第5話 婚約破棄の次は実家のお掃除です。
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騎士団の寮に戻るユージンを玄関広間まで見送った後、私は執務室へと向かった。
彼に、寮の部屋の様子まで見に行きたいと伝えたら「ここまでで結構です」と慌てて断られた。
もう。
部屋は散らかってない? 食事はちゃんと摂ってる?
洗濯物は溜めてない?
息子の生活の乱れを確認するのが母親というものなのよ。
……多分。
私は小さく息をついた。
――それにしても、最初に私へこの話を持ってきた、というのは助かった。
もしこの話が、先に家族の耳に入っていたら。
今頃、屋敷内はもっと面倒なことになっていただろう。
ましてや、第二皇子のお耳に触れていたらと思うと――
考えるだけでも恐ろしい。
それに、前世の記憶を取り戻した以上、どのみち息子と結婚なんてできないし。
そういう意味では、婚約破棄というユージンの申し出と私の利害は一致してることになる。
冷静に考えれば、好都合なのよ。
でも――
ユージンとの関係は、改めて築き直さないと。
あの子が私から離れるなんてことになったら……
私は立ち直れないだろう。
◇
私はエルミナにいくつか指示を出したあと、机に向かう。
帝都の公爵邸にあるこの執務室は、私専用の部屋だ。
領地からの報告、商人や貴族たちからの手紙、陳情。
それら書類は、毎日机を埋め尽くすほどの量になる。
私はそれらの書類を一つずつ順に目を通し、決裁する。
そして最後に、父の名で署名する。
それがこの家の、当たり前。
魔法で筆跡を偽造することはできる。
しかし、そこには魔力を用いた者の痕跡が必ず残ってしまう。
だから代筆をする場合、痕跡が残らないとされる手書きで行うことになる。
魔力のない私は、そのために都合が良かったのだろう。
万が一でも、痕跡が残ることはないのだから。
父の署名を、何度も手書きで繰り返し真似る練習をした。
……母の教鞭による、手の甲を走る痛みに耐えながら。
そのおかげで、今では私の代筆に疑問を抱く人はいない。
帝都の役人でさえ、これを父の直筆と信じ込んでいる。
これも、私に与えられた役目の一つ。
◇
父は今日も、執務室に顔を出さない。
私の仕事を確認するわけでもなく。
間違いを正すわけでもなく。
労いの言葉など、ただの一度もかけてもらったことはない。
けれど、レオニエル領の統治を誰かから賞賛された時には、当然のように胸を張る。
――成果だけは平然と自分の手柄として語るのだ。
それでも私は、『影』として、言われた命令に従うしかなかった。
一度だけ、妹のセリーヌがこの部屋へ来たことがある。
ひとしきり自慢話をしたあと、ふっと笑ってこう言った。
「お姉様なら大丈夫ですよね。とても私には真似できませんけど」
彼女は無邪気に笑う。
その言葉が、どれほど私を追い詰めているか、気づく風もなく。
悪気がないのは分かっている。
ただ、幼いだけなのだ。
◇
――いや、どう考えてもおかしいでしょ、今世の私。
私が父の名で署名した書類には、皇帝陛下に宛てたものも含まれている。
いつの間にか、そこまで仕事が拡大していたのだ。
最初は領地への指示と報告だけだったはずなのに。
陛下に対する公文書の偽筆なんて、帝室に知られたが最後、一瞬で公爵家の信頼は崩れ落ちるだろう。
魔法を用いれば偽筆を容易に行える。
それが明らかになった時代、書類の偽造が横行したことがある。
当時は、使用者の魔力の痕跡を判別する技術が確立されていなかった。
そのため、偽筆は厳罰化を余儀なくされたのだ。
実際、陛下への誓約書を偽造した貴族が、爵位を剥奪され、領地を没収され――
そのうえ、処刑された例もある。
そして、その痕跡が判別できるようになった今も、罪の重さは変わらない。
腐っても公爵である父がそれを知らぬ訳がない。
にもかかわらず私に命ずる理由。
それは――
私が父に逆らうなど、考えてもいないから。
もちろん、黙って従っていた私にも責がある。
だからこそ、このまま放置するわけにはいかないのだ。
◇
気がつけば外は陽光が沈み、すっかり夜の帳が下りている。
私がひとり物思いにふけっていると、エントランスの方から大きな声が聞こえた。
「アリシア!いま帰ったぞ!」
父の大音声が、屋敷中に響き渡る。
両親と妹のセリーヌが帰ってきた時には、執事やメイドではなく、必ず私自らお迎えしなければならない。
彼らが王都にいる時は、ほぼ毎日この『儀式』が行われる。
これは、セリーヌより私の方が格下だと知らしめるためだけの行為。
仕事中だろうが体調を崩していようがお構いなし。
一度高熱が出て、ベッドから出られない時にお迎えをしなかったことがある。
父は部屋に入るなり、強引に私をベッドから起こしたうえ、頬を打った。
――あの頃あたりかな。以前の私が無感情になっていったのは。
私は深呼吸を一つ。
そして、いつもの『影』の仮面を被る。
誰にも気づかれず、誰も傷つけず、ただ役割だけを果たすための顔。
でも今日からは、少しだけ違う。
「――ユージンを守る最初の戦いだ」
私は一言つぶやくと、家族を出迎えにホールへと向かった。
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それでは、明日20時30分にお会いしましょう。




