第三十一話 舞台裏侵入作戦 『勝利』に終わった
「やっぱりアイツか……でも、なぜ私が舞台裏に居ることを知っていたのですか?」
「正直に申し上げると、当時『月隠の顔』は専用の控え室で休憩中でした。私と他の数名の同僚は、北崎様の指示により、次のステージ開始前に不測の事態を防ぐため、見守りを任されていたのです。その最中、身元不明の人物が舞台裏に侵入したという情報を耳にしました。以前にも同様の事例が度々あったため、私たちはあまり気に留めていませんでしたが、控え室の外から叫び声が聞こえてくるまで……」
「やっぱり彼女は控え室にいたのか……叫び声については、俺が拘束ロープを解こうとした時に出したものだろう。」
と、池は心の中で呟いた。真相はほぼ明らかになったが、池は最後まで聞き続けることにした。
「……『月隠の顔』は、それが安達さんの声だと確信し、私たちの反対を押し切り、どうしても自分で確認しに出ようとしていました。私たちが精一杯説得した末、ようやく私が『月隠の顔』の代わりに、確認に行くことになりました。もし本当に安達さんなら助けてあげると命じられ、その結果、ご存じの通りとなったのです。」
その言葉を聞いて、池は歯を食いしばり、両拳を固く握りしめ、自分と細胞たちだけが聞き取れる声で自分自身を責めた。
「なぜ毎回こうなるんだ……なぜ毎回、俺が彼女に迷惑を掛けてばかりいるんだ? ただ彼女のために何かしてあげたかっただけなのに、なぜいつも、彼女に心配をかけたり、傷つけたり、涙を流させたりするような結末になってしまうんだ!」
「ご主人様……」
細胞たちは池を慰めようと何か言いたかったが、人間に対する複雑な感情をまだ十分に理解できていないため、何から切り出せばいいかわからず、結局、人間の感情に最も詳しい心臓にその役目を任せるしかなかった。
しかし、心臓が声を上げる前に、精神空間には別の声が響き渡り、その口調には不快感がにじんでいた。
「ねえ、マスター。ここでうじうじ悲しんでいる場合じゃない! 早く本題に入ろうよ! さもないと、ライブの第三ステージが始まっちゃうから!」
話しかけたのは、普段から池という主人に対して冷たい態度をとっている「耳」だった。
他の細胞たちは、耳の主人に対する不遜な振る舞いに我慢できず、こぞって激しく非難した。
「またか!ご主人様にそんな口調で話すなって警告しただろう!」
「ご主人様の一部として、ご主人様のことを第一に考えるべきでしょう。耳さんったら、ご主人様が悲しんでいる時に慰めるどころか、逆に失礼なことを言って、まさに火に油を注いでいるじゃないですか!」
「私の言うことが間違ってんの?別に悲しむようなことなんてないと思うけど。兄のことを常に気遣い、いつでも兄を第一に考えてくれる妹がいるなんて、幸せなことじゃないの?」
罪悪感でこわばっていた池の体がほぐれ始め、悲しげな表情も和らいだ。
現実世界では今にもこぼれ落ちそうだった涙も、池が無理やり精神空間の中に押し込み、そこで溢れ出させていた。
「耳の言う通りだ……本当に……彼女が俺の妹でいてくれて、心から感謝している……」
「それならそれでいいじゃないか? ここで悔やんでばかりいるより、この血のつながった肉親を大切にして、彼女のために実際的なことをもっとしてあげたほうがいい。結果がどうなるかは、やってみないと分からないだろう?」
「ああ、彼女のためにやるべきことは、絶対にやり遂げる!
「だからね、マスター、やるべきことをやっていこう。」
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気を取り直した池は、再び伊久美との会話に集中したが、細胞同士のやり取りはまだ終わっていない。
「意外ですね、耳さん、物事を考える角度もなかなかユニークです。」
「お世辞がお上手ですね、心臓さん。私はただ、早くライブに戻りたいだけなんです~。」
「でも、もしご主人様をそれほど気にかけていなければ、こんなに短時間でご主人様の自信を取り戻させることなんてできなかったでしょう?」
「か、かん、勘違いしないで! 私、ライブだからって言ったでしょ! 我々耳は、この世の美しい音楽を聴くために生まれてきたのであって、ネガティブな感情ばかりを放つ退屈な心の声を聞くためじゃないわ!」
「はいはい、私が考えすぎでした~~~どうやら他の細胞仲間たちの性格も、人間と同じように多様化してきたようですね。」
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その一方で、池は率直に伊久美秘書に対し、舞台裏を訪れた理由を伝えた。
「では、彼女に会わせていただけませんか? ライブの妨げには絶対にならないと約束します!」
「大変残念ですが、安達さん、そのご要望にはお応えできません。」
交渉相手が北崎の直属の部下に変わっても、状況が変わる気配はなかった。池は思わず声を荒げた。
「伊久美さんまでそうおっしゃるのですか……しかし、なぜですか?そんなに長くはかかりません!家族として面会することさえできないのですか?」
「ご存じないかもしれませんが、これは当方の規定です。ライブの休憩時間中、チーム以外の者は、家族を含め、『月隠の顔』に近づくことが固く禁じられております。お気持ちは十分理解できますが、私たちにもやむを得ない事情があるのです。」
「家族ですら会えないなんて、一体どういう理不尽な規定なんだ!まったく理解できない!」
もちろん、この不満の言葉は池が自分自身に呟いたものだ。実際に口にした言葉は、相変わらず理性と感情知性によって築かれたものだった。
「そこまでおっしゃるなら、無理強いするわけにもいきませんが、一つだけ明確にしてほしいことがあります。それは『月隠の顔』の体調についてです!アイツ今、具合はどうですか?体に不調なところはあるのか? お願いですから、どうか教えてください!」
「恐れ入りますが、警備員と衝突しても舞台裏に入ろうとしたのは、この件のためだったのですか?」
「そうです! これは今夜のライブに関わるだけでなく、彼女の将来の人生にも関わる問題なのです!」
伊久美秘書は微笑みながら、池を称賛するような視線で見た。
「事情は理解しました。しかし、『月隠の顔』の体調については、お答えできません。」
池の忍耐にも限界があった。
池は自分から一歩譲ろうと思っていたが、伊久美秘書は依然として便宜を図ってくれずに、情報を少しも明かそうとしなかった。
秘密保持の厳格さという点では、北崎は下田という男と互角に張り合えるほどだ。
「そこまで守らなければならないのか?彼女は私の妹だ!軍事機密なんかじゃない!彼女に会わせないくらいならまだしも、親族である私に、これだけの知る権利もないというのか?」
言葉には礼儀も理性もなく、その代わりに徐々に燃え上がる怒りがにじみ出ていた。
「特権階級」の座から転落した時、その激変を平然と受け止められる者はそう多くないだろう。池も当然例外ではなかい。
池が感情を剥き出しにしている様子を見て、伊久美秘書は不快感を示すどころか、むしろ先ほどよりも一層明るい笑みを浮かべ、余所者の前で失態をさらさないよう手で口元を隠さないといけないほどだった。
そして、池の問い詰めに対する答えも、その優しい笑い声の中に隠されていた。
「大、大変失礼いたしました~~~安達さんがそれほど真剣なご様子だったので、ついちょっとした冗談を言ってしまいました。どうかお許しください~」
「え? 冗談? どういうことですか?」
「『月隠の顔』の健康状態については、確かにこれ以上お答えできませんが、それはお伝えすることを拒否しているわけではなく、ご本人の具合が完全に正常であるからこそ、安達さんにお伝えできることなど何一つ思いつかないのです。」
「本当ですか―――?本当に彼女に体調不良はないと断言していただけますか?」
「もちろんです。『月隠の顔』の健康管理を担当する専門の医療チームがおり、そちら側が定期的に行う健康診断の報告書によれば、『月隠の顔』の身体には何の問題もなく、今夜のライブを十分に務められる状態ですので、どうぞご安心ください。」
「でも、彼女の様子に何かおかしいところがあると思いませんか?」
「強いて言えば、普段より少し疲れているように見えますが、それは今夜の歌の数が普段のライブより多いからでしょう。通常の体力消耗の範囲内ですので、大した問題はないと思います。」
「そうか……専門の医師と、秘書さんのお二方からの保証があるなら、だいぶ安心しました。」
秘書の保証で池は安心し、いわゆる「賭け」も確実に儲かる投資へと変わり、これにより池は「ライブの大成功」という選択肢に思い切って賭けることができた。
説得力という点で言えば、専門医の診断対根拠のない判断、どちらを選ぶべきかは明らかだろう。
特に、これらの判断が異常な生命体たちによって下されたものである以上、説得力など欠片もない。
しかし、この生命体たちは諦めず、引き続き自分の主張を押し通そうとした。
「ご主人様!私たちの観察には絶対に間違いはありません!この人間の言葉を安易に信じてはいけません!」と、目が意地を張って言い切った。
「君たちを信じてないわけじゃない。だが、君たちも見ての通り、この秘書さんはうちの妹の健康状態をかなり詳しく知ってるし、医療チームも保証している。彼女を信じない理由はないんだ。」
「ご主人様、失礼は重々承知の上ですが、人間の身体自体の生理機能すら完全に解明できていない『人間の医師』たちが、本当にそれほど信頼できるのでしょうか? 人体のあらゆる面について、人体を構成する私たち細胞の方が、もっとよく知っているのではないでしょうか?」
心臓の言葉は、その場で池の主張を論破した。
高度な科学技術を持つこの青い惑星においても、未だ解明されていない謎は数多く残されており、特に比較的遅れている生物学と医学の分野においては、人類の認識は実に限られている。
それに比べれば、人体のあらゆる生理機能を担うこれらの細胞たちに、人類を見下す資格があるのも当然だ。
人間の診断書で細胞たちに結論を下すことは、まるで偉大な数学者の前で、自分が小学校レベルの算数の問題を解いたと自慢するようなもので、純粋に自分の傲慢さと無知を露呈しているに過ぎない。
さっき飲み込んだばかりの「安定剤」を戻すべきだろうか?
せっかく手に入れたこの安心感を維持し、何事もなかったかのように残りのライブを鑑賞すべきか、それとも事務所側と対立し、再びバックステージに強引に突入すべきか?
しかし、池にはもう選択をする時間など残されていなかった。
ちょうどその時、客席の方から、池がもう聞き飽きる歓声が聞こえてきて、静まり返った通路の中で反響していたからだ。
「え~~~~? 伊久美さん、第3ステージは23時15分からじゃないですか? まだ10分前ですけど?」
「おかしいですね。休憩時間が終わるまであと5分以上あるのに、まさか早く戻っていくとは……」
どうやら「月隠の顔」が急遽スケジュールを変更したようで、秘書でさえも少し不意を突かれた様子。
一般的に、体調不良の人は、自発的に残業する社畜のように休憩時間を犠牲にすることはない。
これは、文緋の体調が秘書の言う通り、すべて正常であり、むしろ異常に良好であることを裏付けている。
そうでなければ、予想よりも短い時間で、これまで以上に高い身体的負荷を解消することなど、できるはずがないからだ。
ただ、一つだけ池には理解できない点があった――
彼女は池が舞台裏にいることを知っていたなら、池が舞台裏に来た目的もおおよそ推測できたはずだ。
それなのに、なぜ秘書の連絡を待って池と会う機会を放棄し、あれほど急いで舞台に戻ろうとしたのか?
もし文緋の思惑がそれほど簡単に池に見透かされるものなら、池も心の中でこっそりと彼女を「未解の謎の集合体」と呼ぶことはなかっただろう。
だとしても、池は今、自分がどこへ向かうべきか、はっきりと分かっていた。
「伊久美さん、それでは私は……」
「承知しました。ホールまでお送りしましょうか?」
「いえ、結構です。すでに大変お時間をお取りしてしまい、本当に申し訳ありません。それに、さっきの……私が焦って、失礼なことを言ってしまいました。どうかお許しください!」
「お気になさらず、安達さん。私が先に失言をして、誤解を招いてしまいました。むしろ私がお詫びすべきです。」
「いえいえ、私の過ちです。どうかご自分を責めないでください! では、これでお暇します。助けていただきありがとうございました!」
――――――――
池が去ったばかりで、舞台裏へ引き返す伊久美秘書は、上級管理職専用の小型タブレットを取り出し、システムのセキュリティログを開いた。
舞台裏への防火扉の指紋認証記録の中から、「松平修之」という名の職員が登録した指紋を見つけ出し、続いて職員管理システムに切り替え、「位置情報記録」からその職員の会館内での移動経路を呼び出した。
その結果、ゲストハウスで来客の応対を担当している「松平修之」氏は、この防火扉を開けてバックステージに入ったどころか、防火扉に近づいたことすらないと判明した。
そして、この指紋が読み取られた具体的な時刻は、安達池がバックステージに侵入した時刻とほぼ一致していた。
「やっぱり言い出せないわ~~~さすが、百メートルの高さから転落しても生き残れる奇跡の男だね。北崎様もこれに興味を持つかしら?」
伊久美秘書は独り言をつぶやいた。
もし彼女と北崎が舞台裏の監視カメラの映像を見たら、一体どんな反応を見せるのだろうか?




