第九話 隔離終了
5月18日、金曜日。
1ヶ月ぶりにようやく自由を手に入れた安達池は、たぎった興奮を抑えきれず、今朝6時きっかりに早起きし、浴室で肌の隅々まできれいに洗った。鏡に映った自分を見て、確かに「全く新しい変化」が訪れていることに気づいた―― 1ヶ月以上も髪を切っていないため、耳の半分が毛先で覆われ、前髪は目隠しになるほど伸びていた。池は、これまでで最も長い髪を指で弄りながら、新大陸を発見したような気分で感想を言う。
「まあ、たまには髪型を変えたりして、イメージが一変するのも悪くねいかも。両親や家のアイツが見たら、きっとびっくりするだろうな。私だと分からなくなるほどじゃないよね?」
身支度を整え、前日に看護師が持ってきてくれた着替えなどの私物もすべて梱包済みだった。8時に最後の病院食を食べ終えると、池は1時間近くかけて病室全体をきっちり片付けた。本来なら、彼が病室を出た後に清掃係が行う作業なのに。壁のモニターはオフの状態だ。つまり、この特製ベッドは池に対するリアルタイムのモニタリングが停止しているということだ。この1ヶ月で初めて、モニターに自分の心拍数や血圧といったデータが表示されず、真っ黒な状態になっているのを見て、かえって少し違和感を覚える。
数え切れないほどの退屈な時間を共に過ごしたゲーム機を見つめながら、池は名残惜しさを感じ、さらには悪巧みを思いついた。
「まだクリアしていないゲームがたくさんあるんだ。家に帰ってからも遊び続けられたらいいな……こっそりゲーム機を外してリュックに隠しておけば、誰にも気づかれないだろう?」
落ち着け、安達君。手を出したら、大変なことになるぞ。
「……冗談だよ。基地での窃盗行為が見つかったら重罪だ。この牢獄みたいな場所から出たばかりなのに、すぐに本物の刑務所に入ったりはしたくないからね……」
気づけば9時33分になっていた。そろそろここを去る時間だ。出発の準備を整えた池は隔離室のドアの前に立ち、自分を生死の試練にさらしたこの場所を振り返り、複雑な心境に浸っている。
「次にここに閉じ込められる人も、無事に、安全にここを出られるように……いや、この病室が永遠に廃墟となり、二度と誰かが閉じ込められることのないように願う。」
続いて、池は前日の夜に看護師から渡された使い捨てのチップを取り出した。これは病室の隔離用ドアのロックを解除するためのものだが、翌日の午前9時半以降でなければ有効にならないように設定されている。こうしたつまらない細工は、きっと下田の奴しか思いつかないだろう。池はチップをドア脇の壁にある小さな溝に押し込むと、すぐにドアが自動的に開いた。待ちきれない様子で、池は大きな一歩を踏み出してドアの外へ出た。30日ぶりに、池の両足は数十平方メートルの病室の外の地面に立つことができた。その違和感は、よちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊のような池に、危うく歩き方さえ忘れさせてしまうところだった。
ドアの前から見渡すと、通路の突き当たりにある扉の両側に十数人が立っており、どうやらずっと前からあそこで待っていたようだ。彼らは池が病室から出てくるのを見ると、手を振って合図した。池が数歩近づいてよく見たら、その人混みの中に、あの安心感をくれる顔が一目で見分けられた。
「先生!先生!お待たせしました!」
池は全速力で駆け寄ってきた。あの扉の前には、教授だけでなく、観察団の全員が立っている。彼らは自発的に、一ヶ月間「実験動物」として過ごしたこの若者の見送りに来て、両側に列をなして池の到着を待っていた。教授は列の一番前に立ち、駆け寄ってくる池の両肩に手をかけ、ブレーキが効きそうにないスーパーカーのような池を止めた。
「池君、長い間動いていなかったんだから、はしゃぎ過ぎない方がいいよ。医療チームや観察団のみんなは、今日君が帰宅できると聞いて、見送りに来たいと言っていたんだ。私は『そんなに大げさにしなくていいよ、池君がクビになったわけじゃないんだから……』と伝えたんだけど……」
「まあまあ、教授、誤解ですよ。安達様は命の奇跡を起こした方ですし、下田長官から直接表彰も受けたんですから、私たちが送りに来るのは当然のことですよ。」
「その通りです。この1ヶ月間、私たちは教授と共に奇跡を見届けました。医療従事者として、この人生に悔いはありません!」
「そこまで大げさなことを言わなくても、渡永君……とはいえ、私たちは確かに安達様を心から尊敬しています。この1ヶ月、大変な苦労をされました。ここまで耐え抜ける人はほとんどいないでしょう。少なくとも、私には無理です。」
「いえいえ、恐、恐縮です、お買い被り過ぎでございます......」
こうした場面が苦手な池は周囲からの称賛に包まれ、鼻先から耳まで赤くなり、右手で後頭部を擦りながら、気まずそうな笑顔で相槌を打つしかなかった。
「さあみんな、これ以上安達君の時間を無駄にしないで。みんなの気持ちはすでに安達君に伝わってる。そろそろ彼に、これからの休暇を楽しんでもらうようにしょう。」
こういう時はやはり教授の出番だ。一瞬にして騒がしい雰囲気が静まり返った。
「みんなにはまだ仕事があるだろうから、先に帰っていいぞ。私は池君を海底トンネルの入り口まで送るから。」
「なら手短にしましょう。私はここに、観察団の全体成員を代表して、安達様に敬意を表させていただきます。今後のご多幸をお祈り申し上げます。」
その年配の医師はそう言いながら、自ら拍手を始め、両側に並んだ人々もそれに続いて拍手を送った。
「行こう、安達君。」
教授と池は、熱烈な拍手の中、通路の扉を出て行った。
しばらく歩いた後、二人は最下層まで続くエレベーターに乗り込んだ。
「先生、さっきの事って、まるで夢のようでした。みんなに変な目で見られると思っていたのに、まさか観察団の皆様が送別会を開いてくれるなんて、本当に予想外でした……どうやら、私が考えすぎだったようです。」
「他人の目など気にする必要はない、池君。他人の見方や考え方など偏っているものさ。君を本当に大切にして、愛してくれる人だけが、いつまでも君の最高の一面を見続けてくれる。君がすべきことは、君にとって大切な人たちが、いつまでも君の姿を見続けられるようにすることだ。たとえあなたと光年単位の距離で遠ざかっていたとしても、彼らは君の最高の一面を心の奥底に大切にしまっておくだろう。勝手に彼らの人生から自分の姿を消さないで、池君。」
「わかりました……先生、ありがとうございます。」
エレベーターは地下3階に到着した。ここは海底トンネルの入口がある階でもある。エレベーターを降りて真っ先に目に入るのは広大な地下駐車場だ。そこには様々な車両が停まっており、従業員たちの自家用車をはじめ、基地専用の貨物トラック、警備員専用の特殊装甲車、さらには数台の派手なスーパーカーまである。どのスーパーカーのフロントガラス内側にも、「羽杉の私有財産!勝手に触れば訴えるぞ!」といった、見ていて不快な言葉が書かれている。道理で羽杉という男が下田にそこまで忠実なのだ。下田についていれば相当な利益を得ているに違いない。そうでなければ、30歳を少し過ぎたばかりの若さで、高価な高級スポーツカーを何台も買えるわけがない。
教授は駐車場の奥にあるトンネル入口のゲートの方を見やると、あそこに黒い高級セダンが待っているのが見えた。
「あそこだ。下田が君に手配してあげた車だ。行こう。」
「下田が手配してくれたんですか? あいつ、まさかあんなに気配りができるなんて。昇進や金儲けのことばかり考えているのかと思っていましたが。」
「はあ、急に良心に従うようになったのかもしれないな。あいつはいつも気まぐれで、読めない奴だ。ただ一つ確かなのは、彼が上層部の機嫌をうまく取れるということだ。だからこそ、陽の国の最大の宇宙発射基地である虎視島の管理を任されたのだろう。」
「わかります!あいつは一日中『上司』『上層部』なんて言葉ばっかり口にしているわけですから……ところで先生、あいつのこと、よくご存知ですね。」
「それほどよく知っているわけではない。仕事の上では何度か交際があったが、彼について知っているのはそれくらいだけだ。」
二人は道々雑談をしながら、とっくに待機していたセダンのそばへとたどり着いた。運転手はそれを見てすぐに運転席から降り、教授と池に一礼した。
「リチャード教授、安達様、私は下田長官の専属運転手でございます。安達様をお迎えし、京空市のご自宅までお送りするよう命じられました。どうぞお乗りいただけますでしょうか?」
「ああ……少々お待ちください。教授と少しお話ししたいことがあります。」
「承知しました。出発の準備が整いましたら、いつでもお声かけください。」
運転手は自ら脇に退き、池と教授が話し合えるように空間を空けた。
「乗ろう、池君。家に着いたらしっかり休んで、体調を整えるのだ。とはいえ、あまりリラックスしすぎず、いつでも宇宙に戻れるように準備をしておいてね。」
「はい、先生。これからも虎視島にいらっしゃいますか?」
「しばらくここにいる予定だ。それに、今後池君の定期検査を行う組織からの招待状も受け取ったし、あの連中の一員になることになるから、今のところここを離れる理由もない。」
これから先も教授に頻繁に会えると思うと、どんな検査が待っていようとも、池はより安心してそれに臨むことができる。
「先生がいらっしゃれば、とても安心できるのです。」
「あれこれ気にせず、休暇を楽しんでくれ。さあ、早く乗ろう。あんまり運転手を待たせないで。」
「はい、それじゃお先に。先生、どうかお体に気をつけて!」
「じゃあまた、池君。」
「運転手さん、出発の準備ができました。」
池はそばに立っていた運転手に合図を送ると、運転手はすぐに後部座席へ駆け、池のリュックをトランクにしまい、ドアを開け、腰をかがめて池が車内に入るのを丁重に待ってから、運転席に戻った。池が車に乗り込んで最初にしたことは、窓を開けて、教授をもう一度見ることだった。
「先生、お帰りください。足に持病がありますから、長く立っていると痛くなってしまいます。」
「大丈夫だ。あっ、そうだ、お父様によろしく伝えて。」
「はい、必ず父にお伝えします。」
車が動き出した。スキャナによる検査が終わると、電子ゲートが解除され、車は果てしなく続く全長26キロメートルの海底トンネルへと入っていった。池は窓から顔を出し、名残惜しそうに自分を見送る教授に向かって手を振った。教授は、車が視界から完全に消えるまで、優しくその姿を見送っていた。
全長26キロメートルに及ぶこの海底トンネルは、虎視島と外界を結ぶ唯一の通路であり、トンネルの反対側には、人口170万人以上を擁する大規模な海浜都市・京空市があり、そこは池が現在住んでいる町でもある。陽の国の西海域に隣接し、優れた地理環境を持つ京空市は、美しい海辺の風景と快適で過ごしやすい気候、そして豊富で良質な海産物に恵まれている。 観光シーズンや祝日には、全国から、さらには世界中から多くの観光客が観光や休暇しに来るのは恒例だ。
驚いたことに、海辺の都市として非常に懸念される問題である―― 台風や津波といった自然災害が、すでに100年以上にわたり京空市に影響を与えていない。台風が京空市に接近するたびに、 上陸の直前にはいつも不思議に進路を変え、この海域から遠ざかっていく。津波の話など、3世代にわたり京空市で暮らす住民たちにしてみると、まったく馴染みのない概念である。もし地元の誰かに津波について尋ねてみたら、余所者を見る目に見られたり、外国語や最新のネットスラングを話しているかと思われたりするだろう。
京空市が百余年にわたり海と平和に共存し、そしてこれほど素晴らしい環境に恵まれていることを、地元の住民はすべて海の神の恩恵によるものと捉え、感謝の念を抱いている。そのため、京空市の郊外にある御潮山の山頂に、神を祀る立派な神社を建て、人々が参拝できるようにした。毎年夏には大規模な祭りが行われ、甚だしく賑わう盛況も京空市の魅力の一つである。
あらゆる面で非の打ち所のないこの都市は、観光スポットにしても定住地にしても、これ以上ないほどうってつけだ。しかし、虎視島の存在は、多少なりとも目障りな存在だ。
もともと京空市の外海にあるごく普通の小さな島で、島には陽の国空軍の小さな基地があった。だが、およそ10年前、政府はこの島に注目し、「陽の国宇宙プロジェクト開発計画」の重要な構成要素として位置づけた。京空市の住民たちはこれに少なからず不満を抱いていたが、政府の弛まぬ説得により、あまり強く反対することはなかった。こうして十数回に及ぶ埋め立て拡張と、昼夜を問わない宇宙施設の改修を経て、6年前に陽の国最大規模の宇宙発射基地――虎視島宇宙センターが正式に完成した。それが、池が現在勤務している場所である。
以前、島と外界を結ぶ交通手段は航空便と船便の二通りしかなかったが、資金不足のため、間もなく交通部門によって航空便の便数が大幅に削減され、船での移動が京空市と虎視島を行き来する主な手段となった。およそ4年前、下田勝聡は管理不行き届きにより解任された初代司令官の後任として正式に就任し、虎視島宇宙センターの全権を掌握すると、既存の管理体制に抜本的な改革を断行した。就任して間もなく、下田は上層部に対し、「京空市と結ぶ海底トンネルの建設」という計画案を申請した。その理由は、「安全や機密保持などの観点から、海底トンネルを建設すれば虎視島への出入りを監視しやすくなるほか、京空市で安価で良質な生活物資を調達しやすくなり、後方支援部の輸送費も削減できる」というものだった。多くの議員の支持を集めることで、国会でその議案が圧倒的な票数で可決された。1年も経たないうちに、巨額の投資で建設されたこの海底トンネルは竣工したが、近隣の海洋生態系に一定の影響を与えた。地元住民はこれに強い不満を抱き、トンネル着工を阻止するために数回もデモを行ったが、その都度下田が自ら乗り出し、様々な巧みな言葉や補償金で収めてしまった。下田の管理能力は、それによって多くの高官から高く評価されることとなった。
全て鉄筋コンクリートでできたこのトンネルの中では、深海の景色など少しも見えない。だから、「水族館のガラストンネルのように、目の前や頭上を様々な魚たちが泳いでいるのを見られる」といったような甘過ぎる期待は抱かないほうがいい。ここで見上げて見えるのは、群れをなす熱帯魚などではなく、トンネル内を走行する一台一台の車両を常に監視している、びっしりと設置された監視カメラだけだ。
虎視島で2年以上働いている池は、このトンネルをまるで自宅の居間のように熟知している。その驚異的な記憶力と暗算能力のおかげで、トンネル全体に何台の監視カメラが設置されているかまで、はっきりと把握している―― 3590台。1キロメートルあたり平均138台もの小型監視カメラが設置されており、全角度からトンネルを通過する車両のあらゆる情報を分析している。その情報には、ナンバープレート、メーカー、車種、累計走行距離、現在の時速、運転手や同乗者の個人情報などが含まれる。1キロメートルあたり138台とは、まさに常軌を逸した密度だ。こんなに多くの監視カメラを設置するのに費やされた経費は、このトンネルの建設費と同様に天文数字のほどだった。こうした意味不明な箇所に惜しげもなく金を浪費しておきながらも、サンプル採取ロボットを任務に派遣するための少しばかりの予算を割くことさえ拒んだ。その結果は、自分にこのような予想外の災難を招いてしまったのだ……
と、思ったら、池は腹が立って仕方なかった。だが、トンネルを出るまでは感情を抑えておくのが賢明だ。ここの監視カメラはすべて透視機能が付いているからだ。すなわち、車の後部座席に座っている池の表情は、どんなものであれ基地内の監視センターからはくっきりと見えるということだ。不機嫌な顔をしかめるのも例外ではない。池はそれをよく承知していたため、感情を顔に出すことはせず、その悔しさを飲み込み、目を細めて休息を取り、この帰宅の道のりを平穏に過ごそうとした。




