われた、と受け取られても困る」


「だから、私に会ってほしいんだね」


父は否定しなかった。


愛菜は、机の木目へ目を落とした。


怒りよりも先に、疲れが来た。


家を出た日から、ずいぶん歩いたつもりだった。


けれど、この部屋に座ると、同じ話が待っていた。


大虎が、静かに口を開いた。


「事業上の問題なら、事業の関係者で話すべきだと思います」


父は彼を見た。


「もちろん、それが原則です。しかし、現実には人間関係も——」


「それは承知しています」


大虎の声は変わらなかった。


「ただ、愛菜が望んでいない結婚を、取引の見込みに入れたのなら、その説明をした人が訂正する必要があります」


父の顔が強張った。


愛菜は、大虎を見た。


大虎は父から目を逸らさなかった。


「冬彦さんが私に話をしたいのであれば、要件を伺います。ですが、愛菜に改めて断らせるための席へ、私たちが出る理由はありません」


***


父は背もたれへ体を預けた。


「会長は、失うものの規模が違うから、そうおっしゃれるのかもしれません」


愛菜が顔を上げた。


大虎は、少し間を置いた。


「規模の話ではないです」


「こちらには、守らなければならない社員もいる」


「カルソックにもいます」


声は低かった。


父の言葉が止まった。


「社員の生活を理由に、家族へ結婚を求める判断はしません」


愛菜は、膝の上の手をほどいた。


大虎がここまで明確に父へ言うとは、思っていなかった。


父は愛菜を見た。


「お前は、それでいいのか」


愛菜は、今度はすぐに答えた。


「うん」


父の表情が変わった。


「会社がどうなっても?」


愛菜は息を吸った。


「困っていることを聞くのと、冬彦さんに会うのは、別にしてほしい」


「そんな簡単に分けられるなら——」


「私には、分けてもらわないと困る」


部屋が静かになった。


愛菜は、父を見たまま続けた。


「会社が大変なら、何が起きているのか聞く。でも、話を聞いたら最後に結婚の話へ戻るなら、私は来られない」


父は眼鏡を机へ置いた。


小さな音がした。


***


面会は、それから十分ほどで終わった。


父は、冬彦へ自分から返事をすると言った。


愛菜が会う予定はないこと。


大虎も同席したうえで、それを確認したこと。


今後の事業の話は、別に扱うこと。


父は、納得した顔ではなかった。


それでも、同じ返事を何度も求めることはしなかった。


立ち上がると、大虎が名刺を差し出した。


「会社の正式なご相談がある場合は、こちらへご連絡ください。担当を通して内容を確認します」


父は名刺を受け取った。


「ご配慮、ありがとうございます」


大虎は、もう一言だけ添えた。


「愛菜を窓口にしないでください」


愛菜は隣で、その言葉を聞いた。


父は名刺を見たまま、頷いた。


***


エレベーターの扉が閉まると、愛菜は壁へ背をつけた。


大虎が顔を覗いた。


「疲れた?」


「うん」


階数の表示が、一つずつ下がった。


愛菜は、自分の指先を見た。


まだ、少し冷たかった。


「お父さん、あんな言い方しなくてもいいのに」


「会社がどうなっても、って?」


愛菜は頷いた。


「昔から、ああいうふうに聞かれると、私が悪いことをしている気になる」


大虎が、愛菜の手を取った。


「今日は、返事を変えなかった」


「だいちゃんがいたから」


「それでも、答えたのは愛菜だよ」


エレベーターが止まった。


扉が開く。


愛菜は一度、大きく息を吐いた。


それから、大虎と並んで歩き出した。


***


駐車場へ出たところで、大虎の携帯電話が鳴った。


秘書からだった。


大虎は愛菜へ目で断り、電話に出た。


「うん」


相手の説明を聞く。


少しだけ、表情が変わった。


「いつ?」


愛菜は車の横で待った。


大虎は時計を見た。


「分かった。要件は、先に文書でもらって。今日は受けない」


電話を切ると、愛菜を見た。


「冬彦から、面会の申し入れが来てる」


愛菜の手が、車のドアの前で止まった。


「だいちゃんに?」


「うん。会社へ」


「何の話?」


「今のところ、両グループの今後について、だって」


愛菜は、本社の建物を振り返った。


父との話が終わるのを、待っていたのだろうか。


それとも、最初から別のところへ話を進めていたのか。


大虎が助手席のドアを開けた。


「内容を見てから決めるよ」


愛菜は乗り込んだ。


大虎が運転席へ回る。


エンジンがかかっても、車はすぐには動かなかった。


「愛菜」


顔を向けると、大虎はまっすぐこちらを見ていた。


「仕事の話なら、仕事として聞く。でも、愛菜とのことを交渉する席は作らない」


愛菜は、しばらく大虎の顔を見ていた。


「分かった」


今度は、その返事だけでよかった。


大虎が車を出した。


ミラーの中で、誉グループの建物が少しずつ小さくなった。


第23章 向かいに座る男


冬彦から届いた面会の要旨は、一枚だった。


誉グループとの共同事業。


物流拠点の再編。


それに伴う、カルソックとの連携の可能性。


大虎は最後まで読み、机へ置いた。


「この事業、うちで検討したことは?」


向かいの担当役員が答えた。


「海王側から、概要だけ持ち込まれています。ただ、既存の計画と重なる部分が多く、具体的な協議には入っていません」


「今回、新しい条件は出てる?」


「資料上は、ありません」


大虎は頷いた。


秘書が予定表を開いた。


「面会は、いかがいたしますか」


「事業の説明なら、担当同席で受ける。三十分」


秘書が書き留めた。


「愛菜さんに関するお話が出た場合は?」


大虎は、机に置いた紙をもう一度見た。


「その場で聞く。ただ、事業の資料には混ぜない」


***


愛菜には、その夜、会うことを伝えた。


「担当の人も一緒?」


「うん。俺だけじゃ、細かい数字は分からないから」


愛菜は頷いた。


「何か、私から伝えることはある?」


大虎は首を振った。


「今のところはない」


「分かった」


愛菜は、畳んでいた布を机へ置いた。


榊原の上着を直すために、小野寺が作った見本だった。


袖の内側に、指を掛けやすい小さな輪が付いている。


外からは見えない位置だった。


大虎が覗いた。


「これ、何に使うの?」


愛菜は、自分の指を通してみせた。


「着る時に、生地をここから引けるか試すの。でも、指が引っかかったり、裏返ったりしないか確かめないと」


「へえ」


大虎も触ってみた。


輪の大きさを確かめるように、指を動かす。


愛菜は、その横顔を見た。


「だいちゃん」


「うん?」


「冬彦さんに、私が何を言ったか、何を選んだか、説明し続けなくていいからね」


大虎が顔を向けた。


「私、もう返事はしてるから」


大虎は、小さく頷いた。


「分かった」


愛菜は見本を袋へ戻した。


明日は、榊原に試してもらう予定だった。


***


冬彦は、約束の時刻より五分早く来た。


濃紺のスーツ。


靴には曇りがなかった。


案内された会議室へ入ると、大虎だけでなく、担当役員と秘書がいることを確かめた。


表情を変えず、一人ずつに挨拶をした。


大虎は席を示した。


「本日は、事業のご説明と伺っています」


「はい。お時間をいただき、ありがとうございます」


冬彦は資料を配った。


説明は、よく整理されていた。


土地の位置。


輸送路。


施設の規模。


完成までの見通し。


大虎は途中で遮らず、聞いた。


担当役員が、稼働率の根拠を尋ねる。


冬彦は別のページを開いた。


「周辺の需要を踏まえた想定です」


「利用契約が済んでいるのは、このうちどの範囲でしょうか」


冬彦は指先で一部を示した。


担当役員は、数字を書き留めた。


「では、残りは誘致の見込みですね」


「そうなります。ただ、カルソック様にご参画いただければ、信用面で大きく変わります」


大虎は資料から顔を上げた。


「うちに求めているのは、利用ですか。出資ですか」


「両方を、視野に入れております」


「それぞれの条件を、分けていただけますか」


冬彦は頷いた。


「改めて提出いたします」


二十分ほどで、事業の説明は一区切りついた。


大虎は資料を閉じた。


「追加の資料は、担当へお願いします。現時点で、参加のお約束はできません」


「承知しました」


冬彦は、机の上の紙を揃えた。


それから、手を止めた。


「もう一件、よろしいでしょうか」


***


大虎は時計へ目を向けた。


「あと十分あります」


冬彦は、同席している二人を見た。


「できれば、お二人で」


「内容を伺ってから判断します」


大虎の声は穏やかだった。


冬彦は少し笑った。


「愛菜さんのことです」


担当役員のペンが止まった。


大虎は秘書へ目を向けた。


「事業の打合せは、ここまでで」


役員と秘書が席を立った。


扉が閉まる。


大虎は、目の前の資料を脇へ寄せた。


「伺います」


冬彦は、先ほどより深く椅子へ座った。


「まず、ご結婚について、お祝いを申し上げます」


「ありがとうございます」


「ただ、私の方にも、整理のついていないことがありまして」


大虎は返事をせず、続きを待った。


冬彦は、テーブルの上で指を組んだ。


「誉家とは、以前から結婚に向けた話を進めていました」


「愛菜は、お断りしたと聞いています」


「その時は、まだ仕事を優先したいと。そういう理由でした」


「それで、お断りしたんですよね」


冬彦の口元から、笑みが消えた。


「会長なら、お分かりになると思います。家同士で進めていた話が、本人の一言ですべて終わるわけではありません」


大虎は、冬彦を見ていた。


「本人の一言が必要な話だと思います」


冬彦は黙った。


大虎は言葉を足さなかった。


空調の風が、机の端の紙をわずかに動かした。


***


「率直に伺っても?」


冬彦が言った。


大虎は頷いた。


「私との話が残っていることを、ご存じだったのですか」


「愛菜が結婚を望んでいない相手がいることは、知っていました」


「それでも、交際された」


「はい」


迷いのない返事だった。


冬彦は視線を落とした。


「私には、会うことすら断る。それなのに、会長とは結婚された」


大虎は、その言葉を聞いた。


初めて、事業や家の話が外れた気がした。


「納得できないんですか」


冬彦は顔を上げた。


「ええ」


大虎は頷いた。


「それは、あなたが考えることだと思います」


冬彦の眉が動いた。


「ずいぶん、突き放されるのですね」


「私に、あなたが納得する理由を作ることはできません。愛菜に、もう一度断らせることもしたくない」


冬彦は、机の縁に置いた手を引いた。


「一度会えば、済む話かもしれません」


「会わないと返事をしています」


「私が、何か無理なことをするとでも?」


「そういう話はしていません」


大虎の声が、少し低くなった。


「会いたくないと伝えた相手に、会うよう求めないでください。それだけです」


***


冬彦は、椅子の背へ体を預けた。


しばらく、大虎を見ていた。


「会長の立場なら、誰でも選べたでしょう」


大虎の目が細くなった。


「どういう意味ですか」


「ほかにも、いくらでもお相手はいたはずだということです」


大虎は、ゆっくり息を吐いた。


「愛菜を選んだんです」


冬彦は口を開きかけた。


大虎が続けた。


「愛菜も、私を選んでくれた。それ以上、あなたに説明することはありません」


部屋が静かになった。


大虎は時計を見た。


十分が過ぎていた。


「今日は、ここまでにしましょう」


冬彦は、すぐには立たなかった。


やがて、脇へ寄せていた事業資料を見た。


「誉側との計画には、影響が出るかもしれません」


大虎は、動きを止めた。


「事業上の理由ですか」


冬彦は答えなかった。


「それとも、愛菜が会わないことへの対応ですか」


「取引には、信頼関係も必要ですから」


大虎は椅子へ座り直した。


冬彦が、その動きを見た。


「どちらなのか、はっきりさせてください」


冬彦は視線を逸らさなかった。


しかし、すぐには返事が出なかった。


大虎は、事業資料の表紙へ手を置いた。


「愛菜との結婚を見込んでいた条件があるなら、事業の前提が変わっています。担当者同士で、そこから確認してください」


「……社内で整理します」


「お願いします」


大虎は立ち上がった。


冬彦も、今度は立った。


握手を求める手は、どちらからも出なかった。


***


同じ頃、愛菜は榊原の前で、上着の見本を持っていた。


小野寺が縫った、形を確かめるための一着だった。


榊原は、袖の内側にある輪へ指を掛けた。


ゆっくり引く。


肩の位置まで、生地が上がった。


「ここまでは、楽ね」


愛菜は頷いた。


「左の袖は、どうですか」


榊原は腕を後ろへ回しかけて、止まった。


「やっぱり、ここが難しい」


小野寺が、背中の余りを見た。


「少し、手を下ろしていただけますか」


榊原が腕を戻す。


小野寺は生地へ印をつけた。


一度で、すべては変わらなかった。


それでも、右腕へ袖を通す時間は短くなっていた。


榊原は、もう一度試したいと言った。


愛菜は、上着を脱ぐのを手伝った。


机の上で、携帯電話が短く震えた。


大虎からだった。


《面会、終わった。そっちはどう?》


愛菜は画面を見て、少し考えた。


それから、返事を打った。


《右の袖は、前より楽になった。左は、これから》


送ると、すぐに返ってきた。


《一歩進んだね》


愛菜は笑った。


榊原が、その顔を見た。


「ご主人?」


「はい」


「いい報告ができた?」


愛菜は携帯電話を伏せた。


「はい。少しだけ」


***


夜、大虎は面会の内容を伝えた。


冬彦が納得していないこと。


改めて会いたいと言ったこと。


断っている以上、求めないでほしいと伝えたこと。


愛菜は静かに聞いた。


最後に、父の会社への影響についての発言も聞いた。


「お父さんには?」


「事業の条件が変わる可能性があるから、担当から正式に確認してもらう。愛菜への返事として、伝える話にはしない」


愛菜は頷いた。


大虎は少し迷ってから、言った。


「俺が、愛菜の言いたいことまで決めてなかった?」


愛菜は顔を上げた。


「どうして?」


「会わないという返事は聞いてた。でも、向こうの話を聞いたのは俺だから」


愛菜は、今日の話をもう一度思い返した。


大虎は、自分の代わりに理由を並べていなかった。


仕事が忙しいから。


傷ついているから。


夫が許さないから。


そういう話には、していなかった。


「大丈夫」


愛菜は言った。


「私が言った返事を、そのまま守ってくれた」


大虎の肩から、少し力が抜けた。


愛菜は隣へ寄った。


「ありがとう」


大虎が、彼女の髪に触れた。


***


翌朝、誉グループからカルソックの担当部署へ、資料の照会が入った。


海王との共同事業について、第三者の立場から、計画の妥当性を確認してほしい。


愛菜の父からの、正式な依頼だった。


大虎は、担当役員から報告を受けた。


「引き受けるかどうかも含めて、通常の手順で見てください」


役員は頷いた。


「一点、先にご報告があります」


差し出された資料には、誉側がすでに支出した費用がまとめられていた。


土地の確保。


設計。


関連施設の移転準備。


大虎は、その下の欄で目を止めた。


海王側の資金投入予定日は、二度、変更されていた。


最初の延期は、愛菜と大虎の結婚が公になった時期より、ずっと前だった。


「延期の理由は?」


大虎が尋ねた。


「先方の社内調整としか、記載がありません」


大虎は、日付をもう一度見た。


それから資料を閉じた。


「ここを確認してください。愛菜の話と結びつけずに、数字と経緯で」


担当役員が資料を受け取った。


大虎は、窓の外へ目を向けた。


冬彦が会いたかった理由は、本人が話したことだけではないのかもしれなかった。


第24章 日付の前にあったこと


資料を並べ直すと、話の順番が変わった。


大虎は、担当役員が作った一覧を見ていた。


海王からの資金投入予定日。


一度目の延期。


二度目の延期。


そして、懇親会の写真が公開された日。


二つの延期は、どちらも写真より前だった。


「誉側には、その都度、理由が説明されていますか」


担当役員が、メールの写しを開いた。


「最初は金融機関との調整。二度目は、グループ内での資金配分の見直しです」


「金額や、新しい実行日は?」


「日付はあります。ただ、その日までに資金が用意できると確認できる資料は、出ていません」


大虎は、一覧の余白へ線を引いた。


写真が公開された日より、前と後。


「海王が参加しなくても、事業は続けられる?」


「規模を見直す必要があります。すでに支出している分もあり、簡単ではありません」


「誉側が、何を決める必要があるか整理してください。うちが資金を出す前提にはしないで」


担当役員は頷いた。


大虎は資料を返した。


冬彦の言葉を思い出していた。


取引には、信頼関係も必要ですから。


その信頼が、いつから崩れていたのか。


愛菜の結婚を知ってからでは、なかった。


***


愛菜は、父からの電話を会社で受けた。


前と同じ番号だった。


画面を見た時、一瞬、肩に力が入った。


「はい」


『今、少し話せるか』


「うん」


父はすぐには続けなかった。


紙を動かす音がした。


『先日の件だが、海王との協議を、担当者同士でやり直すことになった』


愛菜は椅子に座り直した。


「そう」


『お前から冬彦君へ、連絡を入れる必要はない』


愛菜は、机の一点を見た。


その言葉を、父の口から聞くまで、体のどこかが待っていたのだと思った。


「分かった」


『こちらへ連絡があった場合も、会社へ回してくれ』


「うん」


それで電話が終わりそうになった時、愛菜は口を開いた。


「お父さん」


『何だ』


「私が結婚する前から、資金の話は遅れていたの?」


向こうが静かになった。


愛菜は、昨夜、大虎から聞いた範囲を思い返した。


詳しい金額や契約の中身ではない。


結婚が公になる前から、計画に遅れがあった。


その一つだけだった。


『……遅れていた』


父が答えた。


「知っていたんだね」


『社内調整だと聞いていた。大きな案件には、そういうこともある』


愛菜は頷いた。


父には見えなかった。


「それなのに、私が会わないと、会社が困るみたいに言ったの?」


父の息が聞こえた。


返事はなかった。


愛菜も、すぐには言葉を足さなかった。


やがて父が言った。


『あの時は、これ以上、関係を悪くしたくなかった』


「私が会えば、良くなると思った?」


『少なくとも、話をする余地は残ると』


愛菜は、指先で机の縁に触れた。


父の考えは、分かった。


分かったからといって、納得はできなかった。


「私が嫌だって言っても、その方がいいと思ったんだね」


父は黙っていた。


愛菜は目を閉じ、もう一度開いた。


「これからは、会社のことで私に話があるなら、最初からその話をして」


『……分かった』


「私の結婚を、交渉に使わないで」


今度の返事は、少し遅れた。


『分かった』


愛菜は電話を切った。


しばらく、次の仕事に手がつかなかった。


父は、間違っていたとは言わなかった。


それでも今日、冬彦へ会うようには求めなかった。


愛菜は、その二つを混ぜずに受け止めようとした。


***


海王グループの会議室では、冬彦が資料を閉じたところだった。


向かいには、財務担当の役員が座っていた。


「誉側から、実行可能な資金額を文書で回答してほしいと来ています」


冬彦は眉を寄せた。


「これまで、説明していたはずだろう」


「見込みではなく、確保済みの額です」


役員は別の紙を出した。


予定されていた借入のうち、条件が確定していないものがあった。


別案件の売却収入も、入金時期が後ろへずれていた。


事業を進める金が、すべて揃っているわけではなかった。


「カルソックには、どこまで話しているんです」


役員が尋ねた。


冬彦は顔を上げた。


「何が?」


「こちらの資金の状況です。先方の担当から、出資を求める前提条件の照会が来ています」


「連携の可能性を話しただけだ」


役員は、しばらく冬彦を見ていた。


「でしたら、そこから説明し直す必要があります」


冬彦は椅子へ背中を預けた。


「誉側が余計な不安を広げたんだろう」


「先方も、支払いがあります」


「分かっている」


返事が少し強くなった。


役員は声を変えなかった。


「次の実行日を出すなら、出せる額を決めてからです。三度目は、同じ説明では通りません」


冬彦は、机に置かれた数字を見た。


これまでなら、もう少し待ってもらえた。


誉の父は、関係を切りたがらなかった。


娘との結婚という話が残っている間は、金の話も、ただの取引としては扱われなかった。


その曖昧な部分が、今、なくなろうとしていた。


***


同じ日の午後、榊原は茶色の上着へ袖を通していた。


小野寺が横に立ち、愛菜は少し離れて見ていた。


最初に右腕。


次に、襟元を軽く引き上げる。


左手を、内側に付けた柔らかい目印へ添える。


「ここね」


榊原が言った。


「はい。そこを持ったまま、左の袖を少し前へ」


小野寺が答えた。


榊原はゆっくり動いた。


左腕が通った。


肩を整える。


鏡の中に、見覚えのある上着が戻った。


「……着られた」


愛菜は、榊原の表情を見た。


小野寺は、すぐに喜ぶ声を上げなかった。


「引っかかるところは、ありませんでしたか」


榊原は肩を動かした。


腕を少し前へ出す。


「今は、大丈夫」


「一度、座ってみてください」


椅子に腰を下ろすと、裾が膝の上へ落ちた。


榊原は袖口に触れた。


残してほしいと言ったボタンが、そのまま並んでいた。


「変わっていないみたい」


愛菜は頷いた。


「外から見えるところは、できるだけ残しました」


榊原は、しばらく鏡を見ていた。


それから、少し照れたように笑った。


「夫に見せたかったわ」


愛菜は返事を急がなかった。


榊原が、自分で袖を撫でた。


「今日は、このまま着て帰ってもいい?」


小野寺が、愛菜と目を合わせた。


二人とも笑った。


「もちろんです」


***


榊原が帰ったあと、愛菜は小野寺へ頭を下げた。


「ありがとうございました」


小野寺は、道具を片づけながら首を振った。


「まだ、家で一人で着てみないとね。今日は、私たちが横にいたから」


「はい。数日したら、様子を伺います」


「それでいいと思う」


机の上には、使わなかった見本が残っていた。


小さな輪。


長さの違う布。


試して、外した縫い目。


愛菜は一つずつ、記録と一緒に袋へ入れた。


一着のために、ずいぶん考えた。


すべてが次の服に使えるわけではない。


それでも、今日、榊原は自分で上着を着て帰った。


愛菜は、その事実を報告書の最初に書いた。


***


夕方、大虎のところへ、誉の父から電話が入った。


大虎は秘書から取り次ぎを受けた。


「お世話になっております」


『資料をご確認いただき、ありがとうございます』


父の声は、面会の時より疲れていた。


『海王には、資金の裏づけを求めました。こちらも、一部の支出を止めて検討し直します』


「担当から、報告は受けています」


『事業の規模を縮めれば、続けられる可能性はあるようです』


「条件を確認してからの判断になりますね」


父は同意した。


しばらく、仕事の話が続いた。


止める費用。


残す契約。


期限までに決める項目。


最後に、父が言った。


『一つ、伺ってもよろしいでしょうか』


「はい」


『今回の確認は、愛菜に頼まれて、お受けになったのですか』


大虎は、窓の外へ目を向けた。


「愛菜から、会社を助けてほしいとは頼まれていません」


向こうが静かになった。


「御社から正式なご相談があり、担当が対応できる範囲を確認したうえで進めています」


『そうですか』


父は、小さく息を吐いた。


『私は……娘が、口を利いてくれたのかと』


大虎は、すぐには答えなかった。


父はこれまで、家族が動けば会社も動くと考えてきたのかもしれなかった。


「愛菜は、御社がどうなるか心配しています」


大虎は言った。


「ただ、その気持ちと、引き受けられることは同じではありません」


父は長く黙っていた。


『分かりました』


通話は、それで終わった。


***


愛菜が帰宅した時、大虎は先に帰っていた。


食卓に、二人分の湯呑みがあった。


「今日、着て帰ってくれた」


愛菜は、靴を脱ぎながら言った。


大虎が顔を上げた。


「榊原さん?」


「うん。茶色の上着」


愛菜は鞄を置いた。


会社では落ち着いて報告できたのに、大虎の顔を見ると、急に話したいことが増えた。


袖が通った時のこと。


鏡を見ていた時間。


夫に見せたかったと言った声。


大虎は、愛菜が話し終えるまで聞いた。


「よかったな」


その一言で、愛菜の目が少し熱くなった。


「うん」


大虎が椅子を引いた。


愛菜は座り、温かい湯呑みを持った。


「お父さんからも、電話があった」


「俺にも来た」


愛菜が顔を上げた。


「会社の話?」


「うん。計画を見直すって」


愛菜は頷いた。


「私には、冬彦さんへ連絡しなくていいって」


「そうか」


愛菜は湯呑みを机へ戻した。


「今日、二つとも嬉しいはずなのに、上着のことだけ話していたかった」


大虎は少し笑った。


「じゃあ、上着の話をしよう」


愛菜も笑った。


「もう、ほとんど話したよ」


「写真は?」


愛菜は携帯電話を出した。


榊原に許可をもらって撮った、一枚を開く。


茶色の上着。


柔らかく曲がった肘。


鏡に映った、小さな笑顔。


大虎は画面を見た。


「似合うな」


「でしょ」


愛菜は、もう一度写真を見た。


その隣で、携帯電話が新しい通知を表示した。


父からだった。


短い文章だった。


《先日は、会社のことをお前のせいのように言った。あの言い方は、間違っていた》


愛菜は、画面を見つめた。


大虎は覗き込まなかった。


愛菜が自分から、携帯電話を少し傾けた。


大虎は読み終え、愛菜を見た。


「返事、どうしよう」


愛菜が言った。


大虎は、隣の湯呑みを持った。


「今、出したい返事でいいんじゃないか」


愛菜はしばらく考えた。


許したと書くには、まだ早かった。


責める言葉を続けたいわけでもなかった。


やがて、短く打った。


《読んだよ。伝えてくれて、ありがとう》


送信して、携帯電話を机へ置いた。


画面には、榊原の写真が戻った。


愛菜は指で少し拡大し、大虎に見せた。


「このボタンね。絶対に残したかったんだって」


大虎が、画面へ顔を寄せた。


第25章 値札をつける日


最初に店へ出す数は、十二着に決まった。


二つのサイズを、六着ずつ。


色は一つ。


愛菜は、机に置かれた見積書を見ていた。


数量が少ない分、一着あたりの製造費は高かった。


店へ渡す価格。


店頭の価格。


直しが必要になった場合の費用。


担当者と数字を入れ直すたびに、残る金額が変わった。


「もう少し数を増やせば、単価は下がります」


担当者が言った。


愛菜は頷いた。


そのことは分かっていた。


工場に残った三百着も、同じ理由で数量が決まっていた。


「十二着でお願いします」


愛菜は、見積書を返した。


「追加は、売れ方とお客様の声を見てから決めましょう」


担当者は数量を確かめ、発注書を作った。


今回は、注文する会社も、支払う金額も、納品する場所も、一枚の中に揃っていた。


愛菜は最後まで読み、承認した。


***


値札を作る日に、紗良が試作担当者へ呼ばれた。


完成した仕様書の確認だった。


最初の型紙から、何度か修正が入っている。


腰回り。


脇の線。


ポケットの深さ。


紗良は、一つずつ見た。


途中で、数字の横に指を置いた。


「ここ、確認してもらってもいいですか」


担当者が覗き込んだ。


ポケットの位置を示す寸法だった。


表には修正後の数字が入っているのに、図の注記だけが前のまま残っていた。


担当者は原本と照合した。


「本当だ。ありがとう」


紗良は小さく頷いた。


「工場へ渡った方は?」


「そっちは修正済み。今、念のため確認する」


紗良は、その返事を聞いてから手を離した。


仕様書の最後には、社内用の記録欄があった。


初期デザイン。


型紙修正。


縫製確認。


試着対応。


自分の名前は、最初の欄に残っていた。


その下に、何人もの名前が並んでいた。


紗良は、以前より長くなったその欄を見た。


「これ、全部残すんですね」


担当者が顔を上げた。


「あとで直す時、誰に何を聞けばいいか分からないと困るから」


「……そうですね」


紗良は仕様書を返した。


完成した服は、もう自分一人で説明できるものではなかった。


それでも、自分が描いたところから始まった線は、確かに残っていた。


***


店に商品が届いたのは、販売を始める前日の午後だった。


ゆみは店長と二人で箱を開けた。


数量を数える。


汚れや、縫い目を確認する。


サイズごとに分け、ハンガーへ掛ける。


最後に、値札をつけた。


店長が、一着を少し離れた場所から見た。


「ようやく、売場に出せますね」


「うん」


ゆみは返事をしてから、値札を裏返した。


何度も直した価格だった。


最初に考えていた金額より、高くなっていた。


店長が気づいた。


「やっぱり、気になります?」


「気になるよ。試してくださった方が、この値段で欲しいと思うかは、まだ分からないから」


店長は頷いた。


ゆみは、試着を重ねた二人へ連絡した。


商品が届いたこと。


販売価格。


来店して、もう一度試してから判断してもらえること。


送る前に、文章を読み直した。


予約分をご用意しました、とは書かなかった。


まだ、誰からも注文を受けてはいなかった。


***


翌日、愛菜が店へ着くと、最初の客がすでに来ていた。


「早く来ちゃった」


照れたように笑っていた。


ゆみが、出来上がったパンツを渡す。


客は生地に触れ、値札を見た。


「前に聞いた通りのお値段ね」


「はい」


ゆみは答えた。


客はもう一度、値札を見てから試着室へ入った。


愛菜は椅子の位置を確かめた。


前と同じ場所だった。


カーテンが開く。


客は鏡へ向かい、横を向いた。


それから自分で椅子へ座った。


腰へ手を当てる。


立ち上がる。


ポケットに携帯電話を入れ、少し歩く。


愛菜も、ゆみも、すぐには声をかけなかった。


客は鏡の前へ戻った。


「裾だけ、少し長いかな」


ゆみがしゃがんだ。


「普段はこちらの靴で合わせますか」


「もう少し低いのも履く」


「では、その高さでも引きずらないように見ましょう」


長さを決める。


客がもう一度座り、膝の位置を確かめる。


鏡を見て、頷いた。


「これ、ください」


愛菜は、客の顔を見た。


試してみたい。


できたら教えてほしい。


その先に来る言葉を、初めて聞いた。


ゆみが笑顔で答えた。


「ありがとうございます」


愛菜も頭を下げた。


声を出すまで、少し間が空いた。


***


二人目の客は、その日の午後に来た。


こちらも、出来上がりを試してくれた。


座った時の腰回りを気に入り、前より動きやすいと言った。


けれど、値札を見て、少し考えた。


「今日は、持ち帰って考えてもいい?」


ゆみは頷いた。


「もちろんです」


「いろいろ試させてもらったのに、ごめんなさいね」


「試していただいたこと、とても助かっています。それと、お買い上げいただくかどうかは別ですから」


客は、少し安心したように笑った。


脱いだパンツを返し、店を出た。


ゆみはハンガーへ掛け直した。


愛菜が隣へ来た。


「ありがとう」


「何が?」


「さっきの言い方」


ゆみは服の肩を整えかけて、パンツだったことに気づき、苦笑した。


「ちょっと、緊張してた」


愛菜も笑った。


ゆみは値札を内側へ戻した。


「買ってくれなかった理由、値段だけとは限らないよね」


「うん。今日、無理に聞かなくていいと思う」


「また来てくれた時に、話してくれたら聞く」


二人は売場へ戻った。


一着は売れた。


一着は、元の場所へ戻った。


どちらも、その日の出来事だった。


***


閉店前、ゆみは販売の記録を開いた。


最初の一着。


裾直しあり。


受取予定日。


必要な項目を入れていく。


その横に、愛菜が立っていた。


「写真、撮っていい?」


ゆみが顔を上げた。


愛菜は売場を指した。


客の姿はなかった。


同じパンツが、サイズごとに並んでいる。


手書きの説明には、座った時の着心地を店頭で確かめてほしいと書かれていた。


「いいよ」


愛菜は少し離れ、写真を撮った。


画面を見たあと、大虎へ送った。


《一着、買っていただけた》


返事は、すぐには来なかった。


愛菜は携帯電話をしまい、店長へ挨拶をした。


ゆみが出口まで送ってきた。


「今日、来てくれてありがとう」


「こちらこそ。最初のお客様のところに、立ち会えてよかった」


ゆみは頷いた。


愛菜が帰りかけたところで、少し迷ってから呼び止めた。


「愛菜さん」


「うん?」


「私、この仕事を続けたい」


愛菜はゆみを見た。


「次の服も?」


「うん。でも、すぐに何か決めてほしいわけじゃなくて」


ゆみは店内へ目を向けた。


「今日みたいに、お客様の話を聞いて、仕入れた分を売って。その結果で、次を考える仕事」


愛菜は、少し笑った。


「私も、続けたい」


ゆみの肩が、わずかに下がった。


「じゃあ、まず残りの十一着だね」


「うん」


二人は笑って、別れた。


***


会社へ戻ると、愛菜の机に、人事から面談の報告が届いていた。


紗良との定期面談だった。


今の業務で困っていること。


担当者からの評価。


外部との連絡が、決めた窓口を通して行われていること。


最後に、本人からの希望があった。


縫製の現場を見たい。


研修の機会があれば、参加したい。


愛菜は、その一文を二度読んだ。


以前の紗良なら、次のデザインを任せてほしいと言ったかもしれない。


なぜ、縫製なのか。


人事の記録には、本人の言葉が続いていた。


《自分が送ったデータで、人がどんな作業をするのか、知らないまま進めていたと思うので》


愛菜は、報告書を机に置いた。


すぐに許可を書くことはしなかった。


小野寺や工場側にも、受け入れられるか確認が必要だった。


人事へ返事を書いた。


目的と日程、担当してもらう人を決めたうえで、研修として検討したい。


送信してから、愛菜は売場の写真を開いた。


紗良へ直接送る代わりに、担当者へ転送した。


販売を始めたことと、最初の一着が売れたことを、関わった人たちへ共有してもらうためだった。


***


大虎から電話が来たのは、会社を出る直前だった。


「一着、売れたんだな」


声を聞いた途端、愛菜は笑った。


「うん」


「おめでとう」


「ありがとう」


大虎の向こうで、扉が閉まる音がした。


「今、終わった?」


「これから帰るところ」


「じゃあ、俺も帰る」


愛菜はエレベーターのボタンを押した。


「だいちゃんから見たら、すごく小さい話だよね」


向こうが少し静かになった。


「何が?」


「一着、売れたって」


大虎は短く笑った。


「愛菜が何週間も考えてた服だろ」


「うん」


「小さいとは思わないよ」


エレベーターの扉が開いた。


愛菜は乗り込まず、その前で立ち止まった。


後ろから来た社員へ、先にどうぞと手を向ける。


「今日ね、もう一人の方は、買わなかった」


「そうか」


「でも、ゆみさんが、試着に協力したことと、買うことは別だからって言ってくれた」


「うん」


「それも、嬉しかった」


大虎は、少し間を置いて答えた。


「帰ったら、聞かせて」


愛菜は頷いた。


「うん。帰るね」


***


その夜、大虎は食卓に、小さなケーキの箱を置いた。


愛菜は鞄を下ろしたまま、箱を見た。


「買ってきてくれたの?」


「一着目のお祝い」


箱を開けると、二つのケーキが入っていた。


大きな飾りはなかった。


紙の小さな札に、手書きの文字があった。


おめでとう。


愛菜は椅子へ座った。


「毎回、売れるたびに買ってたら、大変だよ」


「今日は、一着目だから」


大虎は皿を出した。


愛菜は、もう一度箱の中を見た。


「これ、写真撮ってもいい?」


「どうぞ」


服の写真の次に、ケーキの写真が残った。


食べ始めると、大虎が尋ねた。


「どんな人が買ってくれたの?」


愛菜はフォークを置いた。


最初の試着から、同じ靴で来てくれた人。


携帯電話をポケットに入れたいと言った人。


裾を少し直して、受け取りに来てくれる人。


愛菜は、一つずつ話した。


大虎は途中で時計を見なかった。


話し終える頃には、ケーキは少し柔らかくなっていた。


愛菜は一口食べて、笑った。


「甘い」


「ケーキだからな」


大虎も笑った。


明日になれば、また値段や数量の話がある。


工場との調整も、父の会社のことも、まだ終わっていない。


けれど今夜は、最初の一着を買ってくれた人の話を、もう少ししていたかった。


愛菜が話し始めると、大虎はフォークを置いて、また顔を向けた。


第26章 縫った人の手


工場へ行く日の朝、紗良は会社の玄関で待っていた。


いつもより早く来ていた。


手には、小さな鞄とノート。


愛菜が到着すると、立ち上がった。


「おはようございます」


「おはよう」


今回の訪問は、研修と、製造された商品の確認を兼ねていた。


工場には事前に目的を伝え、社長から了承をもらっていた。


愛菜と小野寺も同行する。


紗良が一人で説明したり、何かを約束したりする場にはしない。


人事からそう伝えられた時、紗良は黙って頷いていた。


小野寺の車が着いた。


紗良は後部座席へ乗り、鞄を膝に置いた。


工場へ着くまで、自分からは話さなかった。


***


建物の中へ入ると、ミシンの音が聞こえた。


一台ずつは小さな音だった。


それが重なり、途切れながら、部屋の奥まで続いていた。


工場の社長が入口へ来た。


愛菜と小野寺に挨拶をしてから、紗良を見た。


「桐生さんですね」


「はい」


紗良は深く頭を下げた。


「このたびは、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」


社長は、頭を上げるのを待った。


「事情は、伺っています」


それだけ言い、作業場の方を示した。


「まず、こちらを見てください」


紗良は顔を上げた。


叱られる言葉を、考えてきていた。


何を言われても、謝ろうと思っていた。


けれど社長は、その場で謝罪を続けさせなかった。


作業台の上に、切り分けられた生地が積まれていた。


別の会社の注文品だった。


女性が一枚を取り、形を確かめてから隣へ渡す。


その先で、別の人がミシンへ向かっていた。


紗良は足を止めた。


一着の服が、そのまま最初から最後まで、一人の前にあるわけではなかった。


***


「あなたの型紙を確認したのは、私です」


作業台の横で、女性が言った。


四十代くらいに見えた。


名前は森田だった。


紗良が挨拶すると、森田は棚からファイルを取り出した。


見覚えのある図が入っていた。


自分が送った型紙だった。


何か所にも、赤い書き込みがある。


「ここ、メールで聞いたでしょう」


ポケットの端を指した。


紗良は頷いた。


「はい。補強の位置を」


「指示が二つの図で違っていたから、確認したんです」


紗良はその時のことを思い出した。


質問が届いた。


返事をした。


久世から急ぐよう言われていて、ほかの図まで見直さなかった。


森田は、隣のページを開いた。


「一つ直ると、こっちも確認が必要になる。私たちは、最終的にどれで縫うか決めないと、手を動かせないので」


「……はい」


「分からないまま進めると、あとで全部ほどくことになります」


紗良は、赤い線を見つめた。


自分が画面で動かした線の先で、誰かが立ち止まっていた。


そのことを、質問のメールを読んでいた時には、考えていなかった。


森田はファイルを閉じた。


「今日は、ここまでの流れを見てもらいます。歩く時は、足元に気をつけてください」


紗良はノートを開いた。


***


商品の保管場所は、作業場の奥にあった。


段ボールが、壁際へ寄せて置かれていた。


残っていた二百四十着。


倉田へ送られた六十着は、関係者の間で扱いを確認したうえで、すでに工場へ戻されていた。


社長は一箱を開けた。


透明な袋の中に、同じ色のパンツが入っている。


紗良は、その上に印刷された名前を見た。


自分の名前だった。


写真で見た時より、小さかった。


けれど、目を逸らすことができなかった。


「こちらは、今後の扱いが決まるまで保管しています」


社長が言った。


「久世さんとの支払いの協議は続いています。今日は、引き取りをお願いするためにお呼びしたわけではありません」


愛菜は頷いた。


小野寺が、一着を袋から出した。


机へ広げる。


紗良も近づいた。


図の中にあった線が、縫い目になっていた。


自分が指定した位置に、ポケットがある。


ボタンも、ファスナーも、確かに付いていた。


「一着、直すとしたら」


小野寺が言った。


「どこから手を入れる?」


紗良はパンツを見た。


「腰の後ろと、脇を……」


言いながら、手が止まった。


型紙の上なら、線を引き直せる。


出来上がった服では、その線の下に、切ってしまった生地があった。


紗良は裏返した。


縫い代を確かめる。


「足りないところが、あります」


「そうだね」


小野寺は頷いた。


「直せるところと、作り直さないと難しいところがある」


紗良は、長く生地を見ていた。


その横で、森田が糸くずを一つ摘まんだ。


「このまま穿ける方も、いるとは思いますよ」


紗良が顔を上げた。


森田は、パンツを広げ直した。


「ただ、どんな方へ、どういう服として売るか。そこは私たちでは決められません」


紗良は小さく頷いた。


着られない服が、三百着できたわけではない。


けれど、誰に渡す服なのか決めないまま、三百着にしてしまった。


その違いが、現物を前にして、ようやく分かった。


***


昼の休憩に、工場の人たちは、決まった場所へ集まった。


紗良は、持ってきた弁当を開いた。


隣に座った森田が、湯呑みを置いた。


「デザインの仕事は、長いんですか」


紗良は年数を答えた。


森田は頷いた。


「私は、ずっと縫う方です。絵は、全然駄目」


「でも、型紙を見ただけで、分かるんですね」


「分からないから聞くんですよ」


森田は笑った。


「さっきのポケットも、勝手に決めていいなら楽だけど。あとで違うと言われる方が困るから」


紗良は箸を置いた。


「私、質問が来ると、ちゃんと描けていないって言われている気がしていました」


森田が顔を向けた。


「そうなの?」


「はい」


「責めるために聞いているわけじゃないですよ。縫える形にしたいだけです」


紗良は、少し俯いた。


今日、謝る言葉を何度も考えていた。


けれど、森田が話しているのは、次に同じ紙を受け取った時、どう困らずに仕事をするかだった。


「次は、分からないところを、分からないまま送らないようにします」


言ってから、紗良は少し考えた。


「いえ……分からないところは、そう書いて、相談します」


森田は頷いた。


「その方が助かります」


***


帰り際、紗良はもう一度、社長へ頭を下げた。


「今日は、ありがとうございました」


社長は、紗良のノートを見た。


何ページか、細かい字で埋まっていた。


「見ただけでは、分からないことも多いでしょう」


「はい」


「また来るなら、時期は相談してください。忙しい時に、十分な説明はできませんから」


紗良は顔を上げた。


「来ても、いいんですか」


社長は愛菜と小野寺を見た。


「会社として、研修を続けるならです」


愛菜が頷いた。


「こちらで目的を整理して、改めてご相談します」


紗良は、すぐに次の日を尋ねなかった。


ノートを閉じ、両手で持った。


***


車へ戻る途中、紗良が立ち止まった。


愛菜と小野寺も足を止める。


「社長」


「何ですか」


紗良は、工場の入口を一度見た。


「私、今日、許してもらえるかどうかばかり考えていました」


愛菜は黙って聞いた。


「でも、皆さん、仕事をしていました。私が来ても、作らなきゃいけない服があって」


紗良の声が、少し掠れた。


「謝ったあとに、何をするのか、考えていませんでした」


小野寺は車の鍵を出した。


すぐには扉を開けず、二人の話が終わるのを待った。


愛菜は紗良へ尋ねた。


「今日、分かったことで、今の仕事に戻せるものはありますか」


紗良はノートを見た。


「仕様書を直した時、関連する図も確認すること。確認が必要なところに、確定した数字を書かないこと。それから……」


少し考えた。


「誰が、その紙を使うのか考えることです」


愛菜は頷いた。


「まず、それを報告にまとめてください」


「はい」


紗良は、鞄へノートをしまった。


車へ乗る時には、朝ほど肩を縮めていなかった。


***


愛菜が会社へ戻ると、店から連絡が入っていた。


最初にパンツを買った客が、裾直しの終わった商品を受け取りに来たという。


ゆみからの短い報告だった。


《そのまま穿いて帰られました》


愛菜は、その文章を見て笑った。


茶色の上着を着て帰った榊原を思い出した。


服が袋から出て、人の暮らしへ戻っていく。


机の上には、工場でもらった資料があった。


まだ袋から出られない服の写真もあった。


愛菜は二つを見て、次の打合せの予定を入れた。


三百着について、今の仕様で扱える販売先があるか。


直す場合、どこまでできるか。


権利と費用の整理が済む前に、販売を約束することはできない。


それでも、実物を確かめたうえで提案できることは、探しておきたかった。


***


夕方、愛菜の携帯電話に、父からメッセージが来た。


《今週か来週、夕食を一緒にどうだ》


愛菜は画面を見た。


続けて、もう一通届いた。


《大虎さんも、都合が合えば》


愛菜はすぐに返事をせず、大虎へ転送した。


《お父さんから。どう思う?》


しばらくして、電話が来た。


「愛菜は、行きたい?」


大虎が尋ねた。


「まだ、分からない」


「うん」


「会社の話なら、会社でしてほしい」


「それは、先に聞いていいと思う」


愛菜は頷いた。


通話を終えてから、父へ返した。


《夕食は、会社の相談?》


返事が来るまで、少し時間があった。


愛菜はその間、机を片づけた。


閉じたファイルを棚へ戻し、明日使うものを一つだけ残す。


携帯電話が鳴った。


《違う。二人に、食事をしてもらいたい》


愛菜は、その一文を読んだ。


さらに、続きが届いた。


《この前は、話を聞くために来てもらったのに、茶も冷めたままだった》


愛菜は、応接室の机を思い出した。


誰も手をつけなかった茶碗。


帰る時まで、そこにあった。


今度の席で、何を話せるかは分からなかった。


それでも、前と同じ席ではないのかもしれない。


愛菜は予定表を開いた。


《大虎に聞いて、日を連絡するね》


送信してから、もう一通だけ書き足した。


《ゆっくり食べられるところがいい》


今度の返事は、早かった。


《分かった》


愛菜は携帯電話を鞄へ入れ、会社の灯りを一つ消した。


第27章 温かいうちに


父が選んだのは、ホテルの料亭ではなかった。


駅から少し離れた通りにある、小さな和食の店だった。


愛菜は、送られてきた店名を二度見た。


子供の頃、何度か連れていってもらったことがあった。


誕生日だったか、学校の行事のあとだったか。


細かいことは、思い出せなかった。


ただ、入口の近くに大きな水槽があって、それを見るのが好きだった。


大虎へ店の場所を送ると、夕方、迎えに行くと返事が来た。


***


店の前に着くと、水槽はなくなっていた。


代わりに、小さな鉢植えが並んでいる。


愛菜が足を止めると、大虎も隣で止まった。


「ここ、来たことある?」


「小さい頃に、何回か」


愛菜は暖簾を見上げた。


色は褪せていたが、書かれた字には覚えがあった。


「魚を見てた気がする」


大虎は入口の脇へ目を向けた。


「今はいないね」


「うん」


扉を開けると、出汁の匂いがした。


その匂いで、店の奥にある段差を思い出した。


昔、そこで躓いたことがあった。


案内された個室には、父が先に座っていた。


二人を見ると立ち上がる。


大虎が挨拶をした。


父も返し、椅子を示した。


「どうぞ」


愛菜は、机の上を見た。


書類はなかった。


父の鞄も、椅子の脇で閉じられていた。


***


最初に運ばれてきたのは、温かい茶だった。


父は湯呑みを少しずらし、愛菜へ言った。


「店は、覚えていたか」


「入口の水槽を覚えてた」


「ああ。数年前に、やめたそうだ」


愛菜は頷いた。


それきり、会話が止まった。


大虎は湯呑みを持ち、熱さを確かめていた。


父も茶を飲んだ。


愛菜は、何か話した方がいいのか迷った。


店までの道。


今日の天気。


そのどれも、今この部屋で話すには、少し遠い気がした。


父が口を開いた。


「料理は、いくつか頼んである。足りなければ、追加してくれ」


「うん」


「食べられないものは、なかったな」


愛菜は父を見た。


子供の頃と、今。


父の中で、どのあたりまでつながっているのだろう。


「大丈夫だと思う」


大虎が、品書きを二人の間へ置いた。


「これ、おいしそうだね」


愛菜は指された料理を見た。


「うん。あとで頼もう」


父は、そのやり取りを見ていた。


***


前菜が運ばれた。


三人が箸を取ったところで、父が手を止めた。


「食事の前に、一つだけ」


愛菜の肩が、わずかに上がった。


大虎も父へ顔を向けた。


父は箸を置いた。


「先日は、悪かった」


愛菜は黙っていた。


父は彼女を見た。


「会社がどうなってもいいのか、と聞いた。あれは、答えを迫るための言い方だった」


愛菜の指が、箸袋に触れた。


父は言葉を探しているようだった。


用意してきた文章を読んでいるのではなかった。


「海王の資金が遅れていることは、分かっていた。それでも、こちらから強く言えば話が壊れると思っていた」


一度、息を吐く。


「その分を、お前に引き受けさせようとした」


愛菜は、机の上の父の手を見た。


以前より、節が目立つ気がした。


けれど、そのことだけで、胸の中のものがほどけるわけではなかった。


「私、あのあと、自分が悪かったのかなって考えた」


父は目を逸らさなかった。


「うん」


「考えなくていいことまで、ずっと考えた」


「……そうだな」


愛菜は、箸袋から手を離した。


「今日、謝ってくれたのは嬉しい。でも、もう大丈夫だとは、まだ言えない」


父はゆっくり頷いた。


「分かった」


許してほしい、とは続けなかった。


愛菜は、その次の言葉を待たずに済むことに、少し驚いた。


大虎は隣で、何も言わなかった。


***


父が箸を取り直したところで、店の人が料理を運んできた。


蓋のある椀を、三人の前に置く。


「熱いうちに、どうぞ」


父は蓋へ手を掛けた。


愛菜も開けた。


湯気が上がった。


白い魚の身に、薄く餡がかかっていた。


ひと口食べると、思ったより熱かった。


愛菜は口元へ手を添えた。


大虎が少し笑う。


「熱かった?」


愛菜は頷いた。


父も口をつけかけて、一度椀を戻した。


「そうか」


大虎が、今度は声を出して笑った。


愛菜もつられた。


父は少し戸惑ったあと、口元を緩めた。


部屋の中で、初めて誰かが自然に笑った。


***


料理が半分ほど進んだ頃、父が大虎へ尋ねた。


「普段、お二人は、食事の時間を合わせられるのですか」


大虎は箸を置いた。


「合う日は、一緒に食べています。遅くなる時は、先に食べてもらいます」


「娘の帰りも、遅いでしょう」


「最近は、前より早くなりました」


愛菜が顔を向けた。


「私?」


「うん。前は、帰ってからも資料を開いてた」


「今も開く日、あるよ」


「あるけど、閉じるのも早くなった」


父は二人を交互に見た。


「仕事は……今、どうなんだ」


愛菜は父を見た。


少し迷ってから、答えた。


「パンツを、十二着だけ作った」


父の眉が動いた。


「十二?」


「最初は、それだけ」


父は何か言いかけた。


愛菜には、その言葉が分かる気がした。


それでは利益が出ない。


もっと数を作らなければ。


けれど父は、口を閉じた。


「どうして、その数にした?」


愛菜は、膝の上で握っていた手をほどいた。


「試着してもらっても、実際に買ってもらえるかは分からなかったから。あと、売ったあとに困ることがあったら、ちゃんと対応できる数にしたかった」


父は頷いた。


「売れたのか」


「今は、三着」


大虎が愛菜を見た。


「増えたんだ」


「今日、一着。連絡が来た」


「そうか」


大虎の顔が明るくなった。


父はその表情を見てから、愛菜へ目を戻した。


「どんな人が買った?」


愛菜は、少し間を置いた。


その質問は、予想していなかった。


***


最初に買ってくれた客の話をした。


座ると腰が苦しかったこと。


ポケットへ携帯電話を入れたかったこと。


裾を直し、穿いて帰ってくれたこと。


父は途中で、売上や利益を尋ねなかった。


愛菜は、榊原の上着の話もした。


右腕へ袖を通すのが難しかった。


内側に工夫を加えた。


表のボタンは残した。


父は、茶を飲みながら聞いていた。


「新しい服を売ったわけではないのか」


「うん。直したの」


「それも、会社の仕事にしている?」


「できる範囲で。何でも引き受けられるわけじゃないけど」


父は考えるように頷いた。


愛菜は、携帯電話を取り出した。


榊原本人の写真ではなく、許可をもらって記録した上着の内側を見せた。


父は眼鏡を掛けた。


画面へ顔を近づける。


「この小さいのを、持つのか」


「そう。着る時に、ここから引けるように」


「なるほど」


父は、もう一度見た。


愛菜は急いで画面を閉じなかった。


父が見終えるまで、携帯電話を持っていた。


***


焼き物の皿が下げられると、父は大虎へ向き直った。


「本来なら、もっと早く、こういう席を作るべきでした」


大虎は首を少し傾けた。


「今日、呼んでいただけてよかったです」


「私は、あなたを会長としてばかり見ていました」


父は言ってから、少し愛菜を見た。


「娘が、どんな暮らしをしているのか、ほとんど聞いていなかった」


愛菜は茶碗を置いた。


父は、大虎へ尋ねた。


「娘といて、困ることはありませんか」


「お父さん」


愛菜が声を上げた。


大虎は笑った。


「ありますよ」


愛菜が振り向いた。


「あるの?」


「一人で考えて、決まってから話そうとするところ」


愛菜は、言い返せなかった。


父も黙った。


大虎は続けた。


「でも、最近は、決まっていないことも話してくれます」


愛菜は目を伏せた。


父が、自分の湯呑みを見た。


「それは、私も同じかもしれんな」


大虎は答えなかった。


愛菜は父を見た。


父も、こちらを見た。


二人とも少しだけ、苦く笑った。


***


食事の最後に、小さなプリンが出てきた。


愛菜は目を丸くした。


「これ、まだあるんだ」


父の顔が、初めてはっきり緩んだ。


「覚えていたか」


「上のカラメルが、苦いやつ」


「昔は、そこだけ残していた」


愛菜はスプーンを取った。


「今は食べられるよ」


ひと口食べる。


少し苦くて、柔らかかった。


父は、その様子を見ていた。


「頼んでおいてよかった」


愛菜はスプーンを止めた。


父が、今日のために覚えていたものがあった。


それは、今の自分を全部知っていることとは違う。


それでも、何も残っていなかったわけではなかった。


「ありがとう」


父は頷き、自分のプリンへ手を伸ばした。


***


店を出ると、風が少し冷たかった。


父の車が、入口の近くへ来た。


乗り込む前に、父は愛菜へ言った。


「また、都合が合えば」


愛菜は大虎を見た。


大虎は、彼女の返事を待っていた。


「うん。仕事が少し落ち着いたら」


父は頷いた。


「連絡を待つ」


今度は、日を決めるよう急かさなかった。


車が出ていく。


愛菜は見送ってから、息を吐いた。


大虎が隣へ来た。


「疲れた?」


「少し」


「帰ろうか」


愛菜は頷いた。


駐車場まで歩きながら、大虎が尋ねた。


「プリン、好きだったんだね」


「小さい頃は、あれを食べるために来てた気がする」


「今日は、最後まで食べてた」


「大人になったから」


大虎が笑った。


愛菜も笑った。


車へ乗る前に、愛菜は父から届いていたメッセージに気づいた。


《今日は、来てくれてありがとう》


その下に、もう一通あった。


《パンツの写真があれば、今度見せてくれ》


愛菜は、売場で撮った写真を開いた。


送信してから、少し考え、文字を足した。


《まだ三着だけど、また売れたら話すね》


大虎が運転席から顔を向けた。


「何て?」


「服の写真が見たいって」


「そっか」


愛菜は携帯電話をしまい、シートベルトを締めた。


胸の中には、まだ引っかかっている言葉があった。


あの応接室で言われたことも、昔、何度も飲み込んだ返事も、消えてはいなかった。


でも今夜は、父の前で、自分の仕事の話を最後までできた。


大虎が車を出した。


愛菜は窓の外を見ながら、小さく言った。


「また、来てもいいかもしれない」


大虎は前を向いたまま、頷いた。


「うん」


第28章 戻ってきた一着


ゆみからの電話は、午前十時過ぎに来た。


愛菜は、試作の打合せを始めるところだった。


「今、大丈夫?」


いつもより短い声だった。


「うん。どうしたの?」


「最初に買ってくださったお客様から、連絡があったの。ポケットのところが、少し開いてきたって」


愛菜は、持っていた資料を机に置いた。


「生地が破れた?」


「まだ、分からない。これから持ってきてくださる」


「私も行く。触らずに、そのまま見せてもらえる?」


「分かった」


電話を切ると、担当者が愛菜を見ていた。


愛菜は内容を伝えた。


小野寺にも連絡を入れ、店へ向かった。


***


客は、紙袋を膝に載せて座っていた。


愛菜を見ると、少し困ったように笑った。


「わざわざ来てもらって、ごめんなさいね」


愛菜は、その前へしゃがんだ。


「こちらこそ、ご不便をおかけして申し訳ありません。見せていただけますか」


客は袋からパンツを取り出した。


片方のポケットの口に、小さな隙間があった。


指で広げなくても、縫い目が数センチ開いているのが見えた。


ゆみが机の上へ布を敷いた。


愛菜は、その上へ置いた。


「いつ、お気づきになりましたか」


「昨日の夜。脱いだ時に、ここが引っかかって」


「お怪我はありませんでしたか」


「それは大丈夫」


客はポケットへ目を向けた。


「携帯を入れて歩いていたから、重かったのかしら」


愛菜は、首を振りかけて止まった。


まだ、原因は分からない。


ただ、携帯電話を入れたいという希望は、試作の時から聞いていた。


「携帯を入れることも想定して作っています。重さのせいだと、お客様に決めていただく必要はありません」


客は、少し肩を下げた。


愛菜は続けた。


「縫製を確認させてください。そのうえで、交換か返金を含めて、ご希望を伺いたいです」


客はパンツを撫でた。


「できれば、直して着たいの」


愛菜は顔を上げた。


「座っていて、本当に楽だったから」


その言葉は嬉しかった。


同時に、胸が痛かった。


「ありがとうございます。直せるか、確認してご連絡します」


客は頷いた。


帰り際、ゆみに小さな声で言った。


「急がせて、雑になっても困るから。ちゃんと見てもらえればいいわ」


ゆみは深く頭を下げた。


「はい」


***


小野寺が着くまで、愛菜は開いた縫い目を見ていた。


最初の一着だった。


大虎とケーキを食べた夜を思い出した。


その時には、この服が戻ってくることを考えていなかった。


ゆみが隣へ来た。


「売場の分は、いったん下げた」


「ありがとう」


「同じところ、全部見た方がいいよね」


「うん。縫製の確認ができるまで、販売を止めよう」


ゆみはハンガーから一着ずつ外し、机に並べた。


残っているのは九着。


店長が在庫の数を確認した。


愛菜は担当者へ電話した。


販売済みの、ほかの二着についても確認する。


まずは、店から客へ状況を伝えてもらうことになった。


ゆみが、連絡先の記録を開いた。


「何て言うか、一緒に決めてもらっていい?」


愛菜は隣へ座った。


まだ分からない原因を、説明に加えない。


一着に縫い目の開きが見つかったこと。


同じ製造分を確認していること。


手元の商品も見せてもらいたいこと。


二人で、短い文章を作った。


***


小野寺は、返ってきたパンツを裏返した。


糸の端を見て、縫い代を確かめる。


持ってきた拡大鏡を使い、別の場所とも比べた。


愛菜は、横から覗き込みすぎないよう少し離れた。


「どうですか」


「生地が裂けたわけではなさそう」


小野寺は、糸の端を示した。


「ここから、縫い目がほどけている。もう少し見ないと、なぜここだけなのかは分からない」


売場から下げた商品も、順番に見た。


一着。


二着。


五着目で、小野寺の手が止まった。


「これも、終わりの部分が気になる」


愛菜は、その商品へ印をつけた。


電話が鳴った。


担当者からだった。


工場へ連絡がついた。


仕様書と縫製時の記録を照合し、現物も確認したいという。


愛菜は小野寺へ伝えた。


「二着とも、渡せますか」


「その前に、今の状態を残しておこう」


写真を撮り、位置を書き留めた。


作業は静かだった。


誰かが急に答えを見つけ、全部が片づくことはなかった。


***


会社へ戻った愛菜は、仕様書を開いた。


以前、紗良が図と寸法の違いを見つけた箇所とは別だった。


ポケットの補強位置。


縫い始めと縫い終わり。


指示は書いてある。


けれど、書いてあるだけで完成した服を説明できるわけではない。


紗良は担当者の隣で、記録を確認していた。


「私も、見てもいいですか」


愛菜は頷いた。


紗良は、工場で取ったノートを開いた。


森田に聞いた話が書かれていた。


糸の切り方。


縫い目の終わり。


検品で見る箇所。


紗良は何かを言いかけた。


それから一度、口を閉じた。


「工場へ、確認してほしいことがあります」


担当者が顔を向けた。


「どこ?」


紗良は写真の一か所を指した。


「ここで糸を切った時の状態です。私の見方が合っているか、先に聞いてください」


担当者がメモした。


愛菜は、そのやり取りを見ていた。


紗良は、自分が原因を見つけたとは言わなかった。


調べるための質問を、一つ増やした。


***


夜、愛菜は大虎へ短く連絡した。


《最初に売れた服が、不具合で戻ってきた。少し遅くなる》


返事は、しばらくして届いた。


《分かった。何か食べて。帰る時に連絡して》


愛菜は画面を見て、まだ昼食を取っていないことに気づいた。


机の引き出しから、小さな菓子を出した。


包みを開けて食べる。


甘さが、いつもより強く感じられた。


隣の席では、担当者が工場との電話を終えたところだった。


「明日の午前中に、現物を見てもらえます。ほかの製品も、縫い終わりを中心に確認するそうです」


愛菜は頷いた。


「今日は、そこまでにしましょう」


担当者が少し驚いた顔をした。


「残りの資料は——」


「明日、現物の確認が進んでから続きをやろう。今、同じ写真を何度見ても、分からないことは増えないから」


自分に言っているようでもあった。


愛菜はファイルを閉じた。


***


帰宅すると、大虎が台所にいた。


鍋の蓋を少し持ち上げて、火を弱める。


「食べられる?」


「うん」


愛菜は手を洗い、食卓へ座った。


大虎が温かい汁物を置いた。


箸を持ったところで、愛菜が言った。


「一着目で、あんなに喜んだのに」


大虎は向かいへ座った。


「うん」


「ちゃんとできたって、思ってた」


大虎は、その言葉を聞いていた。


すぐに慰めなかった。


愛菜は椀を持ち、ひと口飲んだ。


「お客様、携帯を入れたせいかって聞いたんだよ」


大虎が顔を上げた。


「そのために、ポケットを直したのにな」


愛菜は頷いた。


その一言で、目が熱くなった。


「でも、直して着たいって」


「そうか」


「だから、余計に、ちゃんとしなきゃって思う」


大虎は自分の椀を持った。


「明日、原因が分かるといいな」


愛菜は頷いた。


責められず、成功だったことにもされず、今起きている話をそのまま聞いてもらえた。


それで、ようやく次のひと口が食べられた。


***


翌日、工場での確認が進んだ。


縫い目が開いた一着と、在庫の中の一着。


どちらも、縫い終わりの処理が十分でない部分があった。


ほかの十着についても、同じ箇所を含めて再確認することになった。


原因と工程については、工場から改めて報告が出る。


愛菜は、その説明を小野寺と一緒に聞いた。


工場の担当者が頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


愛菜は、机に置かれた服を見た。


「直したあと、どこを確認するかも決めましょう。お客様へ返す時に、こちらから説明できるようにしたいです」


担当者は頷いた。


小野寺が、確認する箇所を書き出した。


作業は、その場から進み始めた。


***


愛菜は、最初の客へ電話した。


確認できたこと。


直しが可能なこと。


仕上がりを確かめてから返すため、もう少し時間がほしいこと。


順番に伝えた。


客は最後まで聞き、言った。


『分かりました。お願いします』


愛菜は電話の前で頭を下げた。


「ありがとうございます。お待たせして、申し訳ありません」


『受け取りは、お店でいいのよね』


「はい」


『じゃあ、その時、もう一度座ってみるわ』


愛菜は少しだけ、息を吐いた。


「お願いします」


電話を切ると、ゆみから連絡が入っていた。


残る二人とも、商品の確認に応じてくれたという。


一人はまだ穿いていなかった。


もう一人は、特に気になるところはないと言ったが、念のため持ってきてくれる。


愛菜は、三人の欄へ予定を書いた。


売上の数を見ていた時には、三着だった。


今は、それぞれの受取日と、連絡を待っている人の顔があった。


***


夕方、紗良が担当者と一緒に報告を持ってきた。


工場で確認した内容と、仕様書へ追加する注意点だった。


愛菜が読み終えると、紗良が言った。


「販売前に、もっと見られたかもしれません」


愛菜は顔を上げた。


紗良は、手元の紙を見ていた。


「全部を見つけられたとは、言えません。でも、私、仕上がりの線ばかり見ていました」


愛菜は頷いた。


「私もです。試着で直したところが、よくなったかを見ていました」


担当者も椅子へ座った。


三人で、完成品の確認手順を開いた。


追加する項目を決める。


確認した人が、どこまで見たか分かる形にする。


その作業が終わる頃、外は暗くなっていた。


愛菜は最後のページを閉じた。


最初の一着を喜んだ日のことを、取り消したいとは思わなかった。


ただ、あの日には見えていなかった仕事が、その先に続いていた。


机の上に、修理後の受渡予定が置かれていた。


愛菜はその日を手帳へ書き、自分も店へ行くと、ゆみに連絡した。


第29章 見送る朝


直したパンツを渡す日、客は前と同じ靴で店へ来た。


ゆみが袋から商品を出した。


愛菜は、確認した箇所と直した内容を説明した。


客は頷いて聞き、試着室へ入った。


出てくると、まず椅子へ座った。


腰を少し動かす。


立って、ポケットへ携帯電話を入れる。


それから、縫い直したところへ指を当てた。


「見た目は、分からないのね」


小野寺が、表の形を崩さずに直してくれていた。


「はい。内側からも確認しています」


客は鏡を見た。


少し横を向き、頷いた。


「じゃあ、また着ます」


愛菜は頭を下げた。


「お待たせしました」


「今度、何かあったら、また持ってくればいい?」


ゆみが答えた。


「はい。気になることがあれば、お知らせください」


客は笑った。


「それなら、安心ね」


その日も、穿いたまま帰っていった。


扉が閉まると、愛菜はしばらく、その向こうを見ていた。


ゆみが隣へ来た。


「戻ってきてくれて、よかった」


愛菜は頷いた。


最初に買ってもらった時とは違う、静かな嬉しさだった。


***


大虎から連絡が来たのは、その帰りだった。


《今夜、少し予定の話をしたい》


愛菜は、電車の窓に映った自分を見た。


父のことだろうか。


海王のことだろうか。


何となく身構えてから、まだ何も書かれていないことに気づいた。


《分かった。もう帰るところ》


送って、携帯電話をしまった。


***


大虎は、家の机に予定表を広げていた。


愛菜が帰ると、顔を上げた。


「おかえり。どうだった?」


「穿いて帰ってくれた」


大虎の表情が緩んだ。


「よかった」


愛菜は上着を脱ぎ、隣に座った。


「予定の話って?」


「来週、シンガポールへ行くことになった」


「出張?」


「うん。五日ほど。ただ、話が長引いたら、少し延びる」


愛菜は予定表を見た。


出発は月曜日。


帰国は、金曜日の夜になっていた。


「急に決まったの?」


「調整していた案件があって。担当に任せてたけど、俺も行った方がいい段階になった」


大虎は、会議の入った日を指した。


朝から夜まで、予定が詰まっていた。


愛菜は、その紙を初めてちゃんと見た。


いつも、迎えに来てくれる。


話を聞く時間を作ってくれる。


電話をすれば、折り返してくれる。


そのために、ほかの時間がどんな形になっているのかは、あまり知らなかった。


「だいちゃんも、忙しいんだね」


言ってから、愛菜は苦笑した。


「何、当たり前のこと言ってるんだろう」


大虎も笑った。


「忙しくない日は、ちゃんとあるよ」


「今は?」


「ちょっと、忙しい」


愛菜は予定表から手を離した。


「分かった。気をつけて行ってきて」


大虎は頷いた。


それから、少し間を置いて尋ねた。


「それだけ?」


愛菜が顔を向けた。


「何が?」


「寂しい、とか」


愛菜は一瞬黙った。


大虎が、からかうように笑った。


「俺は、ちょっと寂しいけど」


愛菜は、机の下で大虎の膝を軽く叩いた。


「仕事だから、言わない方がいいと思ったの」


「言っていいよ」


「じゃあ、寂しい」


大虎の笑い方が、少し変わった。


愛菜は続けた。


「五日で帰ってきてほしい。でも、無理な約束はしなくていい」


「分かった」


大虎が彼女の手を取った。


「帰れる日が決まったら、すぐ連絡する」


***


出発前の日曜日、大虎は寝室で荷造りをしていた。


開いたスーツケースへ、シャツを入れる。


愛菜は隣で、洗濯から戻ってきた服を畳んでいた。


「それ、持っていかないの?」


薄い羽織りを指す。


大虎は一度持ち上げた。


「暑いだろうし、いらないかな」


「でも、室内は寒いかもしれないよ」


「じゃあ、入れる」


大虎は素直に畳み直した。


愛菜は、少し笑った。


「何?」


「普段、何でも決めてる人なのに」


「服を一枚入れるかどうかまで、意見を曲げない理由ないだろ」


「そうだけど」


二人で残りを詰めた。


充電器。


替えの靴。


移動中に読む資料。


愛菜が、厚い封筒を持ち上げた。


「これも?」


「それは、手持ちの鞄」


封筒の上に、工場の写真が見えた。


愛菜は、それ以上開かなかった。


大虎が気づいた。


「今回の話の一つ」


「工場?」


「買収した会社が持ってる施設。残すか、別の場所へ移すか、現地で話す」


愛菜は写真へ目を戻した。


長い建物の前に、人が並んでいる。


「そこで働いてる人も、移るの?」


「それが、まだ決まってない」


大虎は封筒を受け取った。


「設備だけなら、数字で比べられる。でも、通えなくなる人もいる」


愛菜は頷いた。


「難しいね」


「うん」


大虎は封筒を鞄へ入れた。


その横顔は、さっきまで服を畳んでいた時と少し違っていた。


***


月曜日の朝は、早かった。


愛菜が起きると、大虎はすでに着替えていた。


台所から、湯の沸く音がした。


「起こした?」


大虎が振り向いた。


愛菜は首を振った。


「起きるつもりだった」


食卓には、一人分のパンがあった。


愛菜はもう一枚出し、トースターへ入れた。


大虎が時計を見た。


「まだ、大丈夫?」


「うん。少しある」


二人で座った。


窓の外は、まだ薄暗かった。


大虎は携帯電話に届いた連絡を一つ確認し、机へ伏せた。


愛菜は、焼けたパンを半分に割った。


「向こうに着いたら、一回だけ連絡して」


「する」


「食べられる時に、食べてね」


「愛菜も」


「私は、ちゃんと食べる」


大虎が顔を上げた。


愛菜は、自分でも少し笑った。


「……なるべく」


玄関で靴を履くと、大虎はスーツケースの持ち手を伸ばした。


愛菜は扉の前に立った。


「行ってらっしゃい」


「行ってきます」


大虎が手を伸ばし、愛菜を引き寄せた。


いつもより少し長く、抱きしめた。


離れてから、愛菜の額へ軽く口づけた。


「寂しくなったら、連絡して」


「だいちゃんもね」


「分かった」


扉が閉まった。


車の音が遠ざかるまで、愛菜は玄関にいた。


部屋へ戻ると、食卓に二人分の皿が残っていた。


片づけながら、今夜は一人なのだと、ようやく実感した。


***


最初の二日は、短い連絡が続いた。


着いた。


これから会議。


今日は遅くなる。


愛菜も、仕事の合間に返した。


追加の試着日が決まった。


残りの商品の確認が終わった。


榊原から、一人で上着を着られたと連絡が来た。


大虎の返事は短かったが、必ずその話に触れていた。


《榊原さん、喜んでるだろうね》


《お客様のところへ戻せてよかった》


愛菜は、帰宅してから、その日の出来事を一度まとめるようになった。


送らなくてもいい小さなことも書き、長すぎると思って消した。


三日目の夜、夕食の写真を送った。


一人分の皿だった。


《今日は、ちゃんと食べた》


少しして、電話が鳴った。


***


「見たよ」


大虎の声は、少し低かった。


「そっちは?」


愛菜が尋ねる。


「今、部屋に戻った」


「ご飯は?」


「あとで頼む」


愛菜は時計を見た。


向こうは、日本より一時間早い。


それでも、夕食には遅かった。


「先に頼んだら?」


「そうだね」


電話の向こうで、何かを操作する音がした。


そのあと、静かになった。


いつもなら、大虎が愛菜の一日を尋ねる。


けれど、その夜は何も言わなかった。


愛菜は、ソファへ座り直した。


「今日、どうだった?」


大虎はすぐには答えなかった。


「ちょっと、しんどかった」


愛菜は、背筋を伸ばした。


大虎が、その言い方をするのは珍しかった。


「工場の話?」


「うん」


話せる範囲で、と付け加えようとして、やめた。


大虎が続けるのを待った。


「残すなら、相当直さないといけない。でも、移すと通えなくなる人がいる。今日、その人たちと会った」


愛菜は、スーツケースの横で見た写真を思い出した。


「何て言ってたの?」


「金額も大事だけど、次の日からどこへ行けばいいのか、それを知りたいって」


大虎の声が途切れた。


「俺が来れば、今日、決まると思ってた人もいた」


愛菜は膝の上へ手を置いた。


「決めたの?」


「まだ。いくつか、調べ直してもらってる」


「そっか」


愛菜は、それ以上、すぐに言えなかった。


工場の人たちの事情を知らない。


建物を見たこともない。


大丈夫だよと言えば、大虎が安心するかどうかも分からなかった。


「今、話を聞いていた方がいい?」


愛菜が尋ねた。


大虎は少し間を置いた。


「うん」


「分かった」


***


大虎は、その日の会議であったことを少しずつ話した。


一人が話し始めると、ほかの人も続いたこと。


数字では分けていた項目が、現場ではつながっていたこと。


移転先に空きがあっても、同じ仕事を全員へ用意できるわけではないこと。


愛菜は聞いた。


時々、分からないところを尋ねた。


大虎が答えに詰まると、待った。


途中で、部屋の呼び鈴が鳴った。


食事が届いたらしかった。


「切ろうか」


「いや、そのままでいて」


愛菜は携帯電話を耳に当てたまま、待った。


皿を置く音。


礼を言う声。


扉が閉まる音。


大虎が戻ってきた。


「ごめん」


「何を頼んだの?」


大虎が料理を説明した。


愛菜は笑った。


「ちゃんと食べられそうだね」


「うん」


箸を持つ音がした。


しばらくして、大虎が言った。


「声を聞いたら、少し腹が減った」


愛菜は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「じゃあ、もう少し話してる」


***


電話を切る前に、大虎が言った。


「金曜日、帰れないかもしれない」


愛菜は目を閉じた。


少しだけ、残念だった。


正直に、そう思った。


「いつ頃、分かる?」


「明日の夕方には」


「分かった。決まったら教えて」


「ごめんな」


「寂しいけど、謝らなくていいよ」


愛菜は、ソファの隣へ目を向けた。


いつも大虎が座る場所が空いていた。


「帰ってきたら、今度は私がご飯を用意しておく」


大虎が笑った。


「楽しみにしてる」


通話が終わった。


愛菜はしばらく、そのまま座っていた。


大虎が話すのを、聞いていただけだった。


何も決められなかったし、問題も解けなかった。


それでも、最後の声は、最初より少し柔らかかった。


愛菜は立ち上がり、台所へ行った。


帰る日が決まったら、何を作ろう。


冷蔵庫を開けながら、考えた。


第30章 帰る場所の灯り


金曜日の帰国は、延期になった。


大虎から連絡が来たのは、木曜日の夕方だった。


《日曜の夜になる。便が確定したら送る》


愛菜は、その文章を会社の机で読んだ。


週末に一緒に行こうと思っていた店の予約画面を閉じた。


まだ、申し込んでいなくてよかった。


そう思ってから、少し寂しくなった。


《分かった。帰ってきたら、ゆっくりしよう》


送ると、間もなく返事があった。


《ありがとう》


愛菜は携帯電話を伏せ、目の前の仕事へ戻った。


***


シンガポールでは、大虎が同じ資料を三度目に開いていた。


既存施設の改修費。


新拠点への移転費。


通勤時間。


従業員の人数。


それまで一つだった移転案の隣に、新しい案が並んでいた。


生産の一部を先に移す。


旧施設は必要な箇所を改修し、一定期間、残す。


その間に、配置と通勤の問題を個別に調整する。


担当者が説明を終えると、財務責任者が口を開いた。


「費用は、最初の案より増えます」


大虎は頷いた。


「どこで、いくら増えるかは?」


数字が示された。


建物の維持費。


二つの場所を動かすための人員。


設備の移設を分けることで発生する費用。


大虎は、順番に確認した。


現地の責任者が言った。


「ただ、これでも全員が今と同じ条件で働けるわけではありません」


「分かっています」


大虎は資料を閉じなかった。


「残る人、移る人、別の仕事を探す人。それぞれ、誰が話を聞くのか決めましょう」


会議室が静かになった。


大虎は、昨日会った従業員の顔を思い出していた。


次の日から、どこへ行けばいいのか。


その質問に、明日答えられることと、まだ答えられないことがあった。


「今日、決まらないことには、次に返事をする日を入れてください」


担当者が、空いていた欄へ日付を書いた。


大虎はその数字を見届けてから、ようやくペンを置いた。


***


土曜日、愛菜は午前中だけ会社へ行った。


修理した商品の受渡しは、すべて終わっていた。


店からの報告を読み、工場への支払い予定を確認した。


小野寺からは、次の試作について、急がず一度会って話したいと連絡が来ていた。


愛菜は来週の予定を返した。


片づけをしていると、人事担当者が書類を持ってきた。


紗良の研修報告だった。


以前より、短かった。


見たこと。


分からなかったこと。


次に質問したいこと。


三つに分けて書いてあった。


最後に、作業台の見取り図が添えられていた。


型紙がどこへ渡り、裁断された生地がどこへ運ばれ、誰の手で縫われるのか。


愛菜は、その線を指で辿った。


一枚の絵を渡した先に、何人もいる。


紗良は、ようやくその人数を描いていた。


愛菜は確認済みの印をつけ、人事へ返した。


「次の研修では、質問を絞ってから行くよう伝えてください。先方の作業を止める時間も、考えてもらいたいので」


「分かりました」


人事担当者が出ていくと、愛菜は机の灯りを消した。


今日は、午後から買い物へ行くつもりだった。


***


スーパーで、愛菜は野菜売場を二度回った。


大虎が何を食べたいか、先に聞けばよかった。


けれど、疲れて帰る人に、献立まで決めてもらうのも違う気がした。


煮込んでおけば、帰宅が遅れても温められるもの。


夜でも、食べたい量だけ食べられるもの。


肉と野菜を籠へ入れた。


そのあと、菓子売場の前で立ち止まった。


小さなプリンが並んでいた。


愛菜は二つ取った。


父との食事で食べたものとは違ったが、帰ってから一緒に食べるには、ちょうどよさそうだった。


会計を終えると、大虎から写真が届いた。


大きな窓のある食堂だった。


机に、一人分の食事。


《今日は、昼に食べられた》


愛菜は笑い、買い物袋の写真を返した。


《日曜の分、準備中》


すぐに既読がついた。


《帰りたくなった》


愛菜は、その返事をしばらく見ていた。


***


日曜日の朝、大虎は最後の面談を終えた。


現地の責任者が、出口まで来た。


「すべて解決した形ではなく、申し訳ありません」


大虎は首を振った。


「これから実行する話です。困ったことが出たら、早めに上げてください」


責任者が頷いた。


「次の報告は、水曜日に」


「お願いします」


車へ乗る前に、作業服の男性が近づいてきた。


先日の説明会で、通勤について質問した人だった。


大虎は足を止めた。


通訳が隣へ来た。


男性は、短く話した。


家族と相談する時間ができた。


それを伝えたかったという。


大虎は頷いた。


礼を言われて、胸が軽くなったわけではなかった。


決めた案が、その人に合うかどうかは、まだ分からない。


けれど、次の話をする日が決まっていた。


男性は頭を下げ、建物へ戻った。


大虎は、その背中が扉の向こうへ消えるのを見てから、車に乗った。


***


愛菜は午後から料理を始めた。


最初は、動画を見ながら分量を確かめた。


途中から、画面を見る回数が減った。


鍋の蓋を開ける。


味を確かめる。


少し水を足す。


もう一度、火を弱める。


予定どおりには進まなかった。


切った野菜の大きさも、揃っていなかった。


それでも、部屋に温かい匂いが広がった。


大虎の飛行機が着く頃、鍋を火から下ろした。


携帯電話に、到着の連絡が入る。


《着いた。荷物を受け取ったら帰る》


愛菜は時計を見た。


《気をつけて。ご飯、できてる》


送ってから、食卓を整えた。


二人分の箸。


二人分の湯呑み。


一週間近く、一つずつしか出していなかったものを、並べ直した。


***


玄関の鍵が回った時、愛菜は台所にいた。


火を止め、すぐに向かった。


扉が開いた。


大虎が、スーツケースを引いて入ってきた。


「ただいま」


顔を見た途端、愛菜は、用意していた言葉を忘れた。


大虎は靴を脱ぎかけて、顔を上げた。


「どうした?」


愛菜は首を振った。


近づいて、上着の袖を掴んだ。


「おかえり」


大虎が鞄を下ろした。


愛菜を抱き寄せる。


上着が少し冷たかった。


その下に、いつもの体温があった。


愛菜は、背中へ腕を回した。


「長かった」


「うん」


「五日って言ってたのに」


「二日、増えたな」


「知ってる」


大虎が小さく笑った。


愛菜も、胸へ顔を寄せたまま笑った。


しばらくして、大虎が言った。


「いい匂いする」


愛菜は顔を上げた。


「先に、手を洗って」


「はい」


ようやく腕を離した。


***


大虎は着替えてから食卓へ来た。


愛菜が鍋から料理をよそう。


器の中を見て、大虎が目を細めた。


「これ、作ってくれたんだ」


「うん。味見はした」


「それは安心」


愛菜が睨むと、大虎は笑った。


一口食べる。


愛菜は、自分の箸を持ったまま、その顔を見た。


大虎が気づく。


「見すぎ」


「どう?」


「うまい」


「本当に?」


大虎はもう一口食べた。


「うん」


愛菜は、ようやく自分の分を食べ始めた。


少し、味が濃い気もした。


でも、大虎は汁まで飲んだ。


愛菜は何も言わず、その器を受け取った。


***


食事のあと、大虎はソファへ座った。


背中を預けると、目を閉じた。


愛菜は台所から、その様子を見た。


普段なら、大虎も皿を運んでくれる。


今日は、動かなかった。


愛菜は食器を流しに置き、そばへ行った。


「眠い?」


大虎は目を開けた。


「少し」


「お風呂、あとにする?」


「そうしようかな」


愛菜は隣へ座った。


大虎が、肩へ額を寄せてきた。


愛菜は少し驚いた。


いつもは、自分がそうする方だった。


重みを受け止めて、手を彼の背中へ置いた。


「お疲れさま」


大虎は返事の代わりに、小さく息を吐いた。


部屋の時計が鳴った。


外を走る車の音が、少し遠くに聞こえた。


愛菜は、工場のことを尋ねなかった。


大虎も、すぐには話さなかった。


しばらくして、低い声がした。


「全員に、喜んでもらえる案にはならなかった」


愛菜は、背中に置いた手を止めた。


「うん」


「残れる人もいる。でも、今の仕事を続けられない人もいる」


「そっか」


大虎は目を閉じたままだった。


「戻ってくる時、これでよかったのか、ずっと考えてた」


愛菜は彼の髪へ触れた。


会長として、向こうでは何度も判断を求められたのだろう。


帰ってきてまで、自分に正しいと言ってもらいたいわけではないのかもしれない。


「次に、話を聞く日は決まってる?」


愛菜が尋ねた。


「水曜日」


「じゃあ、その時に、分かることもあるね」


大虎は少し黙った。


「うん」


愛菜は、それ以上言わなかった。


肩に預けられていた重みが、少しずつ深くなった。


***


大虎が眠ったあと、携帯電話が震えた。


机の上で、画面が光っていた。


愛菜は触らずに、そのままにした。


少しして、大虎が目を開けた。


「鳴った?」


「一回」


大虎は体を起こし、画面を見た。


短く返事を送ってから、音を消した。


「急ぎ?」


「明日で大丈夫」


携帯電話を伏せる。


愛菜は、彼の乱れた髪を見た。


「会長の髪、寝癖ついてる」


大虎は手で押さえた。


「もう会長は終わり」


愛菜が笑った。


「じゃあ、プリン食べる?」


大虎が顔を向けた。


「あるの?」


「二つ」


「食べる」


愛菜は冷蔵庫から取り出した。


食卓へ移るほどでもなく、二人でソファに座ったまま、蓋を開けた。


大虎が一口食べる。


愛菜も食べた。


「帰ってきた感じがする」


大虎が言った。


愛菜は、スプーンを止めた。


料理のことか、部屋のことか。


尋ねなくても、いい気がした。


「おかえり」


もう一度言うと、大虎は笑った。


「ただいま」


空いた容器を机へ置く。


愛菜が肩を寄せると、今度は大虎の腕が回ってきた。


明日の予定は、まだ何も聞かなかった。


第31章 会議室の外の声


月曜日の朝、愛菜が目を覚ますと、大虎はまだ眠っていた。


片腕が、布団の外へ出ていた。


愛菜はそっと戻そうとして、手を止めた。


起こすほど寒いわけではなかった。


カーテンの隙間から、細い光が入っていた。


昨夜、片づけきれなかったスーツケースが壁際にある。


その横を通る時、ようやく帰ってきたのだという実感がした。


台所で湯を沸かしていると、大虎が起きてきた。


「おはよう」


少し掠れた声だった。


「まだ寝ていてもよかったのに」


「何時?」


愛菜が答えると、大虎は時計を見た。


「よく寝たな」


冷蔵庫を開け、飲み物を出す。


その後ろ姿が、いつもの朝に戻っていた。


愛菜はパンを皿へ載せた。


「今日は、早く帰れそう?」


「夕方の予定次第かな。分かったら連絡する」


「うん」


二人で食卓へ座った。


大虎は、会社から届いた連絡を一度だけ確認した。


その中に、シンガポールの担当者からの報告があった。


帰国後の説明は、予定どおり進んでいる。


従業員との個別面談は、水曜日までに集計する。


大虎は読み終え、携帯電話を伏せた。


***


水曜日の報告は、午後三時からだった。


大虎は、担当役員とともに画面の前へ座った。


現地の責任者が説明を始める。


施設の改修範囲。


移転する設備。


新しい通勤手段の検討。


資料は、帰国前より詳しくなっていた。


従業員の希望をまとめた表もあった。


移転を希望する人。


旧施設での勤務継続を希望する人。


別の対応を検討している人。


大虎は最後の欄で目を止めた。


「この『退職を検討』というのは、本人がそう話したんですか」


現地責任者が、手元の資料を見た。


「面談担当者からは、そのように報告されています」


「理由も、ありますか」


「家庭の事情、通勤の問題などです」


大虎は表を拡大した。


同じ短い言葉が、いくつも並んでいた。


「本人の説明を残した記録は?」


「取り寄せます」


現地責任者が、画面の外へ声をかけた。


その間に、東京側の人事担当者が一枚の紙を大虎へ渡した。


「今朝、相談窓口に入ったものです。現地の従業員からです」


翻訳が添えられていた。


大虎は読み始めた。


最初の数行で、手が止まった。


《移転先に通えない場合は、退職を選ぶことになると説明されました》


その下には、こう続いていた。


《会長のお話では、家族と相談する時間があると思っていました。回答期限は金曜日と言われています》


大虎は顔を上げた。


画面の中で、現地責任者が戻ってきたところだった。


***


「面談で、何を説明していますか」


大虎が尋ねた。


責任者は、机に置いた書類を持ち上げた。


「今後の配置について、希望を確認しています」


「使っている書式を、見せてください」


共有された画面には、二つの選択肢があった。


移転先での勤務を希望する。


退職条件の説明を希望する。


旧施設で働き続ける選択肢は、なかった。


大虎は、しばらくその画面を見た。


「これを渡しているんですか」


現地責任者の返事が遅れた。


「旧施設に残る対象者については、別途選定する予定で——」


「誰が、いつ選ぶんですか」


「配置計画が固まった段階で」


大虎は、手元にある帰国前の議事録を開いた。


「それが決まる前に、この二つから選んでもらっている?」


責任者は口を閉じた。


東京側の役員が、画面へ身を寄せた。


「この書式は、いつ作ったものですか」


人事の担当者が答えた。


最初の全面移転案を前提に、準備していたものだった。


段階的に移す方針へ変わったあとも、日程を優先して、そのまま使っていた。


説明の際に補足すればよいと判断したという。


大虎はペンを机へ置いた。


「その補足を受けた人が、今の二つしかないと思って相談してきています」


画面の向こうが静かになった。


大虎は、紙に書かれた金曜日という文字を見た。


自分が帰国してから、まだ三日だった。


***


会議は、一度止まった。


現地側で、実際に面談を担当した人を呼ぶことになった。


待っている間、東京側の役員が言った。


「旧施設に残せる人数も、確定していません。先に希望だけでも取る意図だったのだと思います」


大虎は頷いた。


「その意図は分かります」


役員が顔を上げた。


「ただ、この紙なら、通えない人は退職の方へ印をつけるでしょう。それを本人の希望として数えたら、次の判断も間違う」


大虎は、集計表を閉じた。


「この人数は、今のまま使わないでください」


担当者が頷いた。


現地の面談担当者が加わると、話は少しずつ具体的になった。


家族に介護が必要な人。


子供の送り迎えがある人。


移転先へ通うと、片道二時間以上かかる人。


旧施設で続けられないかと尋ねた人もいた。


その人たちにも、回答期限は金曜日だと伝えていた。


「間に合わなければ、どうなると説明しましたか」


大虎が尋ねた。


担当者は、資料を見たまま答えた。


「期限までに希望がなければ、会社側の案を了承したものとして扱う、と」


大虎は、椅子へ座り直した。


「その扱いを、誰が決めましたか」


担当者は現地責任者を見た。


責任者が口を開いた。


「私の判断です」


***


大虎はすぐには言葉を返さなかった。


相手を責める言葉なら、いくつも出た。


けれど今、金曜日までに返事をしなければならないと思っている人たちへ、先に伝えることがあった。


「まず、その期限と、返事がなければ了承とする扱いを取り下げてください」


現地責任者が頷いた。


「すでに回答した人の分も、確定した意思として扱わない。現地の人事と法務で、再説明の方法を今日中に整えてください」


東京側の人事担当者が、項目を書き始めた。


大虎は続けた。


「旧施設で働ける人数も、移転先で用意できる仕事も、まだ決まっていない。その状態で何を選べるのか、まず会社が整理する必要があります」


現地責任者が頭を下げた。


「申し訳ありません」


「従業員に、説明してください。私が伝えた話と違うものを渡したことも含めて」


大虎は、相談窓口へ届いた文面に目を戻した。


会長のお話では。


その一文が残っていた。


「私も、説明の場に出ます。オンラインで構いません。質問できる時間を取ってください」


会議の予定が、その場で組み直された。


***


夕方、大虎は自分の部屋へ戻った。


机の上に、まだ確認していない書類が積まれていた。


椅子に座ると、秘書が入ってきた。


「広報から、確認の依頼です」


差し出されたのは、取材の質問だった。


海外工場の再編に伴い、従業員へ退職を迫っているとの情報がある。


会社の見解を聞きたい。


回答期限は、翌日の昼。


大虎は最後まで読んだ。


「現地の方にも、取材している?」


「そのようです」


大虎は紙を机へ置いた。


「さっき確認した事実を、広報へ渡してください。書式と説明に問題があって、対応を改めていることも」


秘書が頷いた。


「誤解である、という説明にはしないんですね」


大虎は顔を上げた。


「受け取った人が、そう理解する書類を渡していたから」


秘書は、少しだけ姿勢を正した。


「承知しました」


扉が閉まったあと、大虎は愛菜とのメッセージ画面を開いた。


《今日は遅くなる。先に食べていて》


送ってから、携帯電話を置いた。


すぐに返事が来た。


《分かった。帰ってから温められるようにしておく》


大虎はその文面を見て、ようやく一度、深く息を吐いた。


***


愛菜が記事を見たのは、翌日の午後だった。


配信されたばかりの見出しが、携帯電話の画面に出た。


カルソック傘下の海外工場で再編。


従業員から、退職を迫られたとの訴え。


愛菜は立ち止まって読んだ。


記事には、工場で働く人の話が載っていた。


通勤できない。


期限までに家族と相談しきれない。


会社の説明が変わったように感じる。


後半には、カルソック側の回答もあった。


当初の方針に沿わない書式が使われていたこと。


回答期限を取り下げ、再説明を進めていること。


大虎の名も、書かれていた。


昨夜は帰りが遅く、食事をしながら詳しい話をする時間がなかった。


今朝も、先に家を出ていた。


愛菜は最後まで読み、画面を閉じた。


会社へ電話するか迷った。


声を聞きたいと思った。


けれど、今、何を伝えたいのかは、まだはっきりしていなかった。


机へ戻ると、営業担当者が近づいてきた。


「社長。受付に、お電話が入っています」


「どちらから?」


担当者は少し言いにくそうだった。


「取材だそうです。カルソック会長の奥様として、お話を伺いたいと」


愛菜は、携帯電話を机へ置いた。


***


愛菜は相手の名前と連絡先、質問の内容を文書でもらうよう頼んだ。


少しして、メールが届いた。


工場再編について、夫からどのような説明を受けているか。


家庭では、どのような様子か。


従業員の訴えを、妻としてどう受け止めるか。


愛菜は椅子に座った。


帰国した夜の大虎が、浮かんだ。


肩へ額を寄せたこと。


全員に喜んでもらえる案にはならなかったと話したこと。


プリンを食べて、帰ってきた感じがすると笑ったこと。


そのどれかを話せば、大虎を冷たい人ではないと伝えられる気がした。


けれど、工場の人が困っていることへの答えにはならなかった。


愛菜は短く返事を書いた。


事業について、自分は判断や説明をする立場にない。


取材は、会社の担当窓口へお願いしたい。


家庭での会話については、回答を控える。


送信する前に、もう一度読んだ。


それから、大虎へ連絡した。


《記事を読んだ。私にも取材が来たので、会社の窓口へお願いすると返すね。家で話したことは答えない》


数分後、返事が届いた。


《分かった。巻き込んでごめん》


愛菜は画面を見た。


その言葉に、すぐ何かを返したくなった。


しかし、長い文章にはしなかった。


《謝るより、今日は何時に帰れそうか、分かったら教えて》


***


夜、大虎は十一時を過ぎて帰ってきた。


愛菜は食卓に座り、仕事の資料を読んでいた。


鍵の音がすると、顔を上げた。


「おかえり」


「ただいま。起きてたんだ」


「今、読み終わったところ」


大虎は鞄を置いた。


いつもより、動きが遅かった。


愛菜は台所へ立ち、食事を温めた。


大虎が座る。


しばらく、器と箸の音だけがした。


愛菜は向かいに座って、湯呑みを両手で持った。


「明日、現地の人たちと話す」


大虎が言った。


愛菜は頷いた。


「説明を、やり直すんだね」


「うん」


大虎は箸を置いた。


「俺は、決めたことを伝えてきたつもりだった。でも、現場で使う紙まで確認してなかった」


愛菜は黙って聞いた。


「一人で全部を見ることはできない。それは分かってる。でも、見なくていい形を作れていたわけでもなかった」


大虎は、机の上の自分の手を見た。


愛菜は、昼間届いた質問を思い出した。


家庭では、どのような様子か。


ここで見ている大虎のことを、外へ説明する必要はなかった。


「明日、最初に何を話すの?」


愛菜が尋ねた。


大虎は少し考えた。


「前に伝えたことと、違う選び方をさせたこと。それを謝る」


「うん」


「そのあと、決まっていることと、まだ決まっていないことを説明する」


愛菜は頷いた。


「聞いてみてもいい?」


大虎が顔を上げた。


「今?」


「うん。私が従業員の人の気持ちを全部分かるわけじゃないけど、説明が分からないところは聞けるから」


大虎は、しばらく愛菜を見ていた。


それから、鞄から一枚の紙を取り出した。


食べ終えた器を脇へ寄せる。


愛菜も、湯呑みを少し遠ざけた。


大虎は紙を開き、最初の一文を口にした。


第32章 答えのない欄


「今回、従業員の皆さんへの説明に、一部不十分な点がありました」


大虎が読み始めると、愛菜は紙へ目を落とした。


次の一文へ進む前に、手を上げた。


「最初から、聞いてもいい?」


「うん」


「不十分だったのは、説明だけ?」


大虎は、口を閉じた。


愛菜は続けた。


「選ぶための紙が違っていたんだよね。期限も、返事をしなかった時の扱いも」


「そう」


「じゃあ、そこを先に聞きたいかもしれない。話し方が悪かっただけなのかなって、思うから」


大虎はペンを取った。


最初の一文へ、線を引く。


しばらく考えてから、紙を見ずに言った。


「私が現地で説明した方針と異なる選択肢を示し、返事がなければ会社案に同意したものと扱うと伝えていました。その手順を止めます。すでに出した回答も、確定した意思として扱いません」


愛菜は頷いた。


「それなら、何が変わるか分かる」


大虎は、今話した内容を書き留めた。


愛菜は次の段落を読んだ。


「もう一つ」


「どうぞ」


「『今後、個別に対応します』って、誰に連絡すればいいの?」


大虎は紙を見た。


担当部署の名前はある。


けれど、連絡先も、相談できる時間もなかった。


「確かに」


愛菜は湯呑みを持った。


「私も、お客様への返事で、確認しますって何度も言った。でも、いつ返事をもらえるか分からないままだと、待つ方は困るよね」


大虎は、段落の下へ余白を作った。


そこに担当者の名前と連絡先を入れることにした。


***


一通り読み終えると、時計は十二時を回っていた。


愛菜が口元を押さえた。


大虎は紙を伏せた。


「今日は、ここまでにしよう」


「もう大丈夫?」


「かなり直せた。ありがとう」


愛菜は頷き、空いた器を重ねた。


大虎が、その半分を受け取る。


並んで台所へ運んだ。


水を流しながら、愛菜が言った。


「明日、怒る人もいると思う」


「うん」


「分かりやすく話したら、納得してもらえるとは限らないよね」


大虎は皿を置いた。


「そうだね」


愛菜は、その横顔を見た。


「でも、何を言っているのか分からないまま終わるよりは、いいと思う」


大虎は少し笑った。


「まず、そこからだな」


二人で片づけを終えた。


寝室へ入る時、大虎は紙を居間に置いていった。


***


翌朝、説明会の開始前に、現地会場の映像が届いた。


食堂に椅子が並んでいた。


前列には、腕を組んだまま座っている人がいる。


後ろでは、隣の人と小さく話している。


大虎は、その画面を見ていた。


会議室には、人事と法務、現地事業を担当する役員がいた。


通訳が、音声を確認した。


開始時刻になると、大虎は手元の紙を少し脇へ置いた。


「先日、現地で皆さんにお話ししたあと、会社は、その説明と異なる選択を求める書類を配りました」


通訳が言葉を伝える。


大虎は待った。


「会社の手順に問題がありました。申し訳ありませんでした」


頭を下げた。


画面の向こうで、何人かが顔を上げた。


誰も拍手をしなかった。


大虎は、取り下げる期限と、すでに提出された回答の扱いを説明した。


画面には、変更点だけをまとめた紙が表示された。


続いて、決まっていることを話した。


旧施設の一部を、一定期間残すこと。


移転先への通勤方法を検討していること。


今と同じ仕事を、全員に同じ場所で用意できるとは約束できないこと。


最後の言葉が訳されると、前列の男性が手を上げた。


***


「では、残れる人と、残れない人を、どう決めるのですか」


通訳を通した質問だった。


大虎は、担当役員へ目を向けた。


役員が、現時点で整理している業務と人員の考え方を説明した。


話し終える前に、男性がもう一度手を上げた。


「その基準は、私たちにも見せてもらえるのですか」


役員が大虎を見る。


大虎は頷いた。


「個人の情報を除いて、判断の基準はお伝えします。まだ決まっていない部分も、そう書いて出します」


男性は、座らなかった。


「前も、説明された話と違いました。今度は、変わらないとどうやって分かるのですか」


会場が静かになった。


大虎は、男性の顔を見ていた。


帰国前に会った人ではなかった。


初めて話す相手に、自分の言葉を信じてもらう理由を探しかけて、やめた。


「私が言ったから信じてください、とは申し上げられません」


通訳が伝える。


男性は動かなかった。


「今日の説明は文書でお渡しします。変更が必要になった場合は、何が、なぜ変わるのかを説明します。質問と回答も、皆さんが確認できる形で残します」


男性は、しばらく大虎を見た。


それから座った。


納得した顔ではなかった。


大虎も、それを了承だとは受け取らなかった。


***


次に手を上げたのは、女性だった。


紙を持っていた。


前の面談で渡された、回答用紙だった。


「私は、退職の説明を希望する方に印をつけました」


愛菜と直した説明が、頭をよぎった。


すでに出した回答は、確定した意思として扱わない。


大虎は、その説明を繰り返そうとした。


けれど女性は続けた。


「回答をやり直せることは、分かりました。でも、私は、もう別の仕事を探しています」


大虎は口を閉じた。


「ここで何が決まるのか待っている間にも、募集は終わります。私は、いつまで待てばいいのですか」


大虎は、机に置かれた日程表を見た。


全員の配置が決まるまでには、まだ時間がかかる。


女性が持っている時間とは、同じではなかった。


「ほかの仕事を探すことを、止めていただくつもりはありません」


大虎は答えた。


「会社からの条件を確認してから判断したい場合は、個別に説明を受けられるようにします。その説明を受けたことだけで、退職の意思が確定したとは扱いません」


女性は頷いた。


「では、先に、その条件を知りたいです」


「担当者と、今日、時間を決めましょう」


人事担当者が、その場で手を上げた。


女性は紙を畳んだ。


引き留めてくれる言葉を待っていたのではなかった。


次へ進むために、必要な情報を待っていた。


***


質問は、予定の時間を超えた。


通勤費。


勤務時間。


研修。


配置が変わった場合の給与。


その場で答えられるものも、確認が必要なものもあった。


答えられない質問には、返事をする日が書かれた。


最後に、大虎は現地責任者とともに、窓口の担当者を紹介した。


責任者の隣には、グループ本部の人事担当者がいた。


今後の面談には、双方が入ることになっていた。


説明会が終わると、画面の中で人が立ち始めた。


すぐに帰る人。


そのまま窓口へ向かう人。


椅子に座って、文書を読み返す人。


大虎は、会場の映像が切れるまで見ていた。


***


昼過ぎ、愛菜はゆみの店にいた。


商品の受渡しに来た客と話し、帰り支度をしていたところだった。


店長が、少し迷った顔で近づいてきた。


「社長。お聞きしてもいいですか」


「はい」


「昨日の記事のことで、お客様から問い合わせがありまして」


ゆみも顔を上げた。


店長は続けた。


「このパンツも、あちらの工場で作っているのかと」


愛菜は頷いた。


そういう疑問が出ることまでは、考えていなかった。


「違います。こちらの商品は、国内の縫製先へ、まなブランドが発注しています」


「そのようにお伝えして、大丈夫でしょうか」


「はい。製造表示と、うちの取引記録で確認できます」


愛菜は、売場に掛かったパンツを見た。


その服を作った人たちと、海外の工場で働く人たち。


別の話だった。


けれど、記事を読んだ客には、まだ分からない。


ゆみが言った。


「私たちが答えられるのは、この服についてだね」


「うん。カルソックの対応について聞かれたら、私の会社から説明はできないと伝えてください」


店長は頷いた。


愛菜は、商品について尋ねられた時に確認できる資料を、担当者から送ると約束した。


店を出る前に、ゆみが近づいてきた。


「大虎、忙しいんだろうね」


愛菜は顔を向けた。


ゆみは、少し言葉を選んだ。


「昔も、こういうことがあったのかなって、記事を見て思った」


愛菜は、すぐには答えなかった。


「昔のことは、私にも分からない」


ゆみは頷いた。


「そうだね」


愛菜は鞄を持ち直した。


「今日は、従業員の方たちへ説明する日だったから。帰ったら、話を聞くと思う」


ゆみは小さく笑った。


「うん」


その声には、続きを尋ねる響きはなかった。


***


夕方、大虎の机に、説明会の記録が届いた。


質問は二十件を超えていた。


回答済み。


確認中。


個別面談へ。


欄ごとに整理されている。


大虎は、最初に質問した男性の発言を読み返した。


今度は、変わらないとどうやって分かるのですか。


その横には、回答済みと書かれていた。


大虎は、担当者を呼んだ。


「ここ、説明はしました。でも、これからの対応で見てもらうことです。継続確認の欄も作れますか」


担当者は記録を見て、頷いた。


「分かりました」


「それと、今日来られなかった人への説明は?」


「別の時間を設けています。勤務の都合で参加できなかった方もいますので」


大虎は、その予定を確かめた。


説明会を一回終えたことで、仕事が終わったわけではなかった。


けれど、昨日まで空白だったところへ、担当者と日付が入っていた。


大虎は資料を閉じた。


***


その夜、大虎は八時前に帰宅した。


愛菜は台所から顔を出した。


「おかえり。早かったね」


「今日は、これ以上会社にいても、同じ資料を見直すだけになりそうだった」


愛菜は少し笑った。


自分も、戻ってきたパンツの写真を何度も見た日に、同じことを言った。


「ご飯、もう少しでできる」


「手伝う」


大虎は手を洗い、皿を出した。


食卓へ座ると、愛菜が尋ねた。


「どうだった?」


大虎は、少し考えた。


「怒られた」


愛菜は頷いた。


「うん」


「信じられないとも言われた」


「うん」


大虎は箸を置いた。


「でも、途中で帰る人は少なかった。最後まで、質問してくれた」


愛菜は、彼の顔を見た。


昨夜より、疲れて見えた。


同時に、何を考えているのか分からないまま遠くを見ていた表情は、少し薄れていた。


「全部、答えられた?」


「まだ。答えられなかったことが、かなりある」


大虎は机の端に手を置いた。


「その分、誰が、いつまでに答えるかは決めた」


愛菜は頷き、温かい皿を彼の方へ寄せた。


「じゃあ、今日は食べよう」


大虎が、少し笑った。


「うん」


***


食後、大虎は約束した時刻に、一度だけ連絡を確認した。


個別面談を希望した女性は、翌週、担当者と話すことになった。


説明会で出た通勤の質問については、実際の時刻で移動する調査を行う。


旧施設に残る業務の一覧は、翌日の会議で確認する。


短い報告を読み終え、大虎は携帯電話を置いた。


愛菜が、ソファで場所を空けた。


大虎はそこへ座った。


「今日ね、お店でも記事のことを聞かれた」


愛菜は、昼間のやり取りを話した。


大虎は眉を寄せた。


「愛菜の仕事にまで——」


「うちの服については、うちが答えたよ」


愛菜は言った。


「知らないお客様が聞くのは、おかしくないから」


大虎は彼女を見た。


「そっか」


愛菜は頷いた。


しばらくして、大虎が静かに言った。


「昨日、説明を聞いてくれて助かった」


「最初のところ?」


「うん。あのまま読んでいたら、説明が足りなかっただけだと言っているように聞こえたと思う」


愛菜は、膝の上の手を見た。


「私も、誰かに見てもらわないと、分からない時があるから」


大虎の手が、その上に重なった。


机には、二人の携帯電話が置かれていた。


どちらも、今は鳴っていなかった。


愛菜が肩を寄せると、大虎は少し体を傾けた。


二人とも、しばらくそのままでいた。


第33章 八着分の場所


依頼は、ゆみの店に届いた。


差出人は、地域の小さな複合施設で、催しを担当している女性だった。


週末の三日間、暮らしに関わる商品を集めた展示販売を開く。


食器や家具、靴などと一緒に、まなブランドのパンツを紹介できないか。


ゆみは文面を読み、愛菜へ転送した。


《最初に買ってくださったお客様が、ここの教室に通っているんだって。そこで服の話になったらしい》


愛菜は、その一文で手を止めた。


自分たちが資料を送った先ではなかった。


穿いて帰った服が、店の外で誰かに見られていた。


添付された会場写真を開く。


大きなホールではない。


窓が広く、低い棚が並ぶ空間だった。


一角に、洋服を掛けられそうな壁があった。


愛菜は、写真を拡大した。


その壁の前に、自分たちの服が並ぶところを想像した。


***


担当者の名は、高瀬といった。


翌日、愛菜とゆみはオンラインで話を聞いた。


「お客様から、座っていて楽なパンツを買ったと伺ったんです」


高瀬が言った。


「ただ、途中で一度、縫い目を直してもらったとも聞きました」


愛菜は姿勢を正した。


「はい。こちらの縫製に不十分な部分があり、同じ製造分を確認して対応しました」


「そうだったんですね」


高瀬は、手元の資料へ目を落とした。


「その方は、直してくれるお店が分かっているから、安心して穿けるとおっしゃっていました」


ゆみが、隣で小さく息を吐いた。


愛菜は返事をするまで、少し時間がかかった。


「ありがとうございます」


「今回も、売ったあとのお問い合わせ先を、はっきり出していただきたいんです。うちは、服を専門に扱う施設ではないので」


「分かりました」


高瀬は会場の図を共有した。


用意できるのは、ハンガーラック一本分。


小さな机。


椅子が二脚。


試着のための簡易的なスペースも作れるという。


「置けるのは、八着くらいだと思います」


愛菜とゆみが、顔を見合わせた。


八着。


全国展開でも、新店舗でもなかった。


それでも、今の店を出て、初めて別の場所へ服を持っていく話だった。


***


説明が進むと、愛菜は笑っていられなくなった。


出展料。


売上に応じた手数料。


商品の搬入と搬出。


三日間、会場に立つ人。


会場で売るためには、服だけを用意すればいいわけではなかった。


高瀬が資料を閉じた。


「募集要項をお送りします。今週中に、お返事をいただければ」


「承知しました」


通話が終わると、ゆみは机に肘をついた。


「八着全部売れても、あまり残らないね」


愛菜は数字を見た。


「人が三日立ったら、むしろ足りないかもしれない」


「うちから一人出すとしても、店の方が薄くなる」


二人とも黙った。


依頼が来た時は、嬉しかった。


最初の客が誰かへ話してくれたことも、店の外へ出られることも。


その嬉しさで、数字を見ないことにはしたくなかった。


愛菜は資料をもう一度開いた。


「まず、何をしに行くのか、決めようか」


ゆみが顔を上げた。


「売るため、だけじゃ足りない?」


「売ることは、もちろん。でも、この人数と費用で出るなら、ほかに何ができるかも考えたい」


愛菜は会場写真を指した。


「今まで試してもらった方と、違うお客様が来る。そこで分かることはあると思う」


ゆみは頷き、紙を自分の方へ引いた。


「じゃあ、試着してもらえる形を、ちゃんと作らないとね」


***


社内の打合せには、販売担当者と小野寺が入った。


愛菜は、先に費用を見せた。


「大きな利益を出せる企画ではありません。出るなら、新しい売場で試着と販売を経験するための費用も含めて考えます」


小野寺は、会場図を覗いた。


「椅子、これしかないの?」


「二脚です」


「一つは、荷物で埋まらないようにしてほしいね。座って試してもらうんでしょう」


愛菜は図に書き込んだ。


販売担当者は、試着する人と待つ人の動きを線で描いた。


ラックを壁際へ寄せる。


机を入口から少し離す。


商品の袋は、机の下へ置く。


誰かが服を脱いでいる時、別の人から見えないようにする。


平面の写真が、少しずつ売場になっていった。


小野寺が言った。


「八着、同じ色だけ?」


「今は、その予定です」


「並べ方で、見え方が変わるね」


愛菜は図を見た。


服を作ったあとにも、まだ考えることがあった。


***


打合せが終わると、紗良が入口で待っていた。


担当者から、展示の話を聞いたらしかった。


「少し、お時間をいただいてもいいですか」


愛菜は席へ招いた。


紗良は、鞄から紙を一枚出した。


服の絵ではなかった。


ラックと椅子と、小さな机。


会場写真を見て描いた、配置の案だった。


愛菜はその紙を見た。


「これは?」


「試着のところが、入口から見えすぎないようにできないかと思って」


愛菜は、紗良へ目を戻した。


「先方とは連絡を取っていません」


紗良が続けた。


「写真は、担当の方に見せてもらいました。案を出してもいいか、先に聞きました」


愛菜は担当者の方を見た。


担当者が頷いた。


「私から、配置案なら見せてほしいと伝えました」


愛菜は、紙を机に広げた。


図の端には、椅子が一脚、少し斜めに置かれていた。


「これは、どうして?」


「鏡だけを正面にすると、座った時に、お客様が私たちを見上げる形になるので。横から話せた方が、窮屈じゃないかと」


愛菜は、その位置へ指を置いた。


実際の会場で、同じように置けるかは分からない。


けれど、試してみる価値はあった。


「会場で確認する案に加えます」


紗良は、少し肩を下ろした。


「ありがとうございます」


立ち上がりかけて、また座り直す。


「もう一つ、お願いがあります」


愛菜は待った。


「私も、現場へ行きたいです」


***


愛菜は、すぐには答えなかった。


紗良は、机の上の図を見ていた。


「お客様に説明する担当を、任せてほしいという意味ではありません」


「では、何を担当したいですか」


「準備と、片づけ。あと、試着で聞いたことを、記録する補助です」


声が小さくなった。


「自分が描いた服を、買うかどうか迷う人を、ちゃんと見たことがなかったので」


愛菜は、図から手を離した。


紗良は会社にいる。


技術の仕事もしている。


それでも、外部との連絡や、顧客への説明を任せられない状態は続いていた。


その線を、曖昧にすることはできなかった。


「人事と、当日の責任者を交えて検討します」


紗良は頷いた。


「はい」


「参加するとしても、担当は事前に決めます。その場で受注や納期の返事はしないでください」


「分かりました」


紗良は、追加の条件を出さなかった。


席を立ち、配置図を残していった。


愛菜は、その図を会場資料の上へ重ねた。


***


家へ帰ると、大虎はソファで新聞を読んでいた。


紙の端に、いくつか印がついている。


愛菜が鞄を置くと、顔を上げた。


「おかえり」


「ただいま」


愛菜は隣に座った。


「展示販売の話が来た」


大虎は新聞を閉じた。


「どこで?」


愛菜は施設のことを説明した。


三日間。


ラック一本。


八着。


話しながら、自分でも規模の小ささが少し可笑しくなった。


「世界を相手にしてる人に、八着の相談」


大虎は笑わず、尋ねた。


「その八着を、誰に見てもらえるの?」


愛菜は顔を向けた。


「地域の人。教室へ通っている人とか、催しを見に来る人とか」


「いつもの店とは、違う人?」


「うん」


「じゃあ、新しい売場だ」


愛菜は頷いた。


大虎は、会場図を覗いた。


「人は足りる?」


「そこも考えてる。紗良さんが、準備と記録の補助で行きたいって」


大虎は少し間を置いた。


「愛菜は、どう思ってる?」


愛菜は、紙の角を撫でた。


「行かせたい気持ちはある。でも、前みたいなことがあったらって、まだ考える」


大虎は頷いた。


「任せる仕事を絞っても、不安?」


「少し」


愛菜は図を見た。


紗良が描いた椅子の向き。


その線は、服を着る人の顔を想像して引かれていた。


「でも、ずっと同じところに置いておけば、信頼が戻るわけでもないよね」


大虎は答えを急がなかった。


愛菜は、自分で続けた。


「責任者がいる時間だけ。何をするかを決めて、一度やってもらおうかな」


「それなら、当日何を見るかも決めておくとよさそうだね」


愛菜は頷いた。


鞄から手帳を出した。


***


出展の返事をしたのは、金曜日だった。


費用の上限。


持ち込む商品の数。


店と会社から出す人員。


三日間で確認したいこと。


一つずつ決めたうえで、申し込んだ。


紗良は初日の午前中、設営と試着記録の補助を担当することになった。


当日の責任者は、愛菜だった。


販売は、ゆみが担当する。


紗良へ予定を伝えると、彼女は時刻を手帳へ書いた。


それから顔を上げた。


「ありがとうございます」


愛菜は頷いた。


「まず、前日に会社で配置を組んでみます。実際に動いて、無理がないか確認しましょう」


「はい」


紗良は、前に出した図を取り出した。


端の方に、新しい書き込みが増えていた。


袋を置く場所。


記録用の紙。


試着を待つ人の椅子。


どれも、まだ派手な形にはなっていなかった。


***


前日の夕方、会議室から机を一つ出した。


床にテープを貼り、会場と同じ広さを作る。


ラックを運び、椅子を置いた。


八着のパンツを掛けると、愛菜は少し離れて見た。


思っていたより、場所が狭かった。


ゆみが椅子に座った。


紗良が、横から確認表を持って近づく。


途中で、机の角に鞄が引っかかった。


「ここ、通れないね」


ゆみが言った。


紗良はすぐに図へ戻ろうとして、手を止めた。


「もう一度、歩いてもらってもいいですか」


ゆみが立った。


愛菜も反対側から入ってみる。


椅子を十センチ動かす。


机を少し回す。


もう一度、服を取って、試着するところまで歩く。


やがて、三人が無理なく動ける位置が見つかった。


紗良は図を直し、床のテープの横へ印をつけた。


ゆみがラックを見た。


「お店っぽくなった」


愛菜も同じ方を見た。


八着の服。


椅子二脚。


小さな机。


まだ誰も来ていない売場だった。


愛菜は、机の上へ一枚の札を置いた。


座って、立って、歩いて、お試しください。


紗良が、その文字を読んだ。


ゆみはパンツの裾を揃えた。


翌朝には、ここで試した動きを、知らない客の前で行うことになる。


愛菜は最後に、入口から売場を見直した。


「明日、よろしくお願いします」


ゆみが顔を上げた。


紗良も、手に持っていた図を下ろした。


二人の返事が、少し重なった。


第34章 鏡の前で


会場へ着いた時、まだ窓の外は薄暗かった。


ゆみが台車を押し、紗良が扉を押さえた。


愛菜は高瀬に挨拶をして、出展場所を確認した。


写真で見たよりも、隣の売場が近かった。


左には陶器。


右には、手仕事の革小物。


パンツを掛けたラックを置くと、思っていたほど余白が残らなかった。


「机、少し奥へ寄せようか」


愛菜が言った。


紗良は、昨日の配置図と床を見比べた。


「椅子を引くところが狭くなります」


ゆみが実際に座ってみた。


立つ時、膝が机に当たりそうになった。


「本当だ」


三人で机を動かした。


今度は、試着室の入口へ近すぎた。


紗良が空の段ボールを持ち上げた。


「これ、控えの場所へ移してきます。先に床を空けてもいいですか」


愛菜が頷く。


箱がなくなると、人が立つ場所ができた。


昨日決めた位置から、少しずつずれていく。


紗良は図を畳んで鞄へしまった。


机の角へ腰がぶつからないか、自分で通って確かめた。


***


開場すると、最初に人が集まったのは隣の陶器だった。


小皿を手に取る人。


底の印を見る人。


店主と笑いながら、色を選ぶ人。


愛菜たちの前では、何人かが立ち止まった。


値札を見る。


生地に触る。


そのまま、次の売場へ歩いていく。


ゆみは、来る人すべてに試着を勧めなかった。


目が合えば挨拶をし、質問があれば答えた。


紗良は記録用の紙を持って立っていた。


まだ、何も書かれていなかった。


十分ほどして、一人の女性がラックの前で足を止めた。


五十代くらいに見えた。


ポケットへ手を入れ、生地の厚さを確かめる。


「これ、どんな人向けなの?」


ゆみが近づいた。


「座った時の腰回りを、何度か直して作ったパンツです。よければ、椅子に座ってお試しいただけます」


女性は、正面から服を見た。


「楽そうだけど、ちょっと地味ね」


紗良の指が、紙の端で止まった。


女性は続けた。


「私は、もう少し細く見えるのが好き」


「普段は、どのあたりの形を気にされますか」


ゆみが尋ねた。


女性は、自分の太腿の外側を示した。


「ここ。余ると、大きく見えるから」


ゆみは頷いた。


「でしたら、今の形は、お好みと少し違うかもしれません」


女性は、意外そうに顔を上げた。


それから笑った。


「正直ね」


「もし気になったら、見るだけでも試していただいて大丈夫です」


女性は礼を言い、別の売場へ移った。


紗良は、その後ろ姿を見ていた。


やがて紙へ、太腿の外側の線が気になる、と書いた。


地味と言われたことも、消さずに添えた。


***


最初の試着客は、母娘だった。


娘の方が、先に椅子の札を読んだ。


「お母さん、これ、座ってみられるって」


母親は、一歩後ろに立っていた。


「私は、今日は見るだけでいい」


「いつも、ズボンが苦しいって言ってるじゃない」


娘が一着を取り、母親の前へ当てた。


ゆみが、サイズの説明をした。


母親は値札を見た。


娘は気づかず、色の話を続けていた。


愛菜は母親の方へ向いた。


「お試しになりたいですか。それとも、先にご覧になりますか」


母親は、少し迷った。


娘が答えかける。


愛菜は母親を見たまま待った。


「……一度、穿いてみようかしら」


「はい。こちらへどうぞ」


試着室へ案内すると、娘も一緒に入ろうとした。


母親が振り向いた。


「一人で大丈夫」


娘は足を止めた。


「そう?」


「うん」


カーテンが閉まった。


紗良は椅子の前から荷物をよけた。


***


母親が出てくると、娘がすぐに言った。


「いいじゃない」


母親は返事をせず、鏡へ向かった。


横を向く。


後ろを見ようとして、少し体を捻る。


ゆみが鏡の位置を調整した。


「ここからも、ご覧になれます」


「ありがとう」


母親は椅子へ座った。


愛菜が、斜め横に腰を下ろした。


「苦しいところはありますか」


「お腹は、楽ね」


娘の顔が明るくなった。


「じゃあ、これにしようよ」


母親は、膝へ手を置いたままだった。


愛菜は、その手を見た。


「ほかに、気になるところはありますか」


母親は少し声を落とした。


「立っている時、腰の後ろが浮いている気がするの」


娘が後ろへ回った。


「そんなに分からないよ」


「でも、私は気になるのよ」


その声は、小さかったが、はっきりしていた。


愛菜は立ち上がった。


「もう一度、立ったところを見せていただけますか」


腰の後ろに、余りがあった。


紗良も横から見た。


直したい箇所が、すぐに目に入った。


ここを少し詰めれば。


口を開きかけて、愛菜の方を見た。


愛菜は客へ説明していた。


「今、用意している形では、ここが少し余ります。お直しで対応できるかは、縫製担当へ確認が必要です」


「今日、すぐには分からないのね」


「はい」


母親は頷いた。


「じゃあ、今日はやめておく」


娘が口を開きかけた。


母親は鏡を見て、自分の言葉を続けた。


「楽なのは、よかった。でも、私は、ここも気になる」


愛菜は頷いた。


「教えていただいて、ありがとうございます」


***


着替え終えると、母親は畳んだパンツを返した。


「いろいろ、見てもらったのにね」


ゆみが受け取った。


「お試しいただけてよかったです」


母親は、少しだけ笑った。


娘は財布をしまいながら、母親を見た。


「いつも、私が決めすぎる?」


母親は驚いた顔をした。


それから、答えた。


「服くらいは、自分で決めたいわ」


娘は困ったように笑った。


二人は隣の陶器の売場へ移った。


今度は、母親が先に小皿を手に取った。


紗良は、試着の記録を書いていた。


腰の後ろに余り。


本人が気になると回答。


購入なし。


そこで手を止め、愛菜を見た。


「少し詰めれば、合うかもしれないと思いました」


「うん。私も思った」


「でも、座った時が、また変わるかもしれませんね」


愛菜は頷いた。


紗良は、その可能性も書き足した。


***


昼近くになって、ようやく一着が売れた。


客は、近くの教室へ通っている女性だった。


立ち仕事と、座ってする作業が、半日ずつあるという。


試着すると、椅子に座り、立ち、少し歩いた。


鏡の前で裾を確かめる。


「このままで、長さは大丈夫そう」


ゆみが靴との位置を見た。


「お直しは、いかがされますか」


「今回は、このままで」


値段をもう一度確認して、財布を出した。


紗良は、商品を包む袋を用意した。


ゆみが会計をしている間に、愛菜と二人で縫い目とサイズを確かめる。


袋へ入れる前に、客が尋ねた。


「あなたが考えた服なの?」


紗良は顔を上げた。


客は、紗良の手元を見ていた。


迷ったのは、一瞬だった。


「最初のデザインを担当しました」


客が頷く。


紗良は、広げたパンツへ目を落とした。


「そのあと、試着してくださった方のお話を聞いて、何人かで直しています」


「そうなのね」


客はポケットへ触れた。


「ここ、深いのがいいわ」


紗良は、初めて少し笑った。


「お客様から、携帯電話を入れたいと教えていただいて、深くしました」


「便利そうだと思った」


会計を終えたゆみが、袋を渡した。


紗良も一緒に頭を下げた。


客が見えなくなってから、ゆみが売上の記録をつけた。


「一着」


愛菜は頷いた。


紗良は、空いたハンガーをラックの端へ移した。


***


午後の担当者が来ると、紗良は引継ぎを始めた。


記録したことを、順番に説明した。


試着室のカーテンが、入口側から少し開いて見えること。


椅子を戻す時、床の印まで下げると通路が狭くなること。


購入には至らなかったが、腰の後ろの形を気にした客がいたこと。


愛菜は、横で聞いていた。


紗良は自分の工夫を説明する時よりも、言葉を探していた。


誰かが次に同じ場所へ立てるように、伝えようとしていた。


引継ぎが終わると、愛菜は紗良へ声をかけた。


「今日は、ここまでです。お疲れさまでした」


紗良は売場を見た。


残っている七着。


椅子。


鏡。


「もう少し、見ていってもいいですか」


愛菜は時計を確認した。


「出展者として仕事を続けるなら、時間の変更が必要です」


紗良は、すぐに首を振った。


「いえ。ほかの売場を、見て帰ります」


「それなら、大丈夫です」


紗良は名札を外した。


鞄へしまい、会場の中央へ歩いていった。


***


午後三時を過ぎた頃、隣の陶器店の店主が、小さな紙袋を持ってきた。


「休憩、取れてる?」


中には、個包装の菓子が入っていた。


ゆみが礼を言う。


店主はラックを見た。


「服は、食器より試すのに時間がかかるね」


「そうですね」


愛菜が答えた。


「一人ずつ、けっこう話すんだね」


「気になるところが、人によって違うので」


店主は頷き、自分の売場へ目を向けた。


「皿もね、何を載せるか聞くと、選ぶのが変わるんだよ」


愛菜は、隣に並ぶ器を見た。


朝はただ、客が多い売場だと思っていた。


その向こうで、店主もずっと誰かの話を聞いていた。


***


閉場までに売れたのは、二着だった。


試着した人は、七人。


生地に触れ、説明を聞いてくれた人は、もっと多かった。


愛菜は数字を書いたあと、記録を一枚ずつ読んだ。


細く見える形が好きな人。


腰の後ろが気になる人。


膝の曲げやすさを何度も確かめた人。


同じ服の前で、見ている場所が違った。


ゆみが、明日の分の袋を数えていた。


「八着、売り切れるかなって、朝ちょっと思ってた」


愛菜は顔を上げた。


「私も」


二人は笑った。


「でも、二着売れたね」


ゆみが言った。


「うん」


愛菜は記録を閉じた。


空いた場所へ、残った六着を並べ直した。


***


片づけを終えたところで、大虎から連絡が来た。


《近くまで来た。荷物、ある?》


愛菜は入口へ目を向けた。


ガラスの向こうに、大虎が立っていた。


片手に、小さな袋を持っている。


愛菜は急いで外へ出た。


「来たの?」


「終わる頃かと思って」


「言ってくれたら、もう少し早く——」


「急がなくていいよ」


大虎は袋を渡した。


温かい飲み物が二つ入っていた。


愛菜は一つ取り、両手で包んだ。


「今日、二着」


大虎が笑った。


「そうか」


「買わない人の話も、いっぱい聞いた」


「うん」


愛菜は、会場の中を振り返った。


紗良が描いた配置図を、午後の担当者が机へ貼っている。


ゆみは高瀬と、明日の入口の位置について話していた。


「私たち、売れる服を作ったつもりだったけど」


愛菜は、温かい容器へ目を戻した。


「誰に合うのか、まだ知らなかったんだと思う」


大虎は隣に立った。


「今日、少し分かった?」


愛菜は考えた。


「うん。でも、分からないことも増えた」


「じゃあ、明日も忙しいな」


愛菜は笑った。


会場の中から、ゆみが手を上げた。


持ち帰る箱がまとまったらしかった。


愛菜は飲み物を一口飲み、大虎へ預けた。


「取ってくるね」


大虎も扉へ向かった。


「俺も行く」


二人で会場へ戻った。


明日も使う椅子は、その場へ残していく。


愛菜は一度だけ位置を確かめ、座面に置かれていた紙を机へ戻した。


第35章 三日目の名刺


二日目は、一着も売れなかった。


雨で、来場者そのものが少なかった。


入口に置かれた傘立ての下へ、水が溜まっていく。


高瀬が何度も拭きに来た。


愛菜たちの売場では、三人が試着した。


一人には、サイズが合わなかった。


もう一人は、色違いがあれば見たかったと言った。


最後の一人は、値段を確かめてから、家で考えると帰った。


閉場後、ゆみは売上欄に線を引いた。


愛菜は、その隣へ試着の記録を置いた。


書くことは、昨日より少なかった。


それでも、空欄ではなかった。


「明日が最後だね」


ゆみが言った。


愛菜は頷いた。


売場に残る六着を、二人で掛け直した。


***


三日目の朝は、晴れていた。


窓から入る光が、床の端まで届いていた。


愛菜が机を拭いていると、入口の方から声がした。


「まだ、ありますか」


初日に来た母娘だった。


娘が手を上げる。


母親は、その少し後ろに立っていた。


愛菜は顔を上げた。


「おはようございます」


母親が、ラックを見た。


「この前の服、もう一度見てもいいかしら」


「もちろんです」


ゆみが同じサイズを出した。


母親は、すぐには試着室へ行かなかった。


鏡の前で、生地を体へ当てる。


「家で、自分の服も見てみたの。後ろが余るの、ほかにも結構あって」


娘が横で聞いていた。


母親は続けた。


「それが当たり前だと思って、穿いていたみたい」


愛菜は頷いた。


「このパンツも、今の形だと、同じところが余ると思います」


「そうよね」


母親は少し笑った。


「だから、買いに来たというより、お願いしに来たの。もし、その形を直したものができたら、教えてもらえる?」


愛菜は、手にしていた布を机へ置いた。


「お作りできるか、まだ分かりません。時期も、今はお約束できませんが」


「それでいいわ。急ぎじゃないから」


ゆみが連絡先の用紙を出した。


母親は、自分で名前を書いた。


娘は隣で待っていた。


「お母さん、次も一緒に来る?」


「都合が合えばね。合わなかったら、一人で来る」


娘が笑った。


母親も笑った。


二人が帰ったあと、愛菜は用紙を見た。


購入希望ではなく、試作ができたら連絡希望。


新しい服を考える時に、思い浮かべる顔が一人増えていた。


***


昼前から、人が増えた。


隣の陶器店では、包み紙の音が続いていた。


革小物の売場では、客が色の違う財布を二つ並べ、長く迷っていた。


愛菜たちのところでも、試着室が空くのを待つ人が出た。


ゆみが接客し、愛菜が試着の様子を見た。


午後の担当者が、会計と包装を受け持った。


一着が売れた。


しばらくして、もう一着。


愛菜は、そのたびに値札を外し、商品の状態を確かめた。


忙しくなると、話を聞く時間まで短くしそうになった。


それに気づいて、椅子へ座り直した。


「立った時と、座った時では、どちらが気になりますか」


客が考える間、待った。


昼過ぎ、売場の前に、一人の女性が立っていた。


薄い色の上着に、歩きやすそうな靴。


ラックの服より先に、椅子と鏡を見ていた。


愛菜と目が合うと、会釈した。


「少し、拝見してもいいですか」


「どうぞ」


女性はパンツを手に取り、裏側を見た。


ポケットの内側。


縫い代。


サイズ表示。


見方が、ほかの客とは少し違った。


***


「こちらは、この形だけですか」


女性が尋ねた。


「今、販売しているのは一型です」


「サイズは二つ」


「はい」


女性は服を戻した。


「試着した方のうち、どのくらいの方が購入されていますか」


愛菜は、少しだけ間を置いた。


女性はその表情を見て、鞄から名刺を取り出した。


「先に名乗るべきでしたね。早瀬と申します」


複数の生活用品店を運営する会社の名があった。


服飾雑貨の仕入れを担当している。


愛菜も名刺を渡した。


ゆみが、隣の客を送り出して戻ってきた。


早瀬は、二人へ改めて挨拶した。


「高瀬さんとは、別の企画でお付き合いがあります。今回、服の出展があると聞いて伺いました」


愛菜は、名刺の文字をもう一度見た。


高瀬の紹介は、商品を採用する約束ではない。


それでも、初めて自分たちの売場を見た仕入れ担当者が、目の前にいた。


「数は少ないので、割合だけでは判断しにくいと思います」


愛菜は先ほどの質問へ答えた。


「購入された方だけでなく、合わなかった理由も残しています」


「見せていただける範囲はありますか」


愛菜は担当者と確認し、個人の情報を除いた記録を開いた。


早瀬は、買わなかった客の欄を長く見た。


腰の後ろが余る。


太腿の線を細く見せたい。


色が選べない。


試着は楽だが、価格を考えたい。


早瀬は、紙から顔を上げた。


「これは、販売を始めてから集めた声ですか」


「試作の時のものもあります。今日の分は、あとで整理します」


早瀬は頷いた。


「売れた理由だけをまとめた資料より、検討しやすいです」


愛菜は、肩に入っていた力を少し抜いた。


***


早瀬は、自分でも試着した。


座り、立ち、数歩歩く。


鏡で横の線を見る。


「私は、このサイズだと、腰が少し余りますね」


愛菜は頷いた。


「その声は、ほかの方からもいただいています」


「ウエストを小さくすれば解決する、という感じでもなさそう」


「座った時のゆとりとの兼ね合いがあるので、別の形も考える必要があると思っています」


早瀬はもう一度座った。


そのあと、着替えて戻ってきた。


「一度、商品についてお話を伺えますか」


愛菜とゆみは顔を見合わせた。


早瀬は続けた。


「ただ、今の一型を、そのまま各店へ置く話ではありません」


愛菜は彼女へ向き直った。


「どういう形をお考えですか」


「まず、一店舗での販売を検討したいです。限られた期間で。ですが、その前に、いくつか確認したいことがあります」


サイズごとの適合。


追加した時の納期。


直しや返品の窓口。


販売員が説明できる内容。


早瀬は、短く挙げた。


「今、こちらでしている接客を、そのまま全店舗で行うのは難しいので」


愛菜は、椅子と鏡を見た。


ここでは、自分たちが説明していた。


誰かに売ってもらうなら、その人が困らない形にしなければならない。


「持ち帰って、準備できる範囲を確認します」


早瀬は頷いた。


「お願いします。急いで数を作っていただきたいわけではありません」


早瀬が帰ると、ゆみは名刺を机へ置いた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


先に笑ったのは、ゆみだった。


「今日中に返事しなかったね、私たち」


愛菜も笑った。


「したかったけどね」


***


三日間で売れたのは、五着だった。


持ち込んだ八着のうち、三着が残った。


費用を引けば、利益が出たとは言えなかった。


ゆみは計算した紙を、愛菜へ渡した。


愛菜は数字を確認した。


三着を袋へ戻し、空いたハンガーを重ねる。


椅子を拭く。


机に貼った案内を外す。


朝まで売場だった場所が、少しずつ元の空間へ戻っていった。


高瀬が来て、礼を言った。


「皆さん、ずいぶん長く試していらっしゃいましたね」


「椅子を使わせていただけて、助かりました」


愛菜が答えた。


高瀬は、早瀬の名刺へ目を向けた。


「お話、できました?」


「はい。次に説明する機会をいただきました」


「それはよかった」


高瀬は笑い、別の出展者のところへ行った。


愛菜は名刺を、売上の紙とは別の袋へ入れた。


まだ、注文書ではなかった。


けれど、次に会う人の名前が書かれていた。


***


会社へ荷物を戻すと、紗良が待っていた。


片づけの時間に合わせて、担当者と出勤を調整していた。


「お疲れさまでした」


箱を受け取り、決めた場所へ運ぶ。


残った商品を数え、状態を確認する。


一通り終わってから、愛菜は早瀬の話を伝えた。


紗良は、名刺の写しを見た。


そのあとで、聞いた。


「追加で作るんですか」


「まだ決まっていません。今の形で足りないところを、先に整理します」


紗良は頷いた。


愛菜は、母親が残していった試作の連絡希望も見せた。


個人情報を伏せた、試着記録だけだった。


「腰の後ろを気にされていた方が、もう一度来てくださった」


紗良は顔を上げた。


「買われたんですか」


「ううん。別の形ができたら、教えてほしいって」


紗良は、初日に自分が書いた記録を読んだ。


少し詰めれば、と思った場所だった。


愛菜は椅子へ座った。


「次の打合せで、この人に合う形を考えたい」


紗良が愛菜を見た。


「私も、入っていいんですか」


「担当者と小野寺さんが進めます。あなたにも、案を出してほしい」


紗良は、すぐには返事をしなかった。


机の上へ両手を置いた。


「分かりました」


声は小さかったが、はっきりしていた。


愛菜は続けた。


「一人で完成させて持ってくる必要はありません。途中で、どこが分からないかも見せてください」


紗良は、今度は深く頷いた。


***


夜、大虎は食卓で、三日間の数字を見ていた。


愛菜が自分から見せたものだった。


「五着売れた。でも、費用を入れると、こうなる」


大虎は紙を読み、愛菜へ返した。


「次も、同じ条件なら出る?」


愛菜は少し考えた。


「そのままでは出ないと思う。人の配置と、持っていく形を変えたい」


「何を変える?」


「一型だけだと、合わない人に次を出せない。あと、ずっと私が説明する形では、回数を増やせない」


大虎は頷いた。


愛菜は早瀬の名刺を出した。


「今日、この人と話した時も、同じことを考えた」


大虎は会社名を見た。


「知ってる会社?」


愛菜が尋ねた。


「店舗は見たことがある」


「そっか」


愛菜は名刺を戻した。


大虎は、それ以上、知り合いを探そうとはしなかった。


代わりに、売場の写真を開いた。


「愛菜、ずっと立ってた?」


「座ったり、立ったり」


「足、痛そうだなと思って」


言われた途端、愛菜は足首を動かした。


ふくらはぎが重かった。


大虎が笑った。


「今、気づいた?」


「話してる間、忘れてた」


愛菜は椅子の背へ体を預けた。


疲れていた。


数字は、簡単に喜べるものではなかった。


それでも、明日やりたい仕事が、いくつも浮かんでいた。


「だいちゃん」


「うん?」


「私、次の服を作りたい」


大虎は、彼女の顔を見た。


「誰に?」


愛菜は、鏡の前に立っていた母親を思い浮かべた。


娘の声より先に、自分が気になる場所を言った人。


買わずに帰り、もう一度来てくれた人。


「今日、買えなかった人に」


大虎は小さく頷いた。


愛菜は鞄から手帳を出した。


売上の数字を書いたページの次を開く。


そこに、母親が指で示した腰の線を、簡単に描いた。

第2部をお読みいただき、ありがとうございます。


一度の謝罪ですべてが元に戻るわけでも、一つの成功で不安がなくなるわけでもない。それでも、次に交わす言葉や、仕事への向き合い方は変えられる。


この部では、そんな小さな変化を重ねていく登場人物たちを描きました。


愛菜には愛菜の、大虎には大虎の責任があります。そして、ゆみにも、誰かの過去にとどまらない人生があります。それぞれが何を選び、どこへ歩いていくのか、これからも見届けていただけたら幸いです。


続く第3部も、どうぞよろしくお願いいたします。

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