↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『冴えた勘にも、見抜けない嘘』  作者: 平松豊政


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/3

第3部 隠された支え、芽生える未来

届けた服を、誰かが日々の暮らしで着てくれる。その喜びとともに、愛菜の仕事には新しい課題や選択が生まれていきます。


一方、大虎との間には、愛菜がまだ知らない事実が残されていました。助けたいと願った行動が、支えられる側にはどう映るのか。二人は、これまで触れずにいた話に向き合うことになります。


仕事を続けること。家族と向き合うこと。そして、これからの暮らしを二人で考えること。


少しずつ形を変えていく、それぞれの未来をお届けします。

第36章 二本目の線


紗良が持ってきたのは、完成したデザイン画ではなかった。


同じパンツの後ろ姿が、三つ並んでいた。


その上に、薄い紙が重ねてある。


線の違う部分だけ、色を変えて描かれていた。


愛菜は、最初の一枚を見た。


「これが、今の形?」


「はい」


紗良は二枚目を重ねた。


「腰の後ろを、少し小さくした案です」


三枚目を重ねる。


「こちらは、後ろだけでなく、全体の形を変えています」


小野寺が、三枚目を手元へ引いた。


しばらく線を見てから、紗良へ尋ねた。


「これだと、今の服が合っている人には、どうなる?」


紗良は答える前に、試着記録を開いた。


「座った時に、少し窮屈になる方がいるかもしれません」


愛菜は顔を上げた。


「今の形の、改良版ではないということ?」


「はい」


紗良の声が、わずかに小さくなった。


「別の形として考えた方がいいと思います」


***


販売担当者が、二つの図を並べた。


「そうすると、売場で説明する形が増えますね」


「はい」


「サイズ違いと、どう分けて伝えますか」


紗良は手元の紙へ目を落とした。


そこまでは、まだ書いていなかった。


担当者は続けた。


「一つの形で、できるだけ多くの方に合わせられないでしょうか。最初から二つあると、在庫も増えるので」


紗良の指が、紙の角を押さえた。


愛菜は、その手を見た。


言い返したいことがある時の癖だった。


けれど、紗良は口を閉じた。


「桐生さん」


愛菜が呼んだ。


紗良が顔を上げる。


「違うと思ったところがあるなら、聞かせてください」


紗良は一度、小野寺を見た。


小野寺は図を持ったまま、待っていた。


「一つにまとめると、今の形が合っている方のよさまで、なくすかもしれません」


担当者が紗良へ向き直った。


紗良は続けた。


「全部を少しずつ変えれば、同じような形にはできます。でも、それで、あのお客様の腰が合うかは分かりません」


「では、二つ作るとして、どちらを試せばいいかは?」


「まだ、説明できるところまで考えられていません」


紗良は、そこで一度止まった。


「ただ、その説明が難しいことと、形を一つにすることは、別に考えたいです」


会議室が静かになった。


紗良は、言い過ぎたと思ったのか、愛菜を見た。


愛菜は三枚目の図を、自分の前へ置いた。


「その意見は、分かりました」


小野寺が頷いた。


「まず二つ、着比べられるものを作ろう。違いが出なければ、二つにする意味もないから」


担当者も、図へ目を戻した。


「では、私の方で、売場で確認する順番を考えます」


紗良の指から、少し力が抜けた。


***


打合せが終わると、紗良は図をまとめ始めた。


愛菜が、横で書類を片づけていた。


紗良は手を止めた。


「社長」


「何ですか」


「さっきの言い方、強かったですか」


愛菜は、少し考えた。


「意見が違うことは、分かりました」


紗良が目を伏せかける。


愛菜は続けた。


「でも、何が違うのかも説明してくれました。分からないところは、分からないと言っていました」


紗良は顔を上げた。


「それで、よかったんですか」


「はい」


愛菜は、机に残っていた試着記録を拾った。


「私は、全部賛成してほしいわけではありません」


紗良は何も言わなかった。


愛菜は記録をファイルへ戻した。


「次は、実際に着て、今日の話を確かめましょう」


紗良は頷いた。


資料を抱えて出ていく時、入口で一度、小野寺に呼び止められた。


「午後、時間はある?」


「あります」


「じゃあ、仮縫いのところ、一緒に見よう」


紗良は、今度はすぐに返事をした。


***


二種類の見本ができたのは、翌週だった。


前に腰の後ろを気にしていた女性へ連絡すると、午後なら行けると返事があった。


今回は、娘とは別に、一人で来た。


「教室の帰りなの」


そう言って、ゆみへ小さく手を振った。


愛菜は、用意した二着を見せた。


一着は、前と同じ形。


もう一着は、新しく作ったものだった。


「まだ、販売する服ではありません。違いを確かめるための見本です」


「分かりました」


女性は二着を見比べた。


「見ただけでは、あまり分からないのね」


「はい。着ていただくと、違いが出るかもしれません」


紗良は少し離れた場所で、記録用の紙を持っていた。


今日は、小野寺もいる。


女性は先に、前と同じ形を試した。


腰の後ろへ手を当てる。


「やっぱり、ここね」


愛菜は頷いた。


それから、新しい方へ着替えてもらった。


***


カーテンが開くと、女性は鏡の前へ歩いた。


すぐには何も言わなかった。


横を向く。


後ろへ手を回す。


生地を少し摘まみ、離す。


「こっちの方が、落ち着く」


紗良のペンが動いた。


愛菜は椅子を示した。


「座ってみていただけますか」


女性が腰を下ろす。


最初は頷いていた。


けれど、少し前へ屈んだところで、表情が変わった。


「今度は、ここが気になるわ」


膝ではなく、腹部へ手を当てた。


小野寺が、横から生地の動きを見た。


「その姿勢のまま、少しだけ見せてください」


女性は頷いた。


紗良のペンが止まった。


立った姿は、よくなっていた。


けれど、座った時に必要だった余裕まで、減っていた。


小野寺が愛菜を見る。


愛菜は、紗良へ視線を向けた。


紗良は図を開き、手早く何かを書いていた。


小野寺がそちらへ寄った。


二人で小さく話し、試してよい範囲を確かめる。


その間、ゆみが女性にお茶を出した。


「一度で、うまくいかないものね」


女性が言った。


愛菜は頭を下げかけた。


けれど女性は、鏡の方へ目を向けていた。


「でも、さっき立った時は、好きだったわ」


愛菜は、その言葉を紗良へ伝えた。


紗良は書いていた線の横に、小さく言葉を足した。


***


小野寺が一か所、仮の縫い目をほどいた。


見本だったから、確認のために動かせるよう作ってあった。


少し余裕を出し、もう一度試してもらう。


女性が座る。


前へ屈む。


立ち上がる。


今度は、すぐに鏡を見た。


「立った時も、さっきとあまり変わらない?」


小野寺が腰の後ろを確かめた。


「ここは、ほとんど変えていません」


女性は、もう一度座った。


膝の上で両手を重ねた。


少しの間、そのまま過ごした。


誰も急かさなかった。


やがて女性が言った。


「これなら、座ってお茶を飲んでいても、気にならないかもしれない」


愛菜は、小さく息を吐いた。


紗良はまだ書いていた。


小野寺が、その紙を覗く。


「今の変更、あとで型紙へ戻すよ」


「はい」


女性は椅子から立った。


鏡を見ながら、少し笑った。


「いつも、私の体の方が悪いのかと思ってた」


愛菜は顔を上げた。


「お腹も腰も、昔とは違うから。服が変に見えるのは、仕方ないって」


ゆみが隣へ立った。


女性は鏡の中で、自分の背中を見ようとした。


「合う形が、違っただけのところもあるのね」


愛菜は頷いた。


「少なくとも、今回気にされていたところは、形を変えると違いが出ました」


女性は、もう一度背筋を伸ばした。


***


早瀬との面談には、二つの見本を持っていった。


まだ、正式な商品名はなかった。


愛菜は、試着で確認した違いを説明した。


早瀬は二着を並べ、資料を読んだ。


「二型にするんですね」


「その方向で考えています。ただ、もう少し違う方にも試していただきたいです」


早瀬は頷いた。


「こちらでも、数人に協力をお願いできます」


愛菜は顔を上げた。


「ありがとうございます」


「採用が決まったという意味ではありませんが、店舗で扱えるか確かめるには、その方が早いと思います」


早瀬は、販売の条件を書いた紙を出した。


候補は、一店舗。


期間は、まず一か月。


商品の数量は、試着結果と製造費を見て決める。


愛菜は、条件を一つずつ読んだ。


「販売員の方への説明時間は、いただけますか」


「必要だと思っています」


「お客様が、二つの形を間違えた商品だと思わないようにしたいんです。どちらが上ということでもないので」


早瀬はペンを止めた。


「その説明、短くできますか」


愛菜は考えた。


用意してきた資料には、長い説明があった。


けれど、売場でそのまま読むことはできない。


早瀬は待っていた。


愛菜は、二着へ目を向けた。


「まず、いつも気になる場所を聞いてもらいたいです。それから、近い方を試して、必要なら、もう一方も」


早瀬は頷いた。


「その順番を、販売員が迷わずできるようにしましょう」


愛菜は、手帳を開いた。


次に準備するものが、具体的に決まっていった。


***


帰りの電車で、愛菜は紗良へではなく、担当者へ連絡した。


二型の見本で、次の確認へ進むことになった。


小野寺と紗良にも共有してほしい。


送信してから、窓の外を見た。


まだ、注文はもらっていなかった。


それでも、三日前にはなかった予定が、手帳に入っていた。


大虎へも連絡した。


《見本を、先方の方にも試してもらえることになった》


少しして、返事が来た。


《前に話していた、二本目?》


愛菜は笑った。


《うん。まだ仮縫いだけど》


《帰ったら聞かせて》


愛菜は携帯電話をしまった。


***


その頃、紗良は作業台で型紙を直していた。


小野寺が、隣で見ている。


少し削る。


別のところへ、紙を足す。


試着の時に動かした分を、測り直す。


紗良は、新しい線を引く前に手を止めた。


「ここを動かすと、ポケットの位置も見直した方がいいですか」


小野寺が覗いた。


「そうだね。今のまま、一度当ててみよう」


二人で生地を重ねた。


紗良は、思っていたより時間がかかることを、もう嫌だとは思わなかった。


その間に、今日、鏡を見ていた女性の顔を思い出した。


自分の名前が出るかどうかは、聞かれなかった。


誰が作った服かも、尋ねられなかった。


それでも、少し笑った顔を、覚えていた。


紗良は鉛筆を持ち直した。


新しい線は、前の線を消しきらず、そのすぐ横へ引いた。


***


夜、愛菜は大虎へ見本の写真を見せた。


正面からでは、違いは小さかった。


横と後ろの写真を並べる。


「ここを変えたの」


大虎は画面へ顔を寄せた。


「言われると分かる」


「でも、着た人には、結構違うみたい」


「前に買わなかった人?」


「うん。座った時も、あと一回直したら、ずいぶん楽になったって」


大虎は頷いた。


愛菜は写真を閉じた。


「紗良さんが、最初に言ったの。今の形を全部直すより、別の形にした方がいいって」


「そうなんだ」


「前だったら、私、また自分の案を通したいのかなって思ったかもしれない」


大虎は、愛菜を見た。


「今回は?」


愛菜は少し考えた。


「理由を聞いた。まだ分からないところも、一緒に」


大虎は静かに頷いた。


愛菜はソファへ背中を預けた。


信じられるか、信じられないか。


その二つだけで、紗良を見る時間が続いていた。


今日は、出された案について、仕事の話をした。


違うと思ったところを聞き、試して、少し変えた。


それだけのことが、久しぶりだった。


大虎が、愛菜の手元の写真をもう一度指した。


「その人、できたら買うって?」


愛菜は首を振った。


「まだ聞いてない」


「そっか」


「まず、ちゃんと座れたかどうかを聞きたかったから」


大虎は笑った。


愛菜も少し笑い、次の試着日を手帳へ書いた。


第37章 二十四着の約束


早瀬から返事が来たのは、二度目の試着を終えた翌週だった。


愛菜は、届いたメールを一度読んだ。


それから、もう一度、最初へ戻った。


一店舗で、一か月。


二つの形を、二つのサイズで。


それぞれ六着ずつ。


合計、二十四着。


条件がまとまれば、試験販売を進めたい。


愛菜は数量を紙へ書いた。


二十四。


展示会へ持っていった八着の、三倍だった。


担当者を呼ぼうとして、先に椅子へ座り直した。


嬉しかった。


その気持ちのまま、納品日を返してしまいそうだった。


まず、工場へ確認する。


小野寺の予定も聞く。


必要な生地が、同じ条件で揃うか調べる。


愛菜は、早瀬への返信に、条件を確認して回答する日を書いた。


送信してから、ようやく担当者を呼んだ。


***


机の上には、二つの見本と、見積書が並んだ。


小野寺は日程表を見ていた。


工場は、ほかの注文も抱えている。


こちらの二十四着だけを先に縫うわけにはいかなかった。


「全部を、希望の日までに揃えるのは厳しいね」


小野寺が言った。


愛菜は日付を見た。


早瀬の店では、売場の入れ替えに合わせて始めたいという希望があった。


「どこまでなら、無理なくできますか」


「今の形は、確認が済んでる。新しい方は、最後の仕様を決めてから。生地の手配も含めて考えると、全部なら、あと二週間ほしい」


担当者が口を開いた。


「前半と後半で、分けて納める方法はどうでしょう」


愛菜は二つの見本を見た。


「最初に、一つの形しかない期間ができる?」


「そうなります」


売場では、二つを着比べてもらう。


それを、早瀬と何度も話した。


一方だけで始めれば、最初の客には、その比較ができない。


愛菜は日程表を自分の方へ引いた。


「開始を延ばせるか、先方へ相談します」


小野寺が顔を上げた。


「話がなくなるかもしれないよ」


愛菜は頷いた。


それは、考えていた。


それでも、約束してから工場へ無理を頼む方を選びたくはなかった。


「まず、聞いてみます」


***


早瀬との電話は、思ったより長くなった。


売場の場所は、すでに予定へ入っている。


開始をずらすなら、その間に何を置くか考え直す必要がある。


愛菜は事情を聞いたあと、製造の日程を説明した。


「二つの形を揃えてから始めたいと思っています」


『先に、今ある形だけ置くことはできますか』


「数量としては可能です。ただ、その場合、今回ご提案した売り方とは変わってしまいます」


電話の向こうで、紙をめくる音がした。


早瀬はしばらく黙った。


『開始は遅らせられても、終了日は動かせないかもしれません』


「そうすると、販売期間は二週間ほどになりますね」


『はい。その条件でも、御社として出せるか、ご検討いただけますか』


愛菜は、手元の計算書を見た。


一か月のつもりだった。


半分になれば、売場で確かめられることも、売れる機会も変わる。


「今日、社内で確認してお返事します」


通話を終えると、愛菜は担当者と、もう一度費用を計算した。


短い期間でも、納品の費用は変わらない。


販売員への説明も必要だった。


それでも、この一店舗で何ができるかは、まだあった。


結論が出たのは、夕方だった。


二週間で始める。


納品する数量は、二十四着。


その後の追加は、売場の反応を見てから決める。


愛菜は、その条件を早瀬へ返した。


***


正式な注文書が届いた時、事務所にいたのは愛菜と担当者だけだった。


担当者が印刷し、机へ持ってきた。


商品名。


形。


サイズ。


数量。


納品日。


取引先の名前が、下にあった。


愛菜は端から端まで読んだ。


「届きましたね」


担当者が言った。


愛菜は頷いた。


声を出すと、少し震えそうだった。


最初に店へ出した十二着は、自分たちで数を決めた。


今度は、別の会社が、自分たちの売場に置くために二十四着を選んだ。


愛菜は注文書を机に置いた。


「皆さんに、共有しましょう」


担当者が笑った。


「はい」


***


翌朝の打合せで、紗良は注文書の写しを受け取った。


数量を見たあと、納品日へ目を移した。


「ここから、変更しない方がいいんですよね」


愛菜は顔を上げた。


「何か、気になるところがありますか」


紗良は、新しい形の見本を持った。


「まだ、内側の処理で、確認したいところがあります。見た目には出ないんですけど、何度か洗ったあと、どうなるか」


小野寺が手を伸ばした。


紗良は、気になっている部分を示した。


二人で裏返して見る。


担当者は、日程表を開いた。


愛菜は、注文書を脇へ寄せた。


「今、分かったことなら、今、聞かせてください」


紗良が顔を上げた。


「納品日が決まったから言わない、ということにはしないでほしいです」


「はい」


小野寺は、見本を机へ広げた。


「確認そのものはできる。ただ、結果が出るまで、ここは確定できないね」


担当者が、工程の順番を見直した。


先に進められるものを進める。


確認が必要な箇所は、いつまでに判断するか決める。


そのために動かす時間も、工場へ相談する。


愛菜は紗良へ向き直った。


「今日、言ってくれてよかった」


紗良は目を伏せた。


「黙っていたら、あとで、自分でも触れなくなりそうだったので」


愛菜は、その言葉を聞いた。


以前のことを指しているのか、今日のことだけなのか。


尋ねなかった。


「確認を進めてください」


紗良は頷き、小野寺の隣へ移った。


***


その日の午後、ゆみが会社へ来た。


売場で使う説明書を、一緒に見るためだった。


愛菜は、注文書の写しを見せた。


ゆみは数字を読んだ。


「二十四着」


「うん」


「うちの店から、別の店へ行くんだね」


愛菜は頷いた。


ゆみは椅子へ座り、説明書を開いた。


最初の一枚には、二つの形の違いが書かれていた。


ゆみは読み終えてから、首を傾げた。


「これ、売場では読まないかも」


愛菜が顔を上げた。


「長い?」


「長いのと、最初から全部分かろうとすると難しい」


ゆみは余白へ三つの言葉を書いた。


いつも、どこが気になりますか。


座ってみませんか。


もう一方も、試してみますか。


「まず、これでいいと思う。詳しい説明は、そのあとで見られれば」


愛菜は、その三行を読んだ。


会場で、実際に使った言葉だった。


「そうだね」


二人で、説明書を短くした。


その下に、確認してはいけないことではなく、販売員が自分だけで約束できないことをまとめた。


直しの日数。


追加の納品。


別の色の製造。


分からない時に連絡する先も、同じ紙へ載せた。


ゆみは完成したものを見て、頷いた。


「これなら、初めての人にも渡せる」


***


帰り際、ゆみはドアの前で振り返った。


「愛菜さん」


「うん?」


「うちの店では、売れ方、どうだったかも伝えてね」


愛菜は笑った。


「もちろん」


ゆみも笑った。


「ちょっと、先に扱ってたんだって言いたくなる」


「それは、本当だから」


「でも、余計なことまで言わないようにする」


ゆみは軽く手を上げ、帰っていった。


愛菜はしばらく、閉じた扉を見た。


最初に服を置いてもらった店が、次の店へ送り出してくれていた。


それは、注文書とは別の嬉しさだった。


***


夜、愛菜は大虎へ、正式に注文が入ったと話した。


大虎は食事の手を止めた。


「二十四着?」


「うん。二つの形を、サイズごとに六着ずつ」


「おめでとう」


愛菜は笑った。


「ありがとう」


大虎は、机に置かれた日程表を見た。


「最初の予定より、後ろになったんだね」


「無理に早めずに、相談した。販売期間は短くなったけど、二つ揃えて出せる」


大虎は頷いた。


「それで、向こうも進めると言ってくれたんだ」


「うん」


愛菜は、箸を置いた。


「断られるかと思った」


「納期を変えてほしいって言う時?」


「そう。せっかく声をかけてもらったのにって」


大虎は彼女を見た。


「言ってみないと、分からないこともあるからな」


愛菜は頷いた。


二人で、しばらく食事を続けた。


やがて大虎が、日程表の一日を指した。


「納品のあと、ここは空いてる?」


土曜日だった。


愛菜は予定を確かめた。


「今のところは」


「俺も、空けられそうなんだ」


「どこか行く?」


大虎は少し笑った。


「そうしたい」


愛菜は、日程表へ目を戻した。


納品の翌日。


気になることが出るかもしれない。


会社へ行って、もう一度何かを確認したくなるかもしれない。


大虎は、返事を急かさなかった。


愛菜は、担当者の名前が入った欄を見た。


販売開始は、さらに数日後だった。


納品先からの連絡窓口も決まっている。


全部、自分が机の前で待っている必要はなかった。


「空けておく」


愛菜が言うと、大虎の表情が緩んだ。


「よかった」


「どこへ?」


「海でも、見に行こうか」


愛菜は顔を上げた。


「泊まり?」


「日帰りでもいいし、泊まってもいい」


愛菜は少し考えた。


「泊まりたい」


言ってから、自分でも笑った。


「今度は、私も一緒に出かけたい」


大虎が頷いた。


「じゃあ、二人分で探す」


***


数日後、会社に最初の製品が上がってきた。


新しい形のパンツだった。


紗良が袋から出し、小野寺の前へ広げた。


愛菜と担当者も集まった。


縫い目を確かめる。


寸法を測る。


左右を揃えて見る。


確認を終えた一着に、担当者が札をつけた。


二十四着のうちの、一着目。


紗良は、その札を見ていた。


今回は、自分の知らないところで数が増えたわけではない。


誰が注文し、どこへ届き、いつ売場に並ぶのかを知っていた。


愛菜は、確認を終えた服をハンガーへ掛けた。


隣には、もとの形のパンツがあった。


似ているけれど、違う二本。


買ってくれた人のために残した形と、買えなかった人の声から作った形だった。


「次も、お願いします」


愛菜が言うと、小野寺が次の袋へ手を伸ばした。


紗良は記録用の紙を持ち直し、作業台の反対側へ回った。


第38章 予定のない午後


二十四着を送り出したあと、愛菜は作業台の上を見た。


服は、一着も残っていなかった。


切り取った糸。


検品に使った定規。


数量を確認した紙。


担当者が最後の箱を運び終え、戻ってきた。


「積み込み、終わりました」


愛菜は頷いた。


「ありがとうございます」


小野寺が眼鏡を外した。


紗良は、記録の最後に時刻を書き入れた。


少しの間、誰も話さなかった。


やがて担当者が、窓の外を見た。


「行きましたね」


配送の車が、角を曲がるところだった。


愛菜も窓へ寄った。


車は、すぐに見えなくなった。


***


納品先から受領の連絡が来たのは、夕方だった。


数量に相違はない。


商品の確認も終わった。


販売開始に向けた説明は、週明けに予定どおり行う。


愛菜はメールを読み、担当者へ転送した。


返信を終えると、手帳を閉じた。


明日の欄には、仕事の予定がなかった。


海。


大虎と話した時、そう書いただけだった。


愛菜は、その二文字を見て笑った。


***


翌朝、大虎は小さな鞄を玄関へ置いた。


愛菜の荷物は、まだ寝室にあった。


「あと、どれくらい?」


「もう少し」


「十分前も、そう言ってた」


愛菜が、片方だけ靴下を履いて出てきた。


「だって、向こう、寒いかなって」


大虎は彼女の足元を見た。


「まず、もう片方を履こうか」


愛菜は自分の足を見て、笑った。


会社へ行く朝なら、迷うものは少ない。


今日は、何を着てもよかった。


それが、思っていたより難しかった。


結局、柔らかい上着と、歩きやすい靴にした。


玄関で鞄を持つと、大虎が手を伸ばした。


「それ、俺が」


「これくらい、持てる」


「じゃあ、俺のも持つ?」


愛菜は大虎を見た。


大虎は笑って、自分の鞄を持った。


「行こう」


***


街を抜けると、建物の間隔が広くなった。


愛菜は窓の外を見ていた。


会社へ向かう道でも、店へ行く道でもなかった。


信号で止まるたびに、次の予定を考える必要もない。


しばらくして、助手席へ座ったまま、鞄の中を探った。


携帯電話を取り出す。


新しい連絡はなかった。


画面を消す。


大虎が前を向いたまま言った。


「来てない?」


「うん」


「確認したばかりじゃなかった?」


「そうなんだけど」


愛菜は携帯電話を膝に置いた。


大虎は、それ以上何も言わなかった。


道路の先に、海が見えた。


建物の隙間に、細い青い線が現れ、すぐに広がった。


「見えた」


愛菜が体を起こした。


大虎も少し顔を向ける。


「晴れてよかった」


愛菜は携帯電話を持ち直した。


今度は、連絡を見るためではなかった。


窓の向こうへ向け、写真を撮った。


***


昼食は、海沿いの小さな店に入った。


入口の黒板に、魚の名前がいくつか書かれていた。


大虎が読む。


愛菜は、その隣で覗き込んだ。


「どれにする?」


「まだ入ってないよ」


「先に決めておこうと思って」


「だいちゃん、仕事じゃないんだから」


大虎が笑った。


「じゃあ、中で迷うか」


窓際の席へ案内された。


海が見える。


店の人が茶を置き、今日の魚を説明した。


二人は違うものを頼み、少しずつ分けた。


愛菜が小骨を探していると、大虎はすでに半分ほど食べ終えていた。


「早い」


「そう?」


「会議の合間みたい」


大虎は箸を止めた。


それから、自分の皿を見た。


「癖だな」


愛菜は、少し笑った。


「まだ、私いるからね」


「知ってる」


大虎は茶を飲み、窓の外へ目を向けた。


沖を、小さな船が通っていた。


しばらく二人で、それを見ていた。


***


食事のあと、海辺へ下りた。


砂浜ではなく、丸い石が多い浜だった。


歩くたびに、足元が小さく鳴った。


愛菜は海へ近づき、靴の先へ水が届く前に止まった。


大虎は少し後ろを歩いていた。


「ここなら、座れる」


大きな石を手で確かめる。


愛菜が隣へ腰を下ろすと、思っていたより冷たかった。


「冷たい」


「上着、敷く?」


「だいちゃんが寒くなる」


「じゃあ、少しだけ」


二人で座った。


風が、愛菜の髪を頬へ運んだ。


大虎が、指でそっとよけた。


愛菜は彼を見た。


「こういうの、久しぶりだね」


「海?」


「何もしてない時間」


大虎は頷いた。


愛菜は、波が石の間へ入っていくのを見た。


すぐに引いて、また来る。


見ていても、何も決まらなかった。


それでよかった。


***


「写真、撮ろうよ」


愛菜が言った。


大虎が携帯電話を出す。


愛菜は隣へ寄った。


二人を画面へ入れようとすると、海がほとんど見えなくなった。


少し腕を伸ばす。


今度は、愛菜の顔が端へ寄った。


「下手じゃない?」


「自分で撮ってみる?」


愛菜が受け取った。


角度を変え、もう少し高く持つ。


風で髪が顔へかかった。


大虎が笑った。


その瞬間、愛菜が画面を押した。


撮れた写真は、少し傾いていた。


大虎はカメラを見ていない。


愛菜も、目を細めて笑っていた。


「もう一回」


大虎が言った。


愛菜は写真を拡大した。


「私は、これ好き」


「海、斜めだけど」


「分かるから、大丈夫」


大虎は画面を覗き込んだ。


しばらく見てから、頷いた。


「じゃあ、それ送って」


愛菜は、自分の携帯電話へ写真を移した。


会社の会合で撮った写真とは、まるで違った。


誰かへ挨拶する顔でも、きちんと並んで立つ姿でもなかった。


保存して、画面を閉じた。


***


宿へ着いたのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。


部屋の窓からも、海が見えた。


愛菜は鞄を置くと、窓際の椅子へ向かった。


大虎は上着を掛け、隣に座った。


「夕食まで、どうする?」


愛菜が尋ねた。


大虎は時計を見かけて、やめた。


「どうしようか」


愛菜は笑った。


「予定、ないんだ」


「ない」


「珍しい」


大虎は椅子へ深く座った。


「何か、したいことある?」


愛菜は窓の外を見た。


浜を歩いている人がいた。


遠くで、鳥が水面へ下りた。


「今は、ない」


「じゃあ、このまま」


大虎が言った。


愛菜も椅子へ背中を預けた。


隣から、長く息を吐く音がした。


見ると、大虎が目を閉じていた。


***


しばらくして、愛菜の携帯電話が震えた。


鞄の中だった。


愛菜は立ちかけた。


大虎が目を開ける。


「出ていいよ」


愛菜は画面を見た。


会社の担当者からだった。


納品先で、商品表示について一つ質問が出た。


手元の資料で回答し、確認をもらった。


対応済み。


その下に、月曜日の打合せで共有する、とあった。


愛菜は、文章を最後まで読んだ。


自分への質問ではなかった。


自分が返事をしなくても、仕事が進んでいた。


短く礼を返し、携帯電話を鞄へ戻した。


「大丈夫?」


大虎が尋ねた。


「うん。終わってた」


「何が?」


愛菜は内容を話した。


大虎は頷いた。


「よかったな」


愛菜は椅子へ戻った。


「ちょっと、変な感じ」


「自分がいなくても、進んでるから?」


「うん」


大虎が小さく笑った。


「最初は、少し寂しいよね」


愛菜は驚いて、大虎を見た。


「だいちゃんも?」


「あるよ。自分が決めないと動かないと思ってたところが、ちゃんと動くようになると」


「嬉しいだけじゃないんだ」


「嬉しい方が大きいけどね」


愛菜は、鞄へ目を向けた。


今日は、呼び戻されなかった。


そのことを、少しずつ喜べる気がした。


***


日が傾くと、海の色が変わった。


愛菜は窓の前へ立った。


大虎も後ろから来て、隣に並んだ。


「また、来たい」


愛菜が言った。


「まだ帰ってないよ」


「そうだけど」


大虎が笑った。


愛菜は、その笑った顔を見た。


家でも、会社でもない場所で、大虎を見る。


それだけで、少し新しく感じた。


「ねえ」


「うん?」


「だいちゃん、最初に私に会った時、どう思った?」


大虎は、窓の外を見たまま考えた。


「随分、気の強そうな人だなって」


愛菜が振り向いた。


「ひどい」


「聞いたの、愛菜だろ」


「もっと、何かあるかと思った」


大虎は笑いながら、彼女を見た。


「困ってるのに、困ってない顔をしようとしてた」


愛菜の笑いが、少し静かになった。


河川敷で、先のことを考えていた自分を思い出した。


家を出た。


帰るつもりはなかった。


けれど、どこへ行けばいいかは、決まっていなかった。


「……そうだったかも」


「愛菜は?」


「だいちゃんのこと?」


大虎が頷く。


愛菜は、少し考えた。


「変な人だと思った」


「そっちも、ひどいな」


「でも、話していて、急いで答えを出さなくていい感じがした」


大虎は黙って聞いた。


「私は、すぐ何とかしなきゃって思ってたのに。隣にいる人は、全然急いでなくて」


愛菜は窓へ目を戻した。


「あの時は、それが少し腹立たしかった」


「今は?」


愛菜は、大虎の手へ触れた。


「助かってる」


***


夕食を終えて部屋へ戻ると、外は暗くなっていた。


海は見えない。


窓の向こうで、波の音だけがしていた。


愛菜は、昼に撮った写真をもう一度開いた。


大虎が後ろから覗く。


「まだ見てる」


「だいちゃん、楽しそうだから」


「楽しかったからね」


愛菜は写真を閉じ、携帯電話を机へ置いた。


大虎へ向き直る。


「今日は、連れてきてくれてありがとう」


「俺も、来たかったんだよ」


大虎が、愛菜の頬へ手を添えた。


愛菜はその手へ、自分の手を重ねた。


近づいて、唇が触れた。


一度離れてから、愛菜の方から、もう一度顔を寄せた。


大虎の腕が背中へ回る。


急ぐ理由はなかった。


廊下を誰かが歩く音が、遠くに聞こえた。


愛菜は、大虎の胸へ額をつけた。


「明日、何時に起きる?」


「朝ご飯に間に合えば」


「それだけ?」


「それだけ」


愛菜が笑った。


大虎も笑い、彼女を抱き寄せた。


机の上で、二人の携帯電話は暗いままだった。


***


翌朝、愛菜は波の音で目を覚ました。


隣では、大虎がまだ眠っていた。


カーテンの端から、白い光が入っている。


起きようとして、愛菜は少しだけ動きを止めた。


今日は、まだ急がなくてよかった。


大虎の手が、眠ったまま愛菜の方へ伸びた。


布団の上を探り、指が触れる。


愛菜は、その手を取った。


目を閉じる前に、枕元の時計を一度見た。


朝食までは、まだ時間があった。


第39章 私のいない売場


販売初日の朝、愛菜は会社にいた。


店へ行く予定は入れていなかった。


商品は届いている。


販売員への説明も終わった。


問い合わせがあれば、担当者が受ける。


前の晩にも確認したことを、机に座ってから、もう一度思い出した。


九時五十分。


開店まで、あと十分だった。


愛菜は手帳を開いた。


午前中は、次の生地の打合せ。


午後は、通常商品の確認。


どちらも、自分の会社で必要な仕事だった。


それでも、時計を見る回数は増えた。


担当者が、書類を持ってきた。


「先方から、売場の写真が届いています」


愛菜は顔を上げた。


「見てもいい?」


担当者が画面を向けた。


二つの形が、並んでいた。


ラックの横には、椅子が一脚。


鏡もある。


愛菜たちが作った説明書は、そのまま掲示されてはいなかった。


店の売場に合わせて、文字が大きく、短く整理されていた。


愛菜は、その写真をしばらく見た。


自分たちの服なのに、自分たちの売場ではなかった。


「きれいに置いてくれてるね」


「はい」


担当者は笑った。


愛菜は時計へ目を向けた。


十時になっていた。


***


最初の問い合わせは、十一時を少し過ぎた頃だった。


二つの形の、同じサイズを試した客がいる。


一方は腰が合う。


もう一方は、座った時に楽だという。


どちらを勧めた方がよいか。


担当者は、電話を聞きながらメモを取った。


愛菜は隣へ来たが、受話器には手を伸ばさなかった。


担当者が答えた。


「こちらから、どちらが正しいとは決められません。お客様が長く穿く場面を伺っていただけますか」


相手の返事を聞く。


「はい。試着の時間が取れるようでしたら、座ったまま少し過ごしていただいても構いません」


愛菜は、担当者の手元を見ていた。


自分が何度も客へ聞いたことを、別の人が、別の売場へ伝えていた。


電話を終えると、担当者が顔を向けた。


「この対応で、大丈夫でしたか」


愛菜は頷いた。


「うん。何ておっしゃってた?」


「まず、お客様に聞いてみます、と」


愛菜は自分の席へ戻った。


その客が買うかどうかは、分からない。


今、店でどんな顔をしているかも見えない。


それでも、話を聞く人は、そこにいた。


***


一日目の販売は、二着だった。


一つずつ、違う形が売れた。


早瀬から届いた報告は短かったが、試着した客の反応が添えられていた。


午前中に問い合わせをした客は、購入を見送った。


座ると楽な方も、歩いた時の線が、好みとは少し違ったという。


愛菜は、その記録を読んだ。


店へ説明した内容が、客の判断に使われていた。


買ってもらえなかったこととは別に、確かめられたことがあった。


紗良にも、記録が回った。


彼女は二つの形の図を並べ、余白へ言葉を書いた。


愛菜が横を通ると、顔を上げた。


「両方、売れたんですね」


「うん」


紗良は少し笑った。


それから、購入を見送った客の欄へ目を戻した。


***


一週間で、十四着が売れた。


先に数が少なくなったのは、新しく作った形の、大きい方のサイズだった。


六着のうち、残りは一着。


愛菜は、担当者と在庫表を見ていた。


その隣では、同じ形の小さい方が、まだ四着残っている。


もう一つの形にも、動き方の違いがあった。


二十四着は、均等には減らなかった。


「最初から、同じ数にしなくてもよかったのかもしれませんね」


担当者が言った。


愛菜は、日ごとの記録を読んだ。


「そうかもしれない。でも、この一店舗、この一週間だけで決めきらない方がいいと思う」


担当者は頷いた。


早瀬からは、追加できるかという問い合わせが来ていた。


売れているサイズを、六着。


愛菜は工場の予定を確認した。


今から作れば、販売期間の終わりに間に合うかどうかだった。


無理に入れると、ほかの注文の間へ割り込むことになる。


愛菜は、早瀬へ電話をかけた。


***


「今回の期間中に、確実に追加できるとはお約束できません」


愛菜が言うと、早瀬は少し間を置いた。


『分かりました』


「お待ちいただけるお客様がいらっしゃる場合、納期を確認して、店頭でご案内いただく形なら検討できます」


『取り寄せのような形ですね』


「はい。ただ、今すぐ注文を受けていただくのではなく、先に工場と日程を詰めさせてください」


早瀬は了承した。


愛菜は、販売の様子も尋ねた。


早瀬は売場担当者から聞いた話を、いくつか伝えた。


客が、自分で二つを比べている。


最初は違いが分からなくても、座ると選びやすくなる人がいる。


片方を着てから、もう片方を試したいと言う人も多い。


愛菜は、聞きながら書いた。


最後に、早瀬が言った。


『販売期間が終わったら、次の話をしたいと思っています』


愛菜のペンが止まった。


『まだ、社内の判断があります。今の段階では、確約ではありませんが』


「はい」


『継続して置く場合の条件を、御社でも考えておいていただけますか』


愛菜は背筋を伸ばした。


「準備します」


電話を切ってから、すぐには立ち上がれなかった。


二週間だけの売場だった。


その先の話を、向こうからしてもらえた。


愛菜は、閉じかけた手帳をもう一度開いた。


***


翌日、愛菜は客として、その店を訪ねた。


担当者には、事前に伝えてあった。


売場の仕事を止めず、少し離れて見せてもらう。


店へ入ると、入口近くに季節の食器が並んでいた。


奥へ進む。


靴下。


鞄。


柔らかい上着。


その先に、自分たちのパンツがあった。


愛菜は足を緩めた。


販売員が、一人の客へ声をかけていた。


「普段、腰回りと、お腹の辺りでは、どちらが気になりますか」


客は少し考え、自分の背中へ手を回した。


「ここが余ることが多いの」


販売員は、新しい形を手に取った。


愛菜は、その場から少し離れた。


棚に並ぶ小物を見るふりをして、声を聞いた。


試着室のカーテンが閉まる。


しばらくして、客が出てきた。


販売員が椅子を勧めた。


客が座る。


愛菜は、思わず一歩近づきかけた。


腰の位置を、横から確かめたくなった。


けれど、その前に販売員がしゃがんだ。


「立っている時と、変わりましたか」


客は、何か答えた。


遠くて、全部は聞こえなかった。


販売員が頷き、もう一つの形を持ってきた。


愛菜は足を止めた。


自分が前へ出なくても、続いていた。


***


客が着替えている間に、売場の責任者が愛菜へ気づいた。


近づいてきて、小さく挨拶をした。


「いらしていたんですね」


「お忙しいところ、すみません」


「大丈夫です。少しだけ、お時間ありますか」


愛菜は頷いた。


責任者は、棚の下から説明書を出した。


端に、付箋が何枚かついていた。


「実際に販売してみて、追加で伺いたいことが出てきまして」


愛菜は紙を受け取った。


二つの形でサイズが変わる場合の案内。


裾を直したあとの返品についての説明。


試着をせず、家族の分を買いたいと言われた時の対応。


作る側から考えた紙では、足りないところがあった。


愛菜は一つずつ聞いた。


「持ち帰って、回答をまとめます」


「お願いします。スタッフ全員で確認できる形だと助かります」


愛菜は頷いた。


その時、試着していた客が売場へ戻ってきた。


一着を販売員へ渡す。


「こちらにします」


愛菜は、顔を上げた。


客は愛菜を見なかった。


この服を作った会社の人が、すぐそばにいるとは知らない。


販売員へ直しの希望を伝え、会計へ向かった。


愛菜は、その背中を見送った。


会社の名前も、夫の名前も、その会話には出てこなかった。


どちらが着やすかったか。


丈をどうするか。


それで、一着が選ばれた。


***


店を出ると、愛菜は大虎へ写真を送った。


許可をもらって撮った、客の写っていない売場だった。


《私がいなくても、売ってくれてた》


返事が来るまで、駅へ向かって歩いた。


信号の前で、携帯電話が震えた。


《どんな感じだった?》


愛菜は少し考えた。


嬉しい。


ほっとした。


少しだけ、入り込めなくて寂しかった。


全部あった。


《帰ったら話す。今日は、ちゃんとお客さんとして見られた》


送ると、すぐに返ってきた。


《楽しみにしてる》


***


会社へ戻ると、机に封筒が置かれていた。


顧問から届いた、久世の件の報告だった。


愛菜は上着を脱ぎ、椅子へ座った。


倉田への返金は続いている。


完了はしていない。


製造された三百着については、関係者の間で、扱いを定めるための協議が進んでいた。


まなブランドが製造費を負担するという請求は、取り下げられた。


その一文で、愛菜の手が止まった。


読み直す。


確認済みの書面が、添えられていた。


自分たちが頼んでいない服の代金を、自分たちの名前で請求される。


あの日から残っていた問題の一つが、ようやく片づいた。


けれど、三百着が消えたわけではない。


倉田の金が、すべて戻ったわけでもない。


愛菜は報告書を最後まで読んだ。


そして担当者へ、関係する部分を共有した。


紗良には、人事を交えた面談で伝えることにした。


***


夕方、紗良は会議室へ来た。


説明を聞く間、膝の上に手を置いていた。


請求が取り下げられたと聞くと、少しだけ息を吐いた。


愛菜は、そのあとも残っていることを伝えた。


工場で作られた服。


返金を待つ人。


名前を使われた経緯。


紗良は頷いた。


「終わったわけでは、ないんですね」


「はい」


紗良は机の上の書類を見た。


「私にできることがあれば、教えてください」


愛菜は、すぐには頷かなかった。


「今、担当している仕事を、きちんと続けてください。今回の件で確認が必要になった時は、担当から伝えます」


紗良は顔を上げた。


「はい」


愛菜は書類を閉じた。


それから、今日もらった売場の写真を見せた。


紗良が、少し身を乗り出した。


新しい形のパンツが、ラックに掛かっている。


「こちらは、今日、売場で見てきました」


愛菜が言った。


「私の目の前で、一着、選んでもらえました」


紗良は写真を見たまま、小さく笑った。


同じ机の上に、二つの仕事の結果があった。


愛菜は、どちらかで、もう一方を消そうとはしなかった。


***


夜、大虎は愛菜の話を聞きながら、売場の写真を見ていた。


「一歩、出そうになったんだ」


愛菜が言うと、大虎は笑った。


「腰のところを見たくなって?」


「うん。でも、販売員さんが、先に聞いてくれた」


「よかったな」


「うん」


愛菜はソファへ背中を預けた。


「あと、継続して置く条件も考えてほしいって」


大虎が顔を向けた。


「大きい話だね」


「まだ、決まってないよ」


「分かってる。でも、二十四着を置いて終わりじゃなくなった」


愛菜は頷いた。


大虎は写真を返した。


「続けるなら、何が一番必要?」


愛菜は、すぐに数量を思い浮かべた。


生地。


工場の予定。


運転資金。


どれも必要だった。


けれど、今日見た売場を思い出すと、別の答えもあった。


「私以外の人が、迷わず売れるようにすること」


大虎は頷いた。


愛菜は、付箋のついた説明書を鞄から出した。


「それと、分からない時に、聞ける人を増やすこと」


大虎は、その紙へ目を落とした。


「忙しくなるな」


愛菜は笑った。


「うん」


今度の忙しさは、起きたことを止めるためだけのものではなかった。


愛菜は手帳を開き、来週の打合せへ一つ、項目を書き加えた。


継続販売について。


その横へ、今日の売場で聞いた人たちの名前を並べた。


第40章 最初の五千万円


二週間の販売が終わった。


二十四着のうち、売れたのは十九着だった。


追加を希望する客の名前も、店に残っていた。


早瀬との打合せでは、次の数量より先に、売場で起きたことを確認した。


説明に時間がかかった箇所。


試着しても選べなかった客。


サイズがなく、買えなかった客。


愛菜は、販売員が書いた記録を一枚ずつ読んだ。


最後に、早瀬が契約条件の案を出した。


一店舗で、継続して扱う。


一度に大量には入れず、売れた形とサイズを見ながら補充する。


「まずは、この店で続けたいと思っています」


早瀬が言った。


愛菜は顔を上げた。


「ありがとうございます」


返事をしたあとで、ようやく胸の奥が熱くなった。


期間が終わっても、服を全部持って帰らなくてよかった。


あの売場に、まなブランドの場所が残る。


愛菜は条件を確認し、担当者と持ち帰る項目を整理した。


喜ぶ時間は、そのあとに少しだけ取った。


会社へ戻る途中、二人で小さな店へ入り、遅い昼食を食べた。


担当者が、箸を持ったまま笑った。


「続くんですね」


愛菜も笑った。


「うん。続けられるように、しないとね」


***


その週、愛菜は藤川興産を訪ねた。


融資を受けてからの状況を報告するためだった。


売上。


支出。


返済の予定。


会社を始めた時に作った計画と、今の数字は同じではなかった。


それでも、違いを説明できるようになっていた。


愛菜は、待合室で資料をもう一度開いた。


最初にここへ来た日のことを思い出した。


五千万円。


その金額を口にするだけで、喉が乾いた。


断られたら、次に誰へ相談するか。


自分の話が、どこまで通じるか。


何度も、鞄の中の資料へ触っていた。


今日は、実際に売れた服の写真を入れていた。


紹介された客も、直して返した商品もあった。


予定どおりではないことの方が多かった。


それでも、持ってきたものは、計画だけではなかった。


***


藤川は、応接室で待っていた。


「お久しぶりです」


愛菜が挨拶すると、笑顔で席を勧めた。


「今日は、会社のお話ですね」


「はい。現状をご報告したくて」


愛菜は資料を渡した。


藤川は、数字のページを先に読んだ。


売上の規模に、大げさな反応はしなかった。


支出を見て、いくつか尋ねた。


愛菜は、その理由を説明した。


展示販売で利益が出なかったことも話した。


そこから、継続して扱う店につながったことも。


藤川は写真のページを開いた。


「これは、店の方が説明しているところですか」


「はい。今は、私がいなくても販売できるように、資料と対応を整えています」


「なるほど」


藤川は写真を見たまま、少し頷いた。


「ご自身が全部動く形から、変わってきたんですね」


「まだ、少しずつですが」


愛菜は返済予定の資料を出した。


藤川は、それを手元へ引いた。


そこからしばらく、数字の話が続いた。


***


「今後、扱う店舗が増えた場合でも」


藤川が言った。


「先に返すことばかり考えて、必要な運転資金を薄くしない方がいいでしょう」


愛菜は頷いた。


「はい。今回は、急に繰上げ返済をしたいというお話ではありません。まず、今の状況をお伝えしたくて」


「それは、よく分かりました」


藤川は資料を揃えた。


そして、返済予定の下へ置かれていた一枚を見た。


「この先、数字が積み上がれば、大虎さんの保証に頼らない形も、検討できますね」


愛菜の指が止まった。


藤川は、彼女の表情を見た。


「……保証、ですか」


静かな声だった。


藤川は、すぐには返事をしなかった。


愛菜は、手元の資料を一度見た。


自分が用意してきたページに、その言葉はなかった。


「だいちゃんが、この融資の保証をしているんですか」


藤川は、背筋を伸ばした。


「はい。融資を決めた時に、大虎さんから申し出がありました」


愛菜は、返済予定の紙を押さえた。


「私は、聞いていません」


部屋が静かになった。


廊下を誰かが歩く音がした。


愛菜は、その足音が遠ざかるまで、何も言えなかった。


***


「私が、ここへ伺った日ですか」


愛菜が尋ねた。


「その前に、お話ししています」


愛菜は目を閉じかけて、やめた。


最初の面談。


藤川の前で、自分の事業について説明した。


必要な金額を伝えた。


五年で返すつもりだと話した。


あの時には、すでに大虎との間で話があった。


「では、融資していただけたのは、だいちゃんがいたからですか」


藤川は、少し間を置いた。


「ご紹介があったことも、保証の申し出があったことも、判断に影響しています」


愛菜は、膝の上へ手を戻した。


藤川は続けた。


「ただ、愛菜さんのお話を聞かずに、金額も条件も決めていたわけではありません」


愛菜は頷いた。


その説明を、聞いておきたかった。


けれど、今すぐ安心できる言葉として受け取ることもできなかった。


「保証の内容を、私にも確認させていただけますか」


「関係する書類を確認して、説明できる形にします」


藤川は机の電話へ手を伸ばしかけて、止めた。


「大虎さんにも、こちらから連絡を——」


「先に、私から話します」


愛菜が言った。


声が、少し硬くなった。


藤川は手を戻した。


「分かりました」


愛菜は資料をしまった。


継続販売の写真が、最後に残った。


自分のいない売場で、客が服を選んだ場所だった。


愛菜はその一枚を見てから、鞄へ入れた。


***


会社へ戻る途中、愛菜は一度、駅のベンチに座った。


大虎へ電話をしようとして、画面を開いた。


まだ、何を聞けばいいか分からなかった。


どうして言わなかったのか。


なぜ保証したのか。


あの時、融資を受けた自分を、どんな気持ちで見ていたのか。


質問は、いくつも浮かんだ。


そのどれも、一つ聞けば済む話ではなかった。


愛菜は短く送った。


《今日、藤川会長にお会いした。融資の保証のことを聞いたので、今夜、話したい》


送信すると、すぐに既読がついた。


しばらく、返事は来なかった。


愛菜は携帯電話を持ったまま、線路の方を見た。


やがて画面が光った。


《分かった。早く帰る》


愛菜は返事をせず、携帯電話をしまった。


***


大虎は、愛菜より先に帰宅していた。


玄関には、仕事の靴が揃っていた。


愛菜が入ると、居間から立ち上がった。


「おかえり」


「ただいま」


愛菜は鞄を置き、上着を掛けた。


大虎は食卓の方を見た。


「ここで、話そうか」


愛菜は頷いた。


二人で向かい合って座った。


今日は、隣ではなかった。


大虎が先に口を開いた。


「藤川から聞いた話は、本当だよ」


愛菜は、机の上へ手を置いた。


「最初から?」


「うん」


「私が、五千万円を借りに行く前から?」


「そう」


大虎は視線を逸らさなかった。


愛菜は、次の言葉を選んだ。


「だいちゃんに頼めば、融資してもらえるって決まってたの?」


「いや。事業の話を聞いて、融資できるかは藤川が判断した。そのうえで、貸すなら保証は俺が持つと伝えた」


愛菜は、藤川から聞いた説明を思い出した。


二人の話は、食い違っていなかった。


「どうして、私に言わなかったの?」


大虎は、すぐには答えなかった。


愛菜は待った。


「言えば、愛菜が借りないと言うかもしれないと思った」


その返事で、愛菜の表情が変わった。


大虎も、それを見た。


愛菜はゆっくり、手を引いた。


「私が断るかもしれないから、言わなかったの?」


「うん」


大虎は短く答えた。


それから、続けた。


「力になりたかった。でも、愛菜に知らせずに決めていい理由にはならなかった」


愛菜は椅子へ背中を預けた。


怒鳴りたいわけではなかった。


助けてもらったことを、なかったことにしたいわけでもない。


それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。


「私、何度も話したよね」


「うん」


「自分で決めたいって。できないことがあっても、先に知りたいって」


大虎は頷いた。


「聞いてた」


「だったら、途中で話してほしかった」


大虎は目を伏せた。


「そうだね」


***


しばらく、二人とも何も言わなかった。


愛菜は、今日持ち帰った資料を鞄から出した。


返済予定。


会社の収支。


継続販売が決まった店の写真。


机へ並べる。


「これ、今日、見てもらったの」


大虎は写真を見た。


「うん」


「私、最初の時より、ちゃんと話せるようになったと思ってた」


大虎が顔を上げた。


「それは、なってるだろ」


愛菜は、すぐには頷かなかった。


「今は、どこまで自分でできたのか、分からなくなってる」


大虎は、写真へ目を戻した。


そして、静かに言った。


「融資を受ける時に、俺が関わった。それは本当だよ」


愛菜は聞いていた。


「でも、その店で服を選んだ人に、俺は何もしていない」


愛菜の目が、写真へ落ちた。


「そこまで、俺がしたことにしないでほしい」


大虎の声は、強くはなかった。


愛菜は、鏡の前で二つのパンツを着比べていた客を思い出した。


自分のことも、大虎のことも知らずに、一着を選んだ人。


あの日のことまで、違う意味になったわけではなかった。


愛菜は写真を一枚、自分の方へ引いた。


「……そこは、分けて考えたい」


大虎は頷いた。


「うん」


***


愛菜は、返済予定の紙を揃えた。


「保証は、今すぐ外してって言えば、外れるものではないんだよね」


「俺たちだけで決められる話ではない」


「分かった。藤川会長にも、内容を確認する」


大虎は頷いた。


「必要なことは、全部話す」


愛菜は彼を見た。


「今日聞いたこと以外にも、私の会社について、私が知らないところで約束したことはある?」


大虎は、しばらく考えた。


簡単に、大丈夫だとは言わなかった。


「融資の時のやり取りも含めて、確認して伝える。曖昧なまま、ないとは答えたくない」


愛菜は頷いた。


それから、椅子を引いた。


大虎も立ちかける。


愛菜は首を振った。


「帰るとか、そういうことじゃない」


大虎の動きが止まった。


「少し、一人で考えたい。今日は、先にお風呂に入るね」


「分かった」


愛菜は資料を持たず、席を離れた。


***


浴室の扉を閉めると、愛菜は洗面台へ両手をついた。


鏡の中に、自分の顔があった。


知らなかったことを知っただけで、全部が壊れたわけではない。


大虎と海へ行ったことも。


帰りを待った夜も。


その肩へ寄りかかって眠ったことも。


嘘だったとは思っていなかった。


けれど、これから何かを相談する時、知らないところで話が進んでいるかもしれないと考えたくはなかった。


愛菜は顔を上げた。


今夜、すぐに許すと言わなくてもいい。


それでも、話を続けることはできる。


居間では、大虎が机の上の資料を一枚ずつ揃えていた。


売場の写真を、返済予定の上へ重ねかけて、手を止めた。


別に置く。


愛菜が、そうしたように。


大虎は携帯電話を取り、藤川へ連絡を入れた。


「最初の融資の時のやり取りを、確認したい。愛菜にも、同じ内容を渡せるようにしてほしい」


話し終えてから、机へ戻った。


向かいの椅子は、そのままにしておいた。


第41章 知ったうえで


愛菜が浴室から出ると、大虎は食卓にいた。


机の上には、二つに分けられた資料があった。


融資の書類。


会社の報告と、売場の写真。


愛菜は、それを見てから椅子へ座った。


大虎が顔を上げた。


「藤川に、当時のやり取りを確認してもらってる」


「うん」


「愛菜にも、同じものを渡せるように頼んだ」


愛菜は頷いた。


大虎は、少し間を置いて続けた。


「今、覚えていることだけで、都合よく説明したくない。確認できたら、一緒に見てほしい」


「分かった」


それ以上、話は続かなかった。


大虎は、愛菜の返事を待つように座っていた。


愛菜は机の木目を見た。


「今日は、ここまでにしたい」


「うん」


二人で灯りを消した。


寝室へ行ってからも、愛菜は大虎の方へ寄らなかった。


同じベッドの、いつもの場所へ横になった。


大虎も、手を伸ばしてこなかった。


暗い中で、互いが眠っていないことだけ分かった。


***


翌朝、台所には二つの湯呑みが出ていた。


愛菜が入ると、大虎は湯を注いでいた。


「おはよう」


「おはよう」


パンを皿へ載せる。


愛菜は冷蔵庫から、二人分のものを出した。


その動きまで変えたいわけではなかった。


食卓へ座ると、大虎が言った。


「藤川の予定は、明日の午後なら空いてる」


愛菜は手帳を開いた。


自分の予定を確かめる。


「三時以降なら、行ける」


「分かった」


大虎は、そこで一度止まった。


「俺も一緒に行っていい?」


愛菜は顔を上げた。


大虎が保証した。


その話を、保証した本人のいないところで聞くより、一緒に確かめた方がいい。


ただ、自分より先に話を決めてほしくはなかった。


「一緒に来て」


大虎が頷いた。


「でも、私が聞いている時は、先に答えないでほしい」


「分かった」


愛菜は手帳へ予定を書き込んだ。


ペンを置くと、パンは少し冷めていた。


大虎がトースターへ目を向けた。


「温め直す?」


愛菜は首を振った。


「このままで大丈夫」


そう答えてから、ひと口食べた。


***


藤川との面談には、融資を担当した者も同席した。


机には、当時の書類が揃えられていた。


愛菜が署名した借入の書類。


返済の予定。


そして、大虎と藤川側との間で取り交わされた、保証に関する書類。


愛菜は、自分の知らなかった方を先に読んだ。


名前があった。


日付があった。


自分が融資を受けた頃のものだった。


担当者が内容を説明した。


愛菜の会社が負う返済の条件。


大虎が引き受けている責任の範囲。


保証を外す場合には、改めて協議が必要になること。


愛菜は、分からない言葉に印をつけ、その都度聞いた。


大虎は隣で聞いていた。


一度も、代わりに答えなかった。


説明が終わると、愛菜は自分の借入書類を開いた。


「この保証があることで、私の会社が、だいちゃんに何か支払う約束はありますか」


担当者が答えた。


今回の資料には、そうした取り決めはない。


愛菜は頷いた。


次に、藤川を見た。


「返済以外に、私が知らない条件はありますか」


藤川は書類へ目を落とした。


「本日お渡ししたもののほかに、愛菜さんの会社へ求める条件はありません」


愛菜は、その返事を書き留めた。


***


「もう一つ、聞いてもいいですか」


愛菜が尋ねると、藤川は頷いた。


「だいちゃんの保証がなかったら、貸していただけましたか」


大虎の手が、膝の上で止まった。


藤川は、すぐには答えなかった。


「同じ金額、同じ条件だったとは、お約束できません」


愛菜は顔を上げたまま聞いた。


「事業を始める段階で、実績はまだありませんでした。ご自身の説明と計画を見ましたが、それだけで五千万円を判断したわけではありません」


「はい」


「大虎さんの紹介と保証は、私どもの判断を支えました」


愛菜は、ゆっくり頷いた。


聞きたい答えではなかった。


けれど、聞いた方がよかった答えだった。


藤川は、励ます言葉を続けなかった。


愛菜は、しばらく資料を見ていた。


それから、継続販売の報告を自分の鞄から出した。


「今の会社については、今の数字で、今後も見ていただきたいです」


藤川が資料を受け取った。


「もちろんです」


「借りたお金は、今の計画に沿って返します。保証を外すことについても、いつ、何を基準に相談できるか知りたいです」


担当者が、新しい紙を用意した。


定期的に確認する資料。


資金繰り。


売上だけでなく、利益と返済の状況。


愛菜は、その項目を手帳へ書いた。


今日の話で、すぐに保証がなくなるわけではなかった。


それでも、何も知らずに置かれていたものを、これから確かめられる。


愛菜は、自分の手で書いたページを閉じた。


***


面談を終えて廊下へ出ると、大虎は愛菜の少し後ろを歩いた。


エレベーターの前で並ぶ。


愛菜は、書類の入った鞄を持ち直した。


「借りたことまで、間違いだったとは思いたくない」


大虎は彼女を見た。


「うん」


「今日、聞いて、それは分かった」


扉が開いた。


二人で乗り込んだ。


愛菜は、階数の表示を見ながら続けた。


「でも、知ってから借りたかった」


大虎は頷いた。


「そうだね」


「断ったかもしれない。別の条件をお願いしたかもしれない。結局、そのまま借りたかもしれない」


愛菜は大虎へ向き直った。


「どれだったか、もう分からないんだよ」


大虎は、黙ってその言葉を聞いた。


エレベーターが下へ動いていた。


「その選択を、俺が先に決めた」


大虎が言った。


愛菜は頷いた。


「うん」


大虎は目を逸らさなかった。


「ごめん」


扉が開いた。


愛菜はすぐには動かず、一度だけ息を吐いた。


それから、外へ出た。


***


車へ戻っても、すぐには出発しなかった。


大虎がハンドルへ手を置いた。


愛菜は窓の外を見ていた。


昼間の道路を、いつもどおりに車が流れていく。


「ほかのことも、確認した?」


愛菜が尋ねた。


「した」


大虎は手を下ろした。


「俺が愛菜の会社について、金銭的な負担を引き受けたのは、この保証です。出資や、取引先への買い取りの依頼はしていない」


愛菜は顔を向けた。


「藤川への紹介で話した内容も、今日の資料に入ってる。確認できなかったことは、残していない」


愛菜は鞄へ目を落とした。


「分かった。あとで、もう一度読む」


大虎は頷いた。


愛菜は、少し迷ってから尋ねた。


「そんなに、私に断られるのが嫌だった?」


大虎の表情が変わった。


すぐには答えなかった。


やがて、ハンドルの上から手を離した。


「嫌だったんだと思う」


愛菜は聞いていた。


「何かしてあげられるのに、何もしないで見ているのが、苦手だった」


「だから、見えないところでしたの?」


「うん」


大虎は窓の方へ目を向けかけ、愛菜へ戻した。


「愛菜には、自分で進めたと思っていてほしかった。それで、うまくいくと思ってた」


愛菜は、ゆっくり首を振った。


「自分で進めたふりをしたかったわけじゃないよ」


大虎は目を伏せた。


「うん」


「助けてもらうなら、誰に、何をしてもらったか知っていたい。ありがとうも言いたいし、できないことは断りたい」


大虎は、しばらく黙っていた。


「分かった」


今回は、その返事のあとに、話を丸く収める言葉はなかった。


***


会社へ戻る前に、二人は小さな喫茶店へ入った。


昼食を食べていなかった。


向かい合って座り、愛菜は温かいものを頼んだ。


大虎も同じものにした。


料理が来るまで、愛菜は借入書類を広げなかった。


大虎も携帯電話を出さなかった。


窓際の席で、老夫婦が新聞を分けて読んでいた。


愛菜はその様子を見ていた。


「海、楽しかったよ」


ふいに言うと、大虎が顔を上げた。


愛菜は彼を見た。


「今も、あの日のことは、楽しかったと思ってる」


大虎は、少しだけ肩の力を抜いた。


「俺も」


「今、怒ってるからって、あれまで嘘にしたくない」


「うん」


料理が運ばれてきた。


二人で、机の中央を空けた。


愛菜はスプーンを取った。


湯気が上がっていた。


大虎が、何か言いかけた。


それから、一度口を閉じた。


「何?」


愛菜が尋ねた。


「今日、会社のあと、迎えに行ってもいい?」


愛菜は少し考えた。


「うん。終わる時間が分かったら、連絡する」


大虎は頷いた。


***


会社へ着くと、愛菜は担当者に、融資条件を確認してきたことを伝えた。


今後の資金繰りを考えるうえで必要な部分は、経理と共有する。


個人的な感情の話まではしなかった。


机へ座ると、早瀬からの連絡が届いていた。


継続販売の打合せ日が決まった。


売場からは、追加の説明資料についても返事が来ている。


愛菜は一つずつ読んだ。


借りた五千万円の始まりに、大虎がいた。


それは、もう知らなかったことにはできない。


けれど、目の前のメールへ返事を書くのは、自分だった。


販売員が困っていることを聞くのも。


次に何着作るか、工場と考えるのも。


愛菜は返事を書き、担当者へ確認を頼んだ。


そのあと、机の端に置いていた売場の写真を、いつもの場所へ戻した。


***


夜、会社を出ると、大虎の車が停まっていた。


愛菜が乗り込むと、車内は暖かかった。


「お疲れさま」


「お疲れさま」


大虎が、鞄を置きやすいよう荷物を動かした。


愛菜はシートベルトを締めた。


車が走り始める。


しばらくして、愛菜が言った。


「今日は、まだ、いつもどおりにはできないかもしれない」


「分かった」


「でも、帰るのは一緒がいい」


大虎は前を向いたまま、頷いた。


信号が赤になった。


車が止まる。


愛菜は、膝の上に置いていた手を少し動かした。


大虎の手の近くへ置く。


大虎はそれを見て、顔を向けた。


愛菜が、小さく頷いた。


指が触れた。


握り返すまで、少し時間がかかった。


信号が変わると、大虎はそっと手を離し、ハンドルへ戻した。


愛菜は、温かさの残った手を膝へ置いた。


家までの道を、今日はそれ以上、急がずに帰った。


第42章 頼みたいこと


大虎が、何か言う前に少し考えるようになった。


愛菜は、それに気づいていた。


夕食のあと、会社から届いた連絡を読んでいる時。


新しい売場の話をした時。


以前なら、すぐに返ってきた言葉が、少し遅れる。


何も言わない方がいいのか。


そう考えているように見えた。


愛菜も、自分から何を話せばいいか、まだ迷っていた。


一緒に食事をする。


朝、出かける前に声をかける。


同じ家で暮らすことは続いていた。


けれど、互いの様子を見て、途中で飲み込む言葉があった。


***


継続販売の打合せで、早瀬は一店舗分の結果を見せた。


最終的な販売数。


形とサイズごとの動き。


問い合わせの内容。


愛菜が受け取っていた日々の記録を、店側の視点でまとめたものだった。


「現在の店舗では、このまま続けたいと考えています」


早瀬が言った。


愛菜は頷いた。


「ありがとうございます」


「それから、別の三店舗からも、扱いたいという話が来ています」


愛菜の手が止まった。


隣の担当者も顔を上げた。


早瀬は、四つの店舗を並べた資料を出した。


客層は、まったく同じではない。


売場の広さも違う。


そのうち一店舗は、椅子を置く場所から調整が必要だという。


「同時に始めるとは限りません。まず、御社でどこまで対応できるか伺いたいです」


愛菜は、店の写真を見た。


一つの売場で、自分たちの服を売ってもらえるようになった。


その場所が、四つになる。


嬉しさのあとに、いくつもの確認事項が浮かんだ。


製造する数。


説明に行く人。


在庫の置き場所。


直しが戻ってきた時の窓口。


早瀬は、その様子を見ていた。


「今日、全部のお返事は必要ありません」


愛菜は顔を上げた。


「持ち帰って、体制と数量を整理します」


「お願いします」


早瀬は、一枚の紙を愛菜へ渡した。


今後、各店が回答を必要とする日が書かれていた。


愛菜はそれを手帳へ挟んだ。


初めて聞いた時には大きすぎた話が、日付のある仕事になった。


***


会社へ戻ると、担当者はすぐに工場へ連絡した。


愛菜は経理と、支出の予定を確認した。


生地の代金は、販売代金が入るより先に必要になる。


服ができれば、それで費用が終わるわけではない。


運搬。


説明資料。


売場への訪問。


保管している在庫も、机の上では商品だが、支払いを済ませた金でもあった。


経理担当者が、月ごとの表を出した。


「今の資金で進められない規模ではありません。ただ、ほかの商品と重なる時期があります」


愛菜は、入金より支払いが多い月を見た。


その先に、売上が入る予定がある。


予定どおりに売れなかったら。


追加が途切れたら。


見込みとして置いた数字を、一つずつ下げてみた。


表の形が変わった。


担当者が電話を終えて戻ってきた。


「工場は、時期を分ければ相談できるそうです。先に形とサイズの配分を出してほしいとのことです」


愛菜は、四店舗の写真を並べた。


やりたいと思った。


まだ会社の中が整っていないからといって、ずっと一店舗のままにはしたくなかった。


そのために、何を増やし、何を自分から離すか。


愛菜は、新しい紙へ書き始めた。


***


その夜、愛菜は資料を家へ持ち帰った。


大虎は、机に置かれた厚い封筒を見た。


「仕事?」


「うん」


大虎はそれ以上尋ねず、台所へ行こうとした。


愛菜が呼び止めた。


「だいちゃんに、見てもらいたい」


大虎が振り向く。


愛菜は椅子を引いた。


「会社の人とも確認してる。でも、事業を広げる時に、私が見落としていることがないか、聞きたい」


大虎は、しばらく愛菜を見ていた。


「俺でよければ」


愛菜は頷いた。


二人で、机へ向かった。


今度は、愛菜が資料を開いた。


***


大虎は、最初に店舗の写真を見た。


次に、数量と日程。


最後に、資金の表を読んだ。


愛菜は横で待っていた。


一通り読み終えると、大虎が尋ねた。


「愛菜は、四店舗でやりたい?」


「やりたい」


返事は、思っていたより早く出た。


大虎は頷いた。


「一番、不安なのは?」


愛菜は、資金の表へ目を落とした。


けれど、答えは別のところにあった。


「全部、私のところへ戻ってくること」


大虎が顔を上げた。


「商品のことも、売場のことも、問い合わせも。今は、一店舗だから何とかなってる。でも、四つから同時に連絡が来たら、止まりそう」


「今、愛菜じゃないと答えられないのは、どの話?」


愛菜は、販売員から届いた質問の記録を出した。


直しの相談。


サイズの違い。


追加の納期。


商品の不具合。


大虎は一つずつ読んだ。


「実際には、担当の人が答えてるものもあるね」


「うん。でも、最後に、これでよかったですかって聞かれる」


「確認してほしいと、愛菜が伝えてる?」


愛菜は、少し黙った。


以前、誤った説明が外へ出ないように、必ず確認してほしいと言った。


それは必要だった。


ただ、そのまま残っているものもあった。


「全部じゃないけど、言ってる」


大虎は資料を机へ置いた。


「それなら、任せる仕事と一緒に、その人が決めていい範囲も変えないと、店舗が増えるたびに愛菜の確認も増える」


愛菜はペンを取った。


「誰が答えるかは決めてた。でも、どこまで決めていいかは、曖昧だったかもしれない」


大虎は頷いた。


***


資金の表へ移ると、大虎は数字を指した。


「この追加分は、確定してる?」


「まだ。今の売れ方が続いた場合」


「じゃあ、それがなかった場合も見ておこう」


愛菜は別の表を出した。


すでに経理と確認したものだった。


大虎は目を通した。


「考えてたんだ」


「うん。今日、会社で」


「なら、これは、経理の人と確認を続ければいいと思う」


大虎は、勝手に新しい数字を入れなかった。


愛菜は彼の顔を見た。


「これ、だいちゃんの感覚だと、小さい金額?」


大虎は少し考えた。


「カルソックの表と並べれば、そう見えるかもしれない」


愛菜は頷いた。


大虎は続けた。


「でも、まなブランドが、このあと何かできなくなる金額なら、大きい。俺の普段の数字で決めない方がいい」


愛菜は、机の端に置いていた自分の手を見た。


大虎は自分より、多くのことを知っている。


けれど、自分の会社については、自分と担当者が知っていることもある。


その二つを、一緒に机へ出してよかった。


「この案で、だめなところはある?」


愛菜が尋ねると、大虎は一枚の紙を引き寄せた。


「担当者の負担が、少し見えてない。店舗を回る日と、会社で通常業務をする日を、同じ一人分で考えてる」


愛菜は顔を近づけた。


「本当だ」


二人で日程を並べ直した。


一店舗ずつ、開始時期をずらす。


最初の説明は愛菜も行く。


その後の窓口は担当者が持つ。


縫製の確認は、技術側へ直接つながる時間を決める。


人数を増やす前に、今いる人の一週間を埋めてみた。


空いていると思っていた日にも、すでに仕事があった。


愛菜は、自分の書いた線を何本か引き直した。


***


資料を閉じた時には、夕食の時間を過ぎていた。


大虎が時計を見た。


「何か作ろうか」


愛菜は首を振った。


「今日は、頼もう」


「賛成」


二人で食べたいものを選んだ。


注文を終えると、愛菜は机の上を片づけた。


大虎も、自分が見た資料を揃えた。


「ありがとう」


愛菜が言った。


「助かった」


大虎は小さく頷いた。


愛菜は、封筒を閉じずに置いた。


「今日、私から頼めてよかった」


大虎が顔を上げる。


「どういう意味?」


愛菜は、少し言葉を探した。


「保証のことを知ってから、だいちゃんに何か聞くのまで、嫌になったらどうしようと思ってた」


大虎は黙って聞いていた。


「助けてもらうと、また自分でできなかった気がするのかなって。でも、今日、一緒に見てもらって、そうは思わなかった」


大虎の手が、紙の上で止まった。


愛菜は続けた。


「自分で頼んで、聞いて、採用することを考えられたから」


大虎は、ゆっくり頷いた。


「これからは、そうしたい」


愛菜も頷いた。


すぐに全部が元どおりになったわけではなかった。


それでも、今日の資料には、二人で考えた跡が残っていた。


愛菜が持ってきて、愛菜が持ち帰る資料だった。


***


翌日の会議で、愛菜は四店舗へ進む案を出した。


同時には始めない。


工場と売場の準備に合わせて、二店舗ずつに分ける。


既存店の対応を止めず、新しい店へ人を出せる予定にする。


担当者が日程を読んだ。


「この週は、私が二日、外へ出ることになりますね」


「はい。その間の連絡は、こちらで受けます。ただ、内容ごとに、誰が判断するかも決めたいです」


愛菜は、問い合わせの一覧を出した。


話は、思ったより長くなった。


自分で決めてよいと言われても、すぐに安心できるわけではない。


担当者は、実際にあった質問を挙げた。


愛菜は一緒に考えた。


紗良も、技術側で受けられる内容を説明した。


納期は、自分から約束できない。


けれど、見本のどこを確認すべきかは答えられる。


小野寺が、横から補足した。


一つずつ、受け持つ範囲が決まっていった。


最後に、担当者が言った。


「これなら、先方へ話せると思います」


愛菜は、全員の顔を見た。


「では、この案で相談します」


***


夕方、早瀬から返事が来た。


段階的に始める形で、各店と調整を進めたい。


まずは、最初に加える一店舗で、現地の確認をする。


愛菜は、手帳にその日を書いた。


そのあと、大虎へ連絡した。


《会社で話して、二店舗ずつ進める案にした。先方も、それで調整してくれる》


返事は少しして届いた。


《よかった。担当の人たちはどう?》


愛菜は、会議の最後の顔を思い出した。


《心配なところを、話してくれた。役割も決まった》


《それなら、進められそうだね》


愛菜は画面を閉じかけて、もう一度開いた。


《今日は、何時に帰る?》


***


帰宅すると、大虎はまだ戻っていなかった。


愛菜は先に着替え、夕食の準備をした。


机の端には、昨日使った紙が一枚残っていた。


愛菜の字。


大虎の字。


別の色で引かれた線。


愛菜はそれを会社へ持っていく鞄へしまった。


鍵の音がした。


大虎が玄関へ入ってくる。


「ただいま」


愛菜は台所から顔を出した。


「おかえり」


大虎が靴を脱いだ。


愛菜は近づき、鞄を置くのを待った。


それから、自分から腕を伸ばした。


大虎は少し驚いたあと、抱き返した。


「どうした?」


「今日は、こうしたかった」


大虎は何も言わず、背中へ手を回した。


愛菜は目を閉じた。


聞きたいことは、これからもある。


知らないことがあれば、聞く。


腹が立つことがあれば、話す。


そのたびに、この人から離れなければならないわけではなかった。


しばらくして、台所から小さな音がした。


愛菜が顔を上げる。


「あ、鍋」


大虎の腕が緩んだ。


愛菜は急いで戻り、火を弱めた。


振り向くと、大虎が笑っていた。


愛菜も、少し笑った。


「先に、手を洗ってきて」


「はい」


大虎が洗面所へ向かう。


愛菜は二人分の器を出した。


第43章 閉める店


ゆみから、少し長く話せる時間がほしいと連絡が来た。


愛菜は、週明けの午後を空けた。


新しい店舗への準備は、担当者が進めていた。


以前なら、自分も一緒に行かなければと思った日だった。


今日は、会社でゆみを待った。


約束の時刻になると、ゆみは薄いファイルを持って来た。


いつものように笑って挨拶をしたが、座ってから、なかなか鞄を置かなかった。


愛菜は茶を出した。


「どうしたの?」


ゆみはカップへ手を添えた。


「一店舗、閉めることにした」


愛菜の手が止まった。


ゆみは、すぐに続けた。


「パンツを置いている店じゃないよ。もう一つの方」


「そうなんだ……」


愛菜は、何と返せばいいか迷った。


ゆみは鞄を床へ置いた。


「先に、伝えておきたくて」


***


閉めるのは、ゆみが初めて自分で借りた店だった。


今の店より広い。


通りから、二面のガラス越しに服が見える。


開店した頃は、その明るさが好きだったという。


「ここなら、ちゃんとした店に見えると思ったの」


ゆみはファイルから写真を出した。


愛菜は受け取った。


白い壁。


背の高い鏡。


棚の間に、広く取られた通路。


写真の中の店は、閉めなければならない場所には見えなかった。


「売上は、あるんだよ」


ゆみが言った。


「でも、残らない。売れている月でも、家賃と人件費と仕入れを払うと、次の支払いが怖い」


愛菜は、写真の脇へ手を置いた。


ゆみは続けた。


「ずっと、もう少し売ればって思ってた。だから、売れそうな服を、また入れた」


机の上に、数字の表が出された。


愛菜は、ゆみが指したところを見た。


売上の下に、いくつもの支出が並んでいた。


「これ、私に見せて大丈夫?」


「今日は、見てほしくて持ってきた」


愛菜は頷き、もう一度表へ目を戻した。


ゆみは、その数字を隠さなかった。


***


「社員の方には、話したの?」


愛菜が尋ねた。


「うん。全員と話した」


残す店へ移る人がいる。


勤務する日数を相談している人もいる。


ほかの仕事を探すと言った人もいた。


ゆみは、一人ずつの顔を思い出すように話した。


「長くいてくれた人に、もっと早く教えてほしかったって言われた」


愛菜は黙って聞いた。


「決まってから話そうと思ってた。でも、その人には、その人の予定があったんだよね」


ゆみは茶を飲んだ。


「今は、閉店までの仕事と、そのあとのことを、一緒に決めてる」


愛菜は頷いた。


「閉めるのは、いつ?」


「六週間後」


日にちが、もう決まっていた。


愛菜は写真を見た。


この場所で、あと六週間、客を迎える。


そのあと、何もない部屋へ戻す。


数字の話を聞いていた時よりも、寂しさが具体的になった。


***


「まなブランドの商品については、今の店で続けたい」


ゆみは姿勢を正した。


「ただ、次の発注数を増やすのは、少し待ってほしい。閉店する方の在庫を、どこまで移すかも見ているから」


「分かった」


愛菜は手帳を開いた。


「今、預かってもらっている分は、そのままで大丈夫?」


「うん。予定どおり」


「じゃあ、新しい分は、数が決まってから相談しよう」


ゆみは、少し肩の力を抜いた。


「ありがとう」


愛菜はペンを置いた。


「ほかに、私と確認しておきたいことはある?」


ゆみは少し考え、首を振った。


「仕事の話は、今はそれだけ」


言い終えても、ファイルを閉じなかった。


愛菜は待った。


ゆみは、店の写真を指で撫でた。


「閉めるって決めたら、少し楽になるかと思ったんだけど」


声が、わずかに掠れた。


「寂しい方が、先に来た」


***


開店した日は、雨だったという。


入口のマットが足りなくて、近くの店へ買いに行った。


照明を点けても、思ったほど服の色がきれいに見えず、夜になってから全部の位置を直した。


最初に売れたのは、上着だった。


買った客の顔は、もうはっきりとは覚えていない。


けれど、レジを打つ手が震えたことは覚えていた。


「初日の売上、何度も見た」


ゆみは小さく笑った。


「そこから、いろいろ増やしたんだよね。服も、棚も、人も」


愛菜は、先日届いた二十四着の注文書を思い出した。


増えることは、嬉しい。


その先まで引き受けられるかは、増える時に考えなければならない。


ゆみは写真をファイルへ戻した。


「でも、あの店を残すために、今の店まで駄目にしたくない」


愛菜は、ゆみを見た。


その言葉を言うまでに、何日もかかったのだろうと思った。


「うん」


それ以上、簡単な言葉を足すことはできなかった。


***


ゆみが会社を出たあと、携帯電話に西条から着信があった。


通りの端へ寄って出る。


「もしもし」


『店を一つ閉めるそうだね』


ゆみは、少し間を置いた。


「うん。関係先にも、順番に連絡しているところ」


『その前に、相談してくれてもよかったのに』


ゆみは、行き交う人を見た。


「資金の話は、前からしていたでしょう」


向こうが黙った。


ゆみは続けた。


「待っている間にも、支払いは来るから。今回は、自分の会社で決めた」


『今からでも、考えられることはあると思う』


「どんなこと?」


西条は、すぐには答えなかった。


少しして、大虎の名が出た。


『カルソックとの関係があるなら、別の形で資金を呼べるかもしれない』


ゆみは目を閉じた。


予想していなかったわけではない。


それでも、聞くと疲れた。


「その話は、しない」


『彼に直接、金を借りろと言っているわけじゃないよ』


「紹介のために名前を使うことも、頼まない」


西条の声が、少し硬くなった。


『使える関係まで切る必要はないだろう』


ゆみは携帯電話を持ち直した。


「関係があることと、会社に出せる金があることは、別だよ」


自分の口から、その言葉が出た。


少し前の自分なら、言えなかったかもしれない。


「具体的な条件のある提案なら、資料で送って。そうでなければ、今回は、このまま進める」


西条は、短く返事をした。


通話が終わると、ゆみはしばらくその場に立っていた。


手が、少し冷えていた。


鞄へ携帯電話をしまい、店へ向かった。


***


閉める方の店では、スタッフが棚の中を確認していた。


ゆみが入ると、一人が顔を上げた。


「これ、どうしますか」


差し出されたのは、昔の店の案内カードだった。


今とは違う書体。


少し大きすぎる地図。


ゆみが自分で何度も直し、印刷を頼んだものだった。


「まだ、あったんだ」


「引き出しの奥に」


ゆみは数枚取り、残りを机へ置いた。


「全部は残さなくていい。二枚だけ、もらうね」


スタッフは頷いた。


店の奥では、外す棚の寸法を測っていた。


ゆみは一緒に確認した。


残す店へ持っていけるもの。


業者へ引き取ってもらうもの。


処分するもの。


一つずつ決めていく。


白い棚の角に、小さな傷があった。


指で触れると、表面だけが滑らかだった。


大虎が直してくれたところだった。


服が引っかかると言ったら、次の日には丸く削られていた。


ゆみは、しばらくその角に触れていた。


「その棚も、移します?」


スタッフが尋ねた。


ゆみは、残す店の図面を見た。


幅が合わなかった。


通路を狭くすれば、置けるかもしれない。


けれど、それをする理由が、今の店にはなかった。


ゆみは手を離した。


「これは、置けないね」


スタッフが、一覧へ印をつけた。


ゆみも、次の棚へ移った。


***


その夜、愛菜は大虎に、ゆみの店のことを話した。


本人が関係先へ伝え始めていることと、まなブランドを扱う店は続くことも添えた。


大虎は箸を止めた。


「最初の店?」


「うん」


大虎は少し考えるように、机へ目を落とした。


「そうか」


愛菜は、その顔を見ていた。


「知ってるよね、あのお店」


「開ける時、荷物を運んだ」


「そうなんだ」


大虎は頷いた。


愛菜は、ゆみが話していた雨の日を思い出した。


その場に、大虎もいたのかもしれなかった。


「寂しい?」


愛菜が尋ねると、大虎は少し驚いた顔をした。


それから、正直に頷いた。


「少しは」


愛菜は黙って聞いた。


「でも、ゆみが決めたんだろう」


「うん。残す店まで、駄目にしたくないって」


大虎は、ゆっくり息を吐いた。


「それなら、その判断ができたんだな」


愛菜は茶碗を持った。


昔の話を聞いても、以前ほど胸がざわつかなかった。


大虎が過ごした時間まで、なくすことはできない。


今、隣にいる自分が、その全部と競う必要もなかった。


愛菜はひと口食べてから言った。


「仕事は、続けたい。ゆみさんの店で、うちの服を売ってもらうの」


大虎は愛菜を見た。


「うん」


「無理に数を増やさずに、今の分を見ていく」


「それがいいと思う」


会話は、そこで夕食の話へ戻った。


***


翌週、愛菜は残す方の店を訪ねた。


ゆみと店長が、売場の図を広げていた。


閉める店から移す商品がある。


全部は置けない。


同じ形の服は、数を絞る。


客が通る場所は、残す。


ゆみが、まなブランドのラックを指した。


「ここ、少し動かしてもいい?」


愛菜は、実際の場所を見た。


窓から離れるが、試着室には近くなる。


「椅子は置ける?」


「置けるようにしたい」


三人で動かしてみた。


ラックを寄せる。


鏡を回す。


椅子へ座り、客が通れるか確かめる。


店の奥に、少しまとまった場所ができた。


ゆみはそこへ立った。


「こっちの方が、話しやすいかも」


愛菜も頷いた。


その時、入口の扉が開いた。


見覚えのある客だった。


最初のパンツを買い、一度、直しに持ってきた人。


「今日は、穿いてきたの」


そう言って、腰の辺りを軽く叩いた。


ゆみが近づいた。


「その後、いかがですか」


客は笑った。


「大丈夫。よく穿いてる」


愛菜は、その服へ目を向けた。


新品の時より、少し柔らかくなって見えた。


客は店の中を見回した。


「模様替え?」


ゆみは頷いた。


「少しずつ、変えているところです」


「ここは、続けてくれるのよね」


客が何気なく尋ねた。


ゆみは、まっすぐその人を見た。


「はい。こちらのお店は、続けます」


言い終えてから、空いていた椅子へ手を向けた。


「よかったら、座っていってください」


客が椅子に腰を下ろす。


ゆみは、その横へ小さな机を寄せた。


愛菜は邪魔にならない場所へ移り、二人が話し始めるのを見ていた。


第44章 五パーセントの席


父から届いた封筒には、会社名ではなく、愛菜の名前が書かれていた。


誉愛菜様。


中には、株主向けの説明資料と、臨時の集まりの案内が入っていた。


愛菜は、最初のページを読んだ。


誉グループが海王と進めていた事業について、計画を大きく見直す。


すでに取得した土地と、関連する事業の扱いを協議する。


愛菜は、その下の日付を見た。


翌週の金曜日だった。


鞄へ入れようとして、手を止める。


以前なら、父から説明を聞き、必要な場所へ名前を書いていた。


自分が持っている五パーセントの株式について、深く考えたことは少なかった。


会社を離れても、その持ち分は残っている。


愛菜は椅子へ座り直した。


封筒の中を、もう一度確かめた。


***


父へ電話すると、秘書を通さずにつながった。


「資料、届いた」


『そうか』


「今回、何を決めるの?」


父は、少し間を置いた。


『共同事業を、当初の形で進めるのは難しい。取得した土地と、先行して動かした事業を、どう整理するかだ』


「海王は、もうお金を出さないの?」


『当初の約束どおりには出せないと言っている』


愛菜は、資料の資金計画へ目を落とした。


一部の数字に、線が引かれていた。


その隣に、修正後の数字が入っている。


足りない分が、消えたわけではなかった。


「じゃあ、海王との話は、終わる?」


『共同で進める計画は、いったん止める。その代わり、海王から、こちらの関連資産を引き取る提案が来ている』


愛菜はペンを取った。


「一緒にやるためのお金は出せないけど、買うことはできるの?」


父は黙った。


愛菜も、自分の聞き方が強かったことに気づいた。


「仕組みが分からないから、聞いてる」


『購入には、別の資金協力先をつけると言っている』


「その会社は、資料に書いてある?」


『今の資料には、まだ入っていない』


愛菜は、手元の紙を見た。


「その状態で、来週、決めるの?」


父はすぐには答えなかった。


***


『来週は、まず説明をする。お前にも、意見を聞きたい』


父が言った。


愛菜は背もたれから体を起こした。


「私は、会社の中の詳しいことを知らないよ」


『知っている』


「だったら、判断できる資料がほしい」


父は、今回は遮らなかった。


愛菜は、一つずつ尋ねた。


今まで、いくら使ったのか。


何が残っているのか。


海王へ渡す場合、いくらで、何を渡すのか。


渡したあと、働いている人たちはどうなるのか。


父は、答えられることに答えた。


まだ調整中のものもあった。


愛菜は、その部分を丸で囲んだ。


『追加の資料を出す』


父が言った。


「うん。読んでから、また聞いてもいい?」


『もちろんだ』


愛菜は少し驚いた。


父の声は硬かったが、面倒そうではなかった。


通話を終えると、愛菜は案内状を机へ置いた。


娘として呼ばれた食事とは違う。


今度は、自分の持っているものについて、判断を求められていた。


***


大虎に話したのは、その夜だった。


愛菜は夕食のあと、封筒を見せた。


大虎は表紙と、会議の日付を読んだ。


「海王が、買う側に回るのか」


「そうみたい」


大虎は資料を閉じた。


愛菜が顔を上げた。


「読まないの?」


大虎は少し考えてから答えた。


「先に、確認したいことがある」


愛菜は待った。


「この土地と周辺の計画について、カルソックにも事業の相談が来ていた。前に、冬彦が持ってきた話も含めて」


「うん」


「今、うちがどの範囲で検討しているか確認しないと、俺がこの資料を見て、愛菜に意見を言っていいか分からない」


愛菜は、封筒へ目を落とした。


妻が夫に相談するだけでは済まない時がある。


大虎の会社にも、別の立場があった。


「分かった」


大虎は続けた。


「確認してから、手伝えることを伝える。愛菜が判断するために、独立した専門家に見てもらう方法も考えた方がいい」


愛菜は頷いた。


以前なら、大虎が何でも答えてくれる方が安心したかもしれない。


今日は、読まずに止まったことにも理由があった。


「じゃあ、これは私が持ってるね」


「うん」


愛菜は資料を鞄へ戻した。


***


翌日、追加の資料が届いた。


愛菜は、自分の会社の仕事を終えてから読み始めた。


土地。


建物。


設備。


関連する借入。


すでに支払った準備費用。


数字は、まなブランドの表とは桁が違った。


ページをめくる手が、何度か止まった。


大きい。


それ以上のことが、すぐには分からない。


愛菜は、金額を比べる前に、項目ごとの説明を読んだ。


何のために買ったのか。


今、何に使っているのか。


使われていないものは、いつから止まっているのか。


その中に、物流の拠点があった。


書類の上では、土地と建物の番号が振られている。


添付写真には、搬入口へ向かうトラックが写っていた。


愛菜は、その写真のページへ付箋を貼った。


そこは、まだ仕事をしている場所だった。


***


誉側の説明担当者と話す時間を取ってもらった。


愛菜は、父の部屋ではなく、担当部署の会議室へ行った。


机には、同じ資料が用意されていた。


担当者は、愛菜がどこまで知っているか確かめた。


「ほとんど、最初から説明していただきたいです」


愛菜は答えた。


担当者は頷いた。


土地を買った経緯。


海王からの資金を見込んで、先に動かした費用。


計画が遅れたことで、負担が増えている部分。


説明を聞くと、昨日は大きな数字にしか見えなかったものに、順番ができた。


愛菜は途中で、物流拠点の写真を開いた。


「ここは、売ったあとも、そのまま使うんですか」


担当者が別の紙を出した。


海王側の提案では、当面は運営を続ける。


ただし、その後の配置や施設の使い方は、取得後に検討する。


愛菜は、その文章を読んだ。


「当面って、どのくらいですか」


「そこは、まだ明確になっていません」


「働いている方には、何と説明していますか」


担当者は、一度資料から顔を上げた。


「事業の見直しを検討していることまでは伝えています。ただ、確定していないため、詳しい話はこれからです」


愛菜は頷いた。


大虎が、食卓で説明を読み直した夜を思い出した。


誰が、いつ答えるのか。


その欄が、この資料にもなかった。


愛菜は質問として書き残した。


***


面談の終わりに、担当者が尋ねた。


「ほかに、ご不明な点はございますか」


愛菜は、買い取り価格のページを開いた。


「この金額が妥当かどうか、私は分かりません」


担当者は頷いた。


「はい」


「比べるために、どの資料を見ればいいですか」


担当者は、評価の資料を出した。


取得した時の価格。


現在の利用状況。


周辺の条件。


ただ、海王の提示額と単純に比べられるものばかりではなかった。


「ほかの会社からの提案は、ありますか」


愛菜が尋ねた。


担当者は、少し間を置いた。


「正式な提案書としては、海王のものだけです」


「ほかには、聞いていない?」


「これまで共同で進めてきた経緯があり、まず海王と調整する方針でした」


愛菜は資料を閉じた。


海王が悪いと、今の段階で決めることはできない。


けれど、海王が出した一つの値段しか知らずに、それがよいかどうかを決めるのも難しかった。


「ほかの選択肢を比較しない理由も、説明に入れていただけますか」


担当者は、メモを取った。


「承知しました」


***


帰り際、父が廊下へ出てきた。


「説明は、分かったか」


愛菜は頷きかけて、少し首を傾けた。


「前よりは」


父は苦く笑った。


「一度で分かる話でもない」


「うん。でも、聞きたいことは増えた」


父は、愛菜の手元を見た。


付箋が、何枚も出ていた。


「大虎さんにも、見てもらったのか」


「まだ。カルソックにも関係する話があるから、先に立場を確認してくれてる」


父は黙った。


愛菜は続けた。


「だから、私が分からないことは、こちらに聞きに来た」


父は、しばらく愛菜を見ていた。


それから、小さく頷いた。


「必要なことは、担当に出してもらう」


「ありがとう」


愛菜は帰りかけ、振り返った。


「お父さん」


「何だ」


「今、お父さんが一番困っているのは、資金の期限?」


父の顔から、少し表情が消えた。


愛菜は待った。


父はやがて答えた。


「それが、大きい」


「じゃあ、その期限も、資料に入れてほしい。値段だけ見ても、どうして急ぐのか分からないから」


父は一度、目を伏せた。


「分かった」


***


夜、大虎から連絡が来た。


《会社の立場を確認した。帰ったら話せる?》


愛菜は、まだ自分の会社にいた。


手元には、今日聞いた説明があった。


《うん。あと少しで帰る》


送ってから、資料を鞄へ入れた。


大虎が答えを持っているかもしれない。


そう思いかけた。


けれど、今日、自分が聞いた質問まで、手放す必要はなかった。


***


家へ帰ると、大虎は食卓で待っていた。


机の上には、書類を置いていなかった。


愛菜が座ると、先に話し始めた。


「カルソックの担当部署は、あの地域で物流拠点を探している」


愛菜は顔を上げた。


「今回の土地も?」


「候補として、情報が入っている」


「どこから?」


大虎は一度、息を置いた。


「海王側から」


愛菜は、鞄へ伸ばしかけた手を止めた。


大虎は続けた。


「まだ、取得を決めたわけではない。具体的な条件の合意もない。ただ、将来利用する可能性について、話を持ち込まれている」


愛菜は、今日読んだ資料を思い出した。


海王が買う。


そのあとに、別の相手へつなぐ。


それ自体が、おかしな話とは限らない。


けれど、誉側へ届いていた説明には、その相手の名前も、計画もなかった。


「お父さんの会社は、それを知ってるのかな」


「そこは、俺からは分からない」


大虎は答えた。


「だから、俺が愛菜に、売った方がいいとも、売らない方がいいとも言うのは適切ではない」


愛菜はゆっくり頷いた。


大虎は、今度は最初に、自分のいる場所を伝えた。


愛菜は鞄から手帳を出した。


今日の質問の下へ、新しく書く。


取得後の利用計画。


第三者との協議状況。


譲渡価格を決める根拠。


大虎は、その手元を見ていた。


愛菜はペンを置いた。


「分かった。これは、私が株主として確認する」


五パーセント。


今まで、書類の上で見ていた数字だった。


その分だけでも、知らないまま頷くことは、もうできなかった。


第45章 その値段の理由


金曜日の会議室には、愛菜の知らない顔もあった。


長く株を持っている個人株主。


管理部門の責任者。


今回の事業を担当していた役員。


父は、奥の席に座っていた。


愛菜の前には、名札が置かれていた。


誉愛菜。


会社名も、夫の名前もなかった。


愛菜は鞄から資料を出した。


父が、一度だけこちらを見た。


愛菜は小さく頷いた。


***


最初に、これまでの経緯が説明された。


海王から予定されていた資金が、期日どおりに入らなかったこと。


その間も、誉側では費用が発生していたこと。


共同事業の継続を見直し、関連する資産を売却する案が出ていること。


数字が、画面に映った。


愛菜は、追加されたページを見た。


資金が必要になる日。


その日までに、必要な額。


前回の資料にはなかったものだった。


隣に座っていた株主が、低い声で言った。


「つまり、売らなければ、資金が足りなくなるということですか」


管理部門の責任者が答えた。


「ほかの資金手当てができなければ、現在の予定のままでは難しくなります」


「できる見込みは?」


「確認中です」


株主は、椅子へ体を預けた。


「いつまでも待つわけにはいきませんね」


愛菜は、その言葉を聞いた。


売るか、売らないかだけを考えていればよいわけではなかった。


売らずにいる時間にも、費用がかかる。


愛菜は、手元の日付に線を引いた。


***


海王側の説明は、そのあとだった。


扉が開き、冬彦が二人の担当者と入ってきた。


愛菜に気づいた時、歩く速さが一瞬変わった。


けれど、すぐに父へ挨拶をした。


用意された席へ座る。


愛菜へも会釈した。


「お久しぶりです」


愛菜は頷いた。


「本日は、説明を伺います」


冬彦は、机に資料を置いた。


提示する価格。


対象となる資産。


引き渡しまでの予定。


取得に必要な資金の組み立て。


愛菜は、前に受け取ったものと見比べながら聞いた。


別の資金協力先については、今回、説明が加わっていた。


海王がすべての資金を単独で用意する案ではなかった。


「取得後は、現状の事業を維持しながら、施設の利用方法を見直していきます」


冬彦が言った。


「誉様のご負担を、早い段階で軽減できる案だと考えております」


説明が終わった。


父が、質問を求めた。


愛菜は、一度資料を揃えてから、手を上げた。


***


「取得後の利用方法について、伺いたいです」


冬彦が愛菜を見た。


「はい」


「現状の事業を維持する期間は、どのくらいを想定していますか」


「現段階では、具体的な期間を申し上げるのは難しいです。施設ごとに状況が違いますので」


愛菜は頷いた。


「別の会社に貸す、売る、共同で運営する。そのような可能性も含めて検討されているんですか」


冬彦の視線が、少し細くなった。


「通常、複数の活用方法を検討します」


「すでに、第三者との協議は進んでいますか」


冬彦は、隣の担当者を見た。


担当者は資料へ目を落としたままだった。


冬彦が答えた。


「関心を持っている企業はあります。ただし、相手のある話ですので、この場で具体名は控えます」


愛菜は、大虎の会社の名を出さなかった。


「名前だけを知りたいわけではありません」


愛菜は、価格のページを開いた。


「こちらが売却を判断する時に、現状の利用だけで価格を考えてよいのか、分からないので。すでに別の利用の可能性があるなら、その前提も比較したいです」


冬彦は口元を動かした。


「可能性と、確定した価値は違います」


「はい。だから、どこまで具体的なのかを伺っています」


会議室の端で、誰かが紙をめくった。


冬彦は少し間を置き、答えた。


「まだ、条件の合意には至っていません」


愛菜は、その言葉を書いた。


「分かりました」


***


次に、管理部門の責任者が質問した。


資金協力先からの確約は、いつ得られるのか。


海王が提示した支払日までに、資金が揃う根拠は何か。


前の共同事業では、資金投入が二度遅れていた。


冬彦は、その点にも説明が必要だった。


「今回は、別の枠組みで進めています」


「別の枠組みであることは理解しました。実行できることを確認する資料は、いつ提出されますか」


冬彦は、担当者と短く話した。


数日以内に、出せる範囲を整理するという返事だった。


長く株を持つ男性が口を開いた。


「では、今日の段階で、こちらだけ売る意思を示すのは早いのではありませんか」


冬彦は、男性へ向き直った。


「こちらも、誉様に進める意思がなければ、資金の最終調整へ入れません」


男性は眉を寄せた。


「同じところを回っていますね」


父は黙って聞いていた。


愛菜は、父の手元を見た。


ペンは持っている。


けれど、さっきから動いていなかった。


***


一人の株主が、愛菜へ顔を向けた。


「失礼ですが、価格をもう少し上げられる見込みがあると、お考えですか」


愛菜は顔を上げた。


「今の私には、判断できません」


男性は、少し厳しい表情になった。


「判断できないまま話を延ばすと、その間の負担は増えます」


「はい」


愛菜は、資金の予定を開いた。


「ですので、比較するために必要な時間と、その間にかかる費用も出していただきたいと思っています」


男性は黙って聞いた。


「高く売れるかもしれないから待ちたい、というだけではありません。今の価格で早く売る場合と、ほかの案を確認してから決める場合を、同じ紙で見たいです」


管理部門の責任者が頷いた。


「費用については、期間ごとに試算できます」


愛菜は、その人へ向き直った。


「お願いします。ほかの資金手当てが、どこまで可能かも併せて伺いたいです」


父が、そこで初めてペンを置いた。


「そこは、私からも依頼している」


全員の視線が、父へ向いた。


「資金の期限があるのは事実です。ただ、その期限を理由に、確認していない条件まで了承することはできません」


冬彦が、姿勢を変えた。


***


「誉会長」


冬彦が言った。


「これまで、両社で時間をかけて進めてきた案件です。ここで一から比較し直すとなると、こちらも同じ条件を維持できるとは限りません」


父は冬彦を見た。


「条件を維持できる期限を、文書で示してください」


冬彦の返事が遅れた。


父は続けた。


「こちらも、それまでに確認する事項を整理します」


「信頼関係の上で、進めてきたお話だと思っております」


「私も、そう思っていました」


父の声は低かった。


愛菜は、父を見た。


父は冬彦から目を逸らさなかった。


「ただ、資金の予定が変わり、共同事業が資産の買い取りへ変わりました。条件も、関係も、以前と同じではありません」


冬彦は、机の上の資料を閉じた。


隣の担当者が、何かをメモした。


父は管理部門へ向き直った。


「追加資料が揃うまで、本日の説明をもって了承したという扱いにはしません。その点を、記録してください」


担当者が返事をした。


愛菜は、膝の上へ手を戻した。


少し、指が冷えていた。


***


会議が終わると、株主たちは順番に部屋を出た。


愛菜は資料をしまっていた。


先ほど質問した男性が、近づいてきた。


「私は、早く処分した方がいいと思っています」


愛菜は手を止めた。


「はい」


「ですが、払われるか分からない金額を、確定したように考えるのも困りますからね」


愛菜は頷いた。


男性は、それ以上話さず、会釈して出ていった。


賛成してもらえたわけではなかった。


それでも、何を確かめるかについては、少し重なる部分があった。


愛菜は、最後の資料を鞄へ入れた。


***


廊下で、冬彦に呼び止められた。


愛菜が振り向くと、冬彦は担当者を先へ行かせたところだった。


「随分、詳しくお調べになったんですね」


「事前に、会社の担当の方へ説明していただきました」


冬彦は少し笑った。


「ご主人からも、何か聞いていらっしゃるのでは?」


愛菜は、鞄の持ち手を握り直した。


「今日、私がお尋ねしたことには、資料に基づいて答えていただきたいです」


「責めているわけではありません」


「私も、責めるために聞いたわけではありません」


冬彦の笑みが消えた。


愛菜は続けた。


「第三者への活用を考えていることも、その条件がまだ決まっていないことも、判断するために必要だと思いました」


冬彦は、しばらく愛菜を見ていた。


「売却が遅れて困るのは、誉側ですよ」


「その費用も含めて、比較をお願いしました」


返事をしてから、愛菜は会釈した。


「追加のご説明を、お待ちしています」


冬彦が次の言葉を出す前に、愛菜は歩き始めた。


足は、少し速くなっていた。


エレベーターの前で立ち止まり、呼吸を整えた。


言うべきことを言えたからといって、平気だったわけではなかった。


***


父が、あとから来た。


愛菜の隣に立つ。


「送っていこうか」


「会社に戻るから、大丈夫」


父は頷いた。


二人で、階数の表示を見た。


「今日は、お前が反対すると思っていた」


父が言った。


愛菜は顔を向けた。


「冬彦さんの提案だから?」


父は、否定しなかった。


愛菜は少し考えた。


「嫌だという気持ちは、あるよ」


父は黙って聞いた。


「でも、それだけで会社のものを売るかどうかは決められない。反対するにも、理由が必要だと思った」


父は、手に持った資料へ目を落とした。


「そうだな」


扉が開いた。


愛菜は乗り込む前に、父へ言った。


「私が分からないことを、全部ほかの人も分かっていないとは思ってない。でも、質問していいって言ってくれたから」


父は愛菜を見た。


「聞いてよかった」


父は、小さく頷いた。


「また、資料ができたら送る」


***


会社へ戻る途中、愛菜は大虎へ短く連絡した。


《今日は、結論を出さなかった。追加の資料を出してもらうことになった》


返事は、しばらくして届いた。


《お疲れさま。ちゃんと聞けた?》


愛菜は、窓に映った自分を見た。


髪が少し乱れていた。


会議室では気づかなかった。


《聞けた。緊張した》


《今日は、何時頃帰る?》


愛菜は予定を確かめた。


会社には、まだ自分が返事をする仕事があった。


《六時半くらいには出たい》


《分かった。俺も、その頃に終えるつもり》


愛菜は携帯電話をしまった。


父の会社のことと、自分の会社のこと。


どちらにも、知らないままでは決められないことがあった。


けれど、すべてを一人で分かる必要はなかった。


誰に、何を聞くか。


今日、その一つはできた。


***


その夜、誉の担当者から追加の連絡が届いた。


海王との協議を続けながら、ほかの選択肢も確認する。


資産の評価を改めて依頼する。


資金の期限までに取れる方法を、並行して検討する。


愛菜は、文面を最後まで読んだ。


大虎は隣で、自分の資料を閉じたところだった。


「少し、動いた?」


愛菜は頷いた。


「比べるための準備をするって」


「そうか」


大虎は詳しい内容を尋ねなかった。


愛菜も、書類をそのまま渡さなかった。


携帯電話を置くと、大虎が温かい茶を差し出した。


愛菜は両手で受け取った。


「私、今日、五パーセントでも、席に座っていていいんだなって思った」


大虎は愛菜を見た。


「もともと、愛菜の席だろ」


愛菜は、少し笑った。


「うん。そうなんだけど」


湯呑みへ口をつけた。


会議室で、初めて自分の名札を見た時とは違う気持ちで、明日届く資料を待てそうだった。


第46章 賛成する理由


追加の資料には、三つの案が並んでいた。


海王への売却。


別の候補先との協議。


そして、当面は保有を続け、一部を貸し出す案。


愛菜は、まず価格を見た。


一番高いのは、海王ではなかった。


けれど、その隣に書かれた入金時期は、まだ確定していなかった。


調査を終えたあとで、最終的な条件を決める。


調査の結果によっては、価格が変わる。


愛菜はその部分に線を引いた。


海王の欄へ戻る。


金額は、前回より上がっていた。


取得する範囲も、整理されている。


資金の裏づけに関する資料は、誉側の専門家が確認中だと書かれていた。


愛菜は、価格の高い順に並んでいない理由を、少し理解した。


同じ数字のように見えても、その金が、いつ、どの条件で入るかは違っていた。


***


説明を担当する役員と、もう一度話した。


今回は、外部の助言者も同席していた。


愛菜は資料を開いた。


「価格が高い方を選べない理由を、教えてください」


助言者は、否定するようには答えなかった。


「選べないと決まったわけではありません。ただ、待つ間の資金を用意できるかが、大きな問題です」


別の候補先が調査を終えるまで、一定の時間が必要だった。


その間に来る支払いは、止まらない。


保有する費用も続く。


資金をつなぐ方法についても確認したが、希望する条件では、まだ確定していなかった。


愛菜は、計算された差額を見た。


高く売れる可能性はある。


そのために必要な費用を引くと、差は小さくなる。


さらに、最後まで買ってもらえない可能性も残る。


「海王の方は、前のように資金が遅れることはないんですか」


役員が答えた。


「絶対にないとは申し上げられません。ただ、今回は確認できる資料が出ています。支払いと引き渡しの条件も、前回の提案から修正しています」


愛菜は、その説明を最後まで聞いた。


「条件が満たされなければ、進めない形になっているんですね」


「はい。その点は、契約の確認でも重点を置いています」


愛菜は頷いた。


前に遅れたのだから、今回も駄目だと言い切ることはできない。


前に約束したのだから、今回も信じてよいとも言えない。


今、何が確認できているかを、一つずつ見た。


***


物流拠点で働く人たちについての資料も、増えていた。


移行期間中の運営。


雇用や勤務場所について、誰が説明するか。


その後に変更を検討する場合の手順。


すべてが今のまま残る、とは書かれていなかった。


愛菜は、その箇所で止まった。


「この説明は、従業員の方にもするんですよね」


役員が頷いた。


「正式な方針が決まった段階で、誉と海王の双方から説明します」


「先に、決まっていないことまで安心させないでほしいです」


役員は愛菜を見た。


「安心させる?」


「当面は続けるという話を、ずっと変わらないという意味で受け取られないように」


愛菜は、資料の一行を指した。


「ここに書いてある範囲と、まだ決まっていない範囲を、そのまま伝えてほしいです」


役員は、その部分へ印をつけた。


「説明資料でも、分かるようにします」


愛菜は手帳を閉じた。


海王の案に、嫌なところがなくなったわけではなかった。


それでも、最初に見た時とは、違う案になっていた。


***


帰宅した愛菜は、夕食のあとも机に座っていた。


大虎は少し離れたところで、自分の本を読んでいた。


時計の音が、何度かした。


愛菜が顔を上げる。


「だいちゃん」


「うん?」


「私、海王に売る案に、賛成するかもしれない」


大虎は本を閉じた。


驚いた顔はした。


けれど、すぐに反対はしなかった。


「そう考えた理由は?」


愛菜は資料を伏せた。


相手先との具体的な条件を、ここで全部話すことはできない。


けれど、自分がどう考えたかは話せた。


「ほかの案も見た。高く売れるかもしれない案はあった。でも、待つお金と時間が必要で、最後に売れるかも、まだ分からない」


大虎は聞いていた。


「海王の案も、最初のままではない。金額も条件も変わった。前に曖昧だったところも、確認できる形になってきた」


愛菜は自分の指先を見た。


「冬彦さんに会いたいわけでも、信用が全部戻ったわけでもない。でも、会社のために選ぶなら、今はこの案なのかもしれない」


大虎は頷いた。


「うん」


愛菜は、その返事のあとを待った。


何も続かなかった。


「嫌じゃない?」


大虎は少し考えた。


「冬彦が相手だと、俺も余計な感情は入るよ」


愛菜は顔を上げた。


「でも、愛菜が資料を読んで考えた判断を、それだけで変えてほしいとは思わない」


愛菜は椅子の背へ体を預けた。


「分かった」


大虎が尋ねた。


「まだ、確認したいことはある?」


「支払いの条件。あと、従業員への説明の日程」


「じゃあ、そこを確認してからだね」


愛菜は頷き、もう一度資料を開いた。


***


次の説明の席では、父が先に方針を述べた。


海王との売却案を軸に進めたい。


ただし、提示された資金の条件と、支払いに関する確認が整うことを前提とする。


従業員への説明は、担当者と日程を定めて行う。


事業を残す範囲も、書面で確認する。


前回より、資料のページ数は増えていた。


その分、当面、検討、調整中という言葉は減っていた。


すべて消えたわけではない。


残った言葉には、誰がいつ答えるかが添えられていた。


株主の一人が、価格について質問した。


別の人は、保有を続ける案をもう一度確認した。


愛菜は、それぞれの返事を聞いた。


自分が分かったつもりでいたところに、別の質問が重なる。


そのたびに、資料へ短く書き込んだ。


やがて父が、愛菜を見た。


「愛菜さんは、どう考えていますか」


この場で、父が名前のあとに「さん」をつけるのは、少し不思議だった。


愛菜は、手帳を閉じた。


***


「必要な確認が整うことを条件に、この案を進めることに賛成します」


自分の声は、思ったより落ち着いていた。


父は黙って聞いた。


愛菜は続けた。


「最初の資料だけでは、判断できませんでした。ほかの案を比べて、待つ費用と、入金までの不確実さも確認しました」


机の向こうで、役員が頷いた。


「一番高い価格を目指すことで、別の負担が増える可能性もあると分かりました。今の条件で確実性を高めて進める方が、会社として選べる案だと考えています」


愛菜は一度、言葉を切った。


「ただ、未確認のことを、確認済みとして進めないでほしいです。特に、資金と、そこで働いている方への説明については」


父が頷いた。


「その点は、記録します」


愛菜は椅子へ座り直した。


自分の五パーセントだけで、結果が決まるわけではなかった。


ほかの株主にも、それぞれの意見がある。


それでも、自分が賛成する理由は、自分の言葉で言えた。


***


海王との条件確認を終えたあと、冬彦が愛菜へ近づいた。


今回は、担当者も近くにいた。


「ご理解いただけたようで、何よりです」


冬彦が言った。


愛菜は会釈した。


「ご説明いただいた条件が、実行されることを願っています」


冬彦は少し笑った。


「最初から、そのつもりです」


愛菜は返事を重ねなかった。


担当者が、次の打合せについて冬彦へ声をかけた。


冬彦はそちらへ向きかけ、もう一度愛菜を見た。


「また、直接お話しできれば」


愛菜は、今度ははっきり答えた。


「今後の事業の連絡は、担当の方へお願いします」


近くにいた役員が、一歩進み出た。


「窓口は、私どもで承ります」


冬彦は役員へ目を向けた。


短く頷き、担当者とともに部屋を出た。


愛菜は、扉が閉まるのを見届けた。


今回の案に賛成したことと、彼に会うことは、つながっていなかった。


***


父は、資料をまとめながら言った。


「お前が賛成するとは、最初は思わなかった」


愛菜は鞄の口を閉じた。


「私も、最初は、売りたくなかった」


父が顔を上げた。


「そうだろうな」


「でも、売りたくない気持ちのまま、会社に待ってもらうなら、その理由も必要だった」


父は、手を止めた。


愛菜は少し笑った。


「知っていることが少ない時の方が、簡単に反対できた」


父は、ゆっくり頷いた。


「私も、急いでいる時ほど、簡単に決めたくなる」


二人とも、しばらく黙った。


父が、机に置かれた追加資料を見た。


「比べるところから、やり直せてよかった」


愛菜は頷いた。


「うん」


父は、それを愛菜一人の手柄にはしなかった。


資料を揃えた担当者。


条件を確認した専門家。


別の案を持ってきた人たち。


その名前を、一人ずつ挙げた。


愛菜は聞いていた。


自分がしたのは、質問して、その返事を読むことだった。


それにも、意味はあった。


***


夕方、まなブランドの担当者から、写真が届いた。


新しく販売を始める店だった。


二つの形のパンツ。


小さな案内。


椅子と鏡。


店ごとに、置き方が少し違っていた。


愛菜は、駅のホームで画面を開いた。


担当者からの文章が添えられていた。


《設営と説明が終わりました。売場から出た質問は、明日の打合せで共有します》


愛菜は礼を返した。


今日は、自分がそこへ行かなくても終わっていた。


顔を上げると、電車が入ってきた。


愛菜は鞄を持ち直し、列へ並んだ。


父の会社では、資産を手放す話が進んだ。


自分の会社では、新しい売場が一つ増えた。


増える方が、いつも正しいわけではない。


手放す方が、負けとも限らない。


その二つを、同じ日に見た気がした。


***


帰宅すると、大虎が台所で皿を出していた。


愛菜は上着を掛け、そばへ行った。


「今日、賛成した」


大虎が顔を向けた。


「確認は、できた?」


「うん。まだ、実行までに揃えるものはある。でも、その条件で進めることにした」


大虎は頷いた。


「お疲れさま」


愛菜は食卓へ座った。


大虎も向かいに座る。


「すっきりした?」


尋ねられて、愛菜は少し考えた。


「全部はしてない」


「そうか」


「でも、誰かに言わされて決めた感じは、しない」


大虎の表情が、少し柔らかくなった。


愛菜は、今日届いた売場の写真を見せた。


「こっちも、始まる」


大虎は携帯電話を受け取った。


「椅子、ちゃんとあるね」


愛菜は笑った。


「そこ、最初に見るんだ」


「最近、写真が来ると、探すようになった」


愛菜は画面を覗き込んだ。


売場の隅に、椅子が一脚ある。


その前は、荷物で塞がれていなかった。


大虎が携帯電話を返した。


愛菜は机の端へ置き、温かい皿を自分の方へ引いた。


明日は、また自分の会社の仕事が待っていた。


第47章 最後の鍵


閉店の日、ゆみはいつもより早く店へ行った。


通りには、まだ人が少なかった。


ガラスに、自分の姿が映っている。


初めて鍵を開けた朝も、こんなふうに扉の前へ立った。


あの日は、店の中に入る前から、何度も服の皺を伸ばした。


今日は、入口に貼った案内の端を押さえた。


本日をもちまして、こちらの店舗の営業を終了いたします。


その下に、営業を続ける店の住所がある。


ゆみは鍵を差し込み、扉を開けた。


中は、少し冷えていた。


照明を点ける。


棚が、いくつか空いていた。


それでも、まだ店だった。


***


開店して間もなく、花が届いた。


大きなものではなかった。


机へ置ける、小さな花籠だった。


まなブランドからだった。


カードには、店を開け続けてきたことへの労いと、これからもよろしくお願いしますという短い言葉があった。


ゆみは、レジの横へ置いた。


スタッフが覗き込んだ。


「きれいですね」


「うん」


ゆみはカードを花の間へ戻した。


閉店を惜しむ花なのか。


次を励ます花なのか。


どちらかに決めなくても、嬉しかった。


***


午前中は、思っていたより客が来た。


閉店の案内を見て、顔を出してくれた人。


前に買った服を着てきた人。


通りがかりで、初めて入った人もいた。


「知らなかったわ。もう、ここはなくなるの?」


一人の客が尋ねた。


ゆみは、残す店の案内を渡した。


「こちらで、続けます」


「少し遠くなるのね」


「はい」


客は地図を見た。


「でも、この辺りなら、たまに行くから」


ゆみは礼を言った。


その言葉を、必ず来てもらえる約束にはしなかった。


来られる時に、思い出してもらえればよかった。


***


昼過ぎ、長く働いてくれたスタッフが、客を見送ったあとで足を止めた。


今日で勤務を終える人だった。


次の仕事は、まだ探しているところだという。


ゆみは近づいた。


「少し、休憩してきて」


「大丈夫です」


スタッフは笑った。


「最後だから、見ておきたくて」


ゆみは、その横に並んだ。


売場の中央から、入口が見える。


初めて来た客が、どこで足を止めるか。


何度も、ここから見ていた。


「もっと早く話せなくて、ごめん」


ゆみが言った。


スタッフは、すぐには返事をしなかった。


「今でも、そこは残念です」


ゆみは頷いた。


「うん」


「でも、ここで働いたことが、全部嫌だったわけじゃないですよ」


スタッフは棚へ目を向けた。


「前に、お客様が旅行の写真を見せに来てくださったでしょう。ここで買った服を着ていたって」


ゆみは思い出した。


客が携帯電話を出して、何枚も写真を見せてくれた日。


背景の景色より先に、服を見てしまい、みんなで笑った。


「覚えてる」


「ああいうのは、嬉しかったです」


スタッフは、少しだけ目元を押さえた。


ゆみは何か言おうとして、やめた。


またいつでも戻ってきて。


そう言える場所を、今は用意できていなかった。


「働いてくれて、ありがとう」


ゆみは、その言葉だけを伝えた。


スタッフは、ゆっくり頷いた。


***


愛菜が来たのは、閉店まで一時間ほどになった頃だった。


ゆみは会計を終え、入口へ顔を向けた。


「来てくれたんだ」


「少しだけ。お邪魔だった?」


「全然」


愛菜は、花籠に気づいた。


「届いてよかった」


「ありがとう。朝から、そこに置いてる」


愛菜は店内を見渡した。


写真で見た時より、広く感じた。


商品が減った分、床がよく見えた。


白い棚の端に、小さな傷がある。


ゆみは、愛菜の視線に気づいた。


「開けた頃は、何もなくてね。早く埋めなきゃと思ってた」


「うん」


「今は、出すものが多くて困ってる」


ゆみは笑った。


奥には、運び出すための箱が積まれていた。


愛菜は、その横を通る客へ道を譲った。


店の最後の日にも、仕事は残っていた。


値段を確認する。


袋へ入れる。


レシートを渡す。


ゆみは呼ばれるたびに、売場へ戻った。


愛菜は邪魔にならない場所で、待っていた。


***


最後の客は、上着を買った。


鏡の前で羽織り、袖を少し折った。


「向こうのお店でも、こういうのは置く?」


ゆみが答えた。


「はい。数は少し変わりますが、扱っていく予定です」


「じゃあ、また見に行くわ」


客は、案内の紙も袋へ入れた。


ゆみは扉まで見送った。


「ありがとうございました」


客が通りを曲がる。


その姿が見えなくなってから、ゆみは入口の札を裏返した。


閉店。


いつもと同じ動きだった。


ただ、明日の朝は、もう表へ戻さない。


ゆみは、しばらく札に触れていた。


***


レジを締め、残った商品を数えた。


スタッフが、持ち帰る荷物をまとめる。


愛菜は帰ろうとしたが、ゆみに呼び止められた。


「あと、少しだけいてもらっていい?」


愛菜は頷いた。


スタッフたちが帰ると、店内が急に静かになった。


ゆみは、流していた音楽を止めた。


冷暖房の音だけになる。


「明日から、業者さんが入るの」


ゆみが言った。


「棚を外して、片づけて。最後に、鍵を返す」


愛菜は、空いたハンガーを見た。


「今日で、全部終わるわけじゃないんだね」


「うん。終わらせるのにも、仕事がある」


ゆみは椅子へ座った。


愛菜も、その隣へ腰を下ろした。


花籠が、机の端に置いてあった。


***


「私、ここを閉めたら、もう経営者って言えない気がしてた」


ゆみは、入口を見ながら言った。


愛菜は黙って聞いた。


「店が増えたり、売上が上がったり。それができる人が、ちゃんと経営している人なんだと思ってた」


「うん」


「減らすのは、途中で降りるみたいで」


ゆみは膝の上で手を重ねた。


「でも、残す店で、来月の仕入れを決めなきゃいけないんだよね。支払いもあるし、人も待ってる」


愛菜は頷いた。


「まだ、決めることがあるね」


「いっぱいある」


ゆみは少し笑った。


そのあと、目を伏せた。


「それなのに、今日は寂しい」


愛菜は、机の上の花を見た。


言葉を探したが、急いで見つけなくてもよかった。


ゆみも、何か答えてもらうために話している様子ではなかった。


二人でしばらく、静かな店に座っていた。


***


外へ出る前に、ゆみは店の中を一度歩いた。


レジ。


試着室。


奥の棚。


狭い休憩場所。


壁の高いところに、取り忘れた小さなフックがあった。


明日、業者へ伝えようと携帯電話に書き留めた。


入口へ戻ると、愛菜が待っていた。


ゆみは照明のスイッチへ手を伸ばした。


一つ消す。


奥が暗くなる。


もう一つ消す。


ガラスに、通りの灯りが映った。


最後の灯りを消してから、扉を開けた。


愛菜が先に出る。


ゆみは外から店を見た。


何度も、こうして帰った。


扉を閉め、鍵を回した。


金属の音がした。


***


愛菜と別れたあと、ゆみはすぐには帰らなかった。


少し離れた駐車場で、車の中へ座った。


鞄から、昔の案内カードを出す。


二枚だけ残したものだった。


角が、少し黄ばんでいた。


裏には、当時の営業時間が書かれている。


閉店時間まで仕事をして、そのあと家へ帰ると、大虎がいた。


あの頃の部屋も、食卓も、今は自分の暮らしにはなかった。


ゆみは、カードを膝へ置いた。


泣くほどではないと思っていた。


けれど、息を吐いた時、目から涙が落ちた。


店だけの涙ではなかった。


何を失ったのか、あとから分かったことが、いくつもあった。


ゆみは顔を覆った。


誰かへ電話しようとは思わなかった。


しばらくして、鞄からハンカチを出した。


目元を拭き、車の窓を少し開けた。


冷たい空気が入ってきた。


ゆみは携帯電話を取り、店長へ連絡した。


《明日の搬入、九時に行きます。先にお願いした分だけ、準備しておいてください》


送信してから、案内カードを手帳へ挟んだ。


エンジンをかけた。


***


愛菜が帰宅すると、大虎が居間から顔を出した。


「おかえり」


「ただいま」


愛菜は鞄を置いた。


少し、服に店の匂いが残っている気がした。


大虎が尋ねた。


「最後まで、いた?」


「鍵を閉めるところまで」


大虎は頷いた。


「そうか」


愛菜は上着を脱ぎ、椅子へ掛けた。


「ちゃんと、最後のお客様も来たよ。上着を買って、別のお店にも行くって」


大虎の顔が、少し和らいだ。


「それは、よかった」


「うん」


愛菜は隣に座った。


大虎は、ゆみが何を話したかまでは尋ねなかった。


愛菜も、二人で座っていた時間のことは、そのまま自分の中へ置いた。


「寂しかった」


愛菜が言うと、大虎はこちらを見た。


「あの店で働いたわけじゃないのに、灯りが消えると、寂しかった」


大虎は頷いた。


「うん」


愛菜が肩を寄せると、大虎の腕が回ってきた。


その夜は、新しい店の話をしなかった。


***


翌朝、ゆみは営業を続ける店の前に立った。


腕には、昨日の花籠があった。


鍵を開け、中へ入る。


レジ横へ花を置いた。


まだ水は減っていなかったが、少しだけ足した。


店長が来るまでに、机を拭く。


今日届く商品の場所を空ける。


まなブランドのラックを、数センチ動かした。


椅子へ座ってみる。


立ち上がり、通路を歩く。


入口まで行き、扉を開けた。


通りから、朝の光が入った。


ゆみは案内の札を表へ返した。


開店には、まだ少し早かった。


それでも、今日はここで始める準備ができていた。


第48章 まだいない誰か


四つ目の売場が開いた日、愛菜は午後から店へ行った。


設営も、販売員への説明も、すでに終わっていた。


自分が最後まで確認しなければ始められない売場では、もうなかった。


担当者から説明を聞き、店長へ挨拶する。


そのあと、少し離れた場所から様子を見た。


若い女性が、子供を連れて来ていた。


子供は母親の手を握ったまま、鏡の前で自分の靴を見ている。


母親がパンツを手に取ると、袖を引いた。


「もう帰る?」


「少しだけ、見てもいい?」


子供は答えず、母親へ体を寄せた。


販売員が、試着室の近くの椅子を示した。


「こちらで、お待ちいただけます。お母様からも見える場所ですので」


母親は、子供の前へしゃがんだ。


小さな鞄から絵本を出す。


「これ、一冊見ている間だけ」


子供は椅子へ上がり、絵本を開いた。


愛菜は、通路の邪魔にならない場所へ移った。


***


母親が試着室へ入ると、子供はすぐに顔を上げた。


「お母さん」


カーテンの向こうから返事がした。


「いるよ」


子供は安心したように本へ戻った。


少しして、また呼んだ。


「お母さん、見て」


「あとで見せて」


母親の声は、少し忙しそうだった。


着替えて出てくると、子供は本を持って駆け寄った。


母親は鏡へ向く前に、一度しゃがんだ。


「どこ?」


指された絵を見る。


笑う。


それから、ようやく自分の姿を鏡へ映した。


愛菜は、その動きを見ていた。


座る。


立つ。


歩く。


それだけではなかった。


人によっては、服を着たまま、何度も子供の前へしゃがむ。


小さな体を抱き上げる。


引かれた手へ、体を向ける。


母親は、子供を抱いたまま販売員へ何か話した。


販売員も頷き、腰の辺りを確認していた。


愛菜は手帳を開いた。


いつものように、気づいたことを書こうとした。


けれど、最初の一行を書くまで、少し時間がかかった。


***


母親は、その日は買わなかった。


子供が眠くなり、途中で帰ることになった。


販売員が、試した形とサイズを小さな紙へ書いて渡した。


「また、お時間のある時に」


母親は礼を言い、子供を抱いて店を出た。


片方の靴が、脱げそうになっていた。


愛菜は思わず近づきかけたが、その前に母親が気づいた。


片手で支え直す。


子供は目を閉じたまま、母親の首へ腕を回した。


愛菜は、その後ろ姿を見送った。


「お疲れさまです」


担当者に声をかけられ、振り向いた。


「どうされました?」


「ううん。椅子があって、よかったと思って」


担当者は、絵本の置かれていた椅子を見た。


「そうですね」


愛菜は手帳を閉じた。


仕事の話として持ち帰ることと、まだ言葉にならないものが、一緒に残っていた。


***


帰宅すると、大虎は洗濯物を畳んでいた。


ソファの端に、二人分の服が並んでいる。


愛菜が鞄を置くと、顔を上げた。


「おかえり。四つ目、どうだった?」


「ちゃんと始まってた」


「よかった」


大虎は畳んだ服を重ねた。


愛菜も隣へ座り、残っていたタオルを取った。


「小さい子を連れたお客様が来てた」


「うん」


「試着している間、何度も、お母さんって呼ぶの」


大虎が笑った。


「見えなくなると、不安なんだろうね」


「でも、いるよって返事がすると、本へ戻るんだよ」


愛菜も笑った。


タオルを二つに折る。


角が少しずれて、折り直した。


「だいちゃん」


「うん?」


「子供、好き?」


大虎の手が止まった。


愛菜は、畳みかけのタオルを見たままだった。


「好きだよ」


大虎は答えた。


「どうして?」


愛菜は少し黙った。


仕事の話の続きとして聞くこともできた。


子供連れでも試着しやすい売場を考えたいから。


それは本当だった。


けれど、それだけではなかった。


「私たちのこと、考えた」


大虎が、持っていた服を膝へ置いた。


***


愛菜は、タオルを机へ置いた。


「ちゃんと、話したことなかったよね」


大虎は頷いた。


「うん」


「私は、欲しいと思う」


声にすると、急に具体的になった。


愛菜は大虎の顔を見た。


「子供」


大虎はすぐには答えなかった。


その間が、少し怖かった。


愛菜は続けそうになった。


今すぐでなくてもいい。


仕事もあるし。


大虎が望まないなら。


どれも、言う前に飲み込んだ。


まだ、返事を聞いていなかった。


大虎は、愛菜へ向き直った。


「俺も、愛菜との子供がいたらと思ったことはある」


愛菜は、小さく息を吐いた。


「そうなんだ」


「うん。でも、愛菜がどう考えているか聞かずに、先の話をしていいのか迷ってた」


「私も」


愛菜は、膝の上で指を組んだ。


「会社を始めて、少しずつ動き始めて。今、そういう話をしたら、仕事をどうするのって聞かれる気がしてた」


「俺に?」


「だいちゃんだけじゃなくて。自分でも、そう聞いてた」


大虎は頷いた。


愛菜は窓の方を見た。


外は暗くなり始めていた。


「どっちも欲しいって言ったら、欲張りかなって」


大虎は、少し考えてから答えた。


「欲しいものは、欲しいと言っていいと思う」


愛菜が顔を向けた。


「できるかどうかは、二人で考えることだろ」


***


愛菜は、ほんの少し笑った。


「だいちゃん、また全部、何とかしようとしない?」


大虎も笑いかけて、途中で真面目な顔になった。


「気をつける」


愛菜は首を振った。


「そういう返事をさせたいわけじゃないんだけど」


「分かってる。でも、たぶん、そうしたくなると思う。家のことも、人の手を借りることも、用意できるものは用意しようとする」


大虎は、畳んだ服へ目を落とした。


「それだけで済む話じゃないのも、分かってるつもりだけど」


愛菜は、売場で見た母親を思い出した。


何度も呼ばれて、そのたびに返事をしていた。


「時間は、どうする?」


大虎が愛菜を見た。


「お金で頼めることもあると思う。でも、だいちゃんにいてほしい日が、きっとあるよ」


「うん」


「私も、仕事へ行きたい日があると思う。子供がいたら、会社なんてどうでもよくなるかもしれないけど、今は、そうは思ってない」


「うん」


愛菜は、少し早口になっていた。


大虎は遮らなかった。


「まだ、何も始まってないのに、心配ばかりしてるね」


愛菜が笑うと、大虎は首を振った。


「今、聞けてよかった」


***


大虎は、しばらく考えていた。


それから、静かに言った。


「俺は、いないことに慣れてほしくない」


愛菜は顔を上げた。


「子供に?」


「うん。仕事だから仕方ないって、最初から諦められる父親には、なりたくない」


愛菜は大虎を見ていた。


会社では、何万人もの先にあることを決める。


遠くへ行く。


夜遅くまで働く。


それをやめればよいという話ではない。


けれど大虎は今、会長としての説明ではなく、自分がどうありたいかを話していた。


「私も、全部自分で抱えてから、分かってほしかったって言わないようにしたい」


愛菜が言った。


大虎は少し笑った。


「それ、今も時々あるな」


「だいちゃんもね」


「あるね」


二人は、少し笑った。


まだいない子供のことで、初めて同じ方を見た気がした。


***


夕食は、予定より遅くなった。


洗濯物は、半分だけ片づいたままだった。


台所に立った愛菜へ、大虎が声をかけた。


「明日、仕事?」


「午前中に、打合せが一つ」


「午後は?」


「資料をまとめるつもりだったけど」


大虎は、自分の予定を確認した。


「俺は、夕方までなら動かせそう」


愛菜が振り向いた。


「何かする?」


大虎は少し照れたように笑った。


「さっきの話、途中で終わらせたくないと思って」


愛菜は火を弱めた。


「明日、散歩しながら話す?」


「そうしよう」


何かを予約するわけではなかった。


何日までに結論を出すと決めたわけでもない。


それでも、今日口にしたことを、なかったことにはしない。


愛菜は、その約束が嬉しかった。


***


翌日の午後、二人は川沿いを歩いた。


海へ行った日より、風が穏やかだった。


道の脇で、子供が小さな自転車に乗っていた。


後ろから、大人が歩いてついていく。


子供は何度も振り返った。


「見てる?」


「見てるよ」


少し進み、また振り返る。


愛菜と大虎は道の端へ寄った。


自転車が通り過ぎる。


大虎は、その後ろを見送っていた。


愛菜が横顔を覗く。


「何、考えてた?」


「俺だったら、もっと近くを歩くかもしれない」


愛菜は笑った。


「転ぶ前に、捕まえたくなる?」


「なると思う」


「練習しなきゃね」


「俺が?」


「うん。少し離れて、見てる練習」


大虎も笑った。


愛菜は、歩きながら彼の手を取った。


大虎の指が、ゆっくり握り返した。


***


ベンチへ座ると、川の水が光っていた。


愛菜は、しばらくその光を見ていた。


「子供が欲しいと思ってること、しばらくは二人だけの話にしたい」


大虎は頷いた。


「分かった」


「親に言ったら、喜ぶかもしれないけど。まだ、何も決まってないのに、待たれるのは少し苦しい」


「言わないよ」


愛菜は肩の力を抜いた。


「それと、体のことも含めて、一度ちゃんと相談してみたい」


「一緒に行く?」


愛菜は頷いた。


「うん」


大虎は携帯電話を出しかけた。


その手が、途中で止まる。


愛菜が見ていた。


大虎は、少し苦笑した。


「すぐ、予定を調べようとした」


愛菜も笑った。


「あとで、一緒に探そう」


大虎は携帯電話を戻した。


二人で、もう少し座っていた。


***


帰り道、大虎が飲み物を買いに行った。


愛菜はベンチの近くで待っていた。


先ほどの子供が、自転車を降りていた。


大人が、少し離れた場所から呼んでいる。


子供は自転車を押し、ゆっくり近づいていった。


愛菜は、その姿を見た。


自分の暮らしに、まだいない誰かが加わる。


今の仕事も、家も、二人の時間も、形が変わるのかもしれない。


楽しみなことだけではなかった。


けれど、怖いと感じたことまで、大虎へ話せた。


「お待たせ」


大虎が戻ってきた。


片手に、飲み物を二つ持っている。


愛菜は一つ受け取った。


大虎が隣に立つ。


愛菜は、その腕へそっと触れた。


「だいちゃん」


「うん?」


「昨日、欲しいって言えてよかった」


大虎は愛菜を見た。


それから、小さく笑った。


「聞けてよかった」


二人で並んで歩き始めた。


今夜、家へ帰ったら、途中だった洗濯物を片づける。


明日は、それぞれ仕事へ行く。


その暮らしの中に、二人で考えることが、一つ増えていた。


第49章 待合室の二人


予約した日の朝、愛菜はいつもより早く目を覚ました。


枕元の時計を見た。


まだ、起きるには少し早い。


隣で、大虎が寝返りを打った。


愛菜が眠っていないことに気づいたのか、目を開ける。


「もう起きる?」


「ううん」


大虎は時計へ目を向けた。


「まだ、時間あるな」


愛菜は頷いた。


目を閉じようとして、閉じられなかった。


今日は、会社へ行く前に、二人で相談のための受診をする。


予約を取ったのも、聞きたいことをまとめたのも、一緒だった。


それでも、日が来ると、昨日までとは少し違った。


大虎が体をこちらへ向けた。


「緊張してる?」


「少し」


「俺も」


愛菜は顔を向けた。


「だいちゃんも?」


「うん。何を聞かれるのか、まだよく分からないから」


愛菜は、少しだけ笑った。


自分だけが、知らない場所へ行くわけではなかった。


***


出発の前に、大虎の携帯電話が鳴った。


秘書からだった。


大虎は台所の端へ寄り、電話に出た。


「うん」


相手の説明を聞いている。


愛菜は、鞄へ書類を入れる手を止めた。


「その時間は、戻れない」


大虎が言った。


「担当役員に、先に説明を受けてもらって。俺の判断が必要な箇所を、あとで確認する」


通話が終わった。


大虎が戻ってくる。


「予定、変えた方がいい?」


愛菜が尋ねた。


大虎は首を振った。


「変えなくて大丈夫」


「急ぎじゃなかった?」


「先方の都合で、時間を早めたいという話。こちらは、午後なら出られると伝えてある」


愛菜は頷いた。


大虎は、彼女の手元を見た。


「準備、できた?」


「うん」


愛菜は鞄を閉じた。


今日は、自分だけの用事につき合わせているのではない。


そう思い直して、玄関へ向かった。


***


待合室には、静かな音楽が流れていた。


愛菜は受付を済ませ、大虎の隣へ座った。


渡された用紙を膝へ置く。


名前と連絡先を書いたあと、少し考える項目が続いた。


大虎は、自分に渡された用紙を読んでいた。


時々、携帯電話の予定表を見て、何かを確かめる。


愛菜がペンを止めると、大虎が顔を向けた。


「分からないところ?」


「うん。あとで聞こうと思って」


「そうしよう」


大虎は、愛菜の紙を覗き込まなかった。


自分の書く欄へ戻った。


愛菜は、その横顔を見た。


会社では、大虎が知らないことを聞く場面を、ほとんど見たことがなかった。


ここでは、二人とも説明を待っている。


それが、思ったより心強かった。


***


名前を呼ばれると、大虎が立ち上がった。


愛菜も鞄を持った。


診察室へ入る。


椅子が二つ、並んでいた。


医師は二人の話を聞き、これまでの健康のことや、今の生活について尋ねた。


愛菜が答える。


大虎も、自分のことを話す。


海外へ行く頻度。


帰宅が遅くなる日。


仕事の予定が変わること。


愛菜は隣で聞いていた。


普段、知っているつもりの暮らしが、言葉にすると別の形になった。


医師は、相談を進めるうえで確認することと、今後の流れを説明した。


愛菜は、家でまとめてきた紙を出した。


聞きたかったことが、いくつか書いてある。


一つずつ尋ねた。


大虎も、分からなかった言葉を聞き返した。


途中で、医師が尋ねた。


「お二人で、この先のことは、どのくらいお話しされていますか」


愛菜は、大虎を見た。


「最近、話し始めたところです」


大虎も頷いた。


「子供がいたらと思うことは、ありました。でも、ちゃんと二人で話したのは、まだ少しです」


医師は、その返事を聞いてから、説明を続けた。


今日、一度話しただけで、すべてが決まるわけではなかった。


これから確認することがある。


その結果を聞き、また二人で考える。


愛菜は、次の予定を書いた。


***


外へ出ると、来た時より日差しが強くなっていた。


愛菜は建物の前で立ち止まった。


大虎が隣へ来た。


「少し、歩く?」


愛菜は頷いた。


近くの通りを、二人で歩いた。


昼の店が開き始めていた。


看板を出す人。


食材を運び入れる人。


愛菜は、さっき受け取った説明の紙が、鞄の中で折れていないか気になった。


けれど、出して確かめるのはやめた。


大虎が尋ねた。


「聞きたかったこと、聞けた?」


「うん。でも、聞いてから、また考えることが増えた」


「俺も」


愛菜は、少し疲れていた。


何か悪いことを告げられたわけではない。


それでも、思い描いていた未来へ、急に日付や手順が加わった。


歩きながら、それを追いかけていた。


***


二人は、通り沿いの店へ入った。


窓際の席へ座る。


大虎は、携帯電話を机へ置いたあと、画面を伏せた。


愛菜は水を飲んだ。


注文を終えると、少しの間、言葉がなかった。


大虎が先に口を開いた。


「さっき、何か言いかけてた?」


愛菜は顔を上げた。


「いつ?」


「最後の方。紙を見ながら」


愛菜は、指先でグラスへ触れた。


気づかれていた。


言わずに帰ろうと思ったことだった。


「聞くことでは、なかったから」


「どんなこと?」


愛菜は窓の外を見た。


小さな子供を乗せた自転車が通った。


その姿が見えなくなってから、大虎へ目を戻した。


「もし、思うようにならなかったら」


大虎は黙って聞いていた。


「私、だいちゃんに、申し訳ないって思うのかなって」


大虎の表情が変わった。


すぐに何か言おうとして、止まった。


愛菜は続けた。


「まだ何も分かってないのに、先のことばかり考えてる。でも、少し、そう思った」


大虎は、ゆっくり息を吐いた。


「俺に、子供を用意しなきゃいけないみたいには、思わないでほしい」


愛菜は彼を見た。


「俺も欲しいと思ってる。それは、話したとおり」


「うん」


「でも、愛菜に何かを渡してもらうために、一緒にいるわけじゃない」


愛菜はグラスから手を離した。


大虎は続けた。


「もし、つらくなったら、つらいと話してほしい。俺も話す。どっちかが、相手の期待を全部引き受ける形にはしたくない」


愛菜は、ゆっくり頷いた。


***


料理が来ると、二人は少し椅子を引いた。


愛菜はスプーンを持った。


ひと口食べてから、大虎へ尋ねた。


「だいちゃんは、怖くない?」


大虎は少し考えた。


「怖いことはあるよ」


「どんなこと?」


「子供ができたら、嬉しいだけでは済まないだろうなと思う。俺が考えているより、できないことも多いと思う」


愛菜は聞いていた。


大虎は、机の上の自分の手を見た。


「今まで、仕事では、人に任せる方法を考えてきた。でも、父親として、自分がそこにいなきゃいけない時に、ちゃんといられるか」


愛菜は、小さく頷いた。


「私も、仕事に戻りたいって言いながら、いざ離れる時に、離れられないかもしれない」


「うん」


「逆に、一人で仕事をする時間が欲しくて、そう思った自分を嫌になるかもしれない」


大虎は、首を振らなかった。


まだ分からないことを、先に大丈夫だとは言わなかった。


「その時に、話そう」


大虎が言った。


「今の話と違うって、責めないようにしたい」


愛菜は、少しだけ笑った。


「私も」


料理はまだ温かかった。


二人は、冷めないうちに食べた。


***


会社へ着いたのは、午後だった。


愛菜が席へ座ると、担当者が近づいてきた。


「お疲れさまです。午前中のご報告、今よろしいですか」


「お願いします」


新しい店からの問い合わせ。


工場の進捗。


次の説明会の日程。


話は、いつもどおりに進んだ。


愛菜が午前中にいなかった理由を、担当者は尋ねなかった。


愛菜も、詳しく話さなかった。


仕事に必要なこととして、次に席を外す予定を伝えた。


「この日の午前中も、私用で外します。急ぎの判断が必要なものは、前日までに一緒に見ておきたいです」


担当者は予定表を開いた。


「分かりました」


それだけで、話が進んだ。


愛菜は机へ戻った。


鞄の中には、診療の説明がある。


机の上には、売場の資料がある。


どちらも、自分の暮らしに必要なものだった。


***


夕方、紗良が見本を持ってきた。


新しい店で、販売員が説明に使うためのものだった。


内側の違いが分かるよう、二つの形の一部を見比べられるようにしてある。


愛菜は手に取り、広げた。


「これ、触って確かめられるんだね」


「はい。紙だけだと、どこを見ているか分かりにくいというお話があったので」


紗良は、担当者と相談した箇所を説明した。


愛菜は聞きながら、実際に触った。


「私が全部説明しなくても、見せられるようにしたかったんです」


紗良が言った。


愛菜は顔を上げた。


それから、もう一度見本へ目を落とした。


「ありがとう。売場の方にも、試してもらおう」


紗良は頷いた。


見本を持って戻る。


その背中を見ながら、愛菜は、次に自分が半日いない時のことを考えた。


自分がいない時間を、ただの空白にしなくてもよかった。


***


夜、大虎は少し遅れて帰ってきた。


愛菜は、食卓で資料を閉じた。


「おかえり」


「ただいま」


大虎が鞄を置く。


いつもの上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。


「午後、大丈夫だった?」


愛菜が尋ねた。


「うん。役員が先に説明を受けてくれてたから、判断するところだけ確認した」


「そう」


大虎は、愛菜の隣へ座った。


「そっちは?」


「仕事は、普通に進んでた」


二人は少し笑った。


午前中、あれほど大きく感じた時間のあとにも、一日は続いていた。


愛菜は鞄から小さな紙を出した。


次の予定が書かれている。


机へ置くと、大虎も自分の予定表を開いた。


同じ日を確認した。


そのあと、愛菜が言った。


「この予定だけで、週末を全部埋めたくはないね」


大虎が顔を上げた。


「うん」


「普通に、出かけたりもしたい」


「どこへ?」


愛菜は少し考えた。


今日は、大きな希望を考えることに疲れていた。


「近くでいい。朝、散歩して、何か食べるくらい」


大虎は頷いた。


「じゃあ、そうしよう」


愛菜は予定の紙をしまった。


***


寝る前、愛菜は携帯電話の写真を開いた。


海で撮った、少し傾いた一枚があった。


大虎はカメラを見ていない。


愛菜も、目を細めて笑っている。


隣から、大虎が覗いた。


「また、その写真?」


「うん」


愛菜は画面を少し広げた。


二人の顔だけが、大きく映った。


「今度も、撮ろうね」


「散歩の時?」


「うん。何もない日でも」


大虎は笑った。


「いいよ」


愛菜は携帯電話を置いた。


布団へ入ると、大虎が手を伸ばした。


愛菜は、その手を取った。


まだ、先のことは分からない。


今夜は、隣にいる人の手を握って眠れた。


第50章 小さな知らせ


それから、季節が一つ進んだ。


まなブランドの服は、四つの店に並んでいた。


よく動くサイズもあれば、しばらく同じ場所に掛かっているものもある。


追加を受ける数は、店ごとに変わった。


愛菜が毎回足を運ばなくても、担当者と売場の間で話が進むようになっていた。


紗良は、小野寺と確認した仕様を、販売員向けの資料へまとめていた。


ゆみの店からは、月の初めに注文が届いた。


数は多くなかった。


けれど、残っている在庫と、客から聞いたことが添えられていた。


大虎の海外事業にも、その後があった。


新しい場所へ移った人。


元の施設で仕事を続ける人。


退職を選び、会社を離れた人。


報告が届くたびに、大虎は読んだ。


一度決めて終わる話ではなかった。


二人の暮らしも、予定表を一枚ずつめくりながら続いていた。


***


その日、診察室を出たあと、愛菜は廊下の椅子に座った。


大虎も隣へ腰を下ろした。


手元には、今日受け取った紙があった。


さっきまで、医師の説明を聞いていた。


分からないことを尋ね、これからの受診について確認した。


その間は、ちゃんと話せていた。


けれど部屋を出ると、愛菜は急に、何を言えばいいか分からなくなった。


妊娠していることが分かった。


その言葉だけが、何度も胸の中へ戻ってきた。


愛菜は自分のお腹を見た。


服の上からは、何も変わっていなかった。


昨日と同じ体に見えた。


「だいちゃん」


大虎が顔を向けた。


「うん」


「聞いたよね」


大虎は頷いた。


「聞いた」


「私だけが、聞き間違えたんじゃないよね」


大虎の口元が、少し動いた。


笑おうとして、うまく笑えなかったように見えた。


「うん」


愛菜は、もう一度紙を見た。


嬉しいはずだった。


嬉しかった。


それなのに、すぐに笑えなかった。


胸の中に、いろいろなものが一度に来すぎていた。


***


会計を待つ間、大虎はいつもより静かだった。


愛菜は、その横顔を見た。


「何か、言って」


大虎が驚いたように振り向いた。


「ごめん」


「嫌なわけじゃないんでしょ?」


「違う」


返事は、すぐだった。


大虎は愛菜の手を取った。


少し強く握り、それから力を緩めた。


「嬉しい」


愛菜は、その顔を見た。


「すごく、嬉しい」


大虎の目が、少し赤くなっていた。


愛菜は瞬きをした。


会長として壇上に立つ顔。


会議の資料を読む顔。


自分の話を聞いてくれる顔。


知っているつもりだった顔が、今は少し違った。


愛菜も、ようやく笑った。


その途端、涙が落ちた。


大虎が慌てて、鞄からハンカチを出した。


「泣かせるつもりじゃ——」


「違うよ」


愛菜は笑いながら受け取った。


「私も、嬉しいの」


二人とも、次の言葉が出なかった。


手だけは、つないだままだった。


***


車へ戻ると、大虎は助手席のドアを開けた。


愛菜が座るのを、いつもより長く見ていた。


「だいちゃん」


「うん?」


「昨日も、この車に乗ったよ」


大虎は、少しだけ笑った。


「そうだな」


愛菜がシートベルトを締めると、ようやく扉を閉めた。


運転席へ回り、座る。


エンジンをかけてからも、すぐには動かなかった。


愛菜は窓の外を見た。


人が歩いている。


向かいの店が、看板を出している。


街は、昨日と変わらなかった。


「これから、どうしよう」


愛菜が言った。


大虎は予定表を見ようとした。


愛菜は首を振った。


「今日の予定じゃなくて」


「うん」


「嬉しいんだけど、急に、全部、本当になった感じがして」


大虎は携帯電話を戻した。


「俺も」


愛菜は、膝の上へ手を置いた。


「まだ、何も分からないこともあるし。さっき説明してもらったことも、家で、もう一度読みたい」


「一緒に読もう」


愛菜は頷いた。


大虎は、少し間を置いた。


「今日は、そのあと、どうしたい?」


愛菜は考えた。


会社へ連絡する。


仕事の予定を調整する。


必要なことはあった。


でも、その前に、一つだけしたいことがあった。


「帰りたい」


「家へ?」


「うん。二人で、少し落ち着きたい」


大虎は頷いた。


「帰ろう」


***


愛菜は担当者へ連絡し、午後は自宅で対応することを伝えた。


大虎も、予定の調整を頼んだ。


詳しい理由を話す相手は、今は増やさなかった。


二人で考えて、必要な時に伝える。


その約束は、今日も同じだった。


家へ着くと、愛菜は玄関で靴を脱いだ。


いつもの廊下。


いつもの食卓。


朝、置いたカップが、そのまま残っていた。


大虎が後ろから入ってくる。


扉が閉まると、愛菜は振り向いた。


「抱きしめて」


大虎は鞄を置いた。


近づいて、そっと腕を回す。


愛菜は、その胸へ額を寄せた。


さっきから、嬉しいと怖いが交互に来ていた。


大虎の服を掴むと、少しだけ落ち着いた。


「ここに、いるんだって」


愛菜が小さく言った。


大虎の腕が止まった。


それから、愛菜の背中へ手を置き直した。


「うん」


愛菜は目を閉じた。


大虎の鼓動が、近くで聞こえた。


***


食卓に座り、受け取った説明を読み直した。


医師から聞いたこと。


次に確認すること。


次の予定。


二人で確かめると、診察室では覚えきれなかった話が、少し整理できた。


大虎は、次の予定を自分の手帳へ書いた。


愛菜も書く。


その横には、売場へ行く予定が入っていた。


愛菜は、その文字を見た。


仕事をやめたいわけではない。


けれど、今までと同じように、何でも先まで約束していいかは、考え直す必要があった。


「会社には、どう話そうかな」


愛菜が言うと、大虎は手帳を閉じた。


「今、決めたい?」


「全部じゃなくていい。でも、私が休む時に、困る人には、先に相談したい」


「うん」


「それと、私は、できる仕事は続けたい」


大虎は頷いた。


「分かった」


愛菜は彼の顔を見た。


何か条件を足されるかと思った。


家にいた方がいい。


会社は人に任せればいい。


そういう言葉は来なかった。


大虎は、机の端に置いた自分の手帳を開き直した。


「俺の方も、先に変えられる予定を見ておく」


愛菜は、少し肩の力を抜いた。


片方の生活だけを、変える話ではなかった。


***


昼を少し過ぎてから、二人で簡単な食事を作った。


大虎が鍋を見て、愛菜が器を出す。


その途中で、大虎が何度か愛菜へ顔を向けた。


愛菜は気づいていた。


三度目で、笑った。


「そんなに見ても、変わらないよ」


大虎も笑った。


「分かってるんだけど」


「何か、変?」


「いや」


大虎は、火を弱めた。


「朝、家を出た時と、同じ顔なのにって思って」


愛菜は器を机へ置いた。


「だいちゃんも、同じ顔だよ」


「そう?」


「少し、落ち着かないだけ」


大虎は否定できず、笑った。


食卓へ座ると、二人とも、いつもよりゆっくり食べた。


途中で愛菜が、ふと思い出したように言った。


「まだ、名前とかは考えないでね」


大虎の箸が止まった。


愛菜は目を細めた。


「もう、考えた?」


「少しだけ」


愛菜は声を出して笑った。


「早いよ」


「聞かれたら、正直に答えようと思って」


「それは、ありがとう」


二人で笑ったあと、愛菜は箸を置いた。


「そのうち、一緒に考えよう」


大虎は頷いた。


「うん」


***


夕方、会社から報告が届いた。


新しい売場で、二つの形を試した客が、一着を選んだ。


別の店では、希望のサイズがなく、次の入荷時期を尋ねられた。


小野寺からは、次の生地について相談したいと連絡があった。


いつもの仕事だった。


愛菜は、今、返せるものへ返事をした。


自分がいなくても進められるものは、担当者へ任せた。


そのあと、机の上を片づけた。


大虎が、居間から顔を上げた。


「終わった?」


「今日は、ここまで」


愛菜は隣へ座った。


大虎は場所を空けた。


窓の外は、少しずつ暗くなっていた。


「お父さんたちに言ったら、どんな顔するかな」


愛菜が言った。


大虎は考えるように、少し上を見た。


「お義父さん、しばらく黙るかもしれない」


「そうだね。それから、急にいろいろ聞きそう」


二人は笑った。


愛菜は大虎の肩へ頭を預けた。


「今日は、まだ、二人だけで知っていたい」


「うん」


大虎の手が、愛菜の手に触れた。


***


夜になっても、愛菜は何度か、昼間の言葉を思い出した。


嬉しさだけが続くわけではなかった。


先のことを考えると、心配も浮かんだ。


大虎が隣にいることを確かめるように、手を伸ばした。


大虎は、その手を取った。


「また、考えてた?」


愛菜は頷いた。


「いろいろ」


「今、話したい?」


「少しだけ」


大虎が体をこちらへ向けた。


愛菜は、今日分かったことと、まだ分からないことを、順番も決めずに話した。


大虎も、自分の思ったことを話した。


途中で笑い、少し黙り、また話した。


やがて愛菜は、眠そうに目を細めた。


大虎が布団を直した。


「おやすみ」


愛菜は、その声を聞いてから、彼の手を握り直した。


「だいちゃん」


「うん?」


「今日、一緒にいてくれてよかった」


大虎は愛菜の額へ、そっと口づけた。


「俺も」


灯りが消えた。


愛菜は、片方の手を自分のお腹へ置いた。


もう片方は、大虎とつないだままだった。

第3部をお読みいただき、ありがとうございます。


大虎が秘密にしていた融資の保証。それは愛菜を助けるための行動でしたが、愛菜にとっては、自分の会社をどう支えるかという選択に関わる、大切な事実でもありました。


夫婦になっても、伝えなければ分からないことがあります。傷ついた気持ちも、助けを借りたい気持ちも言葉にしながら、二人は関係を築き直していきました。


愛菜が経営者として、株主として判断を重ねる一方、ゆみもまた、自分の店のこれからを選びます。そして、大虎と愛菜には、新しい命を迎える喜びが訪れました。


仕事をする自分と、親になっていく自分。その両方を抱えて、二人はどんな日々を歩むのでしょうか。


続く第4部も、どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。