第八話 一人で、街中のハーフマラソン 途中
僕の意図をあまり理解していないにもかかわらず、足の細胞たちは忠実に命令に従い、この薄暗く狭い、人影のない路地へと僕を導き、浮浪者が身を隠すのにうってつけの静かな隅で足を止めた。
立ち止まった後、僕が真っ先にやったことは、手にした花束が無事かどうかを確認することだった。幸いにも今回は望み通り、花束は無傷だった。路地の奥深くにいても、心を癒やすようなほのかな香りは消えることなかった。
ワイヤレスイヤホンからは「ルートから外れています」という案内音が繰り返し流れており、ナビが警告しているというか、体内の細胞たちが抗議しているというか、一瞬見分けがつかなくなりかけた。
「やっとお前らとちゃんと話せるな…さっきの交差点で一体何をしたんだ! 目立ちすぎないようにと何度も念を押しただろ! 俺みたいに道路を渡る人なんているか! これじゃ、大勢の人に見られただけでなく、交通事故を起こしかけたし、報道されてしまうに決まってる……」
「滅相もございませんが、先ほどの横断の仕方に何か問題があったのでしょうか?」
「そうですよ、無事にご主人様を危険から守れたじゃないですか? 私たち筋肉細胞が少しだけ力を出せば、これくらい楽勝です~!」
心臓は無邪気な口調で僕に問いかけ、脚の筋肉細胞たちは先ほどの勇敢な活躍をまだ噛みしめているようで、どちらの側も、自身の行動に問題があるとは思いやしない。
「たとえ視力がなくても、目から伝わる情報で、あそこが赤信号だと分かるはずだろ? あんな危険な場所で赤信号を無視すれば、命に関わるんだ! そんな当たり前のこと、知らないわけないだろ?」
「ご主人様、赤信号って……何のことですか?」
予想はしていたものの、心臓からの少し無知な質問を聞いて、思わず声を上げて笑いそうになった。細胞たちのこの世界に対する認識は、1、2歳の幼児に過ぎないことを踏まえ、さらに彼らがただ心を込めて助けてくれていて、わざとトラブルを起こそうとしているわけではないことを考えれば、 彼らを嘲笑したり叱ったりする資格などないと自覚し、怒りを抑えてスマホを取り出し、ネットで信号機の実物の写真を何枚か探して「目」に見せ、それから辛抱強く信号機の役割を説明し始めた。
まるで幼稚園に招かれて交通安全の知識を教える交通警察のおじさんになったような気分だった。
「ほら、これが信号機だ。ほとんどの交差点にある交通施設で、歩行者や車両の正常な通行を制御するために使われている。簡単に言えば、赤信号を見たら止まり、青信号に変わるまで進んではいけない。いわゆる『赤は止まれ、青は進め』というもので、これも人間社会の基本的な常識の一つだ。」
「おぉ~~~こんな単純な色の変化装置だけで交通秩序をきちんと整えられるなんて、人間の知恵って本当にすごいですね!」
一般の人から見れば、構造が単純で機能も単一の冷たい機械に過ぎないが、細胞たちはまるで新大陸を発見したみたいに、その素晴らしい実用性に感服し、それを極限まで活用した人間を称賛していた。
「まあ、一見シンプルに見えるけど、実は信号機の設置には奥深い知識があるんだ。例えば、赤信号と青信号のそれぞれの点灯時間は、交差点ごとの時間帯別の交通量の変化に合わせて設定する必要があるし、十分な視認性を確保するためには設置位置や角度を徹底的に研究しなければならない。しかも赤・緑色盲の人たちのことも配慮しなきゃ……などなど。って、なんでお前らにこんな話をしているんだ? 今、交通知識の授業をしているわけじゃないだろ!」
「でもご主人様、お話しされていることはとても面白いですよ。もう少し聞きたいのですが……」
「私もご主人様の解説に大変興味があります。ここで中断するのは本当に惜しいですね……」
もし生徒たちが自分の授業にこれほど高い関心を示してくれたら、教師がきっとこの上なく嬉しく思うだろう。もしいつか僕が宇宙関連業界から完全に引退することになったら、教師になるのも悪くないかもしれない。僕の就職の幅を広げてくれた細胞たちに感謝しなくちゃ……とはいえ、今一番やりたい職業はマラソン選手だ。
「わかった、わかった。今日の用事を片付けたら、たっぷり時間をかけて講義してあげるよ~」
仕方なく、子供をあやすようないい加減な口調で、がっかりした細胞たちをなだめた。どうやら僕の就職の幅は、さらに幼稚園にまで広がりそうだ。
「本当ですか~~? やった~~!世界一の御主人様です~~」
「私もそう思います。」
歓喜の声が脳内で炸裂した。
「ねえ、お前ら、ちょっとキモくない? とにかく、早くナビのルートに戻らなきゃ。時間は待ってくれないから……じゃあ、走るのは引き続き頼むよ! 道路を渡るときは、赤信号を見たら必ず止まって、青信号になってから渡ることを忘れないで! わかった?」
「わかりました、ご主人様―――!」
細胞たちは声を揃えて答えた。「ご主人様」という言葉を「先生」に置き換えれば、まさに完璧な学校の授業の光景そのものだ。かつて、僕もこうした探求心に満ちた環境に身を置いたことあるが、他のクラスメートたちのように情熱的に振る舞うことなどなく、ただおざなりに相槌を打つだけだった。
理由は簡単だ。先生が教えてくれることは、とっくの昔に習得していたことだから……あの頃、ずば抜けた頭脳は自慢の種にはなるが、現状を変えるという点では何の役にも立たない。その代わり、今、本当に助けになってくれるのは、僕の前にいるこの60兆個の「生徒」たちだ。
「どうやら誰もついてきていないようだ。それじゃあ、外に出よう……」
言葉が最後まで出ないうちに、ズボンのポケットからスマホのメッセージ通知音が鳴り響いた。幸い、この物静かな路地裏だったからこそ、すぐに聞き取ることができた。もし待ち望んでいた相手からの返信なら、1秒たりとも遅らせるわけにはいかない。僕にとって、このコンサートと同じくらい重要な意味を持つからだ。
予想通り、両親からのチャットグループへの返信で、しかもまとめて何通も届いていた。
「池~あたしとお父さんはもう輝英館の正門前の広場に着いたよ! 近くに暮らす同僚に事前に頼んでおいてよかったわ。おかげで車をとめる場所がとれたの。そうでなかったら、駐車する場所すら見つからなかった!」
「あちこち渋滞で、朝早くに出発したのに、結局1時間早く着いただけだった……だから、私はコンサートなんて見に行くのが嫌なんだ。池ならきっと分かってくれるよね?」
「池、お父さんの戯言なんて無視していいのよ!今朝、急いであたしを家から引きずり出したのは誰だったかしら~」
「あ~~~~、すごい人だかりだなぁ!ところで池、今どこにいるの? 十香子と広場前のカフェで休憩してるから、着いたら一声かけてくれ。そっちに合流するから、道中は気をつけて。」
母ちゃんのいつもの横槍や、親父のわざとらしい話題の変え方は、もうとっくにうちの家族の日常の一部になっている。でも、僕が気にかけているのはそこではなく、改めて恥ずかしさを覚えるある事実だった。
「親まで俺より先に着いているなんて……」
彼らが僕より一歩先に会場に到着していたという事実から、このコンサートへの重視度や「月隠の顔」への期待の大きさがうかがえる。両親にさえ及ばないのだ。
これはごく当たり前のことではないだろうか? 親が娘を想う気持ちは、本来、兄が妹を想う気持ちよりもずっと深いものなのだ。
その道理は分かっているのに、自分の中の妙な負けず嫌いな気持ちを抑えきれない――文緋のことに関しては、誰にも負けたくないのだ。清音に対しても、両親に対しても同じだ。その理由は自分でも分からない。ただ、「勝負」に負けるたびに、心が痛むことだけは分かっている。言いようのない激しい痛みだ。
しかし、敗者にも再起の権利はある。同様に、僕の手には逆転勝利への鍵が握られている。
「もうこんなに早く着いたの?(驚きの表情) そんなに急ぐ必要なんてないのに~~~今、輝英館へ向かっているところだから、安心して、絶対に時間通りに着くから!」
僕は軽快で自然な口調で両親に返信し、それから気力を振り絞って、このマラソンじみた旅を続けた。
「行こう。」
「はい、ご主人様。」
心臓は簡潔に答えたが、その意志は驚くほど固かった。
すでに夕暮れ時。薄暗い路地から抜け出し、顔を上げると、西へと沈みゆく夕日と、とっくに空高く昇っていた満月が見えた。満月はちょうど輝英館の方向の真上にあり、その前を細い雲が漂っているが、溢れんばかりに輝く月の姿を隠すことはできない。
「今日の月は、いつもより早く昇ったね。」
「ご主人様、何をおっしゃいましたか?」と、心臓が問い返した。
「何でもないよ。さあ、始めなさい。道路を渡る時は、必ず信号を確認するようにね!」
「了解です! 視覚面は目にお任せします!」
「はいはい~~ご安心ください~赤信号も青信号もちゃんと確認しますから~~」
目がそう言い終えると、両足が動き出し、月の方向へと走り出した。
細胞たちに引っ張られて走ることに徐々に慣れてきたせいか、足にはもはや全身から切り離されたような違和感はなく、上半身の姿勢も下半身の動きに調和し、全体的な姿も自然に戻ってきた。時折、通り過ぎる街の店のショーウィンドウには、ごくありふれたジョギングをする人の姿が映し出されていた。ただ、その手には一束の花が添えられていた。
かつては天才だと慢心し、平凡な人生を嫌っていた僕だが、今はむしろ平凡さを憧れ、現在の平凡な生活の毎分毎秒を楽しんでいる。
「先の交差点でまた赤信号だ。どうすればいいか分かってるよね?」
「もちろんです! ご主人様、ぜひご覧ください~」
すると、僕の走っている速度が6.1メートル/秒から一気にゼロに落ち、まるで壁に激突した車のように、瞬時に歩道脇で動きが止まった。靴底からは鋭い摩擦音が鳴り響き、傍らを歩いていた通行人を驚かせてしまったため、僕は気まずそうに笑いながら取り繕うしかなかった。
「急に止まるのはやめてよ……みんな変な目で見てるよ。」
「そうなんですか? お許しくださいご主人様!どうやら、正しい止まり方についてまだ勉強が必要のようですね……」
「謝る必要はないぞ。だいたい『正しい止まり方』なんてもの、そもそも存在しないんだから。」
「そうなんですか? よかった! また何かしでかして、ご主人様を怒らせてしまったかと思って……」
赤信号を待つ合間を縫って、僕は腰をかがめ、運動しすぎた脚の筋肉をマッサージするふりをして、片手でそっと撫でた。
「馬鹿なことを言うな……今日、君たちや他の細胞たちの助けがなかったら、ここへたどり着くことさえできなかっただろ。正直言って、君たちはもう十分すぎるほど働いてくれた。先日会場で起きた騒動や、この前実家に帰った時のこと……たぶん君たちはまだ記憶能力が発達していなかったから、あまり覚えていないかもしれないけど……でも俺は覚えている!君たちがしてくれたこと、すべて心に刻んでいるんだ!何度も何度も君たちの助けを求めてきたのに、まともな見返りを一度も与えてあげられなかった。しかも今日はずっと君たちに酷い仕打ちをしてしまって…だから謝るなんて言わないで。謝るべきなのは……」
引き金となるような出来事も、どうしても言わなければならない理由もなかったのに、僕は全細胞への心の声を抑えきれずに口にしてしまった。心臓に謝った時よりも、断然誠実な気持ちで。申し訳なさいっぱいの生体信号が全身の隅々まで流れ、確実に各細胞の受容体に届いた。ただ残念なことに、最後の言葉を送り出す前に、その信号の伝達は目の言葉によって遮られてしまった。
「あの~ご主人様、もう青信号ですよ~。みんなもう横断歩道を渡り始めてますよ~」
交差点の片隅には、僕一人だけがぽつんとしゃがみ込みながら自分の足をさすっている姿が取り残されていた。
「えっ?んじゃ早く行こう!」
「はーい!」
横断歩道を渡る人々の列を素早く追い抜き、目的地へと走り続けた。
「ご主人様、突然お邪魔して申し訳ありませんが、全細胞たちからご主人様へお伝えしたいことがあり、私に伝言を託されました。」相変わらず心臓からの声だった。
「ん? 全細胞から? 何かあったの?改まって。」
「実は大した用事ではないのですが……皆、ご主人様の本音を聞いてとても喜んでおります。特に『ご主人様がお詫びを言ってくださる』という願いが、こんなに早く叶うなんて、まるで夢のようです。」
「なんて変な願いなんだ? 俺が毎日ヘマを連発してるみたいに言ってるじゃないか……」
「いえいえ、もちろんそんな意味ではありません。」
「それに、俺、さっきは謝ってなんかいなかったよ!ただ、ちょっと、ちょっと反省しただけ……」
僕の存在しない「舌」が、突然再びどもり始めたが、その性質は先ほど物凄い勢いで交差点を突っ切った時とは全く異なっていた。おそらく安達家の血筋ゆえだろう。親父から文緋に至るまで、皆この性格を持っているが、僕に現れるのはかなり珍しいことだ。
「おぉ~~~どうやらご主人様にも素直じゃない一面があるようですね?」
「これこそが、人間が言うところの『プライド』や『ツンデレ』ってことでしょうか~~~」
「ご主人様はさっき、あれほどはっきりとおっしゃっていたのに。知恵を得たばかりの私たちでも、ちゃんと理解できましたよ~」
「私も、ご主人様が本音を隠す必要はないと思います。」
細胞たちは一斉に動き出し、いたずらっぽい口調で、この「ご主人様」である僕をからかい始めた。
「や、やかましい! ちゃんと走れ! 」
顔に突然、妙なほてりを感じた。きっと長時間運動したせいだ。
このような会話の仕方は、家族、先生、そして本に囲まれて22年の人生の大半を過ごしてきた僕のようなガリ勉にしてみれば、かなり馴染みのないものだ。友達同士はこんな風に話すのだろうか?
どんなに博識であっても、知らないことだってあるものだ。これからは、この人生の空白を、まったく新しい形で埋めていける気がする。




