第三十二話 無くなった特権
ホールまでの距離とファンの歓声は、間違いなく反比例になる。しかし、後者の変化の幅は驚くほど大きく、ホールに向かって一歩踏み出すだけで、歓声の大きさは瞬時に数倍にも増す。
ここで、まだホールの外にいるファンの皆さんに忠告したい。
自分の耳に十分な適応時間を与えるためにも、また不慮の事故を防ぐためにも、ホールに帰る途中は歩みをなるべくゆっくりにしたほうが良い。僕みたいに全速力で走り出すようなことは絶対に避けてほしい。
とはいえ、僕の耳は少し特殊で、音波を含む空気を捉えるだけでなく、同時に僕の頭の中で絶えずおしゃべりをしているのだ。
「マスター、悪気はないんだけど、さっき心臓と目が言っていたこと、全部聞き流してたんじゃない?」
「耳さん、ご主人様が私たちを信じるかどうかは別にして、せめてご主人様にはもう少し敬意を払ってくれないか……敬語くらい使ってほしい……」
「目ちゃん、私はあんたの代わりに言ってあげるだけなのに? それに、私が綺麗事を言う性格じゃないって、あなたたちも知ってるだろう。私たちには、聞くべき言葉と聞くべきでない言葉の区別しかできない。マスターも私たちと同じ聴覚を持っているんだから、この理屈は分かっているはず。もちろん、もしマスターがうるさいと思うなら、私たちに発言禁止の命令を出せばいいだけだけどね。」
「そんなことはしないぞ。はっきり言ってやる。目や心臓たちが言った言葉の一つひとつが、俺の脳裏に深く刻み込まれていて、さっきから今に至るまで一瞬たりとも忘れたことはない。」
「ご主人様~~~私たちの言葉を覚えていてくださって、ありがとうございます~」
「それでもあの…何というか…伊久美秘書の保証をそんなに簡単に信じるつもりか?私たち細胞の方が、あの人間らよりずっと頼りになることを知っているくせに……」
「俺が信じているのは伊久美秘書ではなく、うちの妹だ。それ以外に選択肢はない。」
これこそが、今回の「賭け」における第三の選択肢であり、僕がすべてを賭けるに値する唯一の選択肢。
耳からの声が突然なくなった。その瞬間、心臓が会話に加わった。
「拙者はご主人様のお気持ちを理解しております。家族として互いに信頼し合うのは当然のことであり、それは家族愛の最も基本的な要素の一つでもあります。」
「君という代弁者がいてくれて、自分でも気恥ずかしく感じるような言葉を口に出さずに済んだ。」
「お褒めいただきありがとうございます! これからも、ご主人様の本音を皆に伝えるよう努めてまいります!」
「待て!そういう意味じゃない!お前は俺のプライバシーを侵害しているんだぞ!」
「本音ってプライバシーに該当するんですか?」
「……本当に分かってないのか、知らんぷりしてるのか、心臓さん?」
耳は声を出さなかったが、会話から退いたわけではない。ただ、彼女の会話相手は自分自身だったのだ。
「妹のことを私たちより大事にするなんて、馬鹿マスター……」
―――――――
全速力で走り続けた末、やっと「月隠の顔」が歌い始める前に、ホールに戻った。暗がりに包まれた会場は、手を伸ばしても指先が見えないほどの夜空のようだった。
そして、ステージ中央で銀白色の光を浴びるその人影は、「月の女神」の名の通り、女神の姿で大地に輝きを撒き散らし、夜の道を歩く旅人たちに行き先を照らしてくれている。
「おぉぉ―――! また『月隠の顔』に会えた! バンザイ―――!」
ホールに入った途端、脳内の細胞たちが「月隠の顔」への熱狂を思う存分ぶちまけているのが聞こえた。僕にとっては、もはやごく普通の生理現象となっている。
「まだメガネもかけていないのに、そんなに大騒ぎしやがって、ちょっと早すぎるんじゃない?」
「ご主人様! 早く早く! みんなもう待ちきれないんです!」
「皆さんの高ぶる気持ち、拙者も深く共感しておりますが、当面の急務はまず『月隠の顔』の顔色の様子を目で確認することです。その後のパフォーマンスをより一層楽しむように、どうか少しばかりお落ち着きください。」
「心臓さん、また俺と同じ考えだね~ちょっと待って、まずメガネを取り出すから。」
この時、僕は1階のVIPエリア専用入口に立っている。ステージからはかなり離れているが、細胞たちと同じく、僕はただ一刻も早く仮面の下にある美しい顔を見たいとしか考えていない。医学的な観察という目的もあるが、下心も込められているのだ。
「ん? この感触、ちょっとおかしい……中に何か尖ったものがあるみたい……痛っ!」
ズボンのポケットに突っ込んだ指先に微かなチクッとする痛みが伝わり、本能的に手を引っ込めた。
同時に、不吉な予感が胸に湧き上がった。幸いなことに、指に傷はついていない。
「もしかして……神様、お願いですから、メガネが無事でありますように……」
もう一度右手をポケットに突っ込み、神様に止めどなく祈りを捧げながら、指をポケットの奥へとゆっくりと進めた。その慎重さは、地雷原で地雷探知を行う兵士と見劣りしないほどだった。
メガネのテンプルと似ている細い物体に触れたところで、それをしっかりと掴み、一気にポケットから引き抜いた。
明らかに、無神論こそがあらゆる宗教的信仰に取って代わるべきだ。神様など本当に実在したとしたら、僕の祈りが聞き届けられないはずがない。
「ダメだ……メガネは完全に壊れてしまった……」
僕の手の中には、バラバラに割れたレンズ、歪んだリム、そして折れそうになるほど曲がったテンプルが混ざり合った、メガネの残骸が握られていた。
「さっき、あのクソ警察らに地面に押さえつけられた時に壊れたに決まってる! ちくしょう! これじゃ文緋の顔なんて全然見えないじゃないか!」
「え―――???マジ???」
数十兆もの悲鳴が精神空間でマグニチュード10の地震を引き起こした。
「どうしたらいいんですか!妹さんの顔が見えなければ、気配を観察しようがないです!」
最も焦っているのは「目」だ。もし細胞たちに顔があるなら、今の「目」は泣き出しそうな表情をしているに違いない。
「これでは俺にも手立てがない。どのメガネも使用者の虹彩と紐付けられているから、たとえ親のメガネを借りても無駄だ……もう一度バックエンドに侵入して、新しいメガネをくれるって北崎に頼むわけにもいかないし。つうか、君たちが透視能力くらい開発してくれれば助かるんだけど。」
「でもご主人様、進化の方向は私たちには決められないのです……それに、もしそんな能力があったら、何かよからぬことに使われてしまうかもしれませんよ?」
「俺の超能力って、どれもこれも『よからぬこと』だと思うけど……」
「現時点での『月隠の顔』の動きを見る限り、当面はそれほど心配する必要はないと存じます。もちろんこれは拙者個人の見解であり、少々独断的かもしれませんが、ご主人様の参考になれば幸いです。」
「そう言えば、まだ歌唱は始まっていないけれど、確かに文緋の調子は前より少し良くなってきた気がする。」
確かに心臓が言った通り、「月隠の顔」がステージ上で生き生きとファンたちに手を振っている姿を見ていると、「顔色が悪い」や「体調不良」といった、体の弱さを表す言葉は全く連想されず、むしろ観客は自ずと、仮面の下にあるあの神秘的な顔を、活力と元気いっぱいな美貌だと想像するだろう。
「心臓の言う通り、今はあまり深く考えず、しばらく様子を見てみよう。そうだ、両親にも報告しなきゃ。きっと待ちくたびれているだろうから。」
あらゆる兆候が楽観的な方向に向かっている以上、この賭けで大勝利を収めるとますます確信を深めた。そこで、両親にも賭けに参加してもらい、勝利の『報酬』―――安達家の栄光、親としての誇りを前倒しで受け取ることにした。
こうすれば、この莫大なリターンは、僕を通じて得られるだけでなく、かつて「三流」と見なされていた目の前の少女からも得られること、しかも彼女からの分け前は僕からのよりもはるかに多いということを、両親に知らせてやれる。
スマホが普通に使えていれば、10秒もかからずにこの件は片付いたはずだが、今の状況では、スマホを使うどころか、口頭で伝えることさえ難しい。
理由はとても分かりやすい。僕のことを釘付けにするかのように視線をこちらに向けている文緋に、僕がVIP席でスパイのような格好をした二人と話しているところを見られてはならない。
見られたら、あの二人の正体がバレてしまう可能性があるからだ。たとえ彼女がライブの第2段階からずっと僕を避けていたとしても、このリスクは冒せない。
そこで、僕は「特権」を行使して両親への伝言を誰かに依頼するしかなかった。
―――――――
適当に場内のスタッフの一人にVIPマークを見せてから、VIP席の3列目、72番と73番の席に座っている二人へ、以下の内容を伝えてほしいと頼んだ──
「池という者より、現時点で把握している状況では、ターゲットの状態に異常はないとのことです。ご心配なさらなくて大丈夫です。」
正直なところ、これはメッセージというより、むしろ何らかの符丁や隠語のようだったが、スパイ同士の通信スタイルとしてはなかなかふさわしいものだった。現代社会でスマホがなければどれほど不便か、身をもって痛感した。
僕は遠くからそのスタッフが目的地へ向かうのを眺め、伝言を済ませたのを確認した上で、ほっとしながら自分の席へと歩き出した。
ステージの真前を通り過ぎる際、僕の目には道を見る余裕すらほとんどなく、何度か転びかけたり、障害物にぶつかりそうになったりして、まるで酔っ払いのようだった。
何しろ、どうしても頭を自然に正面に向けたままにしておくことができず、首がいつも勝手にステージの方を向き、視線は言うまでもなく、ステージ上の銀白色のライトに照らされた人影に惹きつけられてしまうからだ。
これは間違いなく、細胞たちの勝手な行動ではなく、僕自身の意志から生じた衝動だった。
残念なことに、もう一つの「特権」――つまり透視メガネ――を奪われてしまったため、彼女の視線がどこに向かっているのかもうわからなくなった上に、僕の視線と交わっているかどうかもわからなくなった。
二人の間の「瞬き通信」も、当然のことながら封じられてしまった。




