第1部 信じた言葉、すれ違う想い
大虎との暮らしを育みながら、自分の会社「まなブランド」を前へ進めようとする愛菜。
けれど、服を作りたいという願いも、誰かを応援したいという言葉も、受け取る人によって違う意味を持ち始めます。やがて愛菜は、自分の知らないところで、自分の名前を使った約束が交わされていることを知ります。
誰の言葉を信じ、何を確かめるのか。そして、大切な人に何を伝えるのか。
仕事と愛情が交差する物語を、ここからお届けします。
第1章 三分だけ、目を閉じた
「社長、こちらもお願いします」
愛菜の机に、書類が一枚増えた。
午前中に見たサンプルの修正。新しい取引先への返事。追加生産の数量。それに採用面接の資料。
結婚式から半年が過ぎた。
まなブランドの服を置きたいという店は増え、愛菜の机にも、決めなければならないことが増え続けていた。
「分かった。そこに置いて」
社員が出ていくと、愛菜はペンを持ったまま、目を閉じた。
三分だけ。
机の時計を見てから伏せたのに、次に扉を叩かれた時には十五分経っていた。
「社長、面接は四時からです。店舗見学を終えた方が、こちらへ向かっています」
愛菜は顔を上げた。
「ありがとう。すぐ用意する」
椅子の背に掛けていた上着を羽織り、応募者の資料を開いた。
桐生紗良。二十七歳。
デザイン事務所での勤務経験と、いくつかのブランドに関わった実績がある。
作品集の服は、どれも線がきれいだった。
愛菜は一枚を見て、指を止めた。
この肩の処理は、いい。
眠気が、少し遠のいた。
***
その一時間前、ゆみは店舗見学に来た紗良を案内していた。
「売れ筋はこちらです。サイズ違いは、奥で管理しています」
紗良は服を手に取り、裏側の縫い目を確かめた。
「店頭で、お直しの相談も受けるんですか」
「内容によります。こちらで判断できない時は、担当へ確認します」
「なるほど」
紗良は手帳に書いた。質問も具体的だった。
そこへ、年配の客が入ってきた。
以前も来たことのある人だった。ゆみが声をかけると、客は肩をさすりながら笑った。
「今日は、着るのが楽なものを探したくて」
「腕を上げる時が、おつらいですか」
「そうなの。後ろに手を回すのも、ちょっとね」
ゆみは前開きの上着を二着出した。
試着室へ案内する前に、紗良へ振り向く。
「少し、お待ちいただけますか」
「もちろんです。気にせず、お客様を優先してください」
感じのいい人だと、ゆみは思った。
客は一着を試し、鏡の前へ出てきた。
「軽いわね。でも、このボタン、私には少し小さいかな」
ゆみは留めやすい位置を一緒に確かめた。それでも難しそうなので、無理には勧めなかった。
「ほかの形が入ったら、ご案内してもよろしいですか」
「お願い。今日は、試せただけでもよかったわ」
客は何も買わずに帰った。
ゆみが上着を戻していると、紗良が近づいた。
「売らないことも、あるんですね」
「合わないまま買っていただくより、また来ていただけたらと思います」
「そうですね」
紗良は笑い、手帳を閉じた。
***
四時、紗良は作品集を愛菜の前に広げた。
採用担当者も隣で資料を見ている。
愛菜は、気になった上着を指した。
「この肩、どうしてこの線にしたんですか」
「腕を動かした時、布が引っ張られにくいようにしました。見た目だけなら、もう少し細くできます」
紗良は別のページを開き、型の違いを説明した。
愛菜は頷いた。
話しているうちに、久しぶりに誰かとデザインを考える楽しさが戻ってきた。
次のページには、前開きのブラウスが描かれていた。
「これは?」
「今日、店舗を見せていただいて、少し書き足しました」
紗良は鉛筆の線を示した。
「腕を上げにくいお客様がいらして。試着をお手伝いした時、小さいボタンを留めるのも難しそうだったんです」
愛菜は顔を上げた。
「店頭で見たことを、もう形にしたんですね」
「私も、着てもらえなければ意味がないと思っています」
紗良は笑った。
愛菜は、机に積まれた修正の資料を見た。
自分が工房へ返すはずだったサンプル。昨日から、まだ手をつけていない。
紗良の目も、そちらへ向いた。
「今、お忙しいんですね」
「ありがたいことなんですけど、追いつかなくて」
愛菜は少し笑った。
紗良は作品集を閉じずに言った。
「採用していただけたら、私に任せてください。社長が全部見なくても済むように、修正案と確認する点をまとめます」
その言葉を聞くと、愛菜はようやく肩を下ろせた。
***
夜、大虎が帰ると、愛菜はソファで手帳を開いていた。
「今日、いい人が面接に来たの」
「デザイナー?」
「うん。服の線がきれいで、考え方も近い。任せられる仕事が増えるかもしれない」
大虎は隣に座った。
「それはよかった。実績の確認は?」
「採用担当が進めてる。担当した商品と、前の勤務先を確認する予定」
「分かった」
愛菜は作品集の写真を見せた。
大虎が見ている間に、彼女は背もたれへ頭を預ける。
「この人なら、少し安心して眠れそう」
大虎は写真から顔を上げた。
「今日、何時間寝た?」
「……それ、聞く?」
「聞くよ」
愛菜は笑って、目を閉じた。
大虎は手帳を落とさないよう受け取り、彼女の手に触れた。
「人を増やす相談も大事だけど、今夜は寝よう」
「うん。あと、三分だけ」
「ベッドまで歩く分は、起きててくれ」
***
翌日、採用担当者から店長へ、店舗見学に関する確認が届いた。
『桐生様が試着対応されたお客様について、どのような接客だったか教えてください』
店長は、その時間に案内をしていたゆみへ尋ねた。
「試着対応?」
ゆみは首を傾げた。
「お客様に対応したのは、私です。桐生さんには、店内で待っていただきました」
「途中で手伝ってもらった?」
「いいえ。お話を聞いていたとは思いますが」
店長はそう記録し、返信した。
ゆみは畳みかけていた上着へ目を戻した。
聞いていたことと、手伝ったこと。
面接の緊張で、言い方が変わっただけかもしれない。
それでも、昨日の紗良の言葉が耳に残った。
『売らないことも、あるんですね』
あの客は、試着を手伝ってもらった人として、紗良の説明に出てきたのだろうか。
ゆみは袖を揃え、上着を棚へ戻した。
小さな違いだった。
けれど、一晩眠っても、気になっていた。
第2章 言い方の違い
「店舗の方に確認したところ、試着の対応はスタッフが行ったそうです」
採用担当者が伝えると、紗良は電話の向こうで少し黙った。
「すみません。私の言い方が正確ではありませんでした」
返事は、はっきりしていた。
「試着そのものは、ゆみさんが対応されました。私は、戻された服を受け取って、お話を聞いていました。面接で、自分が接客したように話してしまいました」
担当者は、その説明を記録した。
「こちらでは、担当された作業と、見て学ばれたことを分けて確認しています。今後も、その形で説明してください」
「はい。気をつけます」
通話を終えた担当者は、確認結果を愛菜へ渡した。
前の勤務先との照会も終わっていた。勤務期間に食い違いはなく、作品集のうち担当した範囲も説明されている。
肩の線を愛菜が気に入った上着は、紗良がデザインと修正を担当したものだった。
愛菜は資料を読んだ。
「接客の件は、私にも直接説明してもらいます。そのうえで、仕事を見たいです」
***
紗良が入社したのは、それから十日後だった。
最初の仕事は、既存商品の修正案だった。工房の担当者と打ち合わせをし、愛菜の確認を受けて試作品へ進める。
いきなり一つのブランドを任せる話ではなかった。
紗良は机に資料を並べた。
「この上着、肩の部分を少し変えていいでしょうか」
愛菜は図面を見た。
「細く見せるため?」
「逆です。腕を前へ出した時の余裕を残します。見た目の線は、ここで整えられると思います」
紗良が鉛筆を動かす。
愛菜もペンを持ち、隣に線を足した。
「この位置まで変えると、袖にも影響しますね」
「はい。袖の型も、こちらへ添付しました」
必要な紙が、もう用意されていた。
愛菜は久しぶりに、打ち合わせを予定の時間で終えた。
***
数日後、店舗へ修正した試作品が届いた。
以前、肩がつらいと話していた客にも、店長から連絡を入れてある。
正式な販売前に、着心地の意見を聞くためだった。
ゆみが客を迎えると、紗良は一歩下がって挨拶した。
「今日は、ありがとうございます。設計を担当している桐生です」
客は上着に袖を通し、腕を動かした。
「あ、前より楽ね」
紗良の表情が明るくなる。
ゆみも、客の背中側を確かめた。確かに、布の引っ張られ方が違っている。
良くなっている。
それは、疑う必要のないことだった。
「ボタンも、大きくしたんですよ」
紗良が説明すると、客は指先で触った。
一つ留め、次の一つで手を止める。
「前よりいいけど、私にはまだ少し難しいかしら。指にも力が入りにくくて」
ゆみは頷いた。
「留め方も含めて、担当へ伝えますね」
紗良は手帳に書き込んだ。
「ありがとうございます。次の修正に使わせていただきます」
客は上着を脱ぎ、ゆみへ渡した。
「ここまで考えてくれるの、嬉しいわ。留めやすくなったら、また試してみたい」
「その時は、ご連絡してもよろしいですか」
「ええ。お願いね」
ゆみは客を見送った。
戻ってくると、紗良が頭を下げた。
「面接の時の言い方で、確認のお手間を取らせました。すみません」
「担当の方から聞きました」
「ゆみさんの対応を見て学んだのに、自分の話のようになってしまって」
ゆみは彼女を見た。
「今日の上着、お客様が楽になったとおっしゃっていました。良くなりましたね」
「ありがとうございます」
紗良が笑った。
ゆみも、少しだけ安心した。
誰でも、言葉を間違えることはある。謝って、次から直せるなら、それでいい。
***
その夜、愛菜は工房へ返す資料を確認していた。
紗良の修正案には、変えた箇所の写真と、今後確かめる点が一枚にまとめられている。
愛菜は最後の欄を読んだ。
『試着されたお客様から、腕の動かしやすさに高評価。ボタンの改良後、購入を希望』
その下には、次の工程が記されていた。
ボタンを再検討し、試作品をもう一着作る。店頭で再確認してから、生産数を決める。
愛菜は承認欄に名前を書いた。
「この形で、次の試作をお願いします」
紗良が資料を受け取る。
「分かりました。工房とのやり取りも、私がまとめます」
机から書類が一束減った。
愛菜は、空いた場所に手帳を置いた。
今日なら、夕食の時間に帰れそうだった。
***
大虎は、家の玄関で愛菜の帰宅を迎えた。
「今日は早かったな」
「紗良さんが、工房への資料をまとめてくれたの」
愛菜は鞄を置いた。
「この間のお客様にも、試作が好評だった。直せば欲しいって」
「それなら、次も着てもらえるといいね」
「うん」
愛菜は台所へ行き、食卓を見た。
「今日は、ゆっくり食べられる」
その声が嬉しそうで、大虎も笑った。
***
翌朝、店舗にも試作の報告書が共有された。
店長から渡された紙を、ゆみは棚の入れ替え前に読んだ。
『ボタンの改良後、購入を希望』
ゆみの指が、その一行で止まった。
客は、また試してみたいと言った。
買いたいと約束したわけではない。
ゆみは紙を裏返した。客の言葉をそのまま書いた欄はなかった。
「店長、この部分だけ、直していただけますか」
「どこ?」
「購入希望ではなくて、修正したら再試着したい、というお話でした」
店長は該当箇所を確かめた。
「分かった。企画側に伝えておく」
ゆみは頷いた。
上着が良くなったことは、変わらない。
紗良が客の声を聞いて、手を動かしたことも分かっている。
なのに、その客が言っていないことまで、良い結果として紙に残った。
今度も、言い方の違いなのだろうか。
第4章 信用できないのは、誰
「今日は、困っていることを教えてほしいんです」
愛菜はそう言って、ゆみと店長の前に座った。
机の上には、試着の日程表と五人分の記録がある。
ゆみは膝の上で両手を重ねた。
「確認に時間がかかったことについて、でしょうか」
「それも含めて。企画から何を渡せば、お店が動きやすいか知りたくて」
店長が日程表を指した。
「今回は、試作品が届く日が決まってから、お客様に連絡しました。候補日だけでも先に分かれば、勤務の調整もできます」
「なるほど。それは先に出せますね」
愛菜は手帳に書き込んだ。
ゆみは、いちばん上の記録を差し出した。
「それから、お客様のお返事は、この形で残したいです。試したいのか、買いたいのかで、次にお伝えする内容が違いますので」
「うん。これは分かりやすい」
愛菜は一枚ずつ目を通した。
「三人が予約。二人は色が合えば検討。理由も書いてあるから、次の商品を考える時にも使えますね」
責められてはいない。
そう分かっても、ゆみの胸には昨日の言葉が残っていた。
「社長」
「はい」
「私の確認が、販売の機会を逃すことになっていたでしょうか」
愛菜のペンが止まった。
「何か、そう思うことがありました?」
ゆみは迷ってから答えた。
「昨日、桐生さんから伺いました。社長も、慎重になりすぎると機会を逃すとおっしゃっていた、と」
店長がゆみを見た。
愛菜は日程表を自分の方へ引き寄せた。
「私がお願いしたのは、候補日と確認したいことを、早めに店舗へ渡すことです。今回の対応を遅いと判断したわけではありません」
ゆみの肩から、少し力が抜けた。
「そうでしたか」
「ただ、伝わり方が違ったなら、そのままにはしたくないです。紗良さんにも入ってもらいましょう」
***
紗良は、呼ばれてすぐに来た。
愛菜から説明を受けると、口元を引き締めた。
「すみません。私が、先の話まで含めて受け取ってしまいました」
「先の話?」
「今後、商品が増えた時には、今のやり方のままだと間に合わなくなると思ったんです。それを、社長のお考えのように伝えてしまいました」
紗良はゆみに向き直った。
「ゆみさんの対応を否定するつもりはありませんでした」
「はい」
ゆみは頷いた。
愛菜は、二人の間にある記録を指した。
「仕事を早く進めたいという提案は、してもらっていいんです。でも、私が言ったことと、紗良さんが考えたことは分けてください。私の名前がつけば、お店の人は指示だと思います」
「分かりました」
紗良は頭を下げた。
愛菜は店舗側にも尋ねた。
「ほかに、確認しておきたいことはありますか」
ゆみは記録を見下ろした。
ここで終わりにしてもいい。訂正してもらえたのだから。
けれど、同じことはこれで三度目だった。
「今後は、試着の報告を出す前に、接客した担当にも確認させてください」
紗良が顔を上げた。
「毎回、でしょうか」
「はい。お客様の言葉についてだけで構いません。商品への提案まで止めたいわけではありません」
「それは、私の報告が信用できないということでしょうか」
声は静かだった。
ゆみは紗良の目を見た。
「確認していない内容を、そのまま信用して進めることはできません。私が書いた報告も、同じように確認してもらっていいと思います」
短い沈黙があった。
店長が口を開いた。
「店舗の担当が確認して、私がまとめます。企画側だけの負担にはしません」
愛菜は頷いた。
「それで進めましょう。確認が必要なところは先に決めておけば、全部を一から見直さずに済むから」
紗良は日程表に目を落とした。
「承知しました」
***
店へ戻る道で、ゆみは店長に言った。
「言い方、きつかったでしょうか」
「必要な話だったと思いますよ」
店長は歩く速さを緩めた。
「ただ、次の試着も桐生さんと一緒です。やりづらいことがあったら、私にも言ってください」
「はい」
ゆみは、手に持った書類を揃えた。
以前、自分の店で西条の言葉を信じた時、書類を確かめることを後回しにした。
今の紗良が、西条と同じだと思っているわけではない。
あの上着を直した手腕は、本物だった。
だからこそ、仕事の良さと、話の正確さを一緒にしてはいけない。
そのことだけは、もう忘れたくなかった。
***
夕方、愛菜の机に新しいデザイン画が届いた。
紗良が、上着に合わせるパンツを描いていた。
腰を曲げても背中が出にくく、座った時に腹部を締めつけない形。生地の候補と、工房に確かめたい項目まで揃っている。
愛菜は、線の横に書かれた寸法を見た。
「これ、今日のうちに?」
「午前中に途中まで描いていたので」
「いいですね。このお客様たちに、上着と合わせて見てもらえそう」
紗良は小さく笑った。
だが、いつものようには席を立たなかった。
「社長。少しだけ、お話ししてもいいですか」
愛菜はペンを置いた。
「どうしました?」
「今日、私の伝え方が悪かったことは、本当に反省しています」
「うん。次から直してもらえれば」
「ただ……ゆみさんに、信用できないと言われたことが、少しつらくて」
愛菜は紗良を見た。
「あれは、報告を確認する話だったと思います」
「はい。頭では分かっています」
紗良は頷いた。机の端に置いた指を、ゆっくり握る。
「私がここに来る前から、お二人には信頼関係がありますよね。私が余計なことをして、その間に入ってしまったのかな、と」
「そんなことはありません」
愛菜は、思ったより強く答えた。
「紗良さんを採用したのは私です。仕事もちゃんと見ています。ゆみさんとの関係で、評価を変えたりはしません」
紗良は顔を上げた。
「ありがとうございます」
「だから、困ったことは相談して。ただ、報告の確認は続けます。それは別の話です」
「はい」
今度の返事は、はっきりしていた。
愛菜はデザイン画を返し、工房との打ち合わせを翌週に決めた。
紗良が退室すると、机には五人分の試着記録が残った。
愛菜は、それを手に取った。
ゆみは、誰が書いたものでも確認してほしいと言っていた。
紗良個人を拒んだわけではない。
そのはずなのに、愛菜の耳には、もう一つの言葉が残っていた。
『私が余計なことをして、その間に入ってしまったのかな』
二人には、安心して一緒に働いてほしい。
愛菜はゆみとの連絡画面を開き、文字を打った。
『紗良さんも、今日のことを気にしているみたいです。次の試着では――』
そこで指が止まった。
ゆみは、自分の発言を愛菜にも聞いてもらっている。
なのにこの文面では、ゆみだけが誰かを傷つけたように見える。
愛菜は、書きかけの文字を消した。
画面を閉じた時、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
それが誰の、どの言葉に触れたものなのか。
今日も予定が詰まった手帳を前に、まだ答えは出なかった。
第6章 任せたのは、ここまで
翌朝、愛菜は紗良を呼んだ。
携帯に届いた文章と、記事の修正履歴を並べて見せる。
「ゆみさんが、名前を載せてほしいと言ったんですか」
紗良は画面を読み、少し間を置いた。
「直接、そう言われたわけではありません」
「では、どうしてこの返事になったんでしょう」
「写真に一緒に入ればよかったとお伝えしたら、気にされているように見えたので。私なりに、関係を良くしたくて……」
愛菜は紗良を見た。
話を聞くほど、ゆみの希望が分からなくなる。
自分が昨日読んだ修正依頼は、もっと単純だった。
「紗良さん」
「はい」
「相手が言っていない気持ちを、その人の要望として私に伝えるのはやめてください」
紗良の指が、膝の上で動いた。
「申し訳ありません」
「記事は、店で相談を受けて、企画と工房で改良した過程が分かるように直します。紗良さんの仕事も、その中できちんと紹介します」
愛菜は最後の一文を、ゆっくり言った。
「誰かの仕事が書いてあるからといって、紗良さんの仕事が消えるわけではありません」
紗良は、すぐには返事をしなかった。
それから、深く頭を下げた。
「分かりました」
***
記事は一週間後に公開された。
客には、載せる文章を読んでもらった。
娘との食事の話は掲載せず、着替えやすさについての感想だけを使うことになった。
客は、出来上がった画面をゆみと一緒に見た。
「私、こういうのに出るの、初めて」
「お顔もお名前も出ていませんので、ご安心ください」
「でも、この服は私の上着だものね」
客が袖を撫でる。
ゆみは頷いた。
記事には、紗良がボタンを直した時の写真も、工房で相談した時の写真も載っていた。
最後に、店舗で何度も試着を重ねたことが書かれている。
今度は、読んでいて立ち止まるところがなかった。
***
反響は、愛菜の予想より早かった。
上着についての問い合わせが増え、店では残りの生産分が少しずつ売れていった。
それに続いて、都内の百貨店、白峰百貨店から連絡が届いた。
秋の催事で、まなブランドを紹介したいという。
担当バイヤーは、記事にあった着替えやすさへの工夫に関心を持っていた。
愛菜は会議室に試作品を並べ、紗良と営業担当者を呼んだ。
「開催まで六週間です。まだ、参加を決めたわけではありません」
紗良は資料を開いた。
「どのくらいの規模でしょうか」
「先方の希望は、一週間。上着とパンツを組み合わせて紹介したいそうです」
営業担当者が付け加えた。
「条件はこれからです。売り場の広さ、販売員、手数料、納品数。まずは話を聞いて、見積もりを出します」
愛菜はパンツの試作品に触れた。
「こちらは、まだ販売用の仕様が決まっていません。工房には確認を入れますが、無理に急がせるつもりはありません」
紗良が頷いた。
「商品説明と、売り場の案を作ってもいいですか」
「お願いします。先方への条件の回答は、営業から。参加と生産数は、私が決めます」
「承知しました」
会議が終わると、紗良は試作品を両腕で持ち上げた。
「こういう売り場に、置いてもらえるんですね」
その嬉しそうな声に、愛菜も笑った。
「実現できたらね」
***
売り場案を考えるため、紗良は店へ来た。
客がどこで足を止めるか。鏡の前に、どのくらい空間が必要か。
ゆみは、実際に接客しながら説明した。
「椅子は置いた方がいいです。座った時の着心地を確かめたい方が多いので」
「上着だけ見る方にも?」
「はい。少し休んでから試したい方もいらっしゃいます」
紗良は図面に椅子を書き足した。
「ゆみさんなら、二百着くらいあっても売れそうですね」
ゆみは笑わなかった。
「普段と違う売り場なので、分かりません。サイズも色もありますし」
「そうですよね」
「ただ、持っていった分がなくなった時に、受注できればいいと思います。お届けできる日が分かっていることが前提ですけど」
紗良のペンが止まった。
「全部、先に作らなくてもいいんですね」
「催事の条件によります。お客様に、待ってでも欲しいと思っていただけるかも」
「なるほど」
紗良は書き込んだ。
その横顔を見て、ゆみは思った。
これからは、こうして話したことが、そのまま伝わればいい。
紗良の手で椅子が書き足された売り場は、前の案よりずっと使いやすそうだった。
***
数日後、愛菜はカルソック本社の近くで大虎と昼食を取った。
午後には、誉グループとの打ち合わせがある。
大虎も海外事業の会議を控えていた。
「百貨店から声がかかったんだって?」
「うん。今、条件を詰めてる。まだ決めてないよ」
「知ってる。記事、よかったね」
愛菜は顔を上げた。
「読んだの?」
「読んだよ。ボタンの写真まで拡大した」
「だいちゃん、そういう服も着る?」
「俺の服も、愛菜が作ってくれる?」
「作る。でも、会議に着ていってね。家の中だけじゃ宣伝にならないから」
「そっちが目的か」
愛菜は笑った。
その時、携帯が鳴った。
営業担当者からだった。
「はい、どうしました?」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「白峰百貨店から、確認のメールが来ています。社長、桐生さんに直接、参加の承認を出されましたか」
愛菜は背筋を伸ばした。
「出していません」
「先方は、社長の了承が取れたと聞いたので、催事の一番手前の区画を確保したそうです。商品の予定数量も、入っています」
「数量は?」
「上着とパンツ、合わせて二百着。加えて、会場での受注対応です」
愛菜は、さっきまで見ていたメニューを閉じた。
「メールを転送してください。先方には、社内で確認して折り返すと伝えてください」
電話を切ると、大虎が水のグラスを愛菜の方へ寄せた。
「戻る?」
「うん」
愛菜は紗良に電話をかけた。
二度目の呼び出しで、明るい声が返ってきた。
「社長、ちょうどご報告しようと思っていました。良い場所を押さえていただけました」
「紗良さん。私は、参加を承認していません」
一瞬、向こうが静かになった。
「正式な契約ではありません。ほかのブランドに決まる前に、仮で押さえていただいただけです」
「二百着という数は、どこから出ましたか」
「売り場の規模を考えて、目安としてお伝えしました。足りない分は受注にすれば対応できると、ゆみさんも――」
「ゆみさんは、生産数を決める立場ではありません」
愛菜の声に、紗良が言葉を止めた。
「今から戻ります。先方に何を伝えたか、やり取りをそのまま見せてください」
「……はい」
通話を終えた愛菜の携帯に、営業からの転送メールが届いた。
バイヤーの文章の下には、紗良が送った返事が引用されていた。
『社長より本件を任されております。ご提示いただいた日程で、弊社として参加いたします』
愛菜はその一文を読んだ。
商品説明と、売り場の案。
任せたのは、そこまでだった。
大虎が、黙って席を立つ。
愛菜も立ち上がった。
今度は、誰かの受け取り方の違いでは済まなかった。
第7章 断る覚悟
会社に戻ると、会議室には紗良と営業担当者が待っていた。
愛菜は席に着き、紗良が印刷したメールを読んだ。
百貨店からの質問。紗良の返事。その後に届いた売り場の図面。
営業担当者を宛先に入れていないやり取りが、何通もあった。
「最初の連絡は、どうして紗良さんに?」
「商品説明の資料に、私の連絡先を入れていたので。仕様について質問をいただきました」
「そこから、参加の返事もしたんですね」
「はい」
愛菜は一枚を机に置いた。
『社長より本件を任されております』
「この文章を送った時、私がまだ決めていないことは分かっていましたか」
紗良は俯いた。
「分かっていました」
営業担当者が、隣で息を吐いた。
愛菜は次の質問をした。
「それなら、なぜ?」
「あの場所は、ほかのブランドも希望していると聞いたんです。社長に確認するまで待っていただけないかお願いしたら、いつ返事ができるかと聞かれて……」
「私に連絡はしましたか」
「いいえ」
「営業には?」
紗良は首を振った。
「この機会を、逃したくありませんでした」
その声には、力があった。
「せっかく、ここまで作ったんです。試着してくださった方も喜んでくださって。もっと多くの人に見てもらえる場所があれば、きっと売れると思って」
愛菜も、その服をもっと多くの人に届けたい。
だから、紗良の言葉は分かった。
分かることと、認めることは別だった。
「二百着を作れるという確認は、取れていません。販売員も決まっていません。お客様に約束できる納期も、まだありません」
「私も、売り場に立ちます」
「紗良さんが立てば、縫える枚数が増えますか」
紗良は黙った。
愛菜は、机に置かれたパンツの試作品を見た。
工房で、何度も座って形を確かめた一着だった。
「良い服です。急いで間に合わせて、これより悪い服を売ることになったら、私は嫌です」
紗良の目が赤くなった。
愛菜は水を渡し、落ち着くのを待った。
けれど、言うべきことは変えなかった。
「今日から、先方との連絡は営業に一本化します。紗良さんは、商品について聞かれても、営業を通して答えてください。社外に出す資料も、確認を受けてからにします」
「……分かりました」
「今回、何を任されていて、何を自分で決めたのか。今日中に書いて提出してください。今後の担当範囲も、改めて確認します」
愛菜はメールをまとめた。
「百貨店には、私から説明します」
***
白峰百貨店のバイヤーは、愛菜の説明を聞いてから、しばらく黙った。
愛菜は営業担当者と並んで電話を聞いていた。
「社内で参加の決定がないまま、弊社から参加するとお伝えしてしまいました。申し訳ありません」
『こちらは、その返事で区画の調整を進めています』
「はい」
『桐生さんは、商品を説明できる担当者でしたから。会社としてのお返事だと受け取りました』
「その点も含めて、弊社の不手際です」
愛菜は紗良の名前を繰り返さなかった。
自分の会社から出た返事だった。
『二百着が難しいということでしょうか』
「数量だけでなく、パンツは販売用の仕様が確定していません。参加できる形があるか、工房と店舗に確認したうえで、改めてご提案させていただきたいです」
バイヤーは、金曜日の正午を期限にした。
それまでに具体的な提案ができなければ、区画は別のブランドに回す。
愛菜は了承した。
通話が終わると、営業担当者が手帳を開いた。
「今日中に、上着の追加生産と販売員の確保を確認します」
「お願いします。先方の売り場に合わせるためだけに、数字を増やさないでください」
「はい」
「見送るなら、私が返事をします」
そう言った途端、胸が少し痛んだ。
良い場所だった。
この服を待っている人に出会えるかもしれない。
けれど、その期待だけで、まだできない約束を重ねてはいけなかった。
***
夕方、ゆみが店長と一緒に会議室へ来た。
二人には、営業から経緯が伝わっていた。
愛菜は販売の可能性と、店の勤務について尋ねた。
ゆみは普段の接客時間や、試着で使った椅子の写真を示した。
「初めてのお客様が多くなります。売り場に立つ人数を減らすと、お待たせしてしまうと思います」
「店から人を出すと、こちらが回らなくなる?」
店長が勤務表を開いた。
「一人なら調整できます。ただ、一週間全部を同じ人で埋めるのは難しいです」
愛菜は頷き、営業担当者と別の販売員の手配を相談した。
話が終わる頃、ゆみが言った。
「私が、受注もできればと話したので……」
「その時の話は、店長から聞きました」
愛菜は答えた。
「納期が分かることが前提だったんですよね。二百着を売ると、ゆみさんが決めたわけではありません」
ゆみは膝の上の手を見た。
「はい」
愛菜は、ゆみが安心して顔を上げるのを待った。
「ほかにも、話した内容と違うことが伝わっていたら、知らせてください。私がどう受け取るかを心配して、言わずにいることはないように」
ゆみの目が、一瞬揺れた。
「……ありがとうございます」
そのあとに言葉が続かない理由を、愛菜は尋ねなかった。
***
誉グループとの打ち合わせは、翌日に変更してもらった。
父へ電話を入れると、事情を聞いたあとで短く言われた。
『それなら、そちらを先に片づけなさい』
「ごめんね」
『謝るのは分かった。夕食は、ちゃんと食べるんだぞ』
愛菜は、少し笑った。
「うん」
電話を切ると、大虎から連絡が届いていた。
『遅くなるなら迎えに行く。飯はまだ?』
愛菜は返事を打った。
『まだ。今日は、会社を大きくするのって怖いなと思った』
すぐに返事が来た。
『大きくする話を、断ることもできる社長になったんだろ』
愛菜は、その文章を二度読んだ。
それから、窓に映る自分を見た。
少し疲れた顔だった。
でも、今日決めたことを、明日の誰かに任せて逃げたいとは思わなかった。
***
その夜、紗良は自分の部屋で、提出した報告の控えを開いていた。
参加を承認されていないことは、分かっていた。
席が取れれば、愛菜も喜ぶと思った。
工房も店も、その予定に向かって動き始めれば、実現できると思った。
紙に書くと、どれも自分がそう思ったという話にしかならなかった。
机の端で、私物の携帯が振動した。
『百貨店の件、どうなった?』
紗良は画面を見た。
昼間の仕事用の連絡には、一度も出てこなかった相手だった。
『窓口を外されました。参加も、まだ決まっていません』
送ってから、紗良は携帯を伏せた。
すぐに、もう一度震えた。
『あれだけ良い場所でも、決めないんだね』
続けて、短い文章が届いた。
『じゃあ、次は社長が断れない話にしよう』
紗良は返信欄に指を置いた。
何も書かず、画面を消した。
机の上には、まだ誰にも見せていない、新しい服のデザイン画があった。
第8章 あなたの服
金曜日の朝、愛菜の机には、工房と営業からの回答が揃っていた。
上着は八十着なら、無理なく追加できる。
パンツは、まだ量産に移れない。生地を変えた時の伸び方と、洗ったあとの寸法を確かめる時間が必要だった。
販売員は確保できるが、百貨店の研修を受ける日程も組まなければならない。
愛菜は数字を確かめ、営業担当者を呼んだ。
「上着だけの提案で、先方に確認しましょう。パンツの販売と受注は、今回は入れません」
「試作品の展示は、どうしますか」
「展示するなら、発売時期が未定だと分かるように。ただ、上下の組み合わせが催事の条件なら、見送ります」
営業担当者は頷いた。
紗良にも、同じ内容を伝えた。
「八十着ですか」
その声は、少し硬かった。
「工房が、ほかの注文を遅らせずに作れる数です」
「別の工場なら、もっと作れるかもしれません」
「これから探して、同じ品質で作れるか確かめる時間はありません」
紗良は、資料を持つ手に力を入れた。
「……分かりました」
愛菜は、その返事を聞いてから、白峰百貨店へ電話をかけた。
***
バイヤーは提案を聞き、売り場図面を確認していた。
『今回の区画は、上下を組み合わせた売り場として組んでいます。上着だけですと、少し難しいですね』
「承知しました」
愛菜は、膝の上で手を握った。
「それでは、今回は参加を見送らせてください。調整を進めていただいたあとで、このようなお返事になり、申し訳ありません」
電話の向こうで、短く息を吸う音がした。
『残念です。ただ、できるというお返事をいただいて、直前に変わるよりは助かります』
「はい」
『パンツが完成したら、営業の方からご連絡ください。次の企画に合うか、改めて拝見します』
次が約束されたわけではない。
それでも愛菜は、顔を上げた。
「ありがとうございます。完成した商品で、ご提案させていただきます」
通話を終え、営業担当者と今後の連絡を確認した。
そのあとで、愛菜は工房に電話を入れた。
パンツの試作は、予定どおり続けてほしい。
催事に出ないからといって、必要としている客がいなくなったわけではなかった。
***
昼休み、紗良は会社を出て、駅の反対側にある喫茶店へ向かった。
奥の席で、男が手を上げた。
久世亮介。
紗良が以前勤めていたデザイン会社で、外部の販路開拓を担当していた男だった。
今は、リベルテ企画という会社を経営している。
「どうだった?」
席に着く前に聞かれ、紗良は鞄を抱えた。
「見送りになりました」
久世は眉を上げた。
「もったいないな」
「パンツが、まだ仕上がっていないので」
「商品ができるまで待っていたら、売り場は埋まる。だから先に場所を取ろうって話をしたんだけどね」
紗良は返事をしなかった。
百貨店へ参加の返事を出したのは、自分だ。
久世が代わりに送ったわけではない。
「私、社外との連絡も制限されました」
「なら、今回は正式に提案すればいい」
久世は鞄から一枚の企画書を出した。
『明日の装いプロジェクト』
高齢者が着替えやすい服を、施設や家族向けに紹介する事業だった。
「試着会を開いて、現場の声を拾う。まとまった需要が見えれば、生産の計画も立てられる。百貨店に二百着置くより、先が広い」
紗良は紙を読んだ。
「施設から、注文があるんですか」
「これから提案する。今ある話と、これから取る注文は、分けて書いてあるよ」
久世は企画書の下を指した。
協力候補の施設名が並んでいた。
決まった注文ではないと、確かに書かれている。
「社長に見せても、怒られない話だろ?」
紗良は、しばらく企画書から目を離さなかった。
「私から持っていくと、また勝手に進めたと思われるかもしれません」
「じゃあ、会社宛てに送る。君の紹介として、窓口を教えてくれればいい」
それなら、決まりを破ることにはならない。
紗良は営業担当者の名前を伝えた。
久世は書き留めてから、彼女を見た。
「この間の絵、いいと思ったよ」
紗良の指が、鞄の持ち手で止まった。
先日の夜、机に置いていた新しいデザイン画。
翌朝、誰かに見てほしくなって、写真を一枚送っていた。
「まだ、会社では見せていません」
「君が描いたんだろう?」
「はい」
「だったら、もっと自信を持ちなよ」
久世は、砂糖を入れずにコーヒーを飲んだ。
「会社の記事に君の名前があっても、最後はまなブランドの服になる。自分の名前で評価される機会も、考えた方がいい」
紗良は紙の端を指で押さえた。
「今の会社でも、評価はしていただいています」
「なら、いいんだ」
久世は笑った。
それ以上、否定しなかった。
***
リベルテ企画からの提案は、その日の午後に届いた。
営業担当者は企画書を愛菜へ回し、紗良に紹介の経緯を確かめた。
紗良は、以前の仕事で知り合った相手であること、今日の昼に相談を受けたことを話した。
愛菜は、施設名の一覧を読んだ。
「まだ注文はないんですね」
「はい。まずは試着会の共同企画です」
営業担当者が答えた。
「費用と担当する範囲を確認して、面談を入れますか」
愛菜は、客の試着記録を思い出した。
服を選ぶために店まで来られる人だけが、服に困っているわけではない。
話を聞く意味はありそうだった。
「お願いします。ただ、施設側の意向も直接確認できる形にしてください」
営業担当者が退出すると、愛菜は椅子に深く座り直した。
百貨店の返事だけで、今日は随分疲れていた。
そこへ、また新しい話が来た。
企画書の言葉は整っている。
それでも、すぐに前へ進みたい気持ちと同じくらい、誰が何を引き受けるのか確かめたい気持ちがあった。
***
面談は、翌週の火曜日に決まった。
その夜、愛菜は大虎に企画書を見せた。
「久世亮介って、知ってる?」
大虎は名前を見た。
「知ってるよ」
「やっぱり、だいちゃんは何でも知ってるね」
「何でもとは言ってない」
「どんな人?」
大虎は企画書をテーブルへ置いた。
「販路を作る仕事はできる。人が何を欲しがっているかも、よく見てる」
愛菜は頷いた。
「なら、今回も期待できる?」
「話は聞いていいと思う。ただ、愛菜の客と、久世が集めたい客が同じかは、確かめた方がいい」
愛菜は、施設名の一覧を開き直した。
「うん。まだ注文はないって書いてあるしね」
「それから、何を渡す話になるか」
「商品?」
大虎は愛菜を見た。
「商品だけなら、分かりやすいんだけどね」
***
火曜日、久世は約束の時間より十分早く来た。
営業担当者が応接室へ案内し、愛菜も席に着いた。
紗良は、商品について説明が必要になった時に呼ぶことになっていた。
久世は施設向けの提案と、試着会の費用について説明した。
具体的だった。
愛菜が人数や時期を尋ねると、まだ決まっていない部分は、決まっていないと答えた。
「まず、今の上着で小さく試す形なら、検討できます」
愛菜が言うと、久世は頷いた。
「ありがとうございます。それと、将来の商品についても、一つご相談があります」
彼が鞄から取り出した紙を見て、愛菜の手が止まった。
見覚えのある腰の切り替え。
工房で話した、座った時に背中が出にくい形。
それを一着のワンピースへ発展させた、まだ社内の会議には出ていないデザインだった。
「こちらは、どこから?」
「桐生さんから、個人的に見せてもらいました」
久世は紙を愛菜の方へ向けた。
「彼女が考案した服として、共同で商品化できないかと思っています」
愛菜は、絵の下に書かれた小さな文字を読んだ。
『Sara Kiryu』
まなブランドの名はなかった。
営業担当者も、紙を見たまま黙っていた。
愛菜は、応接室の扉へ目を向けた。
「紗良さんを、呼んでください」
第9章 名前を借りる男
紗良は、机に置かれた紙を見るなり足を止めた。
「久世さん。それは……」
「良いものだから、社長にも見ていただこうと思って」
久世は穏やかに答えた。
愛菜は、紗良に椅子を勧めた。
「いつ描いたものですか」
「先週、自宅で描きました」
「うちの商品として提案するつもりでしたか。それとも、別の仕事ですか」
紗良はすぐには答えなかった。
絵の下にある自分の名前を見てから、愛菜を見る。
「最初は、社長に見ていただくつもりでした」
「久世さんに送ったのは?」
「その前に、意見を聞きたくて」
愛菜は、腰の切り替えを指した。
「ここは、工房でパンツを直した時の話から?」
「はい。でも、ワンピースにしたのは、私の案です」
声が強くなった。
愛菜は頷いた。
「それは分かっています。今、誰が描いたかを否定しているわけではありません」
久世が二人の間へ声を入れた。
「私も、こちらの会社から何かを持ち出すつもりはありません。彼女の新しい可能性を、御社と一緒に育てられればと」
「では、なぜ最初の企画書に、この絵も共同の商品化も書かれていなかったんでしょうか」
愛菜が尋ねると、久世は少し笑った。
「実際にお会いしてから、広げられる話か判断したかったので」
「私は、施設で上着の試着会をするお話として、今日の時間を取りました」
久世の笑みが薄くなった。
愛菜は営業担当者へ目を向けた。
「二つの話は分けましょう。このデザインについては、作った経緯と、どこまで外へ伝わっているかを確認してからです」
久世は背もたれから身を起こした。
「試着会を進めること自体は、前向きに考えていただけますか」
「確認する内容が増えました。今、この場でお返事はできません」
愛菜は紙を机に置いた。
「この絵を、ほかの方に見せていますか」
「製造を相談できる先に、一か所」
紗良が久世を見た。
「私、そこまでお願いしていません」
「まだ注文はしていないよ。可能か聞いただけだ」
「でも……」
初めて、紗良の返事が途切れた。
愛菜はその表情を見た。
久世へ絵を送ったことは、紗良が決めた。
けれど、今どこで誰がその絵を見ているのかは、本人にも分からなくなっていた。
「送付先と、送った内容を営業へ出してください。新たに配ることや、商品化の話を進めることは止めていただきたいです」
久世は頷いた。
「承知しました」
面談が終わると、彼は名刺入れを鞄に戻した。
紗良には、何も言わなかった。
***
久世が帰ったあと、紗良は応接室に残った。
営業担当者が、送信した写真と、その前後のやり取りを確認している。
紗良は私物の携帯を差し出した。
「絵を送ったのは、これです」
愛菜は、表示された文章を読んだ。
『こんな服を考えました。どう思いますか』
それだけなら、商品化を依頼した文章ではなかった。
ただ、そのあとに久世から返事が続いている。
『君の名前で出すことも考えた方がいい』
紗良は、そこに短く答えていた。
『そうできたら嬉しいです』
愛菜は携帯から目を上げた。
「自分の名前で、服を出したいんですね」
紗良の顔が強張った。
「それは、いけないことですか」
「そうは言っていません」
「でも、今の話し方だと、私が何か盗んだみたいです」
愛菜は一度、息を吐いた。
疲れている時ほど、相手の言葉に押されて、話を早く終わらせたくなる。
今も、そうだった。
「盗んだとは言っていません。何も確認しないうちに、そう決めるつもりもありません」
愛菜は絵を紗良の前へ戻した。
「ただ、うちの客の相談や、工房での改良を使って考えたものを、会社に話さず外へ渡した。そこは確認が必要です」
紗良は紙を見た。
「社長に見せたら、また、もっと確かめてからと言われると思いました」
「それで、久世さんに?」
「久世さんは、まず良いと言ってくれるので」
言ってから、紗良は口を閉じた。
愛菜の胸が少し痛んだ。
紗良の仕事を、何度も良いと思っていた。
伝えたつもりでもいた。
それでも紗良が求めていたのは、案を褒める言葉だけではなかったのだろう。
「出してみたいなら、そう話してほしかったです」
「話したら、進めていただけましたか」
愛菜は黙って紗良を見た。
「必ず進めるとは、約束できません」
紗良の目が伏せられた。
「でも、進めないと決めていたわけでもありません」
***
紗良の新しい企画と、外部へ出す仕事は、いったん止めることになった。
既存のパンツの改良は、愛菜と工房の担当者が一緒に確認する。
久世へ渡った絵については、契約や社内の取り決めも含め、専門家に経緯を整理してもらうことにした。
誰かが描いたからすべてその人のものだとも、会社に勤めているからすべて会社のものだとも、愛菜はその場では決めなかった。
先に必要だったのは、これ以上、知らないところで話を進めさせないことだった。
紗良が退出してから、営業担当者が言った。
「紹介元が桐生さんだったので、こちらも信用しすぎたかもしれません」
愛菜は首を振った。
「面談を入れたことは、間違いではないと思います。話してみなければ、分からなかったので」
営業担当者は、施設の一覧を開いた。
「こちらへの確認も、続けますか」
「はい。試着会を待っている方が本当にいるなら、その話までなくしてしまいたくありません」
愛菜は時計を見た。
次の打ち合わせまで、二十分。
目を閉じたくなったが、まず水を飲んだ。
***
同じ頃、カルソック本社では、大虎が会議を終えていた。
秘書が、一枚の資料を持って入ってきた。
「藤川様からです。事業への出資相談を受けたそうですが、会長のお名前が出ているため、先にご確認をと」
大虎は資料を受け取った。
『明日の装いプロジェクト』
妻が家で見せた企画書と、同じ題名だった。
ただし、こちらは試着会の提案ではない。
新ブランドの立ち上げと、全国への販路展開を掲げた、出資者向けの説明だった。
大虎は、次のページを開いた。
『デザイナー 桐生紗良』
その下に、まだ愛菜からは見せられていないワンピースの絵があった。
さらに下の一文を読んで、大虎の指が止まった。
『まなブランド代表・誉愛菜氏との共同事業を予定。カルソック会長夫人としての発信力を活用』
大虎は藤川へ電話をかけた。
「誠一郎さん。これ、久世が持ってきたの?」
『本人ではありません。資金調達を手伝っているという男です。久世の依頼だと言っていました』
「金は?」
『出していません。愛菜さんからのお話もありませんでしたからね』
「そうか。持ってきた相手と、聞いた話を残しておいて」
『分かりました。……だいちゃん、愛菜さんは承知していないんですか』
大虎は、窓の向こうを見た。
「今、確かめる」
通話を終え、愛菜へ連絡を入れた。
少しして、妻の声が返ってきた。
『だいちゃん。ちょうど、今日の面談のことを話したかった』
「俺も、その件で話がある」
大虎は、資料の一文をそのまま読んだ。
愛菜は答えなかった。
電話の向こうで、椅子を動かす音がした。
『そんな話、してない。出資を集めるなんて、聞いてないよ』
「うん。資料を送る」
『久世さんは、まだこれから施設へ提案するって言ってたのに……』
大虎は机の上に資料を広げた。
「施設へ出したものと、金を出す相手へ見せたものが違うんだ」
愛菜の呼吸が、少し速くなった。
大虎は声を落とした。
「愛菜。今、その男が集めているのは、服を着る客じゃない」
机の上には、出資希望額が記されていた。
五億円。
「君の名前を見て、金を出す人間だ」
第10章 本当の声、違う意味
届いた資料を、愛菜は一枚ずつ読んだ。
施設の試着会。
新ブランドの設立。
初年度の売上計画と、全国への展開。
聞いていない話の中に、自分の名前が何度も出てくる。
電話は、まだつながっていた。
「だいちゃん。これ、いつ作られたものか分かる?」
『藤川へ持ち込まれたのは昨日。送られたファイルは、そのまま残してもらっている』
「今日、私と会う前だね」
『そうだね』
愛菜は表紙に戻った。
今日の面談で話を広げようと思った。
久世は、そう言った。
でも、昨日の時点で、すでにその先の話を別の相手へしていた。
「まず、うちが関わっていないことを伝える。どこへ出したかも、確認する」
『こちらも、カルソックの名が使われている部分は担当に渡す』
大虎の声は、いつもと変わらなかった。
『愛菜の会社が出す返事は、愛菜が決めていい。必要な資料は全部渡すから』
愛菜は、少しだけ目を閉じた。
「ありがとう」
『今日、迎えに行こうか』
「うん。来てほしい」
その返事だけは、迷わなかった。
***
営業担当者と顧問へ資料を回したあと、愛菜は久世へ電話をかけた。
新たに説明した内容が分かるよう、営業担当者も同席していた。
「出資者向けの資料を確認しました」
少しの間があった。
『どちらからでしょうか』
「資料にある、まなブランドとの共同事業についてのお話です。弊社は承認していません」
『はい。ですから、共同事業を“予定”と書いています』
愛菜は紙を見た。
「予定として発表することも、承認していません」
『これは、可能性をご説明するための資料です。最終的には、御社と条件を――』
「その可能性を、私が認めたように説明していませんか」
久世は答えるまでに時間をかけた。
『桐生さんから、社長も商品化を否定されてはいないと伺いました』
「紗良さんの希望を聞いたことと、久世さんの事業に参加することは別です」
愛菜は、隣の営業担当者を見た。
担当者は日時を書き留めていた。
「弊社の名と、私の立場を使った説明は止めてください。配布先に、弊社との合意がないことを訂正していただきたいです」
『そう急に言われましても、すでに動いている方がいます』
「どなたですか」
『製造先や、資金の相談先です。期待を持っていただいているので、話し方は慎重に考えた方がいいかと』
愛菜はペンを置いた。
「私がしていない約束を、その方たちに期待していただいたままにはできません」
久世の声が低くなった。
『私は、この事業を成功させたいだけです』
「それなら、関わる人に正確な話をしてください」
電話を終え、同じ内容を文書でも送ることにした。
配った資料と送付先、説明した内容、すでに受け取っている金があるか。
それぞれについて、回答を求めた。
***
紗良は、もう一度会議室へ呼ばれた。
出資資料を見ると、最初はページをめくるだけだった。
自分のデザイン画が出てきたところで、手が止まった。
「五億円……」
「この資料を、知っていましたか」
愛菜が尋ねた。
紗良は首を振った。
「ここまでのものは、見ていません」
「出資を集める話は?」
「商品を出すなら資金も必要になると、久世さんが。それくらいです」
愛菜は、久世との通話で聞いた説明を伝えた。
「私が商品化を否定していないと、話しましたか」
紗良は、目を伏せた。
「はい」
「いつ?」
「今日、久世さんが帰られたあとです」
新たに外へ話を進めないよう、伝えた直後だった。
愛菜は背もたれに寄りかからず、そのまま待った。
紗良が、小さな声で続けた。
「絵を外へ渡したことは確認するけれど、商品にすること自体は、まだ駄目と決まったわけではないと。そう伝えました」
「今日、確認が済むまでは止めると決めたことも、伝えましたか」
紗良の唇が動いた。
声は出なかった。
愛菜は、紙に置いた手を静かに引いた。
「その部分を伝えなければ、久世さんは、進めてもいいと説明する材料にできます」
「でも、本当に駄目とはおっしゃっていませんでした」
「許可していないことは、分かっていましたよね」
紗良は答えなかった。
百貨店の時と、同じ問いだった。
愛菜は、それ以上言葉を重ねなかった。
今日送った内容と、久世から返ってきた内容を、そのまま残して提出してもらう。
外部との仕事を止めることに加え、今後の業務については人事担当者も交えて決めると伝えた。
紗良は頷いた。
「……私の服を、作りたかっただけです」
愛菜は彼女を見た。
「その気持ちは、分かります」
声が少し掠れた。
「でも、そのために私が言っていない返事を、したことにしてはいけません」
***
夕方、店からパンツの試着予定について確認が入った。
営業担当者に代わって、愛菜が店長と話した。
試作は続けること。
外部の企画は止まっていること。
店の客に約束している次の試着には、愛菜が行くこと。
店長は予定を確かめたあと、言った。
「ゆみさんが、お客様の確認項目をまとめています。お送りしますね」
「お願いします」
少しして届いた紙には、客の名前と、座った時に確かめたい箇所が書かれていた。
購入予定という文字は、なかった。
試したあとで、客に聞くための欄が空けてある。
愛菜は、その空欄をしばらく見た。
まだ分からないことが、分からないまま残っていた。
それが、こんなにもありがたかった。
***
大虎が迎えに来た時、愛菜はまだ会社にいた。
応接室へ通された夫を見ると、椅子から立った。
「ごめん。帰る支度、まだ」
「待つよ」
大虎は隣に座った。
愛菜は机の上の資料を揃えようとして、途中で手を止めた。
「紗良さん、良い服を作るんだよ」
「うん」
「それは、今もそう思う」
大虎は頷いた。
「なのに、どうしてこうなるんだろう。私、最初に違うなって思った時、もっとちゃんと聞けばよかったのかな」
「今日、ちゃんと聞いただろ」
「でも、もう五億円の話になってる」
大虎は、机の上の資料を見た。
「だから、今止めようとしてるんだろ。まだ知らないことは、これから確かめよう」
愛菜は夫の肩へ、そっと額を寄せた。
大虎の手が、背中に触れた。
ほんの少しの間、二人とも何も話さなかった。
***
机の電話が鳴った。
営業担当者からだった。
「社長。久世さんの事業について、確認したいという方から連絡が来ています」
愛菜は身を起こした。
「お名前は?」
「倉田慎吾さん。生活用品の販売会社を経営されているそうです。社長に直接、参加されるか伺いたいと」
愛菜は大虎を見た。
大虎は手を離し、隣で頷いた。
電話をつなぐと、男の声がした。
『お忙しいところ、申し訳ありません。久世さんから、代表にもお話が通っていると伺いまして』
「弊社は、その事業への参加を承認していません」
向こうが静かになった。
『では、送っていただいたお声は、どういう意味だったのでしょうか』
愛菜は受話器を握り直した。
「声、ですか」
『説明のあとで、音声も届きました。代表ご本人のお返事だと』
倉田は、受け取った音声ファイルを送ってきた。
営業担当者が開き、愛菜の前で再生した。
『でも、進めないと決めていたわけでもありません』
短い音声だった。
間違いなく、愛菜の声だった。
今日、紗良に話した言葉。
その前に言った、必ず進めるとは約束できないという返事は入っていなかった。
愛菜は、動けなくなった。
受話器の向こうで、倉田が続けた。
『そのあと、共同事業の参加枠を確保するための申込金だと説明されました』
大虎が、再生を止めた画面へ目を落とした。
『一千万円は、昨日送金しています』
昨日。
愛菜がその言葉を話したのは、今日だった。
払ったあとで不安になった相手に、久世はこの声を送ったのだ。
愛菜は息を吸った。
自分の名前だけではなかった。
自分の、本当の声まで。
していない約束を信じさせるために、使われていた。
第11章 消さなかった言葉
愛菜は、もう一度息を吸った。
受話器の向こうでは、倉田が返事を待っていた。
「倉田さん。今の音声は、私が今日、社員と話した時のものです」
『今日、ですか』
「はい。ただし、前後が抜けています。弊社が共同事業に参加すると返事をした音声ではありません」
大虎が、机にあったメモ用紙を愛菜の手元へ寄せた。
昨日の送金。
今日届いた音声。
愛菜は二つを書き、間を空けた。
「一千万円を送金する前には、どのような説明を受けましたか」
『御社が商品開発を担当し、販売先も確保されていると。藤川興産も資金面で関わる予定だと聞きました』
「その説明が分かる資料や、やり取りは残っていますか」
『メールがあります。申込書も』
「差し支えない範囲で、送っていただけますか。弊社の顧問にも確認してもらいます」
倉田の息が、電話越しに聞こえた。
『今日、こちらから久世さんに聞いたんです。本当に社長ご本人が了承されているのかと。そうしたら、あの音声が届いて』
愛菜は、書きかけのペンを止めた。
『社員さんを通した話なので、ご不安でしたら、これをお聞きくださいと』
すでに送られた金を、戻してほしいと言わせないためだったのか。
そこまでは、まだ分からなかった。
分かっていることだけを、愛菜は伝えた。
「私は、久世さんに出資を募ることも、弊社の名を使うことも許可していません。先ほど、ご本人にも訂正を求めました」
『では、お金は……』
声が途切れた。
愛菜は、机の紙を見た。
一千万円。
自分の会社には入っていない金だった。
それでも、その金を払う判断に、自分の名前が使われていた。
「この場で、私から返金をお約束することはできません。ただ、弊社が参加を承認していないことは、文書でお伝えします。確認できた事実も、お知らせします」
倉田はしばらく黙ったあと、言った。
『お願いします。私は、御社の商品ならと思ったんです』
「……はい」
愛菜は、その言葉を最後まで聞いた。
***
電話を切ると、応接室が急に静かになった。
大虎は、愛菜の代わりに受話器へ手を伸ばさなかった。
「顧問に、今の話を伝える」
愛菜が言うと、頷いた。
「倉田さんに送る文書も、見てもらおう」
「うん」
営業担当者に連絡を入れた。
届いた音声は、編集せず、倉田から受け取ったメールごと残す。
これから届く申込書と送金の記録も、分けずに保管してもらう。
一つずつ頼み終えてから、愛菜は尋ねた。
「桐生さん、まだいますか」
「はい。人事との面談が終わって、席に戻っています」
「少し待っていてもらってください」
電話を置いても、愛菜の手は受話器から離れなかった。
今日、紗良と話していた部屋。
閉じた扉。
向かい合った椅子。
自分の声が録られていたことに、気づかなかった。
「だいちゃん」
「うん」
「私、あの人に、分かってほしくて話したんだよ」
大虎は愛菜を見た。
「うん」
「また、使える言葉を探されるのかなって思うと……何を話せばいいのか、分からなくなる」
大虎の手が、机の上で止まっている愛菜の手に重なった。
「次は、一人で話さなくていい」
愛菜は小さく頷いた。
手の温かさが分かるまで、少し時間がかかった。
***
紗良には、人事担当者が同席する会議室へ来てもらった。
大虎は応接室に残った。
愛菜は、音声を再生する前に尋ねた。
「今日、私と話した内容を録音しましたか」
紗良は、すぐには答えなかった。
膝の上に置いた鞄へ、一度目を落とした。
「……はい」
「どの時の話を?」
「最初の、商品化についてのお話です」
「何のために録ったんですか」
「あとで、ちゃんと聞き直そうと思って」
愛菜は、その答えを書き留めた。
「録音を、誰かに渡しましたか」
紗良の肩が動いた。
「久世さんに」
人事担当者のペンが、紙の上を走った。
「いつですか」
「昼過ぎです。社長のお話を、私がうまく説明できなくて。だったら、そのまま聞かせてほしいと言われたので」
愛菜は、手元の端末を操作した。
『でも、進めないと決めていたわけでもありません』
短い声が、会議室に流れた。
紗良が顔を上げた。
「これ……」
「出資をした方に、私が参加を了承した返事として届いています」
「違います」
初めて、紗良の声が強くなった。
「私が送ったのは、これじゃありません。最初から、全部です」
「その録音は、今もありますか」
紗良は鞄から携帯電話を出した。
画面を押す指が、何度か止まった。
録音の一覧が開いた。
今日の日付。
数十分の長さがあるファイルだった。
「これです」
「久世さんに送った時のやり取りも、見せてもらえますか」
紗良は画面を切り替えた。
音声ファイルの下に、久世の返事があった。
《ありがとうございます。社長のお考えは分かりました。こちらで説明します》
そのあとに、紗良が送った文章が続いていた。
《商品化そのものを否定されているわけではないと思います》
愛菜は、そこから先も読んだ。
久世からの返事は、短かった。
《承知しました。あとはお任せください》
「この『説明します』が、誰への説明かは聞きましたか」
紗良は首を振った。
「私は、製造先かと……」
「確認は、していないんですね」
「はい」
愛菜は椅子に座り直した。
「元の録音と、このやり取りを、そのまま提出してください。会社の担当者から、方法を案内します」
「はい」
紗良は携帯電話を握ったまま、愛菜を見た。
「私、切り取っていいなんて言っていません」
「それも、今、聞きました」
「本当です」
「だから、送ったものと、残っているものを確認します」
紗良の目から、涙が落ちた。
愛菜はティッシュの箱を、机の中央へ置いた。
しばらくして、紗良が言った。
「久世さんに、電話してもいいですか。こんなふうに使うなんて聞いていないって、私から」
「今は、連絡を待ってください」
「でも、私が言えば」
言いかけて、紗良は口を閉じた。
愛菜は、彼女の携帯電話を見た。
「さっきも、久世さんに伝えた言葉があったんですよね。今度は、何がどう伝わるか、私たちにも分かる形で話す必要があります」
紗良は俯いた。
そのまま、何度も頷いた。
***
元の録音では、愛菜の声のあとに、紗良の相槌が入っていた。
椅子を引く音。
紙をめくる音。
そして、切り取られた一言よりも前に、確かに残っていた。
必ず進めるとは約束できないという返事。
確認が必要だという説明。
愛菜は、途中で再生を止めた。
全部残っていた。
久世は、聞いていなかったのではなかった。
「……これを聞いて、あれだけ送ったんだ」
隣で確認していた営業担当者は、何も言わなかった。
愛菜は、止まった画面を見つめた。
自分の話し方は、思っていたより柔らかかった。
紗良を傷つけないように、言葉を選んでいた。
その時の自分が何を考えていたかも、覚えている。
それでも、伝えるべきことは言っていた。
愛菜は、端末を机に置いた。
「顧問に、両方渡してください」
今度は、声が揺れなかった。
***
倉田から届いた申込書には、愛菜の会社名があった。
事業協力予定先。
その欄に、まなブランドと藤川興産が並んでいた。
振込先は、久世が代表を務める会社だった。
添付されたメールには、昨日の日付で、こう書かれていた。
《代表の了承は得ております。正式発表前のため、お取り扱いにはご配慮ください》
愛菜は、その一文を読んだあと、藤川へ資料を回すよう頼んだ。
大虎には、自分から見せた。
大虎は画面を読み終えると、携帯電話を手にした。
「藤川側で確認できていることを、愛菜の顧問にも渡してもらう」
「お願い」
「倉田さん以外に、金を払った人がいるかもしれない」
愛菜は頷いた。
さっき久世は、すでに動いている方がいると言った。
あの時、どの顔を思い浮かべていたのだろう。
製造先。
資金の相談先。
その言葉の中に、倉田も入っていたのだろうか。
机の電話が鳴った。
人事担当者だった。
「社長。桐生さんのところに、久世さんから連絡が来ました」
愛菜は、大虎を見た。
「今ですか」
「はい。ご本人が、見ていただきたいと」
***
紗良は、会議室で待っていた。
愛菜が入ると、携帯電話を机に置いた。
画面には、久世からの新しいメッセージがあった。
《音声の件で問い合わせが来ています。説明が複雑になるので、先ほどのデータはいったん削除してください》
その下に、もう一つ。
《あなたの商品を世に出すためです。ここで話を大きくしないでください》
愛菜は読み終え、紗良を見た。
「返事はしましたか」
「していません」
紗良の指は、机の端を掴んでいた。
「消しても、いません」
愛菜は頷いた。
「この連絡も、残してください」
「はい」
紗良は携帯電話を引き寄せかけて、やめた。
「社長」
愛菜は待った。
「私、あの録音を渡せば、久世さんが社長を説得してくれると思っていました」
人事担当者が、顔を上げた。
「社長が、少しでも迷っているところがあれば、そこから話を進めてもらえると思って……」
声が小さくなった。
「ちゃんと聞き直すためだけじゃ、ありませんでした」
愛菜は、向かいの椅子に座った。
さっき聞いた説明より、ずっと苦しい言葉だった。
紗良は顔を覆わなかった。
愛菜の返事を待っていた。
「今、話してくれたことも、記録します」
「はい」
「そのうえで、これからのことを決めます」
紗良は目を閉じ、頷いた。
愛菜は、机に置かれた携帯電話へ目を落とした。
消してください。
その文字のすぐ上に、録音は残っている。
「ほかにも、まだ話していないことはありますか」
紗良は唇を噛んだ。
それから、鞄の中へ手を伸ばした。
取り出したのは、白い封筒だった。
「昨日、久世さんから渡されました」
封筒の口は、一度開けられていた。
「何ですか」
「デザイン料の、前払いだと」
愛菜は封筒に触れず、尋ねた。
「いくらですか」
「五十万円です」
昨日。
また、その日付だった。
愛菜は、倉田から届いた送金記録を思い出した。
まだ、この金がどこから来たかは分からない。
紗良が封筒を押さえていた手を離した。
「受け取ったこと、言えませんでした」
愛菜は人事担当者を見た。
担当者は新しい紙を一枚出した。
「受け取った時のことを、最初から聞かせてください」
封筒を挟んで、紗良が座り直した。
第12章 受け取ったもの
紗良は、封筒を見たまま話し始めた。
「昨日の夕方、会社を出てから会いました。久世さんに、見せたい生地があると言われて」
人事担当者が、時刻と場所を尋ねた。
駅前の喫茶店。
午後六時過ぎ。
紗良は、一つずつ答えた。
「生地の見本を見たあとで、これを渡されました。これからお願いする分も含めて、先に払っておくからと」
「何をお願いされると、聞いていたんですか」
愛菜が尋ねた。
「パンツだけじゃなくて、上に合わせる服も。私の名前を出したブランドにしたいと」
紗良の指が、膝の上で重なった。
「嬉しかったです」
言ってから、顔を伏せた。
愛菜は続きを待った。
「会社では、私が描いたものでも、私の名前で売るわけではないので。初めて、自分の服だと言ってもらえた気がして」
「お金を受け取る時、何か書きましたか」
「受領書に、名前を」
「控えは?」
「もらっていません」
「そこには、何のお金だと書かれていましたか」
紗良は、少し考えた。
「デザイン業務の……着手金だったと思います」
人事担当者が、その言葉を書き留めた。
愛菜は封筒に目を落とした。
「中のお金は、使いましたか」
「いいえ」
「分かりました。金額と受け取った経緯を確認して、扱いは顧問にも相談します。会社がお預かりするかどうかも、それから決めます」
紗良は頷いた。
そして、小さく付け足した。
「返せば、止められると思っていました」
「何を?」
「久世さんとの話を」
愛菜は顔を上げた。
「今日、お金を持ってきたのは、そのためですか」
「……最初から、返そうと思っていたわけではありません」
紗良の声が途切れた。
「社長に呼ばれた時、もし仕事を辞めることになったら、久世さんのところへ行くしかないと思って。だから、持っていました」
人事担当者のペンが止まった。
紗良は、封筒を自分の方へ引かなかった。
「でも、音声を聞いて……私が送ったもので、知らない人がお金を払ったと思ったら、怖くなって」
「倉田さんが送金したのは、昨日です」
愛菜は静かに言った。
「録音を送る前です。今日分かったことを、そこは混ぜずに話してください」
紗良は瞬きをした。
「はい」
「久世さんの説明を信じてもらうために、私の声が使われた。それは確かです。あなたが何を知っていて、何をしたかは、これから一つずつ確認します」
紗良は、ようやく愛菜を見た。
愛菜は新しい紙を、彼女の前へ置いた。
「昨日、会う約束をしたところから、書いてもらえますか。覚えていないところは、そう書いてください」
***
会社を出た時には、外は暗くなっていた。
車に乗ると、愛菜は鞄を膝に置いた。
大虎はすぐに出発せず、暖房の風向きを変えた。
「寒かった?」
「少し」
愛菜は手を擦った。
会社では気づかなかったが、指先が冷たくなっていた。
「五十万円、受け取ってた」
「聞いた」
「自分の名前で服を出せるのが、嬉しかったんだって」
大虎は頷いた。
「私、その気持ちまで、間違ってるとは言えない」
「うん」
「でも、だからって……」
そこから先が続かなかった。
大虎が、コンビニの袋を差し出した。
中には、おにぎりが二つと、温かいお茶が入っていた。
「昼、食べた?」
愛菜は首を振った。
「少しだけ」
「じゃあ、一つ」
袋を開けると、海苔の匂いがした。
愛菜は包みを剥がし、小さく齧った。
飲み込んでから、言った。
「私の会社じゃ、足りなかったのかな」
大虎は愛菜を見た。
「それは、紗良さんに聞かないと分からない」
愛菜の手が止まった。
「ただ、足りないものがあったとしても、黙って会社の仕事を外へ持っていっていいことにはならないだろ」
「……うん」
「愛菜が考えることと、紗良さんが答えることを、全部一人で引き受けなくていい」
愛菜は、残りのおにぎりを見た。
今日、何度も口にした言葉だった。
分からない。
確認する。
今は約束できない。
仕事では言えたのに、自分のことになると、すぐに答えを出したくなった。
「明日、久世さんに会うことになった」
「顧問も一緒?」
「うん。営業と、人事にもいてもらう」
「分かった」
大虎がシートベルトを締めた。
愛菜も、おにぎりを持ったまま、もう片方の手でベルトを引いた。
***
翌朝、久世は約束の十分前に来た。
受付へ名刺を出し、案内された会議室に入ると、席に着く前に頭を下げた。
「このたびは、ご心配をおかけしました」
愛菜は、向かいの席を示した。
机の上には、出資資料、倉田の申込書、メールの写しが並んでいた。
顧問が同席者を紹介し、記録のために録音することを伝えた。
久世は一瞬、端末へ目をやった。
「もちろんです。私も、きちんとご説明したいので」
椅子に座ると、鞄から薄い書類を取り出した。
「まず、こちらをご覧いただけますか。昨日のお話を踏まえて、修正してきました」
表紙に、まなブランドの名があった。
その下に、小さく追記されていた。
協議中。
愛菜は書類を開かなかった。
「弊社の名を使った説明を止めて、合意がないことを訂正してほしいとお願いしました」
「ええ。ですので、誤解のない表現に」
「協議中という説明も、認めていません」
久世の手が、表紙の上で止まった。
「しかし、本日こうしてお時間をいただいています」
「事業に参加するための協議ではありません。弊社の名前と音声が、どこで、どう使われたのかを確認するためです」
顧問が、録音端末の横へ資料を置いた。
「まず、倉田さん以外の配布先と、金銭の受領状況をご説明ください」
久世は、椅子へ深く座り直した。
「その前に、桐生さんから、どういうお話を聞いていますか」
愛菜は答えた。
「久世さんから五十万円を受け取ったこと。私との会話を録音して、全体を送ったことを聞いています」
「でしたら、お分かりいただけると思います。こちらも、彼女から相談を受けて動いていたんです」
「私の返事として、倉田さんへ送った音声は、久世さんが作ったものですか」
久世は唇を湿らせた。
「必要な箇所を、聞きやすくしただけです」
「その前の、約束できないという部分を外したのは、なぜですか」
「そこまで入れると、話が分かりにくくなりますので」
愛菜は、昨日何度も聞いた短い音声を再生した。
自分の声が流れ、すぐに止まった。
「これを聞いて、弊社が参加を了承したと受け取った方がいます」
「受け取り方までは、私にも」
顧問が、一枚の紙を久世の前へ動かした。
倉田に送られたメールだった。
《代表ご本人のお返事です》
久世は、その一文を見た。
誰も次の言葉を足さなかった。
やがて、久世が口を開いた。
「表現が、適切ではなかったかもしれません」
愛菜は、手元の紙を揃えた。
「昨日、私が訂正を求めたあと、桐生に録音を消すよう連絡しましたね」
久世の目が動いた。
「混乱を広げたくなかったんです」
「今、確認しているものを、消してほしくありません」
愛菜は、彼の前に置かれた修正版の資料を見た。
「ほかの資料や、やり取りも残してください」
***
出資資料を送った先は、倉田を含めて四人だった。
金を受け取ったのは、倉田一人。
久世はそう説明し、送付先の一覧を出した。
顧問は、説明を裏づける記録も提出するよう求めた。
「倉田さんには、こちらからも説明します」
久世が言った。
「ただ、あまり急に計画そのものを否定すると、かえって不安にさせます。実際、製造先は動いていますし、桐生さんのデザインもある」
愛菜は彼を見た。
「弊社が参加しないと、伝えてください」
「それでは、倉田さんのお金をどうするんですか」
室内が静かになった。
久世は、愛菜の目を見て続けた。
「中止になれば、損が出ます。誰も望んでいない結果でしょう。御社に大きな負担をお願いする話ではないんです。試作品を何点か作っていただいて、名前だけでも正式に入れられれば、事業は続けられます」
愛菜は、自分の前に置いた手を見た。
昨日から、何度も考えた。
自分が引き受ければ、倉田は困らずに済むのか。
服ができれば、紗良も戻れるのか。
でも、久世の資料に書かれた約束は、それで終わりではなかった。
売上。
販路。
全国への展開。
服を数点作ったあとに、まだいくつも続いていた。
「そのお話を受けることはできません」
「現実的に考えていただきたいんです」
「考えて、お断りしています」
愛菜は、久世を見た。
「倉田さんに、私から説明することはできます。弊社が承認していなかったことも、音声がどう使われたかも。でも、説明を本当のことにするために、あとから参加はしません」
久世は、机の端に置いていた鞄へ手を伸ばした。
顧問が言った。
「訂正する内容と送付先は、文書で確認させてください。金銭については、倉田さんと対応してください」
久世は返事をせず、修正版の資料を鞄へ戻した。
***
会議のあと、愛菜は倉田へ電話した。
確認できたことと、まだ記録を待っていることを分けて伝えた。
倉田は最後まで聞いた。
『今日、久世さんからも連絡が来るんですね』
「そのように求めています。ただ、届く時刻までは、こちらでお約束できません」
『分かりました』
少し間が空いた。
『昨日は、急にすみませんでした』
「いえ。連絡していただいて、こちらも分かったことがあります」
電話を切ると、机の端に、店から届いた試着の確認表が置かれていた。
ゆみがまとめたものだった。
愛菜は、次の試着日を手帳に書き込んだ。
その下に、椅子に座った時の腰回り、と書いた。
すると、営業担当者が扉を叩いた。
「社長。店長からお電話です」
愛菜は顔を上げた。
「試着の件?」
「はい。ただ、その前に、一つ確認したいことがあるそうです」
電話をつなぐと、店長は少し戸惑った声で言った。
『久世さんという方から、お電話がありまして』
愛菜のペンが止まった。
『今回、うちが販売を担当すると聞いている、と。先に、お客様の反応と、ご予約の数を教えてほしいそうなんです』
「いつのお電話ですか」
『十分ほど前です』
久世が会社を出た、すぐあとだった。
愛菜は、確認表の空欄を見た。
「店長。その事業に、うちも、お店も参加する約束はしていません」
『はい。私も聞いていなかったので、お答えしていません』
愛菜は肩の力を少し抜いた。
「ありがとうございます。予約として数えられるお客様も、まだいませんよね」
『ええ。試してみたいという方に、来ていただく予定だけです』
机の向こうで、営業担当者がメモを取っていた。
愛菜は、手帳に書いた試着日へ目を戻した。
「予定どおり、伺います」
『お待ちしています』
電話を切ってから、愛菜は顧問へ回す紙を一枚増やした。
それから、試着の確認表を手元へ戻した。
第13章 売れる前の服
店に着くと、ゆみが椅子の位置を変えていた。
試着室から出て、三歩ほど歩いたところ。
背後の鏡からも、横の姿が見える場所だった。
「ここなら、座ってから立つところまで見られると思って」
愛菜に気づくと、ゆみは椅子の背から手を離した。
「通路、狭くない?」
愛菜は、椅子の横を歩いてみた。
「大丈夫。もう少しだけ、鏡に向けてもいい?」
二人で向きを直した。
椅子の脚が床を擦った。
それだけの作業を終えると、愛菜は持ってきた袋を開けた。
試作のパンツが二本。
前回のものと、腰回りを直したものだった。
ゆみは、畳まれた服へ目を落とした。
「紗良さんは、今日は?」
「来ないの。しばらく、この件は私と担当者で進める」
ゆみは頷いた。
理由は尋ねなかった。
「確認表、助かった。ありがとう」
「前に、口で聞いただけだと忘れちゃったから。お客様が帰ってから、どっちの話だったかなってなって」
ゆみは、売場の奥を見た。
店長が電話を終えて、こちらへ来るところだった。
「久世さんからは、その後、何かありましたか」
愛菜が尋ねた。
「今朝、メールが一通です。お電話ではうまく伝わらなかったようなので、と」
店長は印刷した紙を差し出した。
《店頭での反応を踏まえ、販売計画を調整したいと考えております》
その下には、販売開始の希望時期と、初回発注数を記入する欄があった。
店長は、どちらにも線を引いていなかった。
「こちらからは、関わる予定がないと返信しました。社長にも、お送りしてあります」
「ありがとうございます」
愛菜は紙を受け取り、鞄の書類入れへしまった。
ゆみは、試作のパンツをハンガーに掛けた。
「今日は、二人いらっしゃるよ。最初の方は、一時」
愛菜は時計を見た。
あと十五分あった。
***
最初の客は、前回と同じ靴を履いてきた。
「比べるなら、同じ方がいいでしょう?」
そう言って、少し笑った。
愛菜は礼を言い、まず前回のパンツを穿いてもらった。
試着室から出て、鏡の前に立つ。
それから、椅子に腰を下ろす。
ゆみが確認表を持って、横へ寄った。
「前に気になったのは、この辺りでしたよね」
客は腹部へ手を当てた。
「そう。立っている時は、平気なの。でも、座るとここが」
言いながら、ウエストの内側へ指を入れた。
愛菜はしゃがみ、横から生地の動きを見た。
「今、苦しいですか」
「少し。ご飯を食べたあとだと、もっと気になると思う」
ゆみが書き留めた。
愛菜は、客に無理のない範囲で、姿勢を変えてもらった。
背もたれに寄りかかる。
少し前へ屈む。
立ち上がる。
どの時に、どこが引かれるか。
見て分かることと、本人にしか分からないことを、順番に確かめた。
次に、直した方を穿いてもらった。
客は椅子に座ると、さっきと同じように腰へ手を当てた。
「ああ、こっちは楽」
ゆみの表情が明るくなった。
愛菜も頷いた。
「後ろは、どうですか」
客は鏡を見た。
立って、体を少し捻った。
「でも、ここは前の方がいいかもしれない」
腰の後ろに、生地が余っていた。
愛菜は指で摘ままず、まず、そのままの形を見た。
ゆみも後ろへ回った。
「座ると楽だけど、立つと少し余るんですね」
「私だけかもしれないけど」
「そこも、確かめたいので」
愛菜が言うと、客は安心したように肩を下ろした。
「じゃあ、言ってもいい?」
「はい」
「ポケットが、もう少し深いと嬉しい」
ゆみが顔を上げた。
「何を入れる時ですか?」
「携帯。買い物の時に、ちょっと入れたいのよ。バッグから出したあと」
愛菜は、自分の携帯電話を見た。
ゆみがメジャーを持ってきた。
***
二人目の客は、直したものより、前の方が落ち着くと言った。
腰回りには、余裕がある方がいい。
でも、太腿の線は、すっきり見せたい。
最初の客とは、気になる箇所が違っていた。
二人が帰ったあと、ゆみは確認表を並べた。
「同じ直し方じゃ、駄目か」
独り言のように言った。
愛菜は、ハンガーに戻した二本を見た。
「まだ、この二人だけだから。もう少し聞いてみたい」
「そうだね」
ゆみは、発注数を書くために用意していた小さなメモを、裏返した。
愛菜はその動きに気づいた。
「何か書くつもりだった?」
「店長に、もし売るなら何本くらい置けるか、考えておいてって言われてたの」
ゆみはメモを表へ返した。
数字は、まだなかった。
「でも、今日見たら、先に聞くことがあるなと思って」
愛菜は頷いた。
確認表の余白に、サイズごとの差も確かめる、と書いた。
その隣で、ゆみはポケットの深さを測っていた。
***
休憩室には、紙コップの茶が二つ置かれていた。
店長が売場へ戻ると、二人きりになった。
ゆみはコップを両手で包んだ。
「久世さんの話、かなり進んでたんだね」
「うちが知らないところでね」
「さっきのお客様にも、新しいブランドになるんですかって聞かれた」
愛菜は顔を上げた。
「誰から聞いたって?」
「誰かに聞いたんじゃなくて、私が前に、そういう話もあるみたいですって言ったの」
ゆみは、愛菜を見た。
「まだ決まってないのに」
愛菜はコップを置いた。
「今日、何て答えた?」
「決まっていませんって。前に私がお話ししたのも、確認できていない内容でしたって言った」
「……そう」
「ちょっと、気まずかった」
ゆみは笑いかけて、やめた。
「でも、お客様は、そうなのねって。それで、パンツの話に戻った」
愛菜は、今日の確認表へ目を落とした。
「教えてくれて、ありがとう」
ゆみは小さく頷いた。
少ししてから、言った。
「私、売れそうな話になると、先に言いたくなるんだよね」
愛菜は黙って聞いていた。
「決まりそうとか、もう少しでとか。言ってるうちに、自分でも、そこまで来てる気がして」
ゆみの指が、紙コップの縁に触れた。
「あとで、言ったところまで持っていけばいいと思ってた」
愛菜は、久世の修正版の資料を思い出した。
協議中。
あの文字の下に、自分の会社名が残っていた。
ゆみは、机に置かれた試作の袋を見た。
「今日は、二人とも欲しいって言わなかったね」
「試してもらうために、来てもらったから」
「うん」
ゆみは茶を一口飲んだ。
「でも、どこが困るかは、前より分かった」
愛菜も、冷めかけた茶を飲んだ。
休憩室の外で、客を迎える店長の声がした。
***
会社へ戻る途中、愛菜の携帯電話が鳴った。
人事担当者からだった。
「桐生さんが、社長にお渡ししたいものがあるそうです」
「何ですか」
「試作についての引継ぎです。今朝から、まとめていたようで」
愛菜は、車窓の外を見た。
赤信号で車が止まった。
「会社へ戻ったら、受け取ります」
「ご本人に、説明もしてもらいますか」
愛菜は少し考えた。
「お願いします。同席してもらえますか」
「はい」
通話を終えると、営業担当者が運転席から尋ねた。
「桐生さんの資料、今日の結果と照らしておきますか」
「そうしましょう」
愛菜は鞄から確認表を出した。
二人分の筆跡と、ゆみが測った数字が並んでいた。
***
紗良が持ってきたのは、薄いファイルだった。
デザイン画だけではなかった。
型紙を直した箇所。
使った生地。
縫製を頼んだ先。
前回の試着で、客が口にした言葉。
ページの隅には、紗良の字で小さく補足があった。
座ると後ろが引かれる。
前だけ広げると、立った時の形が崩れる可能性。
愛菜は、その一文で手を止めた。
「これは、いつ考えたことですか」
「前回の試着のあとです」
「今日、直した方を試してもらいました。座ると楽だけど、立つと後ろが余るという方がいました」
紗良は顔を上げた。
机の上の確認表を見たが、手は伸ばさなかった。
「……そうでしたか」
「そうなるかもしれないと、思っていたんですね」
「はい。ただ、実際に穿いていただかないと、どれくらい出るかは」
愛菜は頷いた。
紗良はファイルの後ろを開いた。
別の修正案が、鉛筆で描かれていた。
「こっちは、まだ型紙にしていません。脇で少しずつ調整する方がいいかと思ったんですけど、サイズによって変わるので」
そこまで話して、口を閉じた。
「すみません」
「何について?」
「また、進めるような話を」
愛菜は図を見た。
線の横に、消しゴムで擦った跡が残っていた。
「考えたことは、引継ぎとして聞かせてください。採用するかは、確認してから決めます」
紗良は、背筋を伸ばした。
「はい」
説明は十分ほど続いた。
愛菜は途中で、ポケットの話をした。
紗良は寸法表を開き、今の深さを示した。
二人目の客が、座る時には中の物を出すと言っていたことも伝えた。
紗良は少し考えたあと、言った。
「深くするだけだと、座った時に当たるかもしれません」
愛菜は、その言葉を確認表に書いた。
人事担当者は、隣で話を聞いていた。
***
説明が終わっても、紗良は席を立たなかった。
「社長」
愛菜はファイルを閉じた。
「私、この服を最後まで担当したいです」
人事担当者が、紗良を見た。
紗良は急いで続けた。
「なかったことにしてほしい、という意味じゃありません。久世さんの件も、会社の判断を待ちます。ただ、この引継ぎを作っていたら、まだ直したいところがあって」
愛菜は、閉じたファイルへ手を置いた。
いい服を作る。
それは、紗良に任せたいと思った理由だった。
今も、図を見れば、彼女が考えたことは分かる。
だからこそ、そのまま頷くことはできなかった。
「今、担当へ戻す約束はできません」
紗良の唇が、わずかに動いた。
「はい」
「この資料は受け取ります。説明してもらったことも、次の担当者に伝えます」
「……分かりました」
「それから、確認したいことがあります」
紗良が顔を上げた。
愛菜は、ファイルの最初のページを開いた。
試作の写真の横に、生地の見本が留めてあった。
「久世さんに渡したのは、デザイン画と録音だけですか」
紗良は、すぐには答えなかった。
愛菜は待った。
「型紙も、です」
人事担当者がペンを取った。
「どの段階のものを?」
「一回目の修正まで入れたものです。データで送りました」
愛菜は、試作の袋を見た。
今日、客が最初に穿いた方だった。
「送った日を、確認してもらえますか」
紗良は携帯電話を出した。
やり取りを遡る指が、途中で止まった。
画面に、久世から新しいメッセージが届いていた。
紗良は読んだあと、携帯電話を机に置いた。
愛菜の方へ、画面を向けた。
《先行分が縫い上がりました。写真を送ります》
画像には、透明な袋に入ったパンツが並んでいた。
同じ色。
同じ形。
袋の口には、紗良がまだ見たことのないブランド名が印刷されていた。
その下に、小さく彼女の名前があった。
紗良は画面を見たまま、両手を膝へ戻した。
「私……作っていいとは、言っていません」
愛菜は、画像を拡大した。
並んだ袋の奥にも、同じ服が積まれていた。
第14章 縫い込まれた名前
愛菜は、写真の隅に写っている段ボールを見た。
同じ箱が、壁際に積まれていた。
蓋の開いた一箱から、透明な袋が覗いている。
「この写真以外に、何か届いていますか」
紗良は携帯電話を確認した。
「いえ。今は、これだけです」
「返信する前に、送られてきたものを残しましょう」
人事担当者が頷いた。
愛菜は、机に開いたままのファイルへ目を戻した。
一回目の修正。
まだ、座った時の具合を確かめきれていない型紙だった。
「久世さんに送ったデータを、確認させてください」
紗良は社内の端末を開いた。
送付したファイルの名前。
送った日時。
その時の文章。
一つずつ、画面に出した。
《こちらが修正後の型紙です。まだ試着確認が必要です》
久世の返事は、そのすぐ下にあった。
《承知しました。まずは形にしてみましょう》
愛菜は、文章を読み直した。
「これを読んだ時、何を作ると思いましたか」
「確認用の見本です。一着か、二着くらいの」
「その数は、話しましたか」
紗良は首を振った。
「確認していません」
愛菜は人事担当者を見た。
担当者は、今の説明を書き留めていた。
紗良が、画面を見つめたまま言った。
「私が、進めていいように読めるものを送っていたんですね」
愛菜はすぐには答えなかった。
「どう受け取られるか、確かめずに渡したものはあります。それと、久世さんが何を説明して、何を作らせたかは、分けて調べます」
紗良は頷いた。
その目が、もう一度写真へ戻った。
袋に印刷された名前を、指で拡大した。
***
顧問には、製造先の確認を急いでもらうことになった。
久世へは、写真にある製品の数量と所在、製造を依頼した相手を尋ねた。
返事が来たのは、午後五時を過ぎてからだった。
《今後の進め方について、桐生さんと直接お話ししたいと思います》
質問への回答は、なかった。
愛菜は、その文面を顧問へ送った。
紗良を呼び戻し、返事を見せた。
「久世さんから、直接連絡が来るかもしれません。来たら、内容を残して、担当者に知らせてください」
「はい」
「今、二人だけで決める話はしないでください」
紗良は携帯電話を机に置いた。
「私が電話に出ないと、製造先が分からないままになりませんか」
「必要なら、こちらも同席して話します」
愛菜が答えると、紗良は少しだけ息を吐いた。
その直後、携帯電話が震えた。
久世からだった。
二人は画面を見た。
人事担当者が、顧問へ連絡を入れた。
数分後、隣の会議室で電話をつないだ。
紗良は、愛菜と顧問が同席していることを伝えた。
向こうの声が止まった。
『そこまで、大げさにする必要がありますか』
紗良は携帯電話の横へ手を置いた。
「私も、確認したいことがあります」
『だから、直接話そうと言っているんです』
「何着、作ったんですか」
久世は答えなかった。
顧問が名を名乗り、同じ質問をした。
少しして、返事があった。
『三百です』
愛菜は、紙に数字を書いた。
三百着。
今日、店で確かめられたのは、二人分だった。
『最低の数量ですよ。あれ以上減らすと、単価が合わないので』
「どちらへ依頼しましたか」
顧問が尋ねた。
久世は会社名を言った。
そのあとで、付け加えた。
『ただ、先方を困らせるような連絡は控えてください。きちんとした仕事をしていただいていますから』
愛菜は、紗良を見た。
紗良は、紙の端を見つめていた。
「写真に、私の名前がありました」
『あなたのブランドですから』
「私は、その名前を付ける話を聞いていません」
『それは、これから相談すればいいでしょう。まずは物ができたんです。喜んでいただけると思ったんですが』
紗良は口を開きかけて、閉じた。
愛菜は何も言わず、待った。
紗良がもう一度、口を開いた。
「まだ、売れるところまで確認していない服です」
『試作品と同じようにできていますよ』
「その試作品に、直すところがあります」
『全部の人に合う服なんて、ありません』
紗良の指が、机の上で縮まった。
「だから、誰に、どこが合うかを調べていたんです」
向こうで、小さく物音がした。
『桐生さん。五十万円を受け取った時は、そういうお話ではなかったですよね』
人事担当者が顔を上げた。
久世は続けた。
『ご自身のブランドを持ちたいと、はっきりおっしゃった。私も、それを信じて費用をかけています』
紗良は目を伏せた。
愛菜は、彼女の方へ水の入ったコップを寄せた。
紗良は飲まなかった。
「持ちたいと、言いました」
声は小さかった。
「お金も、受け取りました」
久世は黙っていた。
「でも、何着作るかも、何という名前で売るかも、聞いていません。五十万円を受け取ったら、そこからは全部、久世さんが決めるんですか」
初めて、久世の返事が遅れた。
顧問が、受領書の写しと契約に関する資料を送るよう求めた。
その日の電話は、そこで終わった。
***
紗良は携帯電話を伏せず、画面が暗くなるまで見ていた。
愛菜は、机に書いた三百という数字の横へ、製造先の名を書き足した。
「今日は、ここまでにしましょう」
紗良が顔を上げた。
「明日、受け取った時の説明を、もう一度確認します。五十万円も、今のまま保管してください」
「はい」
立ち上がろうとして、紗良は止まった。
「社長」
「何ですか」
「私が送った型紙で、三百着もできたんですね」
愛菜は頷いた。
紗良は、引継ぎのファイルを見た。
「ずっと、作りたいと思っていました」
その言葉のあとには、しばらく何も続かなかった。
「でも、あの写真を見て、嬉しいと思えませんでした」
愛菜は椅子に座ったまま、紗良を見ていた。
「明日、製造先にも確認します。何ができているのか、まず見ましょう」
紗良は、唇を結んで頷いた。
***
帰宅すると、大虎が食卓に皿を並べていた。
愛菜は鞄を椅子に置いた。
「三百着、できてるって」
大虎の手が止まった。
「もう?」
「うん。まだ、直している途中の型紙で」
愛菜は上着を脱ぎ、椅子の背に掛けた。
店で客が座った時の、パンツの皺を思い出した。
少しの余り。
少しの窮屈さ。
服を並べた写真では、見えないものだった。
「止めてくださいって言っても、その間に次ができてる」
大虎は、茶碗を置いた。
「明日は?」
「製造先に連絡を取ってもらう。うちの名前が、そこでも使われているかもしれないから」
「そうか」
愛菜は手を洗い、食卓へ戻った。
大虎が向かいに座る。
湯気の向こうで、その顔を見た。
「今日、紗良さんが、久世さんに聞いたの」
「何を?」
「お金を受け取ったら、全部そちらが決めるんですかって」
大虎は箸を置いた。
「言えたんだ」
「うん」
愛菜は汁椀を両手で持った。
「もっと早く、私にも、言ってほしかった」
大虎は返事を急がなかった。
愛菜も、それ以上は話さずに、温かい汁を飲んだ。
***
翌朝、製造先から返事が来た。
顧問を通して事情を説明すると、担当者は驚いていたという。
久世からは、まなブランドで企画し、独立した紗良のブランドとして展開する商品だと説明されていた。
愛菜は、届いた報告を最後まで読んだ。
製造は三百着。
うち二百四十着は、まだ工場にある。
残る六十着は、すでに引き渡し済みだった。
「どこへ出たか、分かっていますか」
愛菜が尋ねると、営業担当者が別の紙を出した。
発送指示の写しだった。
宛先には、倉田の会社名があった。
愛菜は、その下の品名を見た。
販売用初回商品。
顧問から、倉田にも確認を取っているところだという。
愛菜は自分の携帯電話を手にした。
倉田の番号を開いた時、先に着信があった。
「お世話になっております」
挨拶の途中で、倉田が言った。
『今、荷物が届きました』
背後で、段ボールを動かす音がした。
『久世さんからは、事業への出資ではなく、初回商品の仕入れ代金として整理すれば問題ないと連絡が来ています』
愛菜は、発送指示を見た。
「倉田さんは、その変更に同意されたんですか」
『していません。私は、商品を買う申込みをしたんじゃありません』
「その連絡も、残していただけますか」
『はい。ただ……』
倉田の声が、少し遠くなった。
誰かに、待っていてくれと伝えていた。
戻ってきた声は、さっきより低かった。
『中に、納品書が入っているんです』
愛菜はペンを取った。
『売主が、久世さんの会社ではありません』
紙を開く音がした。
『まなブランド御中、と。うちへの直送分となっています』
愛菜は、ペンを紙へ置いた。
倉田は続けた。
『これ、御社が工場から仕入れた商品なんですか』
「いいえ。弊社は、発注していません」
営業担当者が、愛菜の顔を見た。
愛菜は製造先の名を書いた紙を、その前へ動かした。
「納品書を、写真で送ってください」
通話を終える前に、画像が届いた。
愛菜は開いた。
納品先は、倉田の会社。
請求先は、まなブランド。
備考欄に、小さな文字があった。
《桐生様確認済み》
愛菜は人事担当者へ電話をかけた。
「桐生さんに、確認したい書類があります」
画面には、同じ名前が残っていた。
今度は、服の袋ではなかった。
第15章 誰が頼んだ服なのか
紗良は、納品書を両手で持った。
備考欄まで読むと、顔を上げた。
「これ、私は見ていません」
愛菜は、その返事を書き留めた。
「製造先と、直接やり取りしたことはありますか」
「あります。型紙のことで、二度ほど」
「そのほかには?」
紗良は納品書へ目を戻した。
請求先の欄で、視線が止まった。
「会社の住所を、聞かれました」
「誰に?」
「工場の担当の方です。登録するから、正式な社名と住所を教えてほしいと」
愛菜はペンを置いた。
「その時のやり取りを、見せてください」
紗良は端末を開いた。
該当するメールを探し出すまで、誰も話さなかった。
件名は、取引先情報の確認。
宛先には紗良の会社のメールアドレスがあり、久世にも同じものが送られていた。
本文には、まなブランドの社名と住所が記されていた。
《久世様より伺いました下記の情報に、相違がないかご確認ください》
紗良の返事は、一行だった。
《記載の内容で間違いありません。よろしくお願いいたします》
愛菜は、画面を最後まで読んだ。
「何の登録かは、聞きましたか」
「見本を送っていただくためだと思っていました」
「そう書いてありましたか」
紗良は首を振った。
「書いて、ありません」
顧問が、メールに添付されていたファイルを開いた。
取引先登録票だった。
社名。
住所。
電話番号。
その下に、支払条件を書く欄があった。
空欄のままだった。
「添付も確認しましたか」
「いいえ。本文の住所だけ見て、返しました」
紗良の声が細くなった。
「それで、私が発注したことになるんですか」
顧問は、すぐに答えなかった。
「このメールだけでは決められません。工場が何を受け取って、誰の注文として作業したのか、ほかの記録も確認します」
愛菜は納品書を紗良の前から引き取った。
「覚えていることを、先に全部話してください。書類に出てから一つずつ分かる形では、対応が遅れます」
紗良は顔を伏せた。
「はい」
人事担当者が、新しい紙を渡した。
紗良は、今度はすぐにペンを持った。
***
製造先との面談は、その日の午後に決まった。
工場の社長と営業担当者が来た。
社長は、年季の入った革の鞄を膝に置いたまま、愛菜の説明を聞いた。
発注していないこと。
共同事業にも参加していないこと。
紗良がデータを渡した経緯について、社内でも確認を進めていること。
話し終えると、社長は深く息を吐いた。
「うちは、御社の仕事だと思っていました」
愛菜は頷いた。
「そう受け取られた経緯を、確認させてください」
営業担当者が書類を出した。
最初の見積依頼。
数量の変更。
納期の確認。
メールの送り主は、久世だった。
「型紙については、桐生さんに確認するよう言われました。お送りした質問にも、お返事をいただいています」
「そのやり取りは、こちらでも確認しています」
顧問が答えた。
「正式な発注書は、ありますか」
営業担当者の手が止まった。
社長が代わりに口を開いた。
「ありません。あとから御社の書式で出ると聞いていました」
会議室の空調の音がした。
愛菜は、見積書の日付を見た。
自分が久世と会うより、前だった。
「最初の見積書は、どちら宛てですか」
営業担当者が、重ねた紙の下から一枚を抜いた。
久世の会社名が書かれていた。
「その後、こちらへ変更してほしいと」
次の紙には、まなブランドの名があった。
顧問が、変更を求めたメールを尋ねた。
営業担当者は端末を開き、画面をこちらへ向けた。
《製造費は、まなブランド様でのご負担となります。桐生様にも確認済みです》
その下に、紗良が住所を確認したメールが引用されていた。
愛菜は、二つの文章を続けて読んだ。
住所に間違いがない。
製造費を負担する。
同じ返事ではなかった。
工場の社長が、隣の担当者を見た。
担当者は画面を見たまま、唇を結んでいた。
「社名の変更があった時に、御社へ電話を入れるべきでした」
社長が言った。
愛菜は、机の上で手を組んだ。
「うちも、社員が外へ渡していたものを、把握できていませんでした」
顧問が、その横で資料を揃えた。
「責任と費用の扱いは、記録を確認したうえで整理しましょう。まず、残っている商品の出荷を止めていただけますか」
社長は頷いた。
「二百四十着は、動かしません」
「倉田さんへ送った六十着についても、先方と相談して保管場所を確認します」
営業担当者が、発送伝票を差し出した。
その手は、入室した時よりゆっくりだった。
***
話が終わる頃、工場の社長は鞄から一着のパンツを取り出した。
透明な袋に入っていた。
写真で見たものと、同じだった。
「現物を、お持ちしました」
机の上へ置かれる。
袋の中には、きれいに畳まれた服があった。
紗良の名前。
新しいブランド名。
愛菜は、袋を開けてもいいか尋ねた。
社長が頷くと、端を剥がした。
生地を広げる。
縫い目は揃っていた。
ポケットの口にも、丁寧にステッチが入っている。
「急がされたものですから、別のラインも空けました」
社長は、服を見ていた。
「皆、久しぶりの新規の仕事でね。次につながればと思っていました」
愛菜は、パンツを畳み直した。
店で聞いた声が浮かんだ。
座ると、少し苦しい。
後ろは、前の方がいい。
ポケットを、もう少し深く。
この服を作った人たちは、その声を知らない。
聞く機会もないまま、三百着を縫った。
「現物は、一着お預かりしてもいいですか」
「どうぞ」
社長はそう言い、立ち上がった。
帰り際、扉の前で足を止めた。
「社長。うちは、作った分まで全部なかったことになると、厳しいです」
愛菜も立った。
「分かりました、と簡単には言えません。でも、今日持ってきていただいたものは、全部確認します」
社長は愛菜を見た。
それから、短く頭を下げた。
***
夕方、大虎が会社へ来た。
愛菜の机には、袋から出したパンツが置かれていた。
「これ?」
「うん」
大虎は、椅子に座る前に服を見た。
愛菜は工場との話を伝えた。
最初の見積先は、久世の会社だったこと。
あとから請求先が変わったこと。
工場は、残りの出荷を止めること。
大虎は黙って聞いた。
「うちで買い取れば、工場には払える」
愛菜は、机の上の服を見ながら言った。
大虎は愛菜へ視線を戻した。
「買い取りたい?」
愛菜は答えなかった。
「工場の社長の顔を見てたら、そう思った」
「うん」
「でも、このままお客様に売れるかは分からない。直せるかも、まだ」
大虎は隣に座った。
「それなら、今日は決めなくていい」
愛菜は、ウエストの縫い目に指を置いた。
「払えるお金があれば、早く終わらせられるのにって、一瞬思った」
大虎はその手を見た。
「金の相談なら、乗れるよ」
愛菜が顔を上げた。
「でも、愛菜が何を引き受けるのか、決めてからにしよう」
愛菜は、少しだけ笑った。
「すぐ、何とかするって言うかと思った」
「今、そう言ったら、愛菜は自分で決めたことにして引き受けるだろ」
返す言葉がなかった。
大虎は、机の端にあった袋を広げた。
愛菜はパンツを畳み、その中へ戻した。
***
その頃、久世の事務所では、電話が続けて鳴っていた。
工場から。
倉田から。
出資資料を送った、別の相手から。
久世は三件目の着信を止め、机に携帯電話を置いた。
画面には、藤川興産から届いた通知が開かれていた。
同社が出資や事業協力を了承した事実はないこと。
名称の使用を止め、説明先へ訂正を行うこと。
回答の期限。
久世は最後まで読み、椅子へ背中を預けた。
もう一台の電話が鳴った。
今度は、登録してある名前だった。
倉田慎吾。
久世は電話に出た。
「ちょうど、ご連絡しようと思っていました」
『今日届いた商品は、販売しません』
挨拶はなかった。
「まず、現物を見ていただければ——」
『見ました。納品書も、まなブランドさんに確認しました』
久世は黙った。
『出資の申込みを、商品の仕入れに変えることにも同意していません。返金について、書面で返事をください』
「倉田さん。今、動かしている費用があります。すべてを急に戻すとなると」
『何に、いくら使ったんですか』
久世は机の引き出しを開けた。
中には、紗良の署名が入った受領書があった。
その下にも、何枚かの振込控えが重なっていた。
「整理して、お送りします」
『いつですか』
久世は、壁の時計を見た。
針は、六時を少し過ぎていた。
***
愛菜の会社に、久世から連絡が来たのは、午後七時前だった。
営業担当者が、応接室の扉を叩いた。
「社長。久世さんが、今から話せないかと」
愛菜は大虎を見た。
大虎は何も言わず、愛菜の返事を待った。
「内容は?」
「ご本人から直接、お伝えしたいそうです」
愛菜は顧問に連絡を取り、電話で同席できることを確かめた。
それから、久世につないでもらった。
『お時間をいただき、ありがとうございます』
昼間までとは、少し違う声だった。
愛菜は、ペンを手にした。
「お話を伺います」
『一度、当初の形に戻せないかと思いまして』
「当初の形とは、何ですか」
久世は言葉を選ぶように、ゆっくり話した。
『御社には商品開発だけをお願いする。販売と資金は、こちらで責任を持ちます。お名前を使った点については、私から訂正します』
「参加しないと、お伝えしています」
『では、せめて、今回の商品だけでも』
「買い取りのお話ですか」
向こうが静かになった。
愛菜は、机の端にある服の袋を見た。
『工場も、困っています』
「今日、お会いしました」
『でしたら——』
「最初の見積書も、見せていただきました」
久世の声が止まった。
「久世さんの会社宛てでした。その後、うちへ変更するよう依頼したメールも」
受話器の向こうで、椅子が軋んだ。
顧問が口を開いた。
「明日までにご提出いただく資料へ、請求先を変更した経緯も加えてください」
久世は返事をしなかった。
愛菜は、静かに待った。
しばらくして、低い声が聞こえた。
『ここで御社が離れたら、この事業は終わります』
愛菜は、手元の紙へ目を落とした。
まなブランドは、まだ一度も参加していない。
それなのに、離れると言われる。
愛菜は顔を上げた。
「久世さん。私たちが引き受けるという説明を、もう誰にもしないでください」
返事はなかった。
「今の言葉も、訂正してください。弊社は参加していません」
電話を終えたあと、愛菜はペンを置いた。
大虎が、少し冷めたお茶を差し出した。
一口飲んでから、愛菜は営業担当者へ言った。
「明日、配布先への訂正が済んでいるか、確認しましょう。届いていない先には、こちらの顧問から事実を伝えてもらいます」
担当者が頷いた。
愛菜は机の資料を閉じた。
その横に、試着の確認表だけを残した。
第16章 自分の名前で
翌朝、久世から届いた文書には、お詫びという見出しがあった。
愛菜は、営業担当者と並んで読んだ。
関係各位への説明に、一部行き違いがあったこと。
まなブランドとの共同事業については、いったん見直すこと。
今後は、久世の会社が主体となって進めること。
愛菜は、二段落目に線を引いた。
「見直す、だと、前は決まっていたように読める」
顧問も同じ箇所を指摘していた。
修正を求める文書には、短い文章が添えられた。
まなブランドが共同事業への参加を承認した事実はない。
製造の発注も、費用負担の合意もない。
提供した音声は会話の一部であり、参加を了承する返答ではない。
愛菜は読み終え、頷いた。
「これでお願いします」
午前中に、修正版が届いた。
今度は、必要な事実が書かれていた。
送付先には、資料を受け取った四人と、製造先、店の名があった。
営業担当者が一件ずつ、届いたことを確認していった。
電話を置くたびに、一覧の端へ時刻を書いた。
最後の欄が埋まったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
愛菜は、その紙を受け取った。
訂正が届いた。
それだけで、済んだことにはならない。
それでも昨日まで、外でどう説明されているか分からなかった自分の会社の名前が、ようやく少し戻ってきた気がした。
***
倉田からは、午後に電話があった。
『文書、確認しました』
「こちらでも、同じものを受け取りました」
『返金については、私の方でも専門家に頼むことにしました。久世さんは、分割で返したいと言っています』
愛菜は、机の上の資料へ目を落とした。
「そうですか」
『全部戻るかは、まだ分かりません』
倉田はそこで、一度言葉を切った。
『昨日まで、とにかく誰かに、払ってくれと言いたかったんです』
愛菜は黙って聞いた。
『御社の名前を信じて払ったんだから、御社にも何とかしてもらいたいと。そう思いました』
「はい」
『でも、資料を見せてもらって、今は、久世さんに説明してもらうことが先だと思っています』
愛菜は背筋を伸ばした。
「こちらで確認できたものは、顧問を通してお渡しします」
『お願いします』
倉田の声は、初めて電話をかけてきた時よりも落ち着いていた。
ただ、疲れは隠れていなかった。
『商品は、まだ箱のまま保管しています。勝手に返送はしません』
「ありがとうございます。製造先にも伝えます」
通話を終えて、愛菜は受話器を置いた。
倉田の一千万円は、まだ戻っていない。
机の一覧に、返金協議中、と書き加えた。
***
紗良との面談は、人事担当者を交えて行った。
机には、紗良が書いた経緯の説明が置かれていた。
久世と初めて会った日。
デザイン画を渡した日。
型紙を送った日。
金を受け取った日。
録音を渡した日。
書き足しの多い紙だった。
愛菜は最後のページまで確認して、閉じた。
「今回の試作について、担当は外れてもらいます」
紗良は、膝に置いていた手を握った。
「はい」
「外部との連絡も、今は任せられません。ほかの業務と、会社としての処分については、人事から改めて説明します」
「分かりました」
紗良は俯いたままだった。
愛菜は続きを待った。
「……私のデザインは、使うんですか」
小さな声だった。
人事担当者が、愛菜を見た。
愛菜は紗良へ向き直った。
「会社で進めてきた試作は、引き継ぎます。誰が何を作ったかも、記録に残します」
紗良は頷かなかった。
「服だけ、残るんですね」
愛菜は、胸の奥が詰まるのを感じた。
あの引継ぎの線。
生地を選んだ理由。
客の体に合わないところを、直そうとしていた跡。
それを見たあとだったから、紗良の言葉が分かった。
「今、あなたに任せられないことと、あなたがした仕事を消すことは、同じではありません」
紗良が顔を上げた。
「でも、私の名前では——」
そこで、言葉が止まった。
愛菜は急がせなかった。
しばらくして、紗良は目元を押さえた。
「まだ、そこが悔しいんです」
声が震えた。
「こんなことになっても、自分の名前で出したかったって思ってしまうんです」
愛菜は、机の上に手を置いた。
「その気持ちは、ここで言ってくれて構いません」
紗良は、ゆっくり手を下ろした。
「ただ、会社の仕事を外へ渡す前に、話してほしかった」
「はい」
「今すぐ、また任せるとは言えません。私も、あなたが何か説明するたびに、ほかに言っていないことがあるのかと考えてしまいます」
紗良は顔を伏せた。
「……はい」
愛菜は、自分の声が冷たくなっていないか、一瞬気になった。
けれど、そのまま続けた。
「それが、今の私の返事です」
紗良は長く黙ったあと、頷いた。
今度は、返事を足さなかった。
***
五十万円の返還については、受領書とやり取りを確認したうえで、顧問を通して進めることになった。
紗良は、封筒を机に出した。
受け取った時と同じ封筒だった。
角だけが、少し傷んでいた。
人事担当者が内容を確認する間、紗良はその手元を見ていた。
「これを返せば、戻れると思っていました」
愛菜は彼女を見た。
「昨日まで、少し」
数える音が止まった。
紗良は、封筒から目を離した。
「でも、返せるのは、このお金だけなんですね」
愛菜は答えを探した。
簡単に肯定することも、励ますこともできなかった。
人事担当者が金額を確認し、記録を整えた。
紗良は説明を聞き、必要な箇所に署名した。
書き終えた自分の名前を、しばらく見ていた。
***
午後、工場から製造に関する資料が揃って届いた。
久世との見積のやり取り。
生地の手配。
製造数を確定した連絡。
出荷の指示。
顧問は、工場側の相談相手とも連絡を取り、発注と請求の経緯を整理していた。
すぐに結論は出なかった。
残っている二百四十着も、倉田のところにある六十着も、当面は動かさないことになった。
愛菜は営業担当者と、現物を一着確認した。
縫製に、大きな問題は見当たらなかった。
ただ、試着で分かった修正点は、そのままだった。
「直せば、使えるものもあるかもしれません」
担当者が言った。
愛菜は頷いた。
「どこを直すと、いくらかかるか。それは、調べておきましょう」
担当者がメモを取った。
「買い取る前提で、見積を頼みますか」
「いえ。検討に必要な確認だと、はっきり伝えてください。購入の約束は、まだできません」
口にしたあとで、愛菜は一度、手を止めた。
以前なら、そこまで言うのは疑っているようで気が引けたかもしれない。
今は、相手にどう伝わるかを、そのままにしたくなかった。
***
店から、試着した客の伝言が届いた。
次の試作ができたら、また穿いてみたい。
急いで買いたいわけではないので、直してから知らせてほしい。
ゆみが受けた伝言だった。
愛菜は読み終えて、店へ電話した。
店長に代わって、ゆみが出た。
『伝言、届いた?』
「うん。ありがとう」
『日程は、まだ分からないって伝えてあるから』
「助かる」
少しの間があった。
ゆみが、売場から離れたらしかった。
周りの音が小さくなった。
『愛菜さん、ちゃんと寝てる?』
愛菜は、机の時計を見た。
「昨日は、寝た」
『そう』
「どうして?」
『声が、少し戻った気がしたから』
愛菜は、思わず口元を緩めた。
自分の声を、そんなふうに聞いてくれる人もいる。
「次の試作、少し時間をもらうと思う」
『うん』
「でも、試着は続けたい」
『分かった。お客様には、そのまま伝えるね』
電話を置いたあと、愛菜は確認表を開いた。
ポケットの深さ。
座った時の腰回り。
サイズごとの差。
まだ、確かめることがあった。
***
その日の夕方、愛菜は自分から大虎へ電話した。
「今日は、私がそっちに行ってもいい?」
『いいよ。何時頃?』
「あと三十分くらいで出られる」
『じゃあ、下で待ってる』
愛菜は資料をしまい、明日の予定を書いた。
返金や請求の話は、まだ終わっていない。
紗良の処分も、決まっていない。
それでも今日は、机を離れられた。
***
カルソックの本社に着くと、大虎は入口の外に立っていた。
愛菜を見つけると、携帯電話をポケットへしまった。
「お疲れ」
「待った?」
「今、出たところ」
並んで歩き始めると、受付の向こうから数人の社員が頭を下げた。
大虎も軽く会釈した。
愛菜は、その横顔を見た。
「だいちゃんは、自分の名前が知らないところで使われるの、怖くならない?」
大虎は少し考えた。
「なるよ」
意外なほど、あっさりした返事だった。
「慣れてるのかと思った」
「慣れたくはないな」
建物の前で、信号が赤に変わった。
二人は足を止めた。
「勝手に期待されることもあるし、言っていない話が進んでることもある。気づいたら、違うって伝えるしかない」
「それでも、信じてもらえなかったら?」
「記録を出す。それでも難しければ、担当に手伝ってもらう。一人で全部の人に会うのは無理だから」
愛菜は頷いた。
大虎は彼女を見た。
「今日、何かあった?」
「訂正が、全部の相手に届いた」
「そうか」
「紗良さんにも、担当から外れるって伝えた」
大虎は、愛菜の手を取った。
「しんどかった?」
「うん」
信号が青になった。
歩きながら、愛菜は指を握り返した。
「今日、ゆみさんと話したよ」
大虎が、わずかに顔を向けた。
「そっか」
「お客様への伝え方、ちゃんと考えてくれてた」
大虎は少し黙ったあと、頷いた。
「そうなんだな」
それ以上、尋ねなかった。
愛菜も、仕事の話を続けなかった。
横断歩道を渡り終えると、大虎が言った。
「何、食べたい?」
愛菜は通りの先を見た。
店の窓に、灯りがつき始めていた。
「今日は、だいちゃんとゆっくり食べられるもの」
「それ、何でもいいってこと?」
「違う。急がなくていいところ」
大虎が笑った。
愛菜も、つられて笑った。
少し歩いてから、言った。
「あと、帰ったら、仕事の話をしないでくっついていたい」
大虎は足を緩めた。
愛菜を見る。
「それは、ちゃんと了承していいんだな」
「うん」
愛菜は、つないだ手を少し持ち上げた。
「今のは、私がお願いしたことだから」
大虎の指に、少し力がこもった。
二人は、そのまま店を探して歩いた。
第17章 隣にいる人
店に入る前に、大虎の携帯電話が鳴った。
画面を見て、愛菜へ目を向ける。
「一本だけ、いい?」
「うん」
大虎は歩道の端へ寄った。
「俺。どうした」
相手の声は聞こえなかった。
大虎はしばらく黙って聞いてから、店の窓を見た。
「資料は明日の朝に見る。今夜、判断が必要なら担当役員につないで」
短いやり取りのあと、電話を切った。
「仕事?」
「うん」
「大丈夫だった?」
「明日で大丈夫な話だった」
大虎は携帯電話をしまい、店の扉を開けた。
奥の席へ案内されると、愛菜は上着を脱いだ。
隣の席では、年配の夫婦が同じ料理を分けていた。
厨房から、何かを焼く匂いがした。
メニューを開いた大虎が尋ねた。
「腹、減ってる?」
「今、急に減った」
「じゃあ、二つ頼んで分けるか」
愛菜は頷き、写真を指した。
「これ、食べたい」
「俺もそれ見てた」
そんな返事だけで、肩が軽くなった。
***
料理が来るまで、大虎は今日見かけた犬の話をした。
本社の前で、飼い主が動こうとしても座り込んだまま、まったく歩かなかったという。
「眠かったんじゃない?」
「いや、俺が通ったら立った」
「だいちゃんについてきたの?」
「少し」
「飼い主さん、困ったでしょ」
「俺が止まったら、犬も止まった」
愛菜は笑った。
「それで?」
「飼い主さんが抱いて帰った」
「結局、歩きたくなかったんだ」
笑いながら、愛菜は水の入ったグラスを持った。
大虎がこちらを見ていた。
「何?」
「いや」
大虎も水を飲んだ。
料理が運ばれてくると、二人で皿を動かした。
取り皿を渡す。
少し多く盛られた方を、戻す。
一口食べて、熱いと言う。
愛菜は、その一つずつに追いつくように過ごした。
次に何を言うか、考えなくてよかった。
***
帰宅して、愛菜はソファに座った。
大虎が隣へ来ると、背中を預けるように寄った。
「これでいい?」
大虎が尋ねた。
「もうちょっと」
腕が回ってきた。
愛菜はその手に、自分の手を重ねた。
しばらくして、大虎のシャツを指先で摘まんだ。
「今日、途中で電話したくなった」
「してくれればよかったのに」
「声を聞いたら、会社で泣きそうだった」
大虎の手が、肩をゆっくり撫でた。
愛菜は、天井を見た。
涙は出なかった。
出そうな気配だけが、喉の奥に残っていた。
「……私といて、疲れない?」
大虎の手が止まった。
「愛菜と?」
「最近、ずっとこんな話ばかりだから」
「一人で帰って、また資料を開いてる方が気になる」
愛菜は横を向いた。
大虎の顔が、すぐ近くにあった。
「今日は、開かない」
「うん」
「携帯も、もう見ない」
「うん」
愛菜は大虎の胸へ額をつけた。
大虎は、それ以上何も聞かなかった。
やがて、愛菜の指からシャツが離れた。
眠ったことに気づいても、大虎はしばらく動かなかった。
***
一週間が過ぎた。
久世から倉田への返金は、まだ全額には届いていなかった。
工場との費用の話も続いていた。
それでも、窓口が決まり、愛菜が一日に何度も電話へ呼び出されることは減った。
報告は、決めた時間に受け取った。
新しく分かったことがあれば、記録へ加える。
答えが出ていない欄は、空けておく。
試作は、別の担当者が引き継いだ。
紗良の修正案も参照しながら、二つのサイズで作り直すことになった。
紗良はその打合せには入らなかった。
必要な質問は、担当者を通して届いた。
返事には、以前より詳しく、理由と確認できていない点が書かれていた。
愛菜はそれを読んだ。
すぐに評価を変えることはしなかった。
ただ、届いた説明を、省かずに引継ぎのファイルへ入れた。
***
次の試着日は、土曜日だった。
店が混み始める前の午前中に、二人の客に来てもらう。
前日の夜、愛菜が袋へ服を入れていると、大虎が覗いた。
「明日、これ全部持っていくの?」
「うん。椅子に敷く布と、見本の生地もあるから」
大虎は、床のもう一つの袋を持ち上げた。
「送っていこうか」
「お休みなのに?」
「午前中は空けてる」
愛菜は少し考えた。
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「何時に出る?」
二人で時間を決めた。
大虎は袋を玄関へ運んだ。
愛菜は、その背中に声をかけた。
「店では、待たせると思う」
「近くでコーヒーでも飲んでるよ」
***
ゆみは、店の入口で足を止めた。
ガラスの向こうから、愛菜が歩いてくる。
その隣に、大虎がいた。
両手に袋を持ち、愛菜が話す方へ少し顔を傾けていた。
ゆみは、持っていた鍵を握り直した。
扉を開ける。
「おはようございます」
先に愛菜が挨拶した。
「おはよう。今、開けたところ」
大虎が軽く頭を下げた。
「荷物、どこへ置けばいい?」
声は、覚えているままだった。
ゆみは店の奥を指した。
「試着室の横へ、お願い」
「分かった」
大虎は通路を確かめながら、袋を運んだ。
一つ置いてから、もう一つを壁へ寄せる。
その間に、愛菜が上着を脱いだ。
「だいちゃん、こっちの袋だけ、椅子の上に置いてもらえる?」
「これ?」
「うん。ありがとう」
ゆみは、入口の札を裏返した。
指先が金具に引っかかり、小さな音がした。
愛菜が振り向く。
「大丈夫?」
「うん」
ゆみは鍵を引き出しへしまった。
***
大虎は、すぐには出ていかなかった。
愛菜とゆみが椅子を動かそうとすると、片側を持った。
床に印をつける間、手を添えて待った。
終わると、愛菜に尋ねた。
「ほかは?」
「もう大丈夫。終わったら連絡するね」
「分かった」
大虎が店を出る時、ゆみはレジの横にいた。
目が合った。
「久しぶり」
大虎が言った。
「……うん」
言いたいことは、いくつかあった。
元気そうだね。
仕事は、どうしているの。
今、幸せなの。
どれも、口にすると自分が聞きたいことまで出てしまいそうだった。
大虎は店の奥へ目を向けた。
愛菜が服をハンガーに掛けていた。
「今日も、よろしく」
ゆみは小さく頷いた。
「うん」
扉が閉まった。
愛菜はハンガーを一本持って、こちらへ来た。
「この色、前の照明の下でも見せたいんだけど」
ゆみは服へ目を向けた。
「窓側の方が、違いが分かると思う」
二人で、窓際へ移動した。
***
最初の客は、新しいパンツを穿くと、椅子へ座る前に鏡を見た。
「前のより、すっきりした?」
「まず、座ってみていただけますか」
愛菜が言った。
客は腰を下ろした。
前へ少し屈む。
背もたれへ体を預ける。
腰へ手を当てる。
ゆみは確認表を持ち、返事を待った。
「こっち、楽だわ」
愛菜とゆみが顔を見合わせた。
「立った時は、どうですか」
客はゆっくり立った。
鏡へ横を向き、後ろへ手を回す。
「ここも、前ほど余っていないね」
愛菜はしゃがんで、脇の線を見た。
完全に直ったとは、まだ言えなかった。
それでも、前回より良くなった箇所があった。
客は、ポケットへ携帯電話を入れた。
「あ、入る」
ゆみが笑った。
「座る時は、出してみてくださいね。入れたままだと、当たるかもしれないので」
「そうね。入れば、ずっと入れちゃうものね」
客も笑った。
愛菜は、二人の声を聞きながら記録を書いた。
二人目の客には、また別の気になる箇所があった。
それでも最後に、鏡の前でもう一度体を横へ向けて言った。
「これ、できたら教えてね」
ゆみのペンが止まった。
「はい。時期が決まったら、ご連絡します」
予約の欄は作らなかった。
連絡希望、と書いた。
***
片づけが終わりかけた頃、大虎が戻ってきた。
紙袋を持っていた。
「店長さんと、二人の分」
中には、小さな焼き菓子が入っていた。
ゆみは受け取り、礼を言った。
愛菜が奥で担当者へ電話している間、大虎は試作を入れた袋の口を閉じた。
ゆみは、その手元を見た。
「前も、そうやってくれたね」
大虎が顔を上げた。
「何を?」
「荷物、持ってくれたり。店の物、運んでくれたり」
「ああ」
大虎は袋の持ち手を揃えた。
「重かったから」
ゆみは笑おうとした。
うまく口元が動かなかった。
あの頃も、そういう返事だった。
たいしたことではないように言うから、受け取る方も、たいしたことではないと思っていた。
「私、あまり、ありがとうって言わなかったね」
大虎は少し黙った。
店の奥から、愛菜の話す声が聞こえた。
「昔のこと、全部は覚えてないよ」
優しい言い方だった。
それが、ゆみには少し痛かった。
大虎は責めなかった。
けれど、懐かしむようにも笑わなかった。
ゆみは目を伏せた。
「そうだね」
***
愛菜が戻ると、大虎は袋を持った。
「今日は、どうだった?」
「良くなったところがあった」
愛菜の声が明るくなった。
「まだ直すけど。ポケットも、ちゃんと試してもらえた」
「よかったな」
「うん」
愛菜はゆみへ向き直った。
「今日の表、あとで写しを送ってもらえる?」
「送る。私が書いたところで、読めない字があったら聞いて」
「分かった」
二人が出ていくと、店の中が少し静かになった。
ゆみは確認表を机に置いた。
連絡希望。
そう書いた欄を見た。
隣には、まだ直してほしい箇所が並んでいる。
欲しいと言ってもらえたことと、直す必要があること。
どちらも、そのまま残した。
***
外へ出ると、愛菜は大虎の持っている袋に手を伸ばした。
「一つ、持つよ」
「軽いから、大丈夫」
「じゃあ、帰りに飲み物、私が買う」
「それは嬉しい」
愛菜は笑った。
少し歩いてから、大虎を見上げた。
「ゆみさんと、話した?」
「少し」
「そっか」
大虎は歩く速さを落とした。
「気になる?」
愛菜は、前を向いたまま考えた。
「気にならないって言ったら、嘘になる」
「うん」
「でも、聞かなくていいことまで聞きたいわけじゃない」
大虎は頷いた。
愛菜は、彼の腕に手を添えた。
「今日は、一緒に来てくれて嬉しかった」
大虎がこちらを見た。
「荷物持ちでも?」
「それも助かった」
愛菜は笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「お客様に、夫ですって紹介したかった。でも、だいちゃん、もう外に出てたから」
大虎は、持っていた袋を片手へまとめた。
空いた手で、愛菜の手を取った。
「次は、挨拶してから出るよ」
愛菜は頷いた。
店では、ゆみが窓際のハンガーを直していた。
通りを歩いていく二人が、ガラスに映った。
ゆみは一度だけ手を止めた。
それから服の肩を整え、正面へ向けた。
第18章 紹介したい人
ゆみが確認表を送ったのは、閉店の少し前だった。
写真だけでは読みにくい箇所があったので、余白に説明を添えた。
二人目のお客様は、腰回りよりも、椅子から立つ時の膝裏を気にされていました。
一行書いてから、もう一度読み直す。
欲しいと言っていた。
それだけを書けば、短く済んだ。
けれど、愛菜に渡すべきなのは、その前に聞いた話だった。
送信すると、間もなく返事が来た。
《ありがとう。次の修正で確認します》
ゆみは画面を閉じた。
レジ横には、大虎が持ってきた焼き菓子の袋があった。
店長が一つ取り、残りをスタッフで分けてくれていた。
ゆみの分も、小さな紙皿に載っていた。
手に取った時、店の扉が開いた。
「まだ、間に合ったかな」
西条だった。
ゆみは焼き菓子を皿へ戻した。
「どうしたの。連絡、もらってた?」
「近くまで来たから。少し、話せる?」
西条は店内を見渡した。
以前より、並べている服が少ない。
その代わり、一着ずつの間隔が空いていた。
窓際には、試作を掛けていたハンガーが一本だけ残っていた。
「例のパンツは?」
「今日は、試着だけ。商品はまだないの」
「そうか」
西条は、レジ横の椅子に腰を下ろした。
「その話で、ちょっと聞いたんだけど」
ゆみは立ったまま、続きを待った。
「三百本、作ってあるそうじゃない」
***
「誰から聞いたの?」
「久世って人。共通の知り合いから相談が回ってきた」
西条は携帯電話を出した。
画面に、見覚えのある服の写真が映っていた。
透明な袋。
同じ色のパンツ。
ゆみは、愛菜から聞いた範囲を思い返した。
製造されたものはある。
ただ、店で扱う話にはなっていない。
「うちの商品じゃないよ」
「分かってる。在庫を引き受けられる先を探してるんだ。安く出すなら、こっちで話せるところもある」
西条は写真を拡大した。
「現物は、悪くなさそうだろ」
「私は、これを穿いた人を見ていないから」
「同じ型の見本は、扱ったんだろう?」
「試着してもらっただけ」
西条は携帯電話を置いた。
「細かい話は、あとで詰めればいい。まなブランドが、一言、協力するって言ってくれれば動かしやすい」
ゆみは、レジの引き出しを閉めた。
音が少し大きくなった。
「それ、愛菜さんに言ってほしいってこと?」
「君からなら、頼みやすいと思ってね」
西条は声を和らげた。
「君の店も、今は売上が欲しいだろう。間に入れば、手数料だって残せる」
ゆみは答えなかった。
家賃。
仕入先への支払い。
月末に足りなくなるかもしれない金額。
どれも、頭の中にはあった。
西条は、その沈黙を見て続けた。
「誰かが損を抱えるより、売れる形にした方がいい。先方の社長も、そのくらいは分かる人だろう?」
ゆみは、机に伏せた確認表へ目を落とした。
少し前なら、自分も同じ言い方をしたかもしれなかった。
売れるなら。
あとで整えれば。
そうやって話を進めた先に、今日、店で聞いた客の声は入っていなかった。
「私からは、頼まない」
西条の表情が止まった。
「まだ条件も聞いてないだろう」
「愛菜さんの名前が必要なら、本人に説明して。でも、この店を間に入れないでほしい」
「ずいぶん、慎重になったね」
ゆみは、椅子の背に手を置いた。
「昨日まで、何を止めようとしていたのか知ってるから」
西条はしばらく、ゆみを見ていた。
やがて携帯電話をしまい、立ち上がった。
「分かった。今回は、別で考えるよ」
「うん」
扉の前で、西条が振り返った。
「君の会社の資金の話も、また改めてでいい?」
ゆみの手に力が入った。
「それと、今の話は一緒なの?」
「そういう意味じゃない。ただ、今はほかにも動かしている案件があるから」
西条は、それ以上説明しなかった。
ゆみも追いかけなかった。
扉が閉まると、店内に音楽だけが残った。
***
ゆみは、レジの下から帳簿を出した。
今月の数字を開く。
西条の話を断ったからといって、数字がよくなるわけではなかった。
むしろ、当てにしていた相談先が一つ遠くなるかもしれない。
しばらく見てから、店長を呼んだ。
「来月の仕入れ、もう一度、一緒に見てもらえる?」
「今からですか?」
「うん。多く取りすぎているところがあると思う」
店長は隣に座った。
二人で、品番と数を確認した。
売れるつもりで入れた服。
追加を頼んだのに、まだ棚に残っている色。
逆に、問い合わせがあっても補充できていないサイズ。
紙へ書き出していくと、直せるところが少しずつ見えてきた。
終わった時には、閉店から一時間が過ぎていた。
ゆみは店長に礼を言って、先に帰ってもらった。
一人になってから、愛菜へ電話した。
***
愛菜は、夕食の食器を片づけているところだった。
画面を見て、大虎へ声をかけた。
「ゆみさんから」
大虎が頷き、洗った皿を受け取った。
愛菜は居間へ移動して、電話に出た。
「もしもし」
『遅くに、ごめん。今、少し大丈夫?』
「うん」
ゆみは、西条が来たことを話した。
在庫の引受先を探していること。
まなブランドの協力を求められたこと。
店からは頼まないと返事をしたこと。
愛菜は、途中で口を挟まずに聞いた。
「教えてくれて、ありがとう。担当にも伝えておく」
『うん』
通話が終わりそうになった時、ゆみが言った。
『今日、大虎も来てくれたでしょう』
愛菜は、台所へ目を向けた。
大虎は食器を棚へ戻していた。
「うん」
『来るって、知らなかったから。少し、驚いた』
「私が、荷物をお願いしたの」
『そうなんだね』
ゆみは笑ったようだった。
でも、愛菜には、何と返せばいいか分からなかった。
少しの沈黙のあと、ゆみが続けた。
『変なことを聞いてもいい?』
「何?」
『昔のこと、どのくらい聞いてる?』
愛菜はソファに腰を下ろした。
大虎がこちらを見た。
愛菜は、まだ通話中だと小さく頷いた。
「一緒に暮らしていたことは、知ってる」
『そう』
「でも、二人に何があったか、全部を聞いたわけじゃないよ」
ゆみは、しばらく黙っていた。
愛菜は携帯電話を持ち替えた。
「ゆみさん」
『うん』
「昔のことで、私に伝えておきたいことがある?」
自分の声が、思ったより慎重になった。
ゆみはすぐに答えなかった。
『……ない』
それから、息を吐く音がした。
『ごめん。今日、二人を見て、少し昔を思い出しただけ』
愛菜は、膝の上の手を見た。
「そっか」
ゆみは、試着の礼を言った。
愛菜も礼を返した。
それで、電話は終わった。
***
大虎が、お茶を持ってきた。
愛菜の前へ置き、隣に座る。
「仕事の話?」
「最初は」
大虎は頷いた。
愛菜は湯気を見ながら、言った。
「昔のことを、どのくらい聞いているかって」
大虎の手が止まった。
「何か言われた?」
「二人を見て、思い出しただけだって」
大虎は、カップを机に置いた。
「愛菜が聞きたいことがあるなら、話すよ」
愛菜は首を振りかけて、やめた。
「ある」
「うん」
「今日、会って、何か思った?」
大虎は少し考えた。
愛菜は、その間を待った。
「店のこと、ちゃんと見てるんだなと思った」
「ゆみさん?」
「うん。前は、もっと急いでた気がする」
愛菜は頷いた。
大虎が続けた。
「それと、愛菜が働いているところを、近くで見られて嬉しかった」
愛菜は顔を向けた。
「私は、荷物を開けていただけだよ」
「客が来る前から、ずっと考えてただろ。椅子の向きとか、服を見せる場所とか」
「仕事だから」
「知ってる。でも、いつも話で聞くのと、見るのは違う」
愛菜はカップを手に取った。
温かさが、指に伝わった。
「……今日、少し嫌だった」
大虎は愛菜を見た。
「二人が私の知らない話をしていたら、嫌だなって思った」
「うん」
「仕事では、ゆみさんに助けてもらってる。それと、これは別にあった」
大虎は頷いた。
愛菜は、ようやく彼をまっすぐ見た。
「言いたかったのは、それだけ」
大虎は手を伸ばし、愛菜の指に触れた。
「言ってくれて、ありがとう」
愛菜は、その手を取った。
***
翌朝、食卓で大虎が一枚の案内状を差し出した。
「これ、昨日、話そうと思ってた」
カルソックが開く懇親会だった。
取引先と、その家族も招く、小規模な会。
愛菜は日時を見た。
再来週の金曜日。
「だいちゃん、出るの?」
「俺が挨拶する」
「そうだよね」
愛菜は案内状を裏返した。
会場と開始時刻だけが、簡潔に書かれていた。
「一緒に来てほしい」
大虎が言った。
愛菜は顔を上げた。
「会社として?」
「今回は、妻として」
愛菜の指が、紙の端で止まった。
大虎は少し笑った。
「前から、連れていきたかった。でも、仕事が落ち着いてからがいいかと思って」
愛菜はもう一度、日時を見た。
誰かの妻として紹介されること。
それが、自分の仕事の説明に混ざること。
最近の出来事が、頭をよぎった。
大虎は急かさず、朝食の皿を自分の方へ寄せた。
愛菜は案内状を机に置いた。
「まなブランドの仕事を、カルソックが保証していると思われないようにはしたい」
「うん。聞かれたら、それぞれの会社で判断していると答える」
「紹介の時に、うちの売上とか、事業の話はしないで」
「しないよ」
愛菜は少し考えた。
「私、そういう場で、だいちゃんの隣にいたこと、ほとんどないね」
「だから、一緒にいたい」
大虎は、今度は笑わずに言った。
愛菜は案内状を引き寄せた。
「行く」
大虎の顔が緩んだ。
「よかった」
「でも、途中で一人にしないでね」
「挨拶の時だけは、少し離れる」
「それは分かってる」
愛菜も笑った。
案内状を鞄へしまいかけて、ふと手を止めた。
「何を着よう」
「愛菜が好きな服」
「それが、一番困るんだけど」
大虎は、楽しそうに彼女を見た。
愛菜はもう一度、案内状を開いた。
さっきまで確認していた日時の下に、会場の名があった。
今度は、その場所で大虎の隣に立つ自分を、少しだけ思い浮かべた。
第19章 その名が呼ばれるまで
懇親会の三日前、愛菜は服を二着、並べていた。
紺のワンピースと、淡い灰色の上下。
大虎は寝室の入口で足を止めた。
「まだ迷ってる?」
「うん」
愛菜は紺のワンピースを体に当てた。
「こっちは、少し堅いかな」
「似合うと思う」
次に、灰色の上着を持つ。
「じゃあ、こっちは?」
「それも似合う」
愛菜は腕を下ろした。
「だいちゃんに聞いた私が悪かった」
大虎が笑った。
「何が違うの?」
「座った時の感じと、袖。あと、靴をどうするか」
「じゃあ、座ってみれば?」
愛菜は一瞬、大虎を見た。
それから、自分でも笑った。
「いつも、お客様にお願いしてることだね」
紺のワンピースへ着替え、椅子に座った。
膝の位置を確かめる。
腕を前へ伸ばす。
立ち上がる。
鏡の前で横を向くと、大虎が後ろに立っていた。
「こっちにしたら?」
「今度は、理由がある?」
「さっきより、迷ってない顔してる」
愛菜は鏡の中の自分を見た。
肩を少し下げた。
「じゃあ、これにする」
***
その頃、ゆみも一通の案内を見ていた。
西条から送られてきたものだった。
カルソックの懇親会。
以前、西条から出資の話を聞いていた時、いつか紹介すると言われた先だった。
《来られるなら、同伴者として登録しておく》
ゆみは、すぐには返事をしなかった。
久世の件を断ってから、西条とは一度、資金の話をしていた。
具体的な返事は、まだ出ていない。
この誘いを断れば、また話が遠のくかもしれなかった。
それでも、前のように、行けば何とかなるとは思えなかった。
ゆみは電話をかけた。
「この会、私が行ってもいいものなの?」
『こちらに同伴枠がある。経営者同士、顔をつないでおくのは悪くないだろう』
「出資の話をする場?」
『いきなり書類を出すような会じゃないよ。まずは挨拶だ』
ゆみは案内の日時を見た。
「分かった。行かせてもらう」
通話を終えてから、会社案内のファイルを開いた。
売上計画の数字を見直す。
まだ決まっていない取引先の名前が、いくつか残っていた。
ゆみは、その名前を消した。
当日、資料を持参するかどうかも、あとで考えることにした。
***
懇親会の日までに、久世の件はいくつか進んだ。
倉田には、一部の返金があった。
残額の扱いは、双方の代理人を通して協議していた。
工場への発注についても、久世が送った記録を中心に、支払いの相手と金額を整理することになった。
まなブランドの名前を使った、新たな勧誘は確認されていなかった。
愛菜は週の最後の報告を読み、顧問へ返事をした。
試作の方は、次の確認日が決まった。
紗良は、外部との連絡を伴わない業務へ移っていた。
愛菜と廊下ですれ違うと、立ち止まって挨拶をした。
愛菜も返した。
以前のように、気軽に服の話をすることは、まだなかった。
それでも、会社の中では、それぞれの一日が続いていた。
***
当日の午後、大虎から連絡が来た。
《会場の控室で待ってる。入口で名前を伝えて》
愛菜は、仕上げたばかりのメールを送信した。
机を片づけ、上着を羽織る。
営業担当者が顔を上げた。
「今日は、もうお帰りですか」
「うん。あとは月曜日に確認するね」
「分かりました。いってらっしゃいませ」
その言い方に、愛菜は少し笑った。
「行ってきます」
会社を出てから、携帯電話を鞄へしまった。
今日は、試作の袋を持っていなかった。
***
控室の扉が開くと、大虎が立ち上がった。
濃い色のスーツに、落ち着いた色のネクタイ。
家で見た時よりも、姿勢がまっすぐに見えた。
「来たね」
声を聞くと、いつもの大虎だった。
愛菜は肩の力を抜いた。
「待たせた?」
「時間どおり」
大虎は愛菜を見て、少し笑った。
「それにしたんだ」
「座って確かめたから」
「なら、大丈夫だ」
控室には、秘書と会場担当者がいた。
大虎が、愛菜を紹介した。
「妻の愛菜です」
愛菜は挨拶をした。
秘書は笑顔で会釈し、進行について簡単に説明した。
開会後、大虎が挨拶をする。
そのあと、来賓との歓談。
途中で、一度だけ会場を離れる予定がある。
愛菜は頷いて聞いた。
説明が終わると、大虎がこちらを見た。
「分からないことがあったら、俺でも、この人でも」
秘書が頷いた。
愛菜は礼を言った。
大虎が、鞄を置く場所を示した。
その仕草が家と同じで、少し可笑しかった。
***
ゆみが会場へ着いた時、西条は受付の前にいた。
「よく似合ってる」
「ありがとう」
ゆみは、黒のワンピースの裾を整えた。
受付で名前を告げると、案内が渡された。
会場の中は、落ち着いた照明だった。
テーブルの間隔が広く、中央に花が置かれている。
大きな商談会のような騒がしさはなかった。
それでも、会話の端々に、知っている会社の名が出てきた。
西条は何人かに声をかけ、そのたびにゆみを紹介した。
「アパレルを経営されている方です」
ゆみは名刺を差し出した。
事業の規模を聞かれると、確認できている数字だけを答えた。
話を大きくしなくても、相手は普通に頷いた。
ある会社の女性役員が、ゆみのワンピースを見た。
「ご自身のお店のもの?」
「はい」
「袖がきれいね」
ゆみは、初めて少し緊張を解いた。
縫製と生地の話なら、自分の言葉で話せた。
西条は隣で、会場の別の場所へ目を向けていた。
***
開会の少し前、愛菜と大虎は控室を出た。
廊下の向こうから、藤川が歩いてきた。
愛菜を見ると、表情が和らいだ。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰しております」
愛菜は頭を下げた。
「このたびは、資料の件でもお世話になりました」
「まだ、すべて片づいたわけではないでしょう」
「はい。でも、少しずつ整理できています」
藤川は頷いた。
それから、大虎へ目を向けた。
「今日は、仕事の話ばかりにしない方がよさそうですね」
「俺は、そのつもりなんだけど」
大虎が言うと、藤川は笑った。
「周りが放っておくかどうか」
愛菜も笑った。
会場の扉が開かれた。
大虎が歩き出す前に、愛菜を見た。
「行こうか」
愛菜は頷いた。
***
ゆみが最初に気づいたのは、愛菜だった。
入口の近くに、紺のワンピースが見えた。
少し離れていても、顔は分かった。
「あ……」
西条が振り向いた。
「どうした?」
「知っている人が」
言い終わる前に、その隣の男が見えた。
大虎だった。
ゆみは持っていたグラスを、近くのテーブルへ置いた。
愛菜も招かれていたのだと思った。
その夫として、大虎が来ている。
そう考えれば、不思議ではなかった。
けれど、二人の周りの動きが違った。
会場の担当者が、先に立つ。
話していた人たちが、次々と体の向きを変える。
藤川が、大虎の隣で何かを話していた。
西条も、その姿に気づいた。
背筋を伸ばす。
「会長が来られた」
ゆみは西条を見た。
「藤川会長?」
「いや、カルソックの」
ゆみは入口へ目を戻した。
大虎が、愛菜を席へ案内していた。
椅子の背に手を添え、彼女が座るまで待つ。
店で荷物を置いていた時と、同じ手だった。
「どの方?」
声が、自分でも分かるほど小さくなった。
西条は、聞こえなかったらしかった。
会場の照明が少し落ちた。
司会者が、開会を告げた。
***
愛菜は、膝の上で手を重ねていた。
大虎が隣の席から立つ。
「すぐ戻る」
小さな声だった。
愛菜は頷いた。
司会者が、壇上へ向き直った。
「それでは、カルソック会長、大虎よりご挨拶申し上げます」
拍手が起きた。
ゆみは、手を動かせなかった。
大虎が前へ歩いていく。
壇上の段差を上がる。
マイクの前に立ち、会場を見渡した。
見間違える距離ではなかった。
三年、一緒に暮らした男だった。
朝、同じ部屋にいた。
仕事から戻ると、そこにいた。
何をしているのか分からない時間を、何もしていない時間だと思っていた。
その男の言葉を、今、会場中が待っていた。
「本日は、お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます」
大虎の声が、静かに響いた。
ゆみは、テーブルの端へ指を置いた。
西条が隣で拍手を終え、姿勢を正した。
「なかなか、直接お会いできる方じゃないんだ」
小声だった。
ゆみは答えられなかった。
***
挨拶は長くなかった。
日頃の取引への礼。
現場を支える人たちへの感謝。
今夜は肩の力を抜いて過ごしてほしいという言葉。
数字を並べることも、自分の実績を語ることもなかった。
大虎が壇上を降りると、拍手が続いた。
愛菜は、その顔を見ていた。
家で、自分の話を聞いてくれる人。
店まで袋を運んでくれる人。
今日は、その人を大勢が見ていた。
少し遠く感じたところで、大虎がこちらを見た。
目が合う。
大虎の表情が、いつものものに戻った。
愛菜も笑った。
大虎は隣へ座り、小さく息を吐いた。
「終わった」
「お疲れさま」
「早かっただろ?」
「うん」
愛菜は、机の下で一度だけ、大虎の手に触れた。
***
歓談が始まると、大虎の周りには人が集まった。
愛菜は一人ずつ紹介され、挨拶をした。
自分の会社について尋ねられると、アパレルの仕事をしていると答えた。
大虎は、その話へ余計な説明を足さなかった。
愛菜が答え終えるまで、隣で待っていた。
少し人の流れが途切れた時、西条が近づいてきた。
ゆみは、その半歩後ろにいた。
「会長。本日は、お招きいただきありがとうございます」
大虎が振り向いた。
西条は名を名乗り、名刺を差し出した。
大虎は受け取り、挨拶を返した。
それから、隣にいるゆみを見た。
一瞬、目が止まった。
「ゆみも来てたんだ」
西条の手が止まった。
ゆみは、声を探した。
「……うん」
愛菜が、ゆみへ会釈した。
「こんばんは」
「こんばんは」
返事はできた。
けれど、その先が続かなかった。
西条が、二人を交互に見た。
「お知り合いでしたか」
大虎が口を開くより先に、ゆみが答えた。
「以前から」
自分の声が、少し掠れた。
愛菜の横に立つ大虎を、もう一度見た。
「知らなかった」
言葉が、思わず漏れた。
大虎は、何を指しているのか尋ねなかった。
「そっか」
ゆみは、唇を結んだ。
驚いているのは自分だけだった。
大虎は、見せつけるようにも、困ったようにも笑わなかった。
西条が、何かを察したように口を開いた。
「実は、彼女の会社について、以前から——」
「西条さん」
ゆみが遮った。
声は、さっきよりはっきりしていた。
西条が顔を向ける。
ゆみは一度息を吸った。
「今日は、その話をお願いしていません」
近くを、給仕が静かに通り過ぎた。
西条は口を閉じた。
ゆみは、大虎へ向き直った。
聞きたいことは、いくつもあった。
どうして言わなかったのか。
いつからだったのか。
自分と暮らしていた頃も、そうだったのか。
けれど、今、それを尋ねる場所ではなかった。
「今日は、お招きいただいて、ありがとうございます」
ゆみは頭を下げた。
大虎も、静かに会釈した。
「ゆっくりしていって」
***
二人が離れたあと、愛菜は大虎を見た。
大虎も、こちらを向いた。
「大丈夫?」
愛菜が尋ねた。
「うん。愛菜は?」
少し考えてから、頷いた。
「うん」
遠くで、誰かが大虎を呼んだ。
大虎はそちらへ会釈し、それから愛菜へ手を差し出した。
「一緒に来て。紹介したい人がいる」
愛菜は、その手に自分の手を重ねた。
少し離れた場所で、ゆみは新しいグラスを受け取っていた。
その向こうを、二人が並んで歩いていく。
ゆみは、目を逸らさずに見た。
大虎が何者だったのか。
その答えよりも先に、今、誰の隣へ帰っていくのかが分かった。
第20章 知らなかっただけでは
大虎が愛菜を連れていったのは、会場の窓際だった。
白髪の女性が、椅子に腰掛けていた。
近づく二人に気づくと、手にしていたグラスを置いた。
「ようやく、紹介してくれるのね」
大虎が笑った。
「遅くなりました」
愛菜へ向き直る。
「榊原さん。うちが海外に出始めた頃から、世話になってる」
「世話をしたのは、最初だけでしょう。あとは、この人が勝手に大きくしたの」
榊原は立ち上がった。
愛菜は、自分から名乗った。
「妻の愛菜です。初めまして」
「榊原澄子です」
差し出された手を握ると、思っていたより温かかった。
「今日は、緊張している?」
「少し」
「それなら、座りましょう。立っていると、挨拶が長くなるから」
大虎が椅子を引いた。
愛菜が腰を下ろすと、榊原は大虎を見た。
「あなたは、向こうへ行ってきなさい。さっきから待っている人がいるでしょう」
大虎が会場へ目を向けた。
確かに、少し離れたところで、役員がこちらを窺っていた。
「大丈夫?」
愛菜に尋ねる。
愛菜は頷いた。
「ここにいる」
「すぐ戻る」
大虎が離れると、榊原は小さく笑った。
「何度も確認するのね」
「今日は、一人にしないでって、私が言ったんです」
「そう。それなら、約束を守ろうとしているのね」
愛菜も笑った。
榊原は、彼女のワンピースへ目を向けた。
「きれいな紺ね」
「ありがとうございます」
「座っていて、苦しくない?」
愛菜は、思わず顔を上げた。
「それ、家で確かめてきました」
「大事でしょう。こういう席の服は、立っている時ばかり考えて作ってあるから」
榊原は膝の上の生地を整えた。
愛菜は、その仕草を見た。
「普段、座っていて気になる服はありますか」
尋ねてから、少し口を閉じた。
「すみません。仕事の癖で」
「服のお仕事?」
「はい」
榊原は、楽しそうに頷いた。
「それなら、いくらでもあるわよ」
***
西条は、ゆみを会場の端へ連れていった。
人の声が少し遠くなったところで、足を止めた。
「いつから知り合いなんだ?」
ゆみはグラスを持ち替えた。
「ずっと前」
「なぜ、言わなかった」
「私も知らなかったから」
西条は眉を寄せた。
「知り合いだったのに、会長だと知らなかった?」
ゆみは頷いた。
説明する言葉を探したが、うまくまとまらなかった。
三年、一緒に暮らしていた。
無職だと思っていた。
家から出ていってほしいと言った。
そのどれも、この場所で西条に話すことではない気がした。
西条は会場を見渡した。
大虎は、数人の役員と話していた。
「少なくとも、向こうは君を覚えていた」
ゆみは返事をしなかった。
「さっき、話を止める必要はなかっただろう。会社のことを相談する、いい機会だった」
「本人が何者か分かった途端に、お金の話はできないよ」
「何者か分からなかった時とは、状況が違う」
ゆみは、西条を見た。
その言葉には、覚えがあった。
口に出したことはなくても、自分も同じように考えてきた。
紹介された相手の会社名を聞いて、急に愛想がよくなる。
大きな取引につながりそうなら、多少の無理は聞く。
そういう自分を、西条だけの問題にはできなかった。
「今日は、帰る」
西条が顔を向けた。
「まだ始まったばかりだろう」
「ごめん。今は、誰と話しても、ちゃんと聞けそうにない」
西条はため息をついた。
「少し、落ち着いてから考えた方がいい」
ゆみは頷いた。
「そうする」
引き止められる前に、受付の方へ歩いた。
***
廊下へ出ると、会場の音が遠くなった。
ゆみは預けた上着を受け取り、袖を通した。
出口へ向かいかけて、足を止めた。
携帯電話を取り出す。
大虎の名前は、まだ連絡先に残っていた。
何度も消そうと思ったのに、そのままにしていた。
画面を開く。
《少しだけ話せる?》
打ってから、送らずに見ていた。
何を話すのだろう。
どうして教えてくれなかったのか。
そんなに大きな会社を持っていたのなら、どうして、あの頃の自分が苦しい時に。
そこまで考えて、指が止まった。
大虎は、何度か聞いていた。
店、大丈夫か。
少し休まなくていいのか。
話なら聞くよ。
ゆみは、その声を思い出した。
何も分からないくせに。
そう言った日のことも。
画面の文章を消した。
携帯電話を鞄へ戻そうとした時、背後で扉が開いた。
振り向くと、大虎がいた。
一緒に出てきた秘書へ何か伝え、こちらに気づいた。
「帰るの?」
ゆみは頷いた。
「うん」
大虎は数歩手前で止まった。
「気分、悪い?」
「大丈夫」
そう答えたのに、足が動かなかった。
大虎も、すぐには会場へ戻らなかった。
ゆみは鞄の持ち手を握った。
「少しだけ、聞いてもいい?」
大虎は時計を見てから、頷いた。
「ここでなら」
***
廊下の壁際には、二脚の椅子があった。
けれど、二人とも座らなかった。
ゆみは大虎を見た。
「一緒にいた頃も、会長だったの?」
「そうだよ」
返事は短かった。
ゆみは目を伏せた。
「どうして、言わなかったの」
大虎は、すぐには答えなかった。
廊下の向こうを、会場の係員が通った。
二人へ会釈し、そのまま行き過ぎる。
「最初は、会社の話を抜きにして、一緒にいたかった」
大虎が言った。
「でも、そのまま黙ってたのは、俺が決めたことだ。そこは、悪かったと思ってる」
ゆみは顔を上げた。
責められると思っていた。
自分が聞かなかったからだと言われる方が、まだ返事ができたかもしれない。
「私、何もしていない人だと思ってた」
「知ってる」
「お店が大変な時に、家にいるのを見ると……」
言葉が止まった。
大虎は続きを促さなかった。
ゆみは、自分で続けた。
「自分ばかり働いてると思ってた」
大虎は静かに頷いた。
「うん」
「でも、家のこと、いろいろしてくれてたね」
買い物。
洗濯。
遅く帰った日に、温めれば食べられるようにしてあった夕食。
商品を運んでもらった日。
その時は、一つずつを数えていなかった。
今、思い出すと、いくつもあった。
「それも、ちゃんと見てなかった」
大虎は、視線を少し下げた。
「全部、悪かったことにしなくていいよ。一緒にいて、楽しかった時もあった」
ゆみの喉が詰まった。
その言葉は、戻れる場所を作ってくれるものではなかった。
終わった時間を、終わったまま、置いてくれているのだと分かった。
「ごめん」
声が掠れた。
大虎は一度、頷いた。
「聞いたよ」
ゆみは目元を指で押さえた。
泣くつもりはなかった。
こんな場所で泣けば、大虎を困らせるだけだと思った。
それでも、目が熱かった。
「私、今日、会長だって知ってから、こんなこと言ってる」
大虎は何も言わなかった。
「知らないままだったら、ちゃんと謝れたか、分からない」
ゆみは息を吸った。
「それも、嫌だ」
大虎は少し待ってから、言った。
「今夜、全部決めなくていいんじゃないか」
「……うん」
「会社のことで困ってるなら、相談先は探せる。でも、俺と昔一緒にいたことと、会社の判断は別になる」
ゆみは首を振った。
「今は、頼まない」
「分かった」
大虎は、それ以上勧めなかった。
会場の扉が、また開いた。
二人とも、そちらを見た。
***
愛菜が立っていた。
秘書から、大虎が廊下にいると聞いて出てきたところだった。
ゆみの顔を見て、足を止める。
大虎が愛菜へ向き直った。
「待たせた?」
「ううん」
愛菜は、それからゆみを見た。
「帰るところ?」
「うん。今日は、先に失礼するね」
「気をつけて」
ゆみは頷いた。
一度、視線を落とし、もう一度愛菜を見た。
「試着の次の日程、店長から連絡が行くと思う」
「分かった」
仕事の話を口にすると、少しだけ呼吸が戻った。
ゆみは二人に会釈し、出口へ向かった。
自動扉の向こうに、夜の街が見えた。
振り返らずに、外へ出た。
***
愛菜は、大虎の隣へ来た。
すぐには何も尋ねなかった。
大虎が、先に話した。
「昔のことで、謝られた」
「うん」
「俺も、黙っていたことは謝った」
愛菜は、会場の扉を見た。
中から、笑い声が聞こえた。
「話せて、よかった?」
大虎は少し考えた。
「そう思う」
愛菜は頷いた。
大虎が彼女の顔を覗いた。
「待ってる間、嫌だった?」
愛菜は、正直に答えた。
「少し」
「そっか」
「でも、途中で呼びに来なくてよかったとも思ってる」
大虎は手を差し出した。
愛菜はその手を取った。
扉へ向かいながら、大虎が尋ねた。
「榊原さんとは、何を話してた?」
「服の話」
「長くなった?」
「うん。椅子に座ると、上着の背中が引かれるって。それから、袖口の留め方」
大虎が笑った。
「仕事になったな」
「売り込みはしてないよ」
「分かってる」
愛菜は、少し声を弾ませた。
「今度、本人が普段着ている服を見せてくれるって。困っているところ、言葉だけだとうまく説明できないからって」
大虎は扉の前で止まり、愛菜を見た。
「よかったな」
「うん」
愛菜は頷いた。
会場へ戻ると、榊原がこちらに気づき、軽く手を上げた。
二人は並んで、窓際へ戻った。
***
タクシーの中で、ゆみは窓の外を見ていた。
街の灯りが、ガラスに流れた。
携帯電話に、西条から連絡が入った。
《落ち着いたら、今後のことを相談しよう》
ゆみは、その文面を読んだ。
すぐには返事をしなかった。
代わりに、店長から届いていた翌日の予定を開いた。
午前中に、返品分の確認。
午後に、仕入先との打合せ。
その間に、試着を希望している客への連絡。
明日、自分がする仕事だった。
ゆみは店長へ返事を打った。
《明日は私も、開店前に行きます》
送ってから、携帯電話を膝へ置いた。
失くしたものを、今夜取り戻すことはできなかった。
それでも、明日の店を開けるのは、自分だった。
ゆみは運転手に、自宅までの道を伝えた。
第1部をお読みいただき、ありがとうございます。
「作りたかった」「成功させたかった」「信じたかった」。その気持ちが本当でも、相手の承諾まで自分の望む形に変えてよいわけではありません。
愛菜が向き合ったのは、事業の問題だけでなく、自分の言葉や仕事を、誰かに勝手に決められてしまう怖さでした。その中で、自分で返事をすること、大切な人へ助けを求めることを、一つずつ選んでいきます。
大虎の正体を知ったゆみもまた、これまでの日々を見つめ直すことになります。
知ったあとで、何を選ぶのか。それぞれの歩みは、第2部「それぞれの再出発、二人の帰る場所」へ続きます。




