第三十話 舞台裏侵入作戦 もう一人の救世主
外へと向かっていた足取りが一斉に止まり、振り返る数々の視線の中で、最も清らかで、輝きを放っていたのは、ほんの数秒前まで死者と同じように生気もなく、絶望に満ちた瞳に他ならなかった。
そして、その目に光を注いだ人物は、まさに開演直前に細胞たちから脅威と見なされた「不審者」、すなわち安達池を北崎のもとへ案内した側近の一人。
予想通り、その側近は、いつ投獄されてもおかしくない状況にある池を救いに来たに違いない。
危機に瀕するたびに必ず助っ人が現れてくれる――これは、超能力とは別に、池のもう一つの強力なパッシブスキルになりつつあるようだ。
「うーん―――! うーん―――!」
「じっとしてろ!てめえに口を出す資格はない!」
連行を担当する数人の機動隊隊員は、体をくねらせながら変な声を上げている池を、なんとか押さえ込んだ。
彼は超能力を使ってはいなかったにもかかわらず、かなりの手間がかかった。
そして、最後方に立っていた警官が前に進み出て、その女性職員に彼らの立派な戦果を報告した。
「あら~、本当に申し訳ありません、伊久美秘書。お忙しい中ご迷惑をおかけして~北崎様には、不法侵入したストーカーを我々が逮捕し、指揮所に引き渡すところだとお伝えください。ご心配なさらず、舞台裏の警備は我々がしっかりと担当してまいります。」
「もったいないお言葉です。ここに社長及び弊社を代表して、警察官の皆様に心より感謝申し上げます。警備面で全力を尽くしてくださったおかげで、今回のコンサートは無事に開催することができました。今後ともご支援を賜り、引き続き警備をご担当頂ければ、弊社にとってこの上ない光栄です。」
「もちろんです! 北崎様のご指示があれば、上雲居中央警察隊一同、即座に行動いたします! それでは、そろそろ失礼いたします 。君たち、こいつを連れて行け!」
「少々お待ちください、隊長。ご存じないようですが、これは全くの誤解です。この方は確かに社長の知人であり、しかも社長の誘いで舞台裏へお招きになったのです。ただ、私どもが多忙のあまり、この方を通すよう皆様にお伝えするのを失念したせいで、こうした混乱を招いてしまいました。一切の責任は当方にて負います。北崎社長に免じて、彼の無断侵入をどうかお許しください。後日、必ず厚く御礼申し上げます。」
「いえいえ、恐縮です!えっと……北崎様のご要望ならば、しかたありませんね。どうせこの者は大した騒動も起こしていませんし、『社会秩序維持法』に基づいて処分しても罰則に当たりませんので、お許ししても構いません。ただ、後ほど総指揮官に一言お伝えいただければ幸いです。こちらの報告もしやすくなりますので……」
「承知しました。総隊長への対応は当方で適切に処理いたしますので、ご安心ください。」
「では、伊久美秘書に宜しくお願いいたします!おい、君たち、さっさとあの男の縄を解け!」
隊長は振り返り、部下に池を解放するよう命じた。その先程まで丁寧だった口調は、一瞬にして冷厳なものへと一変した。
一方、池に対して怒鳴り散らし、暴力を振るっていた隊員たちは、一転して丁重に振る舞い、池を貴賓のように扱った。
まず遠隔操作で池の体に巻きついた縄を水蒸気に変え、次は自ら進んで縄でしわが寄った服を直してあげた。同時に謝罪の言葉も矢継ぎ早に彼らの口から飛び出した。
職業や身分を象徴する制服を除けば、その振る舞いだけでは彼らを威風堂々とした機動隊員とは結びつけがたい。むしろ、ホール内でVIPエリアの観客にサービスを提供するスタッフと大差ない。
「この人間どもめ、さっきまで高慢だったくせに、こんなに早く態度を翻すとは……実に面白い生き物。」
事態の展開を密かに観察していた心臓は、心筋細胞の核の中で、その宿主に知られぬまま、そうつぶやいた。
「まあまあ、結局のところ単なる誤解だっただけだ。あの、アダ……何だったっけ……ああ、安達さん~私の部下が配慮に欠けて失礼しました。どうか大目に見てください! では、伊久美秘書、この件は水に流して、何もなかったことにしましょう!」
おそらく自分の部下の振る舞いが卑屈すぎて、警察官としての威厳を損ねたと感じたかもしれなく、隊長は適当に池に謝罪し、体面を保った上で、待ちきれない様子で隊員たちを連れて警備室へと戻っていった。
残されたのは、全身ずぶ濡れでぽかんとした様子の池と、隊長にごく丁寧に接された若い女性だけだった。
「あ……そ、その……」
池が先に口を開いて感謝の意を伝えようとしたが、相手に先を越されてしまった。
「ここは話す場所ではありません。こちらへどうぞ。」
そうは言っても、秘書が池を連れて行った方向を見る限り、私的な話に向いた場所というよりは、むしろ機動隊員の職務を代行しているようだった――この侵入者を舞台裏から連れ出すこと。
池は心の中で秘書の行動に大いに首を傾げた。行き先を尋ねようかと何度か思ったが、助けてもらった恩義を気にするので、むやみに口を出すのも気が引けた。
仕方なく彼女に従い、一歩一歩舞台裏の出口へと向かいながら、時折、自分からますます遠ざかっていく控え室エリアに振り返った。
そして、池と心を通わせている「心臓さん」も、当然ながら主人と同じ気持ちだった。
「ご主人様、今、出口の方へ向かっているのでは? この秘書さんは、ご主人様を出頭させるつもりなのでしょうか?」
「まさか! それなら、なぜ警察の手から俺を救い出してくれたのか? とはいえ、彼女が何を企んでいるのかは俺にも分からない……とにかく、まずは彼女についていくのが無難だ。何と言っても、恩人を疑うわけにはいかない。目的地に着いてから詳しく聞けばいい。」
「私もご主人様の考えに全く同意できなくはありませんが、時には他人への配慮が度を越しているように思います。例えば先ほど、警察の立場になって弁解なさったように。やはり、もう少しご自身のことを考えていただきたいものです。」
「それは多分、俺の生まれつきの性分なんだろうな。前にも言った通り、少なくとも今の俺には、他人を無視することなんて絶対にできないんだ。もし君たちがこれからも進化し続けるなら、この根深い癖を直してくれるかもしれないね~」
池の冗談を聞き終えると、心臓は軽くため息をつき、ひとまずコミュニケーションの信号を発するのをやめた。
――――――――
案の定、秘書は池を舞台裏の出口へと案内し、外へと向かう歩みを止めようとはしなかった。
ついさっき池の舞台裏への立ち入りを阻止しようとしたスタッフたちも、まだそれぞれの持ち場で作業中だったが、二人が近づいてくるのを見ると、一斉に丁寧にお辞儀をした。
さっきまで池を灰に焼き尽くさんばかりの灼熱の敵意は、もはや微塵も残っていない。
それでも、池は彼らに対してほんの少しの無礼も許さなかった。
わずか十数メートルの道のりの中で、池は会釈で彼らに五十回近く礼を返した。
その頻度が高すぎたため、首の椎骨と周囲の筋肉組織が、宿主に対して苦情を訴えようとするところだった。
舞台裏と外をつなぐ人影のない通路に入ると、秘書はようやく足を止め、池に深くお辞儀をして謝罪した。
「大変申し訳ございません、安達様。ご迷惑をおかけしただけでなく、このような雑然とした場所でご面会することになり、失礼極まりないことです。お詫びの意を表して、コンサート終了後には必ず補償させていただきますので、どうかご容赦ください。」
「側近の……いえ、秘書様、そんなことおっしゃらないでください。最初にバックステージに無断で侵入したのは私の方です。責任を問うなら、私が負うべきでしょう。助けていただいたのですから、感謝するばかりです。補償など辞退させていただきます。」
「ご遠慮なく、伊久美と呼んでください。実のところ、私もただ指示に従ったまでです。本当にあなたを助けたのは私ではないですから、私に感謝する必要はありません。」
「きっと北崎さんがあなたを遣わしたんでしょう?また彼女に大きな借りを作ってしまったようです。」
「そうではありません。北崎様は今、舞台裏中央の制御室にいらっしゃって、あなたの来訪については全くご存じありません。」
「彼女じゃないんですか…?だとすると、やはり…」
池は少し驚いた表情を浮かべながら、頭の中で消去法によって容易く結論を導き出した。
言わずもがな、北崎の秘書を指揮する権限を持つのは、北崎本人を除けばただ一人しかいない。
「お察しの通り、あなたが危険に見舞われていたことを知り、私に助けに来るよう指示を出したのは、まさに『月隠の顔』ご本人です。」
なぜか、その結論が裏付けられた瞬間、華奢な少女が狂ったように警察の封鎖線を突破しようとする光景が、突如として池の脳裏に浮かんだ。
池は実際にその場面を目撃したわけではなく、せいぜい他人の話に基づいて描いた想像図に過ぎなかったが、それは生中継よりもリアルで、少女の目尻からこぼれる涙の輝きさえも、生き生きと再現されていた。




