第三十三話 無事そうに、ライブの閉幕に近づいていく
僕はよろめきながら自分の席に戻ったが、着席する暇もなかった。僕の帰りを待っていた清音が席から飛び起き、拳を握って胸にかざし、嬉しそうにこちらを見つめてきた。
「先輩!やっと帰ってこられたんです……一、一体どうしたんですか?何が起きたんですか?こんなにボロボロな姿になって……」
ついさっきまで、清音は僕の帰還を喜んでいたのに、今や驚きの声を上げ、次々と心配そうな問いかけを寄越してくる。
「なんでそんなに慌てるんだ?俺の様子って何がおかしいのか……」
服の生地を通して全身の肌に伝わるわずかなひんやり感。今までずっと気にも留めていなかったそれが、今、自分がいかにみっともない姿であるかを思い知らせてくれた――
全身ずぶ濡れで、服は乱れ、髪はくしゃくしゃ。まるで誰かに引き上げられた溺水者。
にもかかわらず、舞台裏から席に着くまで、嘲笑の声は一切聞こえなかった。
周囲の騒音が大きすぎたからか、あるいは僕の「存在感ゼロ体質」がまた働いたのか?
「あ~~~実はさっきトイレでうっかり転んじゃって、こんな姿になっちゃったんだ。」
ただ転んだだけなら、これほどボロボロにになるはずがない。たとえ便器の中に全身を落としてしまったとしても、これほどの有様にはならないだろう。
しかし、清音は僕の言い訳を完全に無視し、何も言わずに近づいてきて僕の身だしなみを整えてくれた。さっきの機動隊隊員らの手際と比べたら、その丁寧さは、あの無骨な連中を赤面させるほどだった。
「あの、清音、やっぱりやらせてもらおうか? こんなことしてもらって気まずいし……」
僕の頼みは再びスルーされた。清音はハンカチを取り出し、シャツに残った拘束ロープの液体を拭き取り始めた。ハンカチ一枚では水分をほとんど吸い取れないことは、彼女も分かっているはずなのに……
しかし、彼女が手を止める気配は一向になく、余分な水分子をすべて取り除ききらないと絶対諦めないご様子。
だが、彼女の好意を無理に断れば、素っ気ないように思われてしまう……。
異性との付き合い方に関する経験が甚だしく乏しいことから、自分の不器用さが丸見えになってしまった。
―――――――
「どうやらご主人様は、かなり気まずい状況におられるようですね。」
「嫌味を言いやがる場合か心臓さん?早く何とかして!健全な男が女の子にこんなことをしてもらうわけにはいかないだろう!」
「しかし、ご主人様の血液中のドーパミンの代謝産物濃度を見る限り、ご主人様は快感を感じているようです。つまり、この過程を楽しんでいるのです。よって、長実さんを止める必要はないと存じます。」
「ふ、ふざけるな────── !俺はそんな人間じゃない!」
「ねぇマスター、無理せず認めたらどうかしら?心臓さんならマスターのお悩みをすべて知り尽くしているわよ~」
「またツッコミしやがって……とりあえず少し黙れ耳!そして心臓さん、早く助けてくれ!」
「承知いたしました。ただ、これは少々厄介な問題ですが……」
心臓と話し合っている最中、ステージ中央から「月隠の顔」の歌声が流れ、瞬く間にホール全体を揺るがした。
「歌が始まりました。これは好機です。ご主人様、ぜひ活用なさってください。」
「活用? あ~~~! どうすればいいか分かった!」
僕は勇気を振り絞り、ワクワクしながら両手を清音の肩に置いた。
力はほどほどだったが、あまりに突然だったせいか、うつむいて僕の服を拭いてくれていた彼女は驚いてしまい、ハンカチをしっかりと握りきれず、危うく僕の顔に投げつけるところだった。
僕の視界を遮っていたハンカチが清音の手のひらに落ちた後、僕が最初に目にしたのは、期待に満ちたその瞳。それは、開演前に細胞たちに操られて『筋金入りのファン』であることを明かさせられた時、僕を見つめていた瞳と同じだった。
「清音、見て! 第3ステージが正式に始まったよ!俺の服のことはもういいから、一緒に『月隠の顔』のパフォーマンスを楽しもうぜ!」
「で、でも、先輩、そのままだと風邪をひきやすくなっちゃいますから!」
「大丈夫、宇宙飛行士の体なんてそんなに弱くないんだから~さあさあ、俺と一緒にペンライトを振ってはしゃごう!」
「で、では、お言葉に甘えて……」
僕はすぐに自分の光る棒を手に取り、「獅子舞い」だと笑われたあのぎこちないダンスを、音楽のリズムに合わせて踊り始めた。
清音は仕方なくハンカチをポケットにしまい、少し寂しそうな顔で光る棒を握り、盛り上がりの輪に加わった。
―――――――
歌声に合わせて踊り出すのは、喜び狂う数々の生き物たちの絶叫だけではない。僕と心臓との会話の声も共に響いている。
「ご主人様、失礼ながら、先ほど拙者が言いたかったのは、歌で長実さんの注意をそらすことであって、彼女と身体的な接触をすることではありませんでしたよ。」
「えっ? どうせ……どうせ結果は同じだったんだろ!あの仕草も単なる偶然だったし、彼女に手を出すつもりは全くなかったんだ!」
「もちろんそういう意味ではありません。ただ、異性と接する際には節度を保つべきだと申し上げただけです。」
「その点については、俺のほうが君よりよく分かっているはずだけど……とにかく、今後は気をつける。」
「とはいえ、長実さんは拒絶や嫌悪といった感情を全く見せていませんでしたね。メガネを拾った時もそうでしたし、ご主人様に手をしっかりと握られても文句を言いませんでした…こうした従順な反応は、研究する価値がありそうですね。」
「他の細胞たちと同じように、うちの妹の歌をちゃんと聞いてくれたまえ心臓さん……」
「妹さんの話ですが、ご主人様、第3ステージのオープニングが以前と少し違うと思いませんか?」
「何が違うの?5分早く始まっただけじゃないの?」
「それだけではありません。オープニングでの『月隠の顔』とファンたちとのやり取りが、少し長すぎませんか? まるでわざと時間を引き延ばしているみたいに感じられます。」
「どんどんわけがわからなくなってきた。なぜアイツが早めに再登場したのかさえ、まだ理解できていないのに……」
「拙者からいくつかのヒントをご提供することはできますが、あくまで個人的な推測に過ぎません。具体的な判断はご主人様ご自身でなさってください。」
「遠回しにしないで、はっきり言ってくれ。」
「もしかすると、彼女は誰かの帰りを待っているから、歌い始めるのをずっと遅らせていたのではないでしょうか?」
「つまり……彼女が、俺が舞台裏から戻ってくるのを待っているってこと?」
「これは、拙者がこれまでに学んだ人間の思考パターンから導き出せる、最も可能性の高い推測です。」
この前、文緋の体調について推測した時と同様、どちらも最も論理にかなった結論。
仕方なく僕は首を横に振ったが、心の中ではふと温かな気持ちが湧き上がってきた。
一人の人間に対して、避けようとする気持ちと期待する気持ちという、正反対の感情を同時に抱くこと――理論的にはあり得るのだろうか?
―――――――
第3ステージが進むにつれ、耳に残るメロディーと魅惑的な音色が徐々に僕の思考能力を奪い、「月隠の顔」の躍動的な舞踊と華やかなコスチュームが僕の網膜を埋め尽くした。
第1ステージで味わった、頭を空っぽにして没入するあの体験も再び訪れ、ありとあらゆる悩みや憂いを吹き飛ばしてくれた。
その中には、本来この段階で完了すべきだった仕事――文緋の顔色が正常かどうかを観察すること――も含まれていた。
透視メガネを失ったその瞬間から、僕は実はすでに、自分が文緋のためにできることは、普通のファンと大して変わらないことを悟っていたのだ。
それに、ベットした直後に、後悔して賭けを撤回しようとするギャンブラーなんているだろうか?
本物のカジノでそんなことをすれば、ボコボコに殴られ、ゴミのように追い出されるに違いない。
すでに安達家が勝ち組だと決め込んだ以上、あとは報酬がやってくるのをじっと待つだけでいい。損得にこだわったり、ためらったりする理由などどこにもない。
何より重要なのは、彼女がやっと第一ステージの時と同じく、その仮面を再び僕の方に向けてくれるようになったことだ。
ライブ全体のクライマックスを担う第三ステージの意義は言わずもがな、いかにしてこの歴史に残る夜を、最も熱狂的な雰囲気で締めくくるかが、成否を分ける鍵となる。
30曲近くの人気名曲が詰め込まれた2時間の間に、「月隠の顔」のパフォーマンスは古今東西を問わず最高峰と言えるものであった。ゆったりとしたテンポのバラードでさえ、歌の終わりには開幕以来の最高デシベルを記録するほどの歓声を引き起こし、麻薬以上の中毒性を持つアップテンポな作品に至ってはなおさらだった。
その間、メインステージの大型スクリーンには、以下の生中継の映像が頻繁に映し出されていた――
興奮しすぎたり体力が尽きたりして倒れた熱狂的なファンを救助するために、医療スタッフがホール内に入ってくる様子。
幸い、僕と清音は最初から最後まで良好な状態を保てたので、主催者によって全国生中継で「公開処刑」されるような不運な犠牲者の一人になることはなかった。
とはいえ、もし僕の恥ずかしい姿を宣伝材料として活用し、「月隠の顔」の影響力を引き立てる必要があるのであれば、喜んで主催者に素材を提供させてもらう。




