第二十七話 舞台裏侵入作戦 突撃
「え……?あいつ、消えた?」
「さっきまで目の前にいたのに、一瞬でいなくなるなんて、どういうこと???」
複数の手が、成人男性のシルエットを保った空気の塊の中に同時に伸びていった。
もしこの塊の縁を点線で描くとすれば、それは漫画でよく見られる誇張表現の技法であり、短時間での人物の位置変化の速さを際立たせるためのものだ。
そして、およそ1秒前まで、この場所に立っていたのはいかにも安達池だった。
「後ろだ!もう俺たちの後ろに駆け抜けてしまった!!!」
「そんなことあり得ないだろう!一体どうやって駆け抜けたんだ!」
この疑問は、安達池自身にも解明できなかった。
彼が覚えているのは、1秒前、視界にはまだ十数人の巨漢が1.5メートルしか離れていない位置にいて、彼に向かって伸ばされた手が、彼が着ている服の表面にある繊維の塊に触れようとしていたことだけだ。
次の瞬間、彼はすでにその男たちの背後から10メートル以上離れた位置に瞬時に移動しており、その速さは、ここへ移動する全過程を記憶の断片として脳に刻み込む時間さえくれなかった。
幸いにも、彼らの頭上に設置された監視カメラが、このほんの一秒の間に起こったあらゆる出来事をありのままに記録していた――
そこには、あの青年が信じがたい反応速度で至近距離から襲いかかる相手の攻撃をかわし、その直後、疾風の如く人垣の端へと飛び移り、子供の体しか通れないほどの細い隙間を狙い、体を極限まで縮め、その隙間をさっと駆け抜けた。
隙間両側に立つ二人には、体が触れ合う肌ざわりすら味わわせず、ただ彼らの髪の毛や服に、暴風が吹き荒れたような痕跡を残したままだけだ。
そして、人垣の後ろにあの若者が現れる光景が生まれた。
この一連の動作は、戦闘用装備などといった先端技術の力を一切借りることなく、外見はごく平凡な肉体の力だけで成し遂げられた。
たとえ世界で最も揺るぎない意志を持つ科学の信奉者であっても、この光景を目にすれば、科学理論への信仰は間違いなく灰と化すだろう。
終始、その若者の動きは、さながら宇宙において光速に近い速度で飛翔する高速度星のようである一方、周囲の人々の動きは、一桁のコマ数で再生される映画のように緩慢だった。
この「速さ」と「遅さ」の鮮烈な対比が共に描き出す画像は、まさに特殊相対性理論の最適な実例そのものだった。
――――――――
魂が肉体の速度に追いつかないものの、本体の思考が細胞たちの行動に追いつかないものの、安達池は過度な疑念や驚きを露わにすることはなかった。
アルバム発売会場での騒動事件を共に乗り越えた経験と、今日だけで12時間以上を共に過ごしてきたことのおかげで、細胞たちが人間の認識の限界を打ち破るような超能力をどれほど発揮しようとも、安達池にとってはもはや珍しくも何ともないのだ。
「ご指令の第一段階は完了しました! 次は第二段階です! ご主人様、どうぞご準備ください!」
「問題ない、いつでも出発できる!」
以前とは異なり、今の安達池は細胞たちが命令を実行する具体的な手段にこだわることもなく、他人の視線を気にするといった余計な雑念も心に浮かばず、ただ決然と舞台裏の奥を注視しながら、そこへまっすぐ、高速で突き進んでいた。
その移動速度は、まだ高速列車の最高速度には及ばないまでも、肉眼では追えない驚異的な程度に達していた。
「みんな早くその侵入者を阻止しろ!!! 絶対に北崎様と『月隠の顔』のところまで行かせてはならない!!!!!!」
後方から追っ手たちの怒りに満ちた叫び声が次々と聞こえてきた頃には、安達池はとっくに舞台裏の奥深くのセンターエリアに突入していた。
しかし、彼が通り抜けた場所は意外にも静かで整然としていた。なぜなら、いわゆる「侵入者」の存在に誰も気づいておらず、ただ建物内部には存在するはずのない不気味な風が横を吹き抜けるのを感じただけで、舞台裏の冷房システムが故障したのだと勘違いしていた。
怒号が聞こえて初めて、その風の正体に気づいたが、対策を講じようとする頃には、安達池の姿はすでに風に乗って、通路の果てへと消え去っていった。
「くそっ、全然追いつかねぇ!このままじゃ大変なことになるぞ!」
「あいつ、人間なのか???とんだ素早さだ…それどころか、あんなスピードで走れるなんてありえない!」
「そんなこと考えてる暇はない!!!早く内部の警備室に連絡しろ!!!侵入者を逮捕してもらうって!!!」
「了解!!!」
追い手たちが対策を練る一方で、安達池は「月隠の顔」を見つける可能性が最も高い場所――控え室エリアまで、あと50メートル足らずの距離。
「あそこだ!文緋はきっと中で休んでる!」
「おう―――!みんな、ご主人様を連れて一気に突入しよう―――!」
「待て! 何かが近づいてくる気配がする! しかも物凄いスピードで!」
勢いよく突き進む細胞たちが、安達池を引率してラストスパートをかけようとしたその時、警戒を担当していた目が誰よりも先に、迫りくる危険に気づいた。
控え室エリアの入り口周辺から、がっしりとした体格の黒い人影が幾つも飛び出し、安達池に劣らぬ超高速で正面から突進してきている。
まるでずっと前からここに待ち伏せし、標的が自ら罠に飛び込んでくるのを待ち構えていたようだ。
互いの距離が急速に縮まるにつれ、行く手を阻む者の正体が安達池の目の前に完全に明らかになった。
全員お揃いの三重防護式戦闘用制服とAIを搭載した防毒ヘルメット、手の甲に装着された拘束ロープ発射装置、背中に装備された噴霧銃、一般人を凌駕する身体能力、そして全身から放たれる、ならず者たちをおののかせたり、不法行為者を畏怖させたりする圧倒的な気迫。
以上の要素を兼ね備えた者こそ、安達池にとって生涯の悪夢の一つである──
「バカな……機動……機動隊だ!!! 冗談だろ??? なぜ舞台裏の中に機動隊がいるんだ?!」
「なるほど、道理で舞台裏の入り口の警備があれほど緩かったわけだ。内部にこんな保険措置があったからか。」
「今そんなことを分析してる場合じゃない心臓さん!!! 早く対策を……」
安達池と心臓のやり取りがまだ終わらないうちに、 数発の漆黒の鉄拳がすでに彼の胸元の直前に迫って来た。
その凄まじい勢いには、空気中のあらゆる粒子を粉砕するほどの威力があり、標的に的中する前からすでに安達池の呼吸を乱してしまっていた。
もし一撃でも受ければ、たとえ超能力で身を守っていたとしても、短時間のうちに一歩も前に進む力は失われ、挙げ句の果てには、この人型の猛獣どもに虐殺されるという惨めな結末を迎えることになるだろう。
打開策は実のところ簡単だ――ただ避けるだけでいい。なぜなら、細胞たちが元々受けた命令はそうだったからだ。彼らに求められるのは、先ほど普通の人間をかわした時の素早い動作を再現するだけのことだ。
今直面している攻撃は、その時よりもはるかに手加減なく、凶暴なものだが、それでも細胞たちによる奇跡の創造を妨げるものではない。
目からの視覚情報の伝達、神経線維による瞬時反応、そして骨や筋肉群の連携。様々な部位の何兆もの細胞が、ミリ秒単位でしか測れないほどの極短期間で力を合わせ、再び「安達池」という名の肉体を支配し、軽業師のようでありながら人間工学に反する滑らかな回避動作を続々と繰り出した。
数々の強力なパンチが、安達池の脇の下や腰、肩の横など、体のあちこちをかすめていった。最も危険な一撃は、頭頂部の皮膚を擦れ擦れに過ぎていったほどで、空気の流れになびく何千本もの髪の毛が、その攻撃を真っ向から受けるという「幸運」に恵まれた。
ありがたいことに、安達池はまだ中年期には程遠く、髪と毛根は命令を受けなくても十分なコシを保っていた。仮に普通の中年男性だったりしたら、この一撃のせいで円形脱毛症になってもおかしくなかっただろう。
命がけの展開ではあったが、安達池は何とか「敵と踊りながら無傷で脱出する」という離れ業を成し遂げた―――一連の素早い動きの末、機動隊の包囲網を怪我一つせずに突き抜け、控え室エリアの入口へと一直線に駆け出した。
先ほどと同様、安達池自身は如何に包囲網を突破したのか未だ分かっておらず、その一方、多くの細胞たちは自身の見事な戦いぶりを誇りに思いながら、この肉体に秘める無尽蔵の潜在能力を安達池に得意げに見せつけている。
「どうですか、ご主人様~~~~~たかが機動隊なんて、私たちの敵にはなれません!」
「なんだ、あのロボットみたいな格好をした連中がえらく強いのかと思いきや、入口にいた普通の人間と大して変わらないじゃない?」
「油断してはいけない! よく聞け、奴らを振り切って文緋の元にたどり着くまでは、一瞬たりとも気を緩めてはならない!」
「ご主人様、心配しすぎですよ~この見かけ倒しの人間らを振り切るなんて、楽勝で……」
「報告する! 後方から不審な音が聞こえる! 何らかの銃器の発砲音のようだ!」
安達池の戒めよりも、背後から数回響いた鋭い発砲音と耳からの緊急報告の方が、慢心していた細胞たちに冷静さと警戒心を取り戻してもらうのに効果抜群だった。




