第十七話 人間界に降臨した女神
世間の前に姿を現すたびに、欠けた月の模様が描かれた精巧な仮面を着用する――
これこそが「月隠の顔」という名前を具現化した表現手法であり、仮面の下に隠されたこの謎めいた少女の素顔は、それゆえに芸能界全体、ひいては全世界の著名人の中でも、他に類を見ない最も神秘的な謎となっている。
かつてネット歌手として活動していた文緋は、数え切れないほどのファンの期待に応えるため、そして真にステージに立ち、思う存分歌を歌いたいという思いから、勇気を振り絞ってネットという「居心地の良い場所」から抜け出し、実在の歌手として再デビューした。
しかし、その仮面は、彼女にとって「居心地の良い場所」の残骸であり、同時に彼女の最後の一線でもある。
文緋が初めて仮面を被って世の人々の前で歌った時の体験については知る由もないが、僕が信じるのは目に見える事実だけだ。
つまり、世間は彼女が「仮面歌手」であるという理由で彼女を遠ざけたり、疑ったりすることは決してなく、むしろ無限の敬意と支持を寄せているということだ。
今まさに激しく渦巻く、百万人から成るこの海こそが、その最良の証左である。
僕が持つ特権はそれだけにとどまらない。この激しくうねる海の中で、僕という一粒の波だけが最も穏やかだ。
僕だけが、「月隠の顔」の美しさに感嘆する一方で、心の中に一抹の不安を抱いていた。
たった一つのコンサートのため、ファンたちの願いを叶えるためだけに、彼女は自身の命さえ顧みず、手を伸ばしても指先が見えないほど暗い夜空へと自ら身を投じたなんて……
なぜそこまで命がけでやるのか? 自分の最も美しい姿と、自身の身の安全は同等の価値を持つものなのだろうか? 彼女は僕の気持ちを少しも考えていないのだろうか?
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従者の天使たちに囲まれながら、「月隠の顔」は月明かりの下で優雅に舞い始め、高度も徐々に下がってきている。
背後の満月から次第に遠ざかりつつも、その歌声で地上の聴衆一人ひとりとの距離を縮めていった。
彼女を責めたい気持ち、非難したい衝動、そして会場に響く様々な歓声や騒ぎ声――それらはすべて、天から降り注ぐこの世のものとは思えない歌声と、彼女の優美な踊りの姿の中で、儚い霧のように消え去っていった。
心に深く刻まれたメロディーは、僕の脳内の記憶庫に保存されたデータと規則的な共鳴を生み出した。
文緋が自宅で歌の練習をする際、その歌声によって僕の音楽的センスが繰り返し鍛え上げられた経験、そして彼女が僕の遺伝子に刻み込んだ「歌声の目覚まし時計」のおかげで、彼女が歌う曲のほとんどは僕にとって耳馴染みのあるものばかりだった。
しかし、今日のこのオープニング曲は、文緋が作曲した全作品において、彼女にとっても、僕にとっても、そして「月隠の顔」のファン全員にとっても、間違いなく最も意義深い一曲である。
それは彼女のデビュー作であり、この国民的アイドルを生み出した不朽の名曲――『君と繋がる星空』。
これをオープニング曲に選んだのは、まさに最適だったと言える。なぜなら、この曲は「月隠の顔」の歌手キャリアの始まりを象徴するものだからだ。
編曲や構成の面では、後に各音楽チャートを席巻したトレンド作品と比べるとまだ少し未熟な部分もあるものの、 聞き手一人ひとりに届ける癒しは決して色あせることなく、3年前に突如として世に現れた時と変わらず、わずか3分45秒の間に、風雪にさらされ、世俗に疲れた数々の魂の表面に積もった塵を洗い流し、その純粋無垢な本質を取り戻させてくれる。
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優美なリズムの中、一つの冷淡な「音符」が僕の精神世界に勝手に侵入してきた。
「どうやらご主人様の言葉は言い過ぎではなかったようだ。オープニング曲一曲だけで、非常に優れた歌唱力が発揮されており、メロディーも実に心打たれる。確かに、一聴の価値があるとは認めざるを得ない。」
「え? あなたは?」
「まったく、耳ちゃん、どうしてまだそんなに礼儀知らずなんでしょう! ご主人様にそんな口調で話してはいけません! それに、ご主人様が音楽を楽しんでいる最中に、勝手に割り込むなんてもっての外ですから!あの、ご主人様~どうか気にしないでください~私たち『目』が『耳』の代わりに謝ります~」
「いいんだ。プロの音楽評論家よりも厳しい『耳』が、妹の歌声をこれほど高く評価してくれるなんて、むしろ誇りに思うよ~でも、本番はまだ始まったばかりだ! これからの歌唱は、きっと君たちをさらに魅了するはずだ!」
「そうね。これからの歌唱が私たちの期待に応えてくれるといいけど。」
「ご主人様、耳たちのことは放っておいていいですよ! 早くお妹さんの素顔を見せてください! もうすぐ着地しますよ! みんな待ちきれないんですからね~~~早く早く~~~」
明らかに女の子の声なのに、口調はスケベな中年おじさんのようだ。なぜ僕はこんな性別不明の「目」を進化させてしまったんだろう……
もう一度、目に放射線を当ててみるのはどうだろう?もう少しまともな姿に変えてやれないかな?
「みんな画面で見ただろ、彼女は仮面をつけてるんだし……」
「えっ?さっき、あの北崎さんのところで……」
「そうだ!あのメガネ―――!なんでこんなものを忘れてたんだ!」
僕は慌ててポケットから特製のメガネを取り出したが、うっかり手元を滑らせてしまい、極めて気まずい場所――清音の足元に落としてしまった。
本来ならしゃがんで拾えば済む話だが、清音は今日、膝丈のミニスカートを履いているため、うつむいて拾おうものなら誤解を招きそうだ……
とにかく、顔を反対側に向けて、手だけを伸ばしてメガネを拾えば、問題はないはずだ……
そこで、僕は視線をそらしながら、体を屈めてメガネを拾い上げてみた。
目標が全く見えない状態でそれを手に収めるには、視線を移す前に目標の位置を記憶し、直感で掴むしかない。
結果として、僕の空間記憶と直感は正確無比だった。そうでなければ、指がメガネのフレームの硬い感触がこれほど鮮明に伝わって来るはずがない。
しかし、指から僕の感覚中枢へと伝わる手触りは、それだけに限らなかった──
絹のように滑らかで、綿のように柔らかく、ほんの少し触れただけで深く沈み込み、指先や手のひらの肌の隅々まで癒やしてくれる。
その触覚的なつながりを断ち切って手を離すのが惜しくなり、心身を喜ばせるある種の精神的な養分を貪欲に吸い取ってしまうほどだった。
一体、この謎の物体は、何なのか。
「先輩、あの……その……こ、これは先輩のメガネですか?」
清音の問いかけを聞いて、素早く振り返った。そこで初めて、「謎の物体」の正体がはっきりと分かった――
僕の右手のひらの一部が、清音の手をしっかりと握りしめており、彼女の手はその眼鏡のテンプルを握っていたのだ。
僕の最初の反応は、自分が一見紳士的だが、実はこっそり女性に手を出すスケベ野郎そのものだということだった。
「す、すみません―――!わざとじゃなかったんだ―――!ただ、このメガネを拾おうとしただけなんだ!」
僕は、高温の物体に触れたり静電気にさらされたりした時の条件反射よりも速いスピードで手を離した。
「い、いいですよ、先輩。これ……どうぞ……」
床にしゃがんでいた清音が立ち上がり、両手でメガネを僕の目の前に差し出した。
おそらく床の方が、このクズ男の顔を見るよりはよほどマシだったのだろう、彼女は顔を伏せたままの姿勢を保ち、頭頂部のつむじを僕に向けていた。
「あ、あ、ありがとう……」
どうでもいい。彼女自身が「いいですよ」と言った以上、僕は当然その言葉を文字通りに受け止め、彼女が本心とは裏腹なことを言っているのではないかと勝手に推測したりはしない。
清音の僕に対する印象がどん底に落ちようが、今後僕の「先輩としてのイメージ」が立ち直ろうが、今僕がすべきことに比べれば、些細なことでしかない。
僕は素早く彼女の手から眼鏡を受け取り、それをかけ、透視モードを起動してから見上げた。一連の動作に要した時間は5秒にも満たなかった。
「先輩が眼鏡をかけているのを見るのは……初めてです……先輩、目には何かご病気でも?」
清音が僕の外見の変化に気づくのも当然のことだ。確かに彼女の言う通り、これもまた以前の僕とは違う点だ。
そして、僕が思っていた通り、これもまた彼女には明かせず、嘘で覆い隠さなければならない秘密。
「うん、最近目を酷使しすぎて、視力が少し悪くなっただけだ。大したことじゃないから、気にしなくていい。」
この何気なく口にした嘘が、どれほどばかばかしく滑稽なものか、僕だけが知っている。
何しろ、この眼鏡は起動していない状態ではただの普通のサングラスに過ぎず、視力の悪い人にとっては何の助けにもならない。
たとえ起動状態になっても、その透視機能は「対象物」に対してのみ効力を発揮する。だから、この眼鏡を何らかの盗撮ツールだと誤解しないでほしい。
しかし、この物を手に入れたということは、僕と「月隠の顔」の間に立ちはだかる最後の障壁を越える力を手に入れたことを意味する。
彼女の仮面は、僕のレンズの中で透明な存在へと変わり、丸三年も隠され、僕のような身内ですら見たことのない彼女の新たな容姿が、レンズの中にありのままに現れるだろう。
距離を調整し終えると、心の底からの感嘆を込めた言葉が、ついに僕が自分に施した理性という障壁を打ち破り、口元からそっと漏れた。たとえたった数文字だけであっても。
「なんて美しいんだろ……」
僕は自分の乏しい語彙力を恥じない。文学界にある美しい女性を褒める言葉全部を積み上げても、彼女という、この世の誰よりも高い頂点に立つ存在には到底及ばないのだから。
それ以前にも、僕は文緋の美貌と、彼女の清らかな歌声に対して、同じ感想を抱いていた。
過ぎ去る時間は、毎日少量ずつ摂取する麻酔薬のようで、私たちを本来なら特別な人や物に対しても、次第に慣れさせていき、やがて感覚を鈍らせ、ありふれたものとして、当然のこととして受け止めさせられてしまう。
だからこそ、私たちには新鮮さ、感覚的・精神的な新たな体験が必要であり、繰り返される日常に新しい彩りを添えてくれるものだ。
僕の瞳に映るこの顔こそが、これからの僕の人生に彩りを添えてくれるすべての色なのだ。
素朴なメイクの下には、ほぼ完璧とも言える彼女の顔立ちが浮かび上がる。
歌声に合わせて軽やかに動く桃色の唇、その隙間からわずかに覗く白い歯――この二つが織りなすのは、人を惹きつける温かな笑顔であり、彼女が歌に全身全霊を注ぐ瞬間にのみ、目にすることができる魅惑的な笑顔だ。
唯一の「欠点」と呼べるその傷跡は、今やまるで偶然生まれた芸術作品のようである。
わずかな欠点のある作品は、神業の如く完璧な傑作よりも魅力的。いわゆる「不完全な美」とは、多分こういうことなのだろう。
しかし、僕が最も忘れられないのは、女神の視線が向かう先だ。
彼女は僕の方を見ている。これは決して僕の思い込みではない。
たとえ僕と文緋の間には空間的な隔たりがあろうとも、たとえ文緋の視界の中で人混みに紛れた僕が塵のように小さく見えようとも、彼女は一目で僕の居場所を見つけ出し、僕の空虚な瞳を見分け、そこに生気と輝きを吹き込んでくれるのだ。
「百万人の中で、最初に『月隠の顔』と視線を交わした者」という栄誉を、遠慮なく受け取った。
親も、清音も、僕には敵わないし、到底及ぶはずもない。
「今回は、約束をちゃんと守ったよ。」
「えらいえらい~~~この格好と特製サングラス、うーん~~~なかなかカッコいいじゃない!」
「やっぱりお前が用意してくれたんだな…… だったら早くサングラスを渡してくれよ。北崎さんのところでずいぶん時間を取られちゃって、遅刻しそうだったんだぞ。」
「そういう暇がなかったんだもん! でも、あなたが時間通りに来るってずっと信じてた! 来なかったらどうなるか分かってるでしょ~?」
「はいはい、分かってるよ~これからはコンサート毎回必ず来るからな~」
「ならいい! せっかく来たんだから、最後までしっかりアタシを見ててね~」
「当たり前だろ! で、ライブが終わったら、ちゃんと文句を言わせてもらうからな! 何の連絡もなく、清音を俺の隣に座らせたなんて!」
「へへ~、サプライズだったでしょ?」
「心臓が止まりそうになるくらい驚いたよ……」
「じゃあ、アタシに文句を言いに来るのを待ってるね!」
遠くから見つめ合うなんてのは基本的な能力に過ぎない。もっとすごいのは、視線が交わった瞬間、僕と文緋だけが使える「まばたき通信」で、遠く離れていても会話ができることだ。
これは私たちに生まれつき備わった超能力であり、ガンマ線バーストでさえ生み出せない奇跡なのだ。
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「わあ~~~~~~~~~~~~~! すごく綺麗! 本当に超絶美人だ!!!」
会場のファンたちがどんなに熱狂しても、これほど下品でスケベっぽい応援コールは叫ばないだろう。
第一に、彼らは「月隠の顔」の顔を全く見ることができないし、第二に、彼らは決して「ルックス至上主義」の信奉者ではないからだ。
となると答えは一つしかない。
それは、僕の精神空間に潜む、女性の美貌に耽溺する微小生物たちであり、その音量は会場内の100万人の声さえも軽々と上回っていることから、その数は100万を遥かに超えていることがわかる。
「ご主人様~~~!妹さんめっちゃ美人です!!!」
「人間の中に、これほど美しい女性がいたとは! 先ほどご主人様に会った北崎さんや、そばにいた長実さんだけでも十分美しいかと思ったら、ご主人様の妹さんは更に別格です! 本当に目を楽しませてくれます!」
「目ちゃんはこんなに綺麗な女の子が見えるなんて、本当に羨ましい……私たちは情報の伝達だけでご主人様の妹さんの容姿を感知するしかなく、物足りないです!」
うちの妹を大いに称賛してくれたことを考えれば、こいつらに文句は言わないことにしよう。
「そんなこと、君たちに言われるまでもないよ~うちの妹って言ったら、全国的に大人気のアイドルだし、飛び切りの美しい顔立ちをしているんだから、当然のことじゃない?」
「ご主人様のおっしゃる通りです! あの傷跡のようなものさえなければ、妹さんの容姿は間違いなく『ミス・ワールド』でも上位にランクインできるでしょう!」
正直なところ、目の意見は僕の予想外だった。
あの傷跡について、僕と同じ肉体を共有する細胞たちにも、それを汚点としてではなく、僕と共に受け止めてほしいと切に願っている。
「目さん、その見解は誤りです。私の見るところ、その傷跡は生まれつきのものではなく、後天的にできたものです。その形成の背景には、きっと誰にも知られていない辛い過去が隠されているに違いありません。私としては、何か物語を持つ人は、一目で全てが見透かせるような人よりも魅力的だと考えます。しかし、ご主人様の妹さんが仮面を被っているということは、それを世間にさらしたくないという意思の表れでしょう。ならば、私たちがすべきことは、彼女の選択を尊重することであり、むやみに批判することではありません。そうしなければ、ただ、さらなる傷を与えるだけですから。」
心臓の意見には、ただただ感服した。これは、知恵を得てからまだ一日も経っていない生物が、本当に理解し得たことなのだろうか?
「心臓さんのお言葉はごもっともです……ご主人様、申し訳ありません! 私たち、不謹慎なことを言ってしまいました!」
「構わん。この傷のせいで、うちの妹は普段、普通の人として生活しているときも、他人に指さされたり噂されたりすることが少なくないが、もう慣れているのだ。お前たちはただ、普通の人間と同じ考え方をしているだけだ。それ自体は何も間違っていない。」
「お許しいただきありがとうございます!でも一つだけ、私たちが100%確信していることがあります。それは、ご主人様の妹さんが、私たちが覚醒して以来出会った中で、最も美しい人間だということです!」
「その通りです――― !ご主人様の妹さんは世界一の美人です!」
「これはどこのファンクラブの新しいスローガンか…まあ、みんなありがとう。特に心臓さん、あなたにも感謝します。本当に、ありがとう。」
「ご主人様、お気遣いなく。ただ、心からそう思っただけです。」
「見て見てご主人様!彼女たちがステージに降りてきました!もうすぐ開演ですよ!」
「はいはい、見えたぞ~」




