第二話 あわや『配下』に殺されるところだった僕
天首区の街路は年がら年中賑わっており、その隆盛ぶりは今や京空市の独特な風景の一つとなっている。
興味深いことに、大通りや路地裏をびっしりと埋め尽くす人たがりが行き交う光景を見ると、つい今の自分の体内の様子を連想してしまうのだ。例えば、血管の中を流れる血液。その中の血球を擬人化し、血管を道路と見なせば、おおむね目の前の光景と同じになるが、人数の差は歴然と大きい。通行人の話し声、交通機関の走行音、そして様々な大型スクリーンから流れる広告音が織りなす喧騒は、我が体内にある静寂なミクロの世界とは正反対の極をなしている。
つまり、僕の細胞たちは今のところかなり従順で、いや、従順すぎるほどだということだ。
「ご主人様! 心臓から重要なお知らせがあります!」
人混みの中を必死に動き回っていた僕の耳に、明るい呼び声が届いた。周囲がどれほど騒がしくてもその音量はかき消されず、あたかも別世界から響いてくるような不思議な声だった。
僕は思わず足を止め、意識を精神世界へと集中させた。
「うわっ! びっくりした! おい心臓、急に脳内で大声を出すな! 」
「誠に申し訳ございません。ご主人様、これほど騒がしい場所では私たちの声が聞こえないのではないかと心配し、信号を少し強めてしまいました……」
「生体信号と外界の音に何の関係があるんだ? 全く無関係な話じゃないか……さあ、何か急用が?」
「目からの報告です。どうしてもご主人様に伝えたいとのことでした。原文はこうです。『わあ~~~! ご主人様と同じ人間がこんなにたくさんいるなんて、初めて見たわ! 本当に不思議~~~』。以上です。」
……僕は再びドン引きしてしまった。目の幼稚さは、まさに生まれたばかりの赤ん坊そのものだ。
「ご主人様?どうなさいましたか?目の報告に何か不都合な点でもありましたか?」
「わざわざ立ち止まったのは、こんな退屈極まりない話を聞くためだったのか?はあ……まあいいや、自分の体に文句を言ってもしょうがないなあ。」
僕は父親が子供に接する口調でため息をつきながら、改めて花屋へと足を踏み出した。不都合な点といえば、目だけにとどまらず、全身の細胞が理解に苦しむような点が一つある。
僕はずっと前から、周りの人たちとは違う存在になっているということ。これから先も、もう二度と彼らと同じようにはなれない。
天首区にあるこの花屋は、世界中の観賞植物をほぼ網羅しており、高級品種から家庭用の鉢植えまで、言わばこの世のあらゆる花が揃っている。
3日前にここでバラの花束を予約していたが、その用途は言わずもがな。
しかし、花の種類や花言葉についてはあまり詳しくないため、この点については店員に助けを求めざるを得なかった。以下は3日前の情景である。
「もし差し支えなければ、お客様が花を贈る相手について教えていただけませんか?そうすれば、その方にふさわしいお花をご提案できますし、アレンジメントのスタイルや本数もお客様に合わせてカスタマイズできますよ~」
「えっと……実は……ある女の子に贈るんです。」
「きっと、気になっている方へのプレゼントですね~~~お二人は今、お付き合い中なのでしょうか、それともこれからアプローチしようとお考えなのでしょうか?」
店員の見当違いな質問に対し、僕はそれを訂正せず、不安な気持ちを抱きつつ、店員の話に乗る形で話を続けた。
「あの……どう言えばいいでしょうか……幼い頃から知り合いといった関係です。」
「つまり幼馴染ですね~~~分かりました! 告白にぴったりの花をいくつかご提案させてください~」
カーネーション、チューリップ、スミレ、ブルースター……さまざまな花が目の前で競うように咲き誇り、まるで買い手の心を掴もうと懸命にアピールしているようだったが、僕の視線は何か未知の力に引き寄せられるかのように、その豊かな花々のうちの一種類だけに留まっていた。
「お客様、バラにご興味をお持ちですか? 本当に目利きですね~6月はまさにバラの旬の時期ですよ!」
店員さんの観察力の鋭さは、母ちゃんと張り合えるほどだ。
「あ……いえいえ、ただバラの鮮やかな赤色がとても目を引いて、相手にもよく似合うと思っただけです。」
百花繚乱の景色の真ん中で、赤いバラのその炎のように燃える色はひときわ目を引いていた。僕の美的感覚から言えば、赤いバラと、ステージ上で注目の集まる焦点であり、一挙手一投足から熱い青春の息吹きを振りまいている「月隠の顔」は、スタイルの面で完璧にマッチしていると言える。
「ちょっとセンスが悪いんじゃないでしょうか? 今の時代、女の子にバラを贈る人なんているんですか?」
「そんなことはございませんよ~バラ、特に赤いバラは、決して色あせない、永遠の愛の象徴ですから!」
赤いバラの花言葉の意味が、僕と文緋の関係とは合わないことは分かっていたが、店員のアピールに曖昧な返事をするしかなかった。
ただ、バラ以外の花を選ぶことは絶対にない、と確信していた。振り返れば、安達文緋と「月隠の顔」の正体が隔絶されていることが、かえって僕にとって大きな助けとなった。それによって、外部からの誤解を招く可能性を完全に回避できたのだ。
「では、赤いバラの花束を1束お願いします。13日の朝に受け取りに来てもいいですか?」
「もちろんです~ご自宅への配達も可能ですよ!」
「いいえ、結構です。自分で取りに来るので大丈夫です。」
耐久性という点では、花はケーキに比べて、さほど強くないはずだ……自分が杞憂しているのかどうかは分からないが、どうやら僕はすでにそれを習慣にしてしまっているようだ。
「かしこまりました~では、お客様はどのようなブーケの組み合わせをご希望ですか? 様々なカスタマイズサービスをご用意しておりますので、お好きなようにお選びください~」
「うーん……私のセンスで組み合わせたものが、相手に嫌がられるんじゃないかと心配で…… 」
センスの悪さという点では、自画自賛するつもりは毛頭ないが、『長い間宇宙を漂流し、地球型惑星の流行に全く無知な田舎者』である僕が『田舎者ランキング第一位』の座を奪おうとすれば、誰も僕に勝てないだろう。
「お任せするほうがいいと思います。花の本数が多めに、見た目が美しく映えればいいです。あと、包装はしっかりしていただけますか?」
「ご安心ください~きっとご要望にお応えします!」
そこで今日、花を受け取りに来た。店員が熱心に、特製の強靭な透明シールフィルムで包まれたバラの花束を差し出した。中の花束ははっきりと見え、シールフィルムに包まれていても花芯から漂う香りを封じ込めることなどできず、花びらは依然としてみずみずしく鮮やかで、真紅の美しさはシールフィルム越しでもくっきりと伝わってきた。淡いピンク色のラッピング紙と、束の根元に結ばれた水色のリボンも、花束全体を程よく引き立てていた。
「こちらがお客様のご注文いただいた赤いバラです~。当店では特別に99本ご用意いたしました。本数も見た目も、お客様のご要望に合っているはずです~」
バラの花束を受け取った瞬間、その美しさにすっかり魅了され、手放せなくなるほど気に入った。とはいうものの、僕はこの花束の本当の持ち主ではないのだが。
花屋を出た途端、心臓がまた僕に話しかけてきた。店員の見送り言葉が耳に完全に届く前に、耳の奥で遮られてしまった。
「ご主人様、重要なお知らせがあります!」
「また何かあったの? まさかまた目か? 『わぁ~~~こんなにきれいなバラは見たことないよ~~~』とかいうつまんないことを言おうとしてるんだろ?だったら結構よ。あいつらが言わなくても、この花束がどれほど美しいかは俺にもわかってるから~」
「ご主人様、誤解です。今回は鼻からの伝言を……」
「なら余計に聞くまでもない。どうせ『わぁ~~~こんなにいい匂い、嗅いだことないよ~~~』って感じの無駄話だろう?」
「図星です!さすがは我が主人、本当に感服の至りです!」
初めて心臓の教養の深さに驚いた。お世辞の腕前もなかなかだ。人間特有の悪い癖だけは絶対に真似しないでほしい……
「まあまあ、お世辞はいいから。他に用はないだろう?そろそろ駅へ向かわなきゃ。」
幸い、上雲居行きの列車の切符は事前に購入済みだった。何しろ今日、切符の争奪戦は未曾有の激しさで、少しでも躊躇すれば瞬く間に売り切れてしまうからだ。「月隠の顔」のライブ初参戦なのに、準備は実に万全で、名誉会員といった筋金入りのファンたちにも引けを取らない。
「問題は、ご主人様にはまだ守らなければならない約束があるということです。忘れてはいらっしゃいませんよね?」
「わかってるよ、ただの昼ご飯だろ? あの消化器官たちに伝えといてくれ、『腹を空かせたりはしない』って!」
「私たちのことを気にかけてくださってありがとうございます――! やっぱりご主人様が最高です~~~」
胃、胆嚢、膵臓が同時に熱烈な歓声を上げた。その理由とは、この「ご主人様」が、彼らの待望の恩恵を与えようとするということだけであり、たとえそれがごく普通の昼食に過ぎないとしても。おそらく、細胞レベルのミクロ生物にとって、エネルギー摂取への欲求は、人間といった高等生物よりもよほど強いのだろう。
「またあんな大声を……今日中は俺の命令がない限り、勝手に声を出すなって言ったはずだぞ?」
「ごめんなさい、ご主人様~~~ご主人様がとっても優しいから、嬉しすぎてつい声を漏らしてしまって……」
胃はまるで悪いことをした子供のように、しょんぼりとお詫びした。しかし実際には、今日の朝食を抜いてしまった僕こそ、消化器たちに謝るべきだったのだ。自分の権威と面目を保つため、結局そうはしなかった。
「まあいいや、今回は特別だ! そういえば、君たちに聞きたいことがあるんだけど、俺が腹に入れた食べ物に対して何かリクエストはある? 例えば味とか、栄養分とか、清潔さとか?」
「味に関しては、舌に聞いたほうが適切だと思います。私たちには味覚機能がないですから。」
「言われてみればそうだな……」
消化管の細胞が味覚を進化させるなどという考えは、やはり想像力過剰だった。この常識では全く説明のつかない肉体の中にも、自然の法則に則った部分はあるのだ。
「胃の壁細胞の言う通り!どんな食べ物でも、ご主人様が口にしたものなら、私たちにとっては贅沢で美味しいものばかりです~~~!」
少し聞き慣れない声がこの会話に割り込んできた。その口調は、職場で長年働き、上司の機嫌を取ることに長けたベテラン社員によく似ていた。羽杉秘書のことを陰でディスっているわけじゃないよ。
「腸の吸収上皮細胞まで口出しするとは…… ご主人様はあなたたちに返答せよって指示した覚えはないけど?」
「私たちこそが食物の栄養を吸収する主力だってことを忘れないでちょうだい! ご主人様の質問は、まさに私たち腸の吸収上皮細胞向けじゃないの~ 」
確かに、栄養吸収に関する質問は腸に答えてもらうのが最も適切だ。
「ご主人の時間は貴重ですから、手短に申し上げますね~平たく言えば、私たちに入ったものが確かに食用可能な物体であり、他の異物でない限り、その中の栄養物質をすっかり吸収し、ご主人の身体に必要な栄養を供給します~ですから、全くご心配はいりません!」
「俺は食べられるものかどうかさえ分からないほど愚かじゃないけど……じゃあ、食べ物の安全性についてはどうなの?万が一、不衛生なものを食っちまったら、君たちに何か害があるの?」
「その点についても、ご心配は無用です。私たち腸も他の消化器と同様、ご主人様にはできるだけ清潔な食べ物を摂取していただきたいと願っていますが、どうしても予期せぬ事態が起こることもあります。しかし、強力な免疫システムがご主人様を守ってくれますから、病原体だろうと有害物質だろうと、ご主人様に脅威を与えることはありません〜〜〜」
「そうです────! 私たち免疫細胞がいる限り、外部からの不浄なものがご主人様を傷つけることなど決してありません────!」
免疫細胞たちの声は実に男らしく、つい精神空間の中で彼らの擬人化された姿を想像してしまった――― 多分、マッチョな男たちの集団だろう。ムキムキの体の表面には浮き出た青筋が走り、凄まじい力を示している様子で、ボディビル大会でよく見かける光景だ。
彼らの保証が誇張気味かどうかなんて、正直判断がつかない。何しろ、免疫システムの能力を測るためだけに、わざわざ自分の体に毒を盛るような馬鹿な真似はしないからだ。しかし、心の中に、なぜかかつてないほどの安心感が湧き上がってきた。
となると、手軽で便利なジャンクフードを適度に食べるくらいなら、大した問題はないだろう。
正午が近づき、僕は自信満々に駅前のホットドッグサンドを売る移動販売車の前に立ち、食材の品質にはこだわらず、味と手軽さだけを重視する他の都会人たちと一緒に列に並んだ。
しばらくして、今日の昼食を手に入れた。
加工肉でできたソーセージと、高カロリーで塩分も高いソースと、日常の必要摂取量には程遠い少量の野菜を、食物繊維の乏しい精製パン2枚で挟んだ、安価で定番のファストフードだ。手早く腹を満たしつつ、コスパも重視したいなら、この手のファストフードはいつでも最良の選択肢の一つだ。
「こんなものを食べるのも久しぶりだな。いただきます。」
一口目を飲み込んだ途端、心臓からの報告がすぐに届いた。不意を突かれた僕は誤嚥して、危うく窒息するところだった。
「緊急報告です!えっと……ご主人様、大丈夫ですか!?」
「ゲホッ、ゲホッ、お前、俺を殺す気か……」
「ご主人様! 早く気道組織にむせ込みを止めて異物を排出するよう命令してください!」
心臓は焦って僕を催促した。いや、むしろご主人様である僕に命令を下し、その手順通りに動かせと強要しているようで、主従関係が一時的に逆転してしまった。
「そ、そんな手もあるのか?」
「質問の場合ではありません! 早く私の言う通りにしてください!!!」
心臓は焦りのあまり、声がひっくり返るほど叫んだ。
結局、僕は激しい咳に襲われ、みっともない姿で心臓の指示に従い、呂律の回らない声で気道に命令を下すはめになった。現実の人間社会において、リーダーが部下の前でこのような醜態をさらせば、面目を失うだけでなく、高い地位に居続ける資格さえ失うことになるだろう。
「俺の、俺の気道や喉頭とか、もう、もう咳をするな!!!そして異物を、排出しろ!!!」
「承知いたしました―――!」
その瞬間、激しいむせ込みが完全に治まり、次に喉の奥から何かが押し出されるような感触がした。それが食道をすっと通り抜け、下の黒い穴の中に消えていった。全身には、食道の壁に残るわずかな異物感以外、不快感は一切なく、乱れていた呼吸も正常に戻った。
「ふぅ~~~助かった~~~まさか自分の心臓に殺されそうになるとは……しかも心臓病とは無関係な死に方だなんて、誰に言っても信じてもらえないだろうな?」
「ご主人様、お許しください! 私の軽率さゆえに、ご主人様を驚かせ、命に関わる危機にさらしてしまい、いかなる罰でも甘んじて受け入れます!」
「そこまで深刻じゃなかったけど…… そんなに自分を責めなくてもいいよ。それに、自分の心臓をどうやって罰すればいいんだ? 胸を殴るのか? マゾヒスト扱いされたくないな! 万が一、心臓に何か異常が起きたら、本当に死んじゃうんだから……次は気をつければいい。」
心臓の『声』から伝わってくるのは、自分の不注意を心から悔いている気持ちであり、決して「主人と同じ体を共有しているから、主人が死ねば自分も死ぬ。だから主人の命を救わなければならない」といった利己的な考えは欠片もなかった。それに加えて、心臓を含む全身の細胞たちは知性を得たばかりのため、行動や習慣を正しい方向へ導き、育成するにはまだ時間が要る。本質的には子供を育てるようなものであり、しかもどの国でも児童への体罰は法律で固く禁じられているのだ。
「お心遣い痛み入ります! 今後はもっと心がけてまいります!」
「もういいから、このサンドを食わせてもらえる?」
「しかし、舌から重要な用件があるとのことで、ご報告に参りましたが……」
「もし舌が『こんなに美味しいものを食べたことがない』って言いたがってるなら、俺の代わりにこう返事してくれ…… いや、全身のすべての細胞に伝えてくれ。個人的な感想を述べることは『緊急事項』に該当しないって────!」
「承知いたしました。直ちに全身にご指示を伝達いたします。」
どうやら舌は、このサンドを本当に美味しいと思っているようだ……奇しくも、僕もその感想に異論はない。長年にわたって培ってきた味の好みが、なぜこれほど劇的に変化したのか、その理由がようやく垣間見えた。
ほどなくして、僕はこのサンドを丸ごと食べ尽くし、消化器たちとの約束を果たした。そして花束を手に、ドタバタと駅へと向かった。1時半の発車まであと15分ほどあったが、改札を通って少し進んだところで、3番線の方から伸びてくる乗客の列に道を塞がれてしまった。
上雲居行きの3番線の終着駅こそが、僕の目指す場所だったのだ。




