第一話 ライブ当日の朝 60兆の仲間達からのやかましい挨拶
いよいよ、仲間達と出会う日が来た。
しかし、一気に押し寄せた60兆の仲間を相手にするのは、やはり無茶しすぎ……
皆様をこんなに長く待たせて大変申し訳ありません。
定番の長すぎる正文ですけど、お気に召していただけたら幸いです。どうぞお楽しみください。
6月13日、水曜日。
朝の太陽はいつも通りに東から昇り、木々の梢にいる小鳥たちも、いつものように声高らかにさえずっていた。
社会的な営みであれ、個人の生活であれ、どちらも繰り返される昼夜の変化の法則に従って、それぞれの役割を果たしながら、穏やかな日もあれば波瀾万丈な日もある日々を過ごしている。全国に同じ憧れの対象を持つ何百万、何千万ものファンたちにとって、そして私たち安達一家にとって、今日のこの唯一無二の日は、間違いなく後者に属するものだ。
なぜなら、今夜8時ちょうど、無数のファンが待ち焦がれていた「月隠の顔 デビュー3周年記念ライブ」が、陽の国最大の多目的ドーム会場―――首都の上雲居にある輝英館にて、わが国史上最大規模かつ最も盛大な形式で幕を開ける。すでに販売されたチケットの数から見て、来場者数は100万人に迫っており、「月隠の顔」がこれまでに打ち立てた60万人以上のファンが一堂に会して熱狂した記録を、彼女自身が塗り替え、他者が到底及ばない至高の境地へと更新することを告げている。
前回の記録とは異なり、 本日会場に集う100万人近い観客のうちに、初めて「月隠の顔」の親族の姿が見られることになる。両親と共にこの祝典の一員になれることは、僕が夢にまで見た瞬間だ。
残念なことに、文緋は両親の来場を知らないため、家族からの励ましや声援はこっそりと分散して行わなければならず、ましてや僕が堂々とステージに上がり、会場全体、さらには全世界に向けて「この人が俺の妹、安達文緋だ―――!」といった豪語を叫び、この安達家の誇りを世間に存分に誇示することはなおさらだ。少なくとも、ステージに上がって文緋に花を贈るくらいはできるはずだ。
文緋といえば、彼女は昨夜家に帰らなかった。理由はライブの最終準備のためだ――北崎さんから前日に届いたメッセージにはそう書かれていた。なぜ文緋が直接連絡してくれなく、北崎さんを通じて僕に知らせたのか、よく理解できなかったが、ある件については、そのメッセージを受け取った瞬間から、すでに心の中で分かっていた。
即ち、明日の朝食は自分で作らなければならないということだ。これが、昨夜ベッドで意識が消える前に、僕が最後に考えたことだった。
今の時刻はおよそ7時58分か59分、いずれにしても8時が近づいている。
「ご主人様、ご主人様、早く起きて~もうすぐ8時ですよ!」
発音は明瞭で、声は甘美で心地よく、その口調は絹のように柔らか……そう、これらを兼ね備えた存在こそが、僕の頭の中で毎朝決まって起こしてくれるあの「謎の目覚まし時計」である。
ここ数日、この妙な声は、以前の濁って聞き取りにくく、途切れ途切れだったラジオのような音から、徐々に進化し、今ではASMRにも匹敵するほど心地よい人間の声へと変わり、しかも……しかも女性の声だ。
僕のもう一つの人格が、まさか女性だったなんて───!
数日前、「謎の目覚まし時計」のまったく新しい声を初めて聞いた時は、驚きで啞然としたが、二、三日もすればすっかり慣れっこになってしまった。
所詮、神経系の乱れによって引き起こされた幻覚に過ぎないのだから、イケメンだろうと美女だろうと、 おじさんだろうとおばさんだろうと、どんなめちゃくちゃな声になっていても構わない。幻覚を真に受けるのは、ただ自分を苦しめるだけだ。
「ご主人様~~~お願いですから、早く起きてください! そうしないと、本当に8時を過ぎてしまいますよ!」
哀れみを誘うような懇願の声は、男性諸君の頭の中に、ある種の邪な想像を容易に膨らませてしまう。例えば、ゴシック系の衣装を身にまとったメイドが僕のベッドの横にひざまずき、昏睡状態に陥っているらしい主人を起こそうとする時に、焦りのあまり目に涙を浮かべ、華奢な両手で何度となく主人の体をそっと揺さぶっているような光景だ。
とはいえ、8時を過ぎてから起きても大した問題はないだろう? 僕という主人ですら気にしていないのに、「謎の目覚まし時計」が、大罪を犯したかのように焦る必要なんてあるのか?
でも正直なところ、たとえ幻覚だとしても、あれほど懇願されれば、誰だって心を痛めるだろう。懸命に僕を目覚めさせようとしているこの可哀想な「メイド」をこれ以上いじめるのはやめとく。大人しく起きよう……
「わかった、わかった、すぐに起きるから、泣かないで!」
典型的なシットアップの姿勢で、上半身全体をベッドから跳ね上げた。ベッドサイドテーブルの時計は、まるで僕と不思議なテレパシーでつながっているかのごとく、僕が目を向けた瞬間、7時59分から8時ちょうどに切り替わった。
家の中も頭の中も、静寂に包まれている。
普段、僕が起きると、脳裏の奇声は精神世界から一時的に退散し、重要な場面でのみ現れては邪魔をしてくる。例えば数日前に実家に帰った時もそうだった。幸い、最後には不運が幸運に転じ、一つの願いも叶ったのだが。
しかし、今日は絶対に「自分のもう一つの人格に体の支配権を奪われる」といった事態は許されない。特に、百万人もの注目を浴びながら、「月隠の顔」に花を捧げるという、人生で二番目に重要な瞬間(一番重要なのは初めての宇宙飛行だ)には、命懸けでも誰に邪魔をさせてはならない。
まずは、毎朝のルーティンを済ませてからにしよう。洗面所の鏡に映る顔は、ここ最近の不機嫌な表情とは著しい違いがあった――今日の僕は活気に満ち、輝きに溢れ、そして顔には「希望」「未来」「光明」「団欒」といった前向きな言葉がびっしり刻まれている。これほど元気いっぱいな朝を過ごしたのは、一体いつ以来のことだろう?
鼻歌を口ずさみながら、冷水に浸したタオルで顔を拭いていると、どこからともなく、あどけなさの残る声が耳に飛び込んできた――
「冷たっ! ねえ、ご主人様、私たちの表面を拭くときはもう少し温かいタオルを使ってくれませんか? こんなに冷たい水を使うと毛細血管が拡張して、顔が赤くなってしまいます。お肌にも悪いんですよ!」
「な、何者だ────!」
肝を冷やした僕は思わず叫んでしまった。誰かが子供っぽい声でわけのわからないことばかり喋っている気がする……「私たちの表面」って何のこと? まったく意味不明。ひょっとして、また頭の中の「奇声君」が騒いでいるだけなのか?
警戒しながら洗面所から出て、辺りを見回した。家の中に誰もいないことを確認し、文緋がこっそり戻ってきて悪戯してたりしないかという可能性も排除した後、再び洗面台に戻り、歯を磨こうとした。
「まったく、最近の幻聴の症状はますますひどくなってる。いろんな変な音が聞こえてきて、うっとうしいなあ!」
冷たい水を口に含んだ瞬間、またおかしな話し声が耳に広がった。今度は大人の男性の声。
「めっちゃ冷てぇ── ! ご主人様、ぬるま湯でうがいをしてくれませんか? 私たちを傷つけてしまいますから! 冷たすぎると歯の内部を強く刺激してしまい、いずれ歯髄炎に発展する恐れがありますよ!」
「そうそう、我々口腔粘膜もちょっとヒヤヒヤしてるんです……ご主人様、もう少し気ををつけたほうがいいと思います。」
「これ…これ、一体どういうことなんだ―――!ただ顔を洗ってうがいをしただけなのに、なんでこんな説教みたいな変な声が聞こえてくるんだ? 幻聴にもほどがある!」
鏡に映った自分の姿に向かって大声で叫んだ。鏡の中の姿もまた、同じ様子で応えてきた。それはそのはず、あいつはこれらの幻聴の張本人ではないのだから、根拠のない非難を背負う理由などないのだ。
追い打ちをかけるように、次々と多様な音色の奇声が僕の意識に侵入してくる。全人類を見渡しても、声が完全に一致する二人は存在しない。双子でさえ例外ではない。そして、僕の脳内から湧き上がる奇声もまた、人間の声紋の唯一性という法則に合致しているのだ。
「ご主人様、そんなに大声で叫ばれると、我々喉への負担がかなり大きくなります……万が一、過度な発声で声帯が損傷して腫れてしまったら、もう話せなくなってしまいます!」
「ご主人様、報告です。我々胃粘膜上皮細胞から、食事を摂る必要があるとの連絡です! そうしないと、胃酸で自分自身を消化してしまうかもしれません! 何なら胃酸の分泌を一時停止するよう命令を下されますか?」
「ご主人様、ご主人様、失礼ながら、おしっこをするのを忘れていらっしゃるようです……我々膀胱には大量の尿が溜まっています。少し排泄されたほうが良さそうです……」
頭の中の様々な人間らしく聞こえる声が、口々に発言し、その騒がしい状況は、まるで幼稚園で子供たちがガヤガヤ騒いでいる場面のようだった。
頭が爆発しそうになるほどイライラした僕は、歯を磨く暇もなく、両手で頭を抱えて洗面所から一気に飛び出した。ただひたすら、自分を包み込む数々の雑音から一刻も早く抜け出したいだけだった。もちろん、その雑音の源が周囲の環境とは全く無関係であることは分かっていた。どこへ走っても、どこにいても、 僕につきまとう幻聴の症状は一向に消えず、あの13人の要人たちからの「呪い」と同じように、影のように僕の足跡を追いかけてくる。
「うるせぇ……うるせぇ!!!お前ら何者か知らんけど……とにかく全員……全員黙れ!!!!!!」
僕はリビングの掃き出し窓の前で、暖かい日差しを浴びながら、ヒステリックに、絶望的な叫び声を上げた。不思議なことに、「黙れ」という命令を出し終えるやいなや、僕を取り巻く世界はたちまち静寂を取り戻した。まるで頭の中の奇声たちが、本当に僕の命令に従い、口を閉ざして「ご主人様」の次の指示を待っているかのようだった……
何はともあれ、ようやく心を落ち着かせて、自分の体内に現れた異変を分析できるようになった。会場騒動事件以来、これが最も真剣な分析だ。
「俺のことを『ご主人様』ってやかましく呼びやがる連中は、どれもが自分のことを俺の臓器や体の部位だと名乗っている……まさか、奴らは本当に俺の体の中の臓器や組織なんかじゃないだろうな?しゃべる皮膚、歯、喉、胃、膀胱など、どう考えてもありえない! しかし逆に言えば、『これらの声はすべて幻覚だ』という仮説を証明する手段も方法も俺にはないようだ……リチャード先生に相談しようか? いや、先生は絶対に信じないだろう。こんな突拍子もない話を信じる人など、そもそもいるはずがない…… いや、俺が今こうして生きていること自体がすでに常識外れな話だ。これ以上にとんでもないことなんてあるだろうか……ダメだ、やっぱり先生には言えない。そうすれば現状がさらに複雑になるだけだ!」
だとすれば、証明する方法は一つしか残されていない。どうせ「自分の体の器官と会話する」なんて荒唐無稽な行為も、やったことがないわけではないし。
「あの……俺の肉体よ! 全員、よく聞け ―――!」
僕は精神世界で将校のような威厳ある姿勢を取り、全身に向けた指令を発し、返事を静かに待った。もし返答がなければ、それは器質的な変化ではなく、発作性の精神症状であると断定できる。
約3秒後、聞きたくなかった返事が予想通り届いた。しかも、数百万、 数千万、数億——いや、億単位をはるかに超える数の声が一体となって、人間の技術で測定可能な上限を凌駕する音量で、頭の中で一斉に轟き渡った―――
「了解しました!!!!! ご主人様のご指示をお待ちしております――――――!」
数万人分の叫び声だけでも、鼓膜に極めて強い衝撃を与え、聴力に永久的な損傷をもたらす可能性さえある。
では、想像してみてください。何億人以上の集団があなたの頭の中で同時に大声で叫んだら、どのような感覚になるでしょうか?
僕の場合だと、皮膚の隅々、筋肉繊維の一本一本までが激しく痙攣し、その振幅は波紋を形成するほど大きく、脳髄は頭蓋骨の内側で狂暴に渦巻き、全身の骨さえもこの恐ろしい音の波に砕け散りそうになった。
仮にこれは空気振動を通じて伝わる現実の音であるとすれば、上記の誇張された描写は間違いなく現実のものとなり、この部屋には頭部が爆裂した惨めな死体が床に横たわり、周囲のガラス製品は例外なく粉々に打ち砕かれ、恐らく浅陸区全体にまで波及し、震度6強の地震に匹敵する被害を及ぼすだろう。
幸いなことに、この「音」を聞き取れるのは、この世で僕ただ一人だ。不幸なことに、「全身のあらゆる部位が僕に話しかけてくる」という推測は、もはや疑いようのない事実となってしまった。
以前とは異なり、今の僕は自身の体に現れるいかなる異変も、すべて当たり前のこととして受け止めている。なぜなら、これはリチャード先生がかつて教えてくれたことだからだ――自分の体と向き合い、自身の変化を受け入れること。何せ私たちは一体であり、同じ運命を共にする存在なのだから。
しかし、まずはこの、人間の言葉を覚えたばかりの連中に、ルールや礼儀とは何かを教えなければならない。限られたやり取りからすると、彼らの知能指数は生まれたばかりの赤ん坊より断然高いので、教育面ではかなり手間が省けるだろう。
そこで、僕は背筋を伸ばしてソファに正座し、目を閉じて、精神世界の中で数兆もの「奇声くん」たちと対話することに全神経を集中させた。
「静粛に─────! 一人ずつ話せ!!! うーん……ゴホン! ではまず、君たちのうち誰か一人に説明してもらおう。一体これはどういうことなのか?俺は一体何と話しているんだ?」
「ご報告いたします、ご主人様──── ! 私たちは@!#$$%%^&*......」
またしても怒涛のごとく轟く大合唱が響いたが、今度は整然とした答えではなく、無秩序で乱れた一斉回答となり、誰が何を言っているのか全く聞き取れなかった。
「全員静かにせよ―――!一人ずつ順番に答えるように言っただろう!人間の言葉は理解できるはずだ!『ご指示をお待ちしております』なんて言ってたくせに、これがお前たちの『お待ち』の仕方なのか???」
「あの……ご主人様、具体的に誰に答えてもらえばいいのか、おっしゃっていませんよね?」
力強く、気迫のこもった声が、僕の指示に含まれていた欠陥を指摘した。よく耳を澄まさなければ、まるでテノール歌手が話しかけているかのように思えるほどだった。
「お前……この主人である俺様の権威に異議を唱えているのか!」
僕は威圧的態度で、正体不明の「部下」に詰め寄った。「ご主人様」と呼ばれるなら、これくらいの地位と尊厳はあって当然だろう?
「決してそのような意図はありません! 失礼をお許しください!」
「じゃあ許してやる~さあ、まずは君から始めろ! 自己紹介せよ!」
「承知いたしました! 私はご主人様の心臓です! 初めてご主人様にお目にかかり、大変光栄に存じます! 今後ともご指導のほど、よろしくお願い申し上げます!」
どうやらこのテノール歌手は僕の心臓だったみたい? まあ、 これで、こいつの声がなぜこれほど力強いのか説明がつく。全身に血液を供給する中核的な臓器として、心臓の鼓動は生命の継続を意味し、その力強い鼓動の一つひとつが旺盛な生命力を象徴している。さらに、わずか22歳という若さと良好な健康状態を考えれば、この心臓の活力がどれほど高まっているかは推して知るべし。そして、その活力は自ずと声にも表れているのだ。
「何言ってるんだ、『初めて』って?俺が生まれてからというもの、お前や他の臓器や組織が俺の体から一歩でも離れたことなんてあるか?心臓どころか、重要な臓器が一つでも欠けていたら、とっくに死んでたんだぞ?」
「不適切な言い方を使って申し訳ありませんでした!しかし、ご主人様、私たちが自己意識を覚醒させたその瞬間から、確かにご主人様とコミュニケーションをとるのはこれが初めてなのですが……」
「だから、説明してみろ。お前たちは一体どんな方法で俺とコミュニケーションを取っているんだ?『自己意識』の目覚めは、一体どんな原理によるものなんだ?これは生物学的にしたって医学的にしたって不可能だぞ!」
「えーと……お答えできるのは、私たちが細胞から発生する生体電流や化学物質を通じて、ご主人様の意志とつながっているということです。私たちの思考を電気信号や化学信号の形式に変換し、それを脳に伝達して分析処理してから、ご主人様が使う言語に翻訳するだけです。逆に言えば、 主人の思考活動が脳内で生成されると、特定の信号形式に変換され、指定の細胞群に伝達されます。そうすれば、関連する細胞たちはご主人様の指令に従って行動することができます。このようにして、互いのコミュニケーションが実現されるのです。」
なるほど、つまり最初から僕が聞いていたのは幻覚なんかではなく、本物の思考の交流だったってわけか… …言い換えれば、僕の細胞たちはそれぞれ独自に思考を持ち、自発的に考え、僕という宿主と能動的に交流し、人間と同じように喜怒哀楽の感情変化を持っているということか……例えば、僕がもう少しで寝坊しそうになったせいで、泣き出しそうになるほど焦っていたあの「メイド」さんのように。
「二つ目のご質問ですが、正直なところ、私たち自身も自分の意識がどこから来ているのか分かりません。もしよろしければ、他の体の部位に聞いてみて、何か心当たりがあるかどうか確かめてみてはいかがでしょうか?」
心臓のような上位機能を担う器官ですら理解していないというのに、他の部位が知っているわけが……いや、脳に直接聞いてみればいいじゃないか?脳こそが、あらゆる複雑な信号を処理する中枢じゃないか?脳こそが、この「ご主人様」である僕と他の細胞との間の架け橋じゃないか?きっと脳なら、人類の科学界全体を覆すに足るこの疑問に答えを出してくれるはずだ。
「じゃあ、聞いてみよう。おい~~~!俺の脳! いるの? いるなら返事しろ!」
返事はない。この気まずい沈黙に、いわゆる最高指揮官である僕は、少し面目を失った。
「おい~~~! 俺の脳! 聞こえてるか! 聞こえたらさっさと出てこい!」
脳が僕の命令を拒否しているのか、それとも信号の伝達経路に障害が起きたのかは分からないが、脳からは一向に返事がなかった。
「どうやら脳は忙しいようですね……他の部位に聞いてみてはいかがでしょうか?」
「まさか俺の脳が謀反でも企んでいるのか?」
「謀反とは……どういう意味でしょうか? 私たちの記憶に、そんな言葉はないようですが……」
やはり同じ身体なのだから、宿主を裏切るような行為はあり得ないだろう。
「何でもない、別に気にすることないよ~じゃあ、誰に話しかければいいかな……そうだ、まずは主要な臓器たちと話してみようか。ちょっと仲良くしたり、親睦を深めたりするのも悪くないよね~」
まるで、新入社員が会社に配属された時、新しい同僚たちに自己紹介をする場面のようだ。虎視島に就職したばかりの頃、これほど積極的に他の人と仲良くしようとはしなかったのに……
「はい、どの部位とお話しになりますか、ご主人様?」
「主要な臓器といえば、それほど多くはないだろ? 肺、肝臓、胃、腸、腎臓とか……でも、骨髄やリンパ系、脊髄などもとても重要じゃないか?それに感覚器官や皮膚、骨格、体毛なども……どれを選ぶか決めかねるなあ!とりあえず俺が挙げた部位の中から、それぞれ代表となる細胞を一つずつ選出して、そいつらに答えてもらえないか?」
「承知いたしました!!!ご主人様、どうぞご質問を──── !」
再び整然とした応答が響いた。幸い、今回は十数人分の声だけだったので、その応答の声は僕の繊細な鼓膜にはとても優しい。
「簡単な質問だ。君たちのうち、自分の意識がどこから来ているか知っている者はいるか?」
「えっと……その……あの……」
一瞬にして、ささやき声が体内で四方八方に広がった。質問を受けた細胞の代表たちだけでなく、全身の大多数の細胞も僕の質問を聞くと、一斉に思考モードに入った。イメージで例えるなら、数兆人にも及ぶ超巨大なグループが僕の体内で研究大会を開いているようなものだ。
一通りの議論を経て、各主要部位の細胞代表たちが「研究結果」を含む信号を僕に送ってきた。
「どうだ? 結論は出たか?」
最初に報告してきたのは肝臓の細胞だった。その声は心臓のそれと似ており、同様に生命力に満ちていた。
「ご主人様、報告いたします。私たち肝臓細胞は全員で検討しました。残念ながら、自分たちがどのようにして意識や知恵を得たのか、私たちにもよく分かりません。心臓が言った通り、私たちも突然、自身の存在を感知し、潜在意識の中であなたを主人と認め、全身全霊でご主人様に仕えることとなった次第です。」
次は肺の細胞だ。声の調子は少し慌ただしく、まるで肉体労働者が仕事を終えて息を切らしている模様だった。それも無理はない。肺は常に体に酸素を供給しており、その仕事量の多さは言うまでもない。
「ご主人様、お答えいたしますが……私たち肺も……はっきりとした原因は分かりません……」
「はいはい~~~~~ご主人様の質問は複雑すぎます!私たち皮膚細胞の分化度は限られているので、これほど深遠な問題は到底理解できません~」
皮膚の声はかなり甲高く、声変わり前の少年の音域に近く、知識量や認知レベルもおそらくその年齢層にふさわしいだろう。
その他の部位も次々と困惑を口にしたが、そこから有益な情報は全く得られなかった。
「結局、役に立つものは一つもなかった……やっぱお前たちの変化を、超能力のようなデタラメで片付けるしかないのか? もう俺を『ご主人様』なんて呼ぶのはやめてくれ。『部下』の状況を全く知らない『ご主人様』なんて、いるわけねぇだろ?」
「どうか気を落とさないでください。当方では詳しく理解してはいませんが、私が見る限り、ご主人様には何か心当たりがあるかもしれません。」
「心臓さん、それはどういう意味なの?」
「例えば、ご自身の生活の中で何か特別な出来事が起こり、それがきっかけとなって私たちの進化を促したのではないでしょうか?」
心臓の一言で、まるで夢から覚めたみたいに悟った。なんと、これほど重要な人生の転機をすっかり忘れていたのだ。
「あの時の放射線が原因だったのか……?」
「ご主人様がおっしゃる『放射線』とは……?」
「以前、宇宙でガンマ線バーストを直撃され、きっと死ぬかと思ったら……だから、先生が言っていた『全く新しい変化』や、あのウィル・グレイツが言っていた『俺の存在価値』って、実はこれのことだったのか?」
ついに分かった。すべての謎は一つの答えで解き明かせる。それは―――高線量の宇宙線に被曝した後、全身の細胞は損傷を受けたり致命的な変異を起こしたりするどころか、むしろ予測不能な、あるいは好ましい方向へと発展していたのだ。
一言で言えば、僕の細胞たちは「知性を持つ生命体」という方向へと進化し続けているのだ。
眉をひそめ、冷や汗をかきながら、すぐにスマホを手に取り、検索エンジンを開き、検索バーに「人体にはいくつの細胞があるか」と入力した。検索結果は、生物の授業で学んだ内容と完全に一致しており、しかも簡潔で分かりやすかった。
「最新の研究結果によると、人体は約60兆個の細胞で構成されている。」
つまり、今日から……いや、僕が放射線を浴びたその瞬間から、この限られた空間を持つ肉体の中に60兆体の知的生命体が凝縮されることが運命づけられていたのだ。そして僕も、この60兆体の知的生命体と共に生き、いつまで続くか分からないこの人生を共に過ごし、最後には共に死ぬことになるのだ。
「おぉ~~~人体は60兆個の細胞でできているの? ご主人様、ご主人様、なんでそんなものを見てるんですか?」
活気あふれる軽快な女性の声が問いかけ、生命の形態や人生の未来についての僕の思考を遮った。
「お前は一体誰だ? どうやって俺のスマホを覗き見してるんだ?」
「私はご主人様の目です!ご主人様が見ているものはすべて、私たちが網膜に像を映し出して、それを電気信号に変換して、視神経線維束を通じて視覚中枢へ伝達することで、ご主人様が物を見ることができるのですよ~」
「視覚の仕組みをお前に教わる必要なんてないだろ?授業で習ったことあるんだから!まったく、自分の目に見下されるなんて……」
その時、スマホに表示された時刻に気づいた。もう9時半に近づいていた。つまり、僕はリビングのソファに一人で座り込んで、1時間半近くも過ごしていたことになる――外部から見れば、確かにただ一人の男がソファーでボーっとしているように見えるだけだが、実は自分の体と会話しているなんて、誰も想像しないだろう。
「やばい! もうこんな時間だ! 用事があるのに!」
「ご主人様、今日は何か予定がありますか?」肝臓からの質問。
「今日の予定は山ほどある! 朝食もまだ食べていないし……とにかく、ここでぐずぐずしている場合じゃない! 急いで出かけなきゃ!」
「でもご主人様、私たち胃は食事を必要としているんですよ。そうしないと、胃酸の分泌が過剰になって、胃粘膜を傷つけてしまいます!」
「私たち胆のうもです! 胆汁をあまり貯めておくことはできないので、食べ物を消化することによって排出しなければならないんです!長期的に胆汁が溜まると、胆石ができやすくなりますよ、ご主人様!」
「膵臓のことも忘れないでくださいね、ご主人様!万が一、胆嚢や胆管に胆石ができて、膵管が詰まると、急性膵炎を引き起こす恐れがあります!どうか健康面についても、もっとご配慮ください!」
消化器系の臓器たちが次々と説教してきて、彼らの主人である僕は、正直少し恥ずかしくなった。不規則な食事は現代の都会人の共通の悩みであり、消化器系疾患が多発する主な原因でもある。しかし、今日やらなければならないことに比べれば、健康面で多少の犠牲を払ったところで大したことではない。
「ねえ、朝食を一食抜きにするだけのことなのに、そんなに大げさに言う必要ある?どうしてもって言うなら、昼食の時にご馳走してやるからそれでいいだろ?とにかく、みんなちょっとだけ我慢しろ!」
「承知いたしました、ご主人様―――! ただ、もう少し具体的な命令を下していただけませんか? 私たちの理解力には限りがあり、ご主人の意図がよく分かりません……」
少し解せない指示に対して、胃、胆嚢、膵臓はみんな口を揃えて詳しい説明を求めてきた。
「面倒だな……じゃあ、どうやって命令すればいいんだ?」
「例えば、こう命令していただければ――『胃酸/胆汁/膵液の分泌を一時停止せよ!』といった具合に。そうすれば、私たちはご指示に従って自身の行動パターンを変更します~。というのは、これまでの私たちの機能はすべて細胞内の構造に基づいて区分されているため、ご主人様の指示がなければ、私たちは単に細胞本来の機能を機械的に実行して、体の正常な働きを維持するだけです。私たちの自己意識だけでは、行動パターンを変えることはできないのです。」
「なるほど、なら結構簡単だね~じゃあ、みんなよく聞け!今日昼食をとるまで、胃酸、胆汁、膵液の分泌をすべて停止しろ―――!それから、脳への空腹感の信号も送るのを止めろ―――!わかったか?」
「了解!直ちに実行します!」
あっという間に、空腹で胃が少しキリキリしていた感覚は跡形もなく消え去った。胆嚢や膵臓の変化は体感では察知できなかったが、一応僕の命令を忠実に実行してくれていると信じよう。
「さすが、効果てきめんだ……まあ、この厄介な連中のことはひとまず置いといて、急いで花屋へ行かなきゃ!」
3分もかからずに、出かける前の準備をすべて整えた。出発直前、ある極めて重要な問題に思い至った。それは僕の60兆個の「部下」に関わるだけでなく、今日という日における人生の大事件とも直結するものだった。
「そうだ、アイツらと事前に約束しておかなければならないことがある! すべての細胞、ちゃんと聞け―――!あの……一斉に返事をする必要はないよ! ただ、しっかり聞いていてくれればいいんだ!」
これまでの経験から学んだ教訓として、細胞たちに訓示をする際は、必ず事前に返事の仕方を伝えておかなければならない。そうしないと、いずれ鼓膜が壊れてしまうだろう。
「今日は俺の人生において非常に大事な日だ。だから覚えておけ、絶対に俺に迷惑をかけるなって!あ、そうだ。もっと具体的に指示を出さないと、こいつらには理解できないな……とにかく、今日一日、俺の命令がない限り、勝手に話しかけてはダメだ!どうしても俺に報告しなきゃいけない緊急の用事があるなら、うーん……心臓に代行してもらって、全身の細胞からの伝言を伝えてもらおうか!何と言っても心臓は体の中心の一つだしね~それじゃあ、決まりだ!みんな、ちゃんと聞こえたか?」
体の中は死のような沈黙に陥り、普通の人間の体と変わらぬ様相を呈していた。一時、体が元の状態に戻ったかのような錯覚を感じた。
「おいっ! みんな、どうして黙ってるんだ? 何か返事くらいしろよ!」
「でも、ご主人様、今日中は勝手に話しかけてはいけないとおっしゃいましたよね?」と、細胞たちは口々にそう言った。
……僕は絶句した。こんな陳腐なギャグが、まさか自分の体の中で繰り広げられるとは思いもしなかった。なぜか、知性を得たばかりで、人間特有の柔軟な対応や円滑な物事の進め方など全く知らないこの微小な生き物たちが、なんだか可愛く思えてきた。
実際、僕は自分の細胞たちに尋ねたいことがいくらでもある。例えば、自分の体に指令を下すと、身体の正常な機能に悪影響を及ぼすのか?それと会場で騒動が起きた時、突然得た超能力も、同じ原理なのだろうか?しかし、なぜその後長い間、体にいくら指令を出しても効果がなかったのだろうか?
人間の知的好奇心は無限だが、探求に費やせる時間はかなり限られている。それは寿命に制限されるだけでなく、一人ひとりの生き方にも左右されるのだ。今の僕の人生は、太陽の周りを回る地球のように、「血のつながり」という唯一の中心点をきつく巡り、そのために僕の全部を捧げている。だからこそ、心の奥底から溢れ出そうとする好奇心を必死に抑え込み、今日の最初の目的地――市中心部にある花屋へと向かうのだ。




