第二十九話 舞台裏侵入作戦 反撃放棄
身動きが取れず、呂律も回らない状態にもかかわらず、池はここで白旗を掲げるつもりはなく、一刻を争って筋細胞たちに新たな指令を下した。
「筋細胞たち、よく聞け――――!お前たちの力で、この忌々しい縄を断ち切れ!できるか?」
池の戦術は、実際、見事と言えるものではなく、単に相手の攻撃に応じて、それなりに対処するだけ。回避能力が場所や敵の攻撃手段に制約されるのなら、別の能力で危機に対処すればいいではないか?
つまるところ、成否を分ける鍵は、やはり池が頭の中で繰り返し強調していたあの言葉にある―――「 臨機応変」だ。
人付き合いだろうと、戦場だろうと、どの分野においても、状況に応じて柔軟に対応できる人ほど、うまくやっていけるものだ。
特に命を懸けた状況では、そういう人材の生存率は、道を塞ぐ壁にぶつかるまで引き返さない頑固者たちを圧倒的に上回る。
「そうだ……私としたことが、自分の力をすっかり忘れちゃってた! お任せくださいご主人様! こんな粗末な縄なんて、解くのは朝飯前ッス!せいぜい三割未満の力で済むはず……」
「皆さん、あなたたちが忘れてしまったのは自身の力ではなく、つい先ほど学んだ教訓です。人類の科学技術のレベルは、すでに目の当たりにした通り、単なる肉体の力では楽に対抗しうるものではありません。細胞能力を発揮する前に、まず敵の本質を徹底的に研究してからでなければ勝算はありません。ご主人様、このような『暴動鎮圧用武器』の構成成分について、何かご存知でしょうか?」
どうやら、かつて「いつでも機動隊を排除する準備はできている」と嘯いていた心臓も、彼らの戦闘力を思い知らされて現実主義者に転じたようだ。
「これらの拘束ロープは生物模倣技術を用いた軍用素材でできたものなんだ。生き物の動きを完全に封じるために専ら設計されているから、靭性が極めて高く、ツキノワグマやトラ、ゾウといった力持ちの生物でさえも容易に制圧できる。本当にこれを振りほどけると思うか?」
「まあ、正直、自己意識が覚醒してこの方、自分の力を本気で発揮したことは一度もないので、限界がどこにあるかは私たちにも分かりません。でも、ご主人様が妹さんにお会いできるためなら、横紋筋融解症になるまで戦っても構いません!」
「馬鹿なことを言うな!!! お前たちも、俺の妹の歌を聴きたいんだろう! しっかり任務を果たせ! それから、また一緒にライブを聴きに行くんだぞ!」
「それもご主人様の命令の一つですか?」
「当たり前だろ!」
「よし、みんな、聞こえたか! 長い間溜め込んできた力を、この瞬間のために解き放つぞ!」
「おう―――!」
意気込みのこもった雄叫びが収まるやいなや、池の体にあるすべての主要な筋肉群、例えば最も目立つ上腕二頭筋、上腕三頭筋、三角筋、さらには普段はなかなか見られない大胸筋、広背筋、腹直筋、大腿四頭筋などが急速に膨張し始めた。
その膨らんだ様子は水をたっぷり吸い込んだスポンジのようだが、質感はダイヤモンドのように硬く、隆起した青筋が至る所に走っている。
それに伴い、筋肉の深層から四肢の表面へと止めどなく噴き出す荒々しい力。
それぞれの力の向きは完全に一致しているとは言えないものの、おおむね差はなく、いずれも池の体をきつく締め付ける硬化ロープに向かって作用している。
この拘束ロープが実用化されて以来、普通の生物が蛮力でそれを張り裂けさせた前例はついぞない。然るに、この不敗神話は、かつてない挑戦に直面している。
「オアアアアア!!!!!!」
池の口を塞いでいた縄は、その雷鳴のような声の衝撃に真っ先に耐えきれず、池の顔から剥がれ落ちた。体に食い込んだ縄も、伸びる限界まで引き伸ばされ、今にも切れてしまいそうだ。
「よし! みんな、もうひと押しだ! この勢いを保てば、きっと……」
「くそっ、人間とは思えないほどの素早さだけでなく、とんだ力まで持ってやがって、この野郎、化け物か??? とっとと制圧を強化しろ!」
「了解!」
池の視界に入らない場所から、機動隊員の声が聞こえてきた。その声には、わずかな怯えが混じっていた。
その直後、数足の黒い戦闘ブーツが池の視界に踏み込み、同時に複数の発射装置から発射音が響いた。
その光景は、瀕死の敵に完全に死に至らしめるためにトドメを刺す、殺伐とした場面のようにも、処刑場で死刑囚を銃殺する残酷な情景のようにも見えた。
もし拘束ロープの色が血のように赤ければ、その光景は本物と見分けがつかないほど迫真だっただろう。
銃声が響いた後、池が辛うじて引き裂きかけた縄の外側に、新たな縄が巻き付けられ、締め付けの強度は瞬時に倍増した。空気に触れたばかりの唇も再び封じられ、すべてが元の状態に戻ったようだ。
「このクソ野郎ども、まさか追い打ちを食らわせるなんて……筋細胞たち! もっと力を出せるか!」
「出せますとも! 私たちの限界にはまだ程遠いッス! ご主人様のご命令さえあれば!」
「それだとお前たちに負担がかかるんじゃないか?」
「今さらそんなこと言ってる場合じゃないでしょう、ご主人様! そんなことを気にする余裕なんてありません! ちんたらしないで、早く命令を下してください!」
「わかった、じゃあ……」
筋肉細胞にポテンシャルを遺憾なく発揮してもらうと命令しようとした拍子に、池は突然、背中にものすごい重みを感じた。
まるで何か重い物が背中に置かれたかのように、肺が圧迫されて自由に膨らませることができず、地面に押し付けられたこの息苦しい姿勢のせいで、池は一瞬、息が詰まってしまった。
「ん――― !ん―――!」
「てめえ!大人しくしろ! これ以上抵抗したら痛い目を見るぞ!」
意味不明なうめき声――それが池が外界とコミュニケーションをとる唯一の手段。しかし、彼を無慈悲に押さえつけている二人の機動隊員はそれを無視し、ただ身の下にいるこの「化け物」を罵り続けた。
「ご主人様、一体いつまでうじうじしてるんですか!!! 早く筋細胞たちに指令を下してください!」
「そうだよ!!! 早くこの人間クズどもを空へ吹き飛ばさせてやれ!!」
「よくもご主人様にそんな乱暴な仕打ちを! こいつら、本当に死にたいのか!」
「警察だろうが何だろうが、ご主人様の髪の毛一本でも傷つけたら、命で償わせてやる!」
すべての細胞が必死に池に反撃の命令を下すようせき立て、精神空間には身の毛もよだつような殺気が満ちている。
が、その殺気にさらされた池は案外、それに飲み込まれることなく、理性と人間性を保ったままでいる。
「軽率な行動は禁物だ。もし警察に手を出せば、俺は本当に指名手配犯になってしまう!公務執行妨害の罪は不法侵入よりもよっぽど重いんだ。文緋のためにも、安達家の面目を保つためにも、どんなに苦しくても我慢しなければならない!」
「でもご主人様!この分からず屋な人間らが先に手を出してきたじゃないですか?私たちはただ正当防衛で反撃しようとするだけです!」
筋細胞たちは、執拗に「警察への暴行」に対して法的な正当性を主張し続けていた。
「お前たちには分からないだろうが、人間社会において警察は犯罪を取り締まり、社会秩序を守る正義の使者だ。法的にも情理的にも、警察への妨害行為は決して許されないのだ。事態をこれ以上悪化させさえしなければ、取り返しのつきないことにはならない。それに、そもそも俺が勝手にバックステージに侵入したのがきっかけで、こんな羽目に陥ったのだから、あいつらに文句言える立場じゃない。」
「そんなのご主人様のせいじゃないです! あの意固地なスタッフ連中が、どうしてもご主人様に便宜を図ってくれなかったからこうなっちまったんでしょう!でなければ、ご主人様はとっくに妹さんに会えていたはずです!」
「フォローしてくれてありがとう。でも、一つだけ、君たちや他の細胞の仲間たちに理解してほしいことがある。相手が警察であろうと何であろうと、超能力で他人を傷つけるなんて、俺には到底できない……おそらく、極めて正当かつ必要な理由がある時のみ、そのいわゆる『一線』を越えるかもしれない……だが、少なくとも今の俺には絶対にできない! どうか理解してほしい!」
安達池がここまで話すと、細胞たちの攻撃意欲はようやく少し和らいだ。
「ご主人様の気持ちや考え方は、どう見ても妥当です。むしろ、普通の人間をはるかに凌ぐ能力を得た後も、これほど高い自制心を保ち続けられることこそ、何より貴重です。もし悪意のある者がこの能力を手に入れていたら、とっくにそれを濫用し、平然と他人へ危害を加え、好き勝手に振る舞っていたところでしょう。」
「心臓さんのおっしゃる通りですが、私たちはせっかくご主人様をここまで連れてきたというのに、このまま諦めてしまえばこれまでの努力が無駄になってしまうんじゃないですか? ご主人様も、妹さんのことを心配されないのですか?」
「心配しないわけないだろう!一体何のために、俺はここに来てこの苦しみを受けているんだ!けどお前たちも見ての通り、超能力があっても時には現実を受け入れなければならない。これこそが人間としての無力さだ。もし俺が本当に、何もかも軽んじられるようになれば、その時にはもう『人間』ではなくなっているだろう。」
「でも、ご主人様……」
「これでいい。肺の細胞たち、呼吸を調整してくれるよう頼む。」
「承知いたしました……少々……お待ちください……」
地面にうつ伏せになった池は、もはや抵抗したり呻いたりせず、己の運命をこの残虐非道な正義の守護者たちの手に委ねた。
「ついに大人しくなったな。なかなか気がきくじゃない。こいつを引っ張り上げろ! この化け物がどんな姿をしているのか、この目で見てやる!」
「はい――!さっさと立ち上がれ!」
池の上に押さえつけている二人の隊員が、池を地面から引きずり上げ、後ろから肩を掴みながら、チームの隊長らしき警官の前に池を立たせた。
顔認証機能付きのヘルメットの向こうから、その警官は、池の虚ろで生気のないままで悔しさを湛えた瞳を軽蔑の眼差しで見据えた。
「安達池とやらか?ふん、見た目は人間らしく見えるが、まさかバッタよりも飛び跳ねるなんてな。こいつを会館外の仮設指揮所へ連行し、機動隊総指揮官に引き渡せ!」
「承知しました!」
隊員たちは池を拘束したまま、出口に向かって歩き出そうとした途端、控え室の方から慌ただしい呼び声が聞こえてきた。
しかも、それは数時間前に池が耳にした、聞き覚えのある声。
「お待ちください!」




