第十五話 仲間 VS 清音 後編
「わかった。じゃあ、ここで発声に関わるすべての細胞たちに権限を委譲する。自分の意志で行動していい。ただ、無茶はするなよ!」
「承知いたしました―――! ご安心ください、ご期待に添えるよう全力を尽くします!」
突然、口から舌、そして喉の奥深くまで、懐かしい感覚が染み渡った。
それは――何も感じていないという感じだ。
前回と全く同じで、麻酔を受けてもこれほど空っぽな状態にはなれない。
もしこうした経験がなければ、脳梗塞の症状が出ているのではないかと勘違いしていただろう。
「完了しました! ご主人様、長実さんのほうへ顔を向けてください。そうすれば会話がより自然になります!」
「お前たちってば、ますます細かく気遣うようになったな……」
自然に振る舞うために、僕は逆に細胞たちの指示に従い、ずっと僕をじっと見つめている清音の方へ視線に向けることを余儀なくされた。
目の制御も目の細胞たちに任せておけばよかった……何しろ清音の視線にどう向き合えばいいのか、まったく分からなかったからだ。
「先輩、お顔は…?」
僕の顔ってどうしたの?変かな?まあ、鼻から下の顔面が全く動かせない状態なら、変な表情をしてしまうのも当然だろう。
例えば、口を開けてよだれを垂らしているような痴漢みたいな顔とか。
どうか清音の心の中で、先輩としての僕のイメージが損なわれないように……と言いたいところだが、そもそも僕にろくなイメージなんてないし。
「あ、あの……言ってはいけないことを口にしちゃって、先輩のご機嫌を損ねてしまったからですか!」
「違う!お前のせいじゃない!俺のせいだ!お前に隠してしまって悪かった!実はとっくに俺の気持ちを伝えようと思っていたんだ!」
舌や喉の筋肉、唇の自発的な動きを通じて、細胞たちは僕の声で、あるドラマでよく耳にするような定番台詞の冒頭を清音に向かって語りかけた。
気まずさなどさておき、問題は、彼らが清音に何を打ち明けようとしているのかということだ。
少なくとも一つ確かなのは、今が胸キュンな告白をする場面ではないと、彼らも分かっているはずだ。
しかし、摂氏1,000度以上に熱された鋼鉄よりも赤く染まった清音の頬や、ドギマギした挙動を見る限り、彼女は僕が今やそのようなベタな台詞を口にしようとしていると思っているようだ……
とはいったものの、僕自身の心境も清音より落ち着いているとは言えない。
「先、先輩!私、まだ、まだ心の準備ができていません!せ、せめて心の準備をする時間を、少し、ください!」
「だめだ!もう時間がない!今すぐ伝えなきゃいけない!よく聞いて!実は私はずっと……」
まるで二人の脈動が重なり合うような音が聞こえた。どちらも同様に早くて、同様に激しかった。
会場に詰めかけた100万人近い人々の喧騒や雑音がその音に比べれば、儚い囁き声になる。
「実は私は……ずっと……ずっと『月隠の顔』の筋金入りのファンなんだ―――!」
――――――――
清音の期待が裏切られたかどうかは分からないが、僕の期待は間違いなく裏切られた。
「先、先輩、本当ですか? 本当に、本当に、『月隠の顔』のファンなんですか?」
「そうとも!じゃないと、大金をはたいてこの会場の一番いい席を買うわけないだろ!『月隠の顔』を深く愛していなければ、こんなに散財するものか!なあ~?」
清音も僕と同じように、ここに座っているこの男が、かつて誰かに「類地球惑星の流行から取り残された田舎者」と蔑まれた男と、同一人物だとは夢にも思っていないだろう。
通常であれば、このような言葉が僕、安達池の口から飛び出す確率は、人間がガンマ線バーストにさらされても生き残る確率とほぼ同じだ。
しかし、どれほど常識外れで、どれほど滑稽で笑えるものであっても、口に出された一言一句が聞き手の脳裏に刻む印象は変わらない。
現実世界では、僕と清音が無言で視線を交わしている。精神世界では、すでに大騒ぎになっている。
「また何をでたらめを言ってるんだ―――!俺がいつ『月隠の顔』の筋金入りのファンになったんだ???『月隠の顔』を深く愛しているなんて……全くわけわからん!これで彼女はきっと俺を更に変人と思うに決まってる……てめえらの仕業だ!」
「でもご主人様、その言い方になにが問題があるんですか? ライブ会場にやってくる人たちは間違いなくファンでしょう。ごく当然のことじゃないですか?」
口の細胞たちから漏れるのは僕の批判に理解不能な言葉ばかり。この説が論理的に完璧だと断言している。
「今すぐには、俺と清音の間のことをお前らに詳しく説明できない……とにかく、俺と妹、つまり『月隠の顔』とのつながりを彼女に知られては困る!事前にお前らに伝えておかなくて悪かった……」
清音の思考力からすれば、こういう突飛な言い訳は彼女を騙せるどころか、かえって僕への疑念を深め、そこから辿って『月隠の顔』の正体にまでつながってしまう可能性も十分にある。
「ご主人様、彼らを責めないでください。仲間たちにそう説明するよう指示したのは私です。」
「また君か、心臓さん。きっと何か理由があるんだろ?」
「はい。私が見る限り、遠回しに話す必要はなく、自然かつ素直に伝えることが最も合理的な解決策です。ご主人様は今日一日中、このコンサートに赴くために尽力されていました。最も忠実なファンでなければ、ここまでできるはずがありません。」
「その言い分には一理あるが、なんだか論点をすり替えているような気がするんだが?」
「それに、観察した限りでは、この長実さんという女性はこれについて怪しんでいると私は思いません。」
「何その言い方、すごく彼女のことを知っているみたいだけど……出会ってからたった2分しか経ってないくせに……」
「2分でも短くはありませんよ、ご主人様。時には、たった一つの単純な仕草や、不意に漏れる態度だけで、人間の内面を垣間見ることだってできるのです。」
「ふっ~、なかなか説得力のある話だ。けど人間の性根ってそんなに簡単に読めるものじゃないぞ。」
――――――――
僕と心臓の会話がまだ終わらないうちに、甘美な笑い声が耳に届いた。
その声の源は、あからさまに目を細め、体を微かに震わせ、片手で口元を隠している清音。
「ほらね!清音まで俺を笑ってるじゃない!軽はずみなこと言うなって言い付けたのに、結局彼女には笑い話にされてしまっただけ……」
「ご主人様、結論を急がずに。私見では、あれは嘲笑の笑顔には思えません。」
「まだ強がってるのか、心臓さん?さっさと、お前たちが引き起こした大失態をどう挽回するか考えろ!ったく、やっぱり俺が直々に片付けないとダメだ。これより、すべての発声器官に対する支配権を回復するよう命じる!」
指をパチンと鳴らすだけの一瞬で、口などの部位は正常な状態に戻った。
「あの……清音、さっき俺の言ったこと、絶対に、絶対に気にするなよ!ぶっちゃけ、俺は流行に疎くて、ダサい人間で、ファンなんて名乗る資格なんてないんだから!」
「先輩……説明……説明はいりません……分かりますから……」
清音は次第に笑い声から息を整え、彼女のつっかえつっかえの言葉だけでも、その態度はだいたい見当がついた―――彼女はもう僕の弁明など受け入れる気はない。
どんなに言い繕おうとも、逆に事態を悪化させ、清音が僕に対して抱いていた最後の一片の信頼さえも完全に打ち砕いてしまうだけだ。
そこで僕は、発言権をすべて清音に委ね、彼女に最終的な判決を下してもらうことにした。
「先輩が変わったのを見て、本当に、本当に嬉しいです……」
落ち着きを取り戻した清音が、口を開いた途端、僕は不意を突かれた。
「え? 意味分かんない……俺が以前とは違うと思ったんじゃないの?」
「いいえ、そうじゃないんです……もしかすると、もしかすると先輩は全く変わっていないのかもしれません。私こそが、先輩の本当の姿を見極められず、勝手な疑いを抱いたり、自分の思い込みと比べたりしていたのです。所詮私が早とちりしただけなんです。」
さっぱり分からない。清音がなぜ詐欺師である僕に謝罪するのか。
友人に事実を隠し、友人を利用して私利私欲を満たし、こうした罪を犯した人間こそ、謝罪すべきではないのか?
しかし、清音は謝罪する機会を僕に与えることなく、さらに本音を打ち明けてきた。
「でも、一つだけはっきり分かっていることがあります。先輩が変わったかどうかは別として、今の先輩は、私が一番見たい姿なんです。」
心臓の言う通り、目の前にいるこの少女は、僕を疑ってもいないし、あざ笑ってもいない。彼女も僕と同じように、矛盾の集合体だからだ。
顔を真っ赤に染めながらも、胸を張った姿勢を保っている。
落ち着いた口調で、想像を掻き立てるような言葉を口にしながら、体はさっきよりも激しく震えている。
唯一違うのは、彼女の瞳だけだ。余計な感情は跡形もなく、夢が叶った時の幸福感だけが残っている。
こうした様々な反応は、彼女が僕と共通の趣味を持つこと、あるいは二人の人生の軌跡に接点があることを心から期待している証拠である。
彼女が期待する接点は、一つだけではないのかもしれない。
ならば、僕が彼女への期待に対して返せる答えは───




