第二十話 親子の雑談 果たした約束
特に用事のない午後、僕は母と一緒にリビングのソファに座って紅茶を飲みながら、母の手作りのおしゃれなスイーツをいくつか味わい、この貴重な親子のひとときをゆったりと過ごした。
「そういえば母さん、ライブのチケットはもう買っといたよ!しかも最高級のVIP席なんだ!」
「わぁ~~~そんなにお金を使うの~~~きっとすごく高いんでしょ? むやみに散財する悪い癖をつけないようにね? 働き始めてまだ数年しか経ってないんだから、いざという時のために、もっとお金を貯めておかないと。万が一、急に金が必要になった時に……」
「わかった、わかった~~~俺の金銭感覚は、使うべきところには一銭も惜しまず、使うべきでないところには一銭も無駄にしないってこと!親に金を使うのは、間違いなく前者だろ~」
「息子に養ってもらわなきゃ生きられないみたいな言い方しないで頂戴?あたしたち、まだ役立たずになるほど年をとってないんだから! ところで、お父さんと同じで妹の公演に一度も応援に行ったことのないお兄ちゃんも、今回は見に行くんでしょ?」
母の冗談半分なツッコミは、兄としての僕への批判に聞こえた。何しろ父も僕も、この機会を利用して、自分の落ち度を埋め合わせようとしているのだ。
「もちろんさ────! せっかくの休みだから、朝イチでチケットを買っといたよ!」
「きっと文緋が買ってくれたんでしょ?」
母の直感は相変わらず鋭い。
「ぶっちゃけ、確かに彼女が一番いい席を予約してくれたんだけど……」
「身近なところに特権階級者がいるって、本当に便利ね~~~。ただ、あたしとお父さんには、そんな特権を堪能する資格がないから、残念だねぇ~~~」
ある意味、両親のチケットも俺が「特権」を使って手に入れたもので、コネの重要性がよくわかる。
「でもさ、正直言って、前に家にいた時、アイツが歌の練習してるのを何度も聞かされたよ。いい声だけど、長く聞いてると飽きてくるし……ライブなんて、大して変わらないんじゃないかな。」
「それ、大間違いよ! ママが経験者として教えてあげる~ライブとは、実際に現場で体験してこそその魅力がわかるものなの。今度こそ、あなたに目を見張ってもらうわ~」
「俺の記憶では、母さんって推し活とかとは無縁だったはずだよね?」
「お母さんを甘く見ちゃダメよ!あなたくらいの年頃、ちょくちょくライブに行っていたのよ~」
「へぇ~~~そんな話、初めて聞いた……まあ、親父が俺の味方になってくれてよかった~」
「また大間違いよ! あなたには話したことがないと思うけど、政があたしと付き合っていた頃、一緒に何十回もライブを見に行ったんだ~」
「ええ――― ??? 親父ってあんなに昔気質なのに、若い頃はまさか誰かのファンだったの?」
「そうじゃないよ。毎回、渋々あたしと一緒にライブに付き合ってくれたの。会場では、ライトスティックで物理の教科書を照らして読んでいたり、紙とペンを持ち込んで席で数式を解いたりして、本当にロマンチックじゃない男だったわ……だって、あたしの誘いを断る勇気がなかったんだから~~~」
「親父にそんな一面があったなんて…… 恐妻家である親父らしいけど……」
これで親の知られざる一面を知ることができた。もしかすると、親父のアイドルへの中傷は職業病のせいではなく、母ちゃんに無理やり植え付けられたものなのかもしれない。
「そういえば、席のことだけど、当日どこに座る?」
「すっかり忘れてた、まだチケットを送ってなかった! 母さんちょっと待って、今すぐ送るから!」
「急がなくていいよ~でも、やっぱり家族みんなで……一緒に座ることはできないよね?」
口に含んだ紅茶は、驚くほど苦く、まるで焙煎しすぎた茶葉を長く浸しすぎた時に生じるような、強い苦味だった。
「月隠の顔」の家族応援団は、まだ堂々とステージ前のスポットライトの下に姿を現すことはできない。あらゆる面でリスクの最小化を追求する穏健派である僕にとって、段階を踏んだアプローチが最優先の選択肢だ。
今回はまず両親が文緋に向かって第一歩を踏み出し、次は文緋が両親に向かって第二歩を踏み出す。これを繰り返せば、互いの距離は徐々に縮まり、やがて抱き合える最も近い距離まで近づくはずだ。
「そうね……ごめん、まだ母さんと親父と一緒には座れない。もう少し時間をくれないか。」
「あなたの気持ち、お母さんはわかっている。これから先も長いし、文緋のライブはまだたくさんあるから、チャンスはいくらでもあるわ~とはいえ、あんまり長く待たせないでね!」
「うん! 次のライブの時には、家族3人で会場で一緒に座れるように頑張る!約束する!」
母ちゃんの前で立てた約束、難易度が徐々に上がっている気がする……最初から少し余裕を持っておけばよかった。
次のライブまでに、どうやって文緋の態度を軟化させればいいのか、今のところ全く見当がつかない。まさか彼女は、針が刺さらず水も染み込まないほど頑ななのだろうか?
「ところで、この前こっちから持ち帰ったもの、文緋に捨てられなかった?」
母がまた一方的に話題を変えようとしたが、話の中心は結局変わっていなかった。
「もちろん捨てられなかった!あれは元々彼女自身のものだし、そんなことできるわけないだろ~」
「鈍感だね……言ってるのは、お父さんが買ったケーキのことよ。彼女、気づいてないかしら?」
「たぶん……気づいてないと思う?うっかり口を滑らせた記憶はないけど、あの晩はちょっと様子がおかしかった。ずっと『お腹いっぱいだから食べられない』って言ってて、ケーキ2切れを一口も食べずに、結局全部俺に押し付けてきたし…… 」
「やばい、これって『バレてない』と言えるの??? 絶対にバレてるわ! 文緋のケーキ専用の別腹がどんだけ大きいって知っているでしょ? お腹いっぱいだから食べられないなんてありえない。これって言い訳に決まっている!」
子供のことを一番よく知っているのはやはり母親だ。
文緋の習性を母ほど理解できていないのは、本来なら当然のことだが、僕はなぜか納得がいかなかった。以前、僕よりも文緋のことを知っている清音に対しても、同じようなもやもやを感じたことがある。自分の嘘の腕前を信じすぎてしまったせいで、文緋の前ではバレていないと思えば、実は文緋はとっくに、僕が気づかないところで全てを見透かしていたのだ。
「俺、そんなことまで考えもしなかった……やっぱり母さんの目が鋭いなあ。」
「別に自分を責めることなんてないよ~。それに、彼女はただケーキを無理やり食べさせただけだし、あなたが買ったものじゃないと分かっていても、すぐに捨てたりはしなかったんだから、以前と比べれば大きな進歩じゃない?」
「確かにそうだな……」
この微妙な心境の変化は、おそらく文緋の心が必ずしも理不尽ではなく、ある程度の情けを知ることを証明しているのかもしれない。
「進歩」といえば、ふとあることを思い出した。以前、夢にも思わなかったある許可のことだ。
「思い出した!この前、文緋が『部屋の模型を2つ、京空の家に持って帰っていい』って許可してくれたんだ!」
「あら?それは珍しいわね!どうやら前回あなたに聞いたあの質問の答えを、少し修正しなきゃいけなさそうね……」
「というと?」
「別に!まずは自分の部屋に行って、気に入った模型を2つ選んで梱包しておきなさい。帰る時に忘れないようにね。」
母の指示に従って二階の部屋のドアの前に来ると、中に入る前に向かい側の固く閉ざされた木製のドアをそっと見た。冗談のようなある要求も、この時、記憶に浮かび上がった。
「本当に文緋の電子ピアノを運んであげなきゃダメなのか?アイツは一体本気だったのか……」
とにかく、まずは文緋との約束を果たそう。
模型で埋め尽くされた2つのガラスケースの間を行ったり来たりしながら、かれこれ10分くらい考え込んだが、どうしても決められなかった。型番の異なる様々なロケット、構造の複雑な宇宙船、そして形も多様な人工衛星――その種類は、小さな展示会を開けるほど豊富だった。しかし、この目移りするほど数多く並んだ模型の中から2つを選ぶというのは、想像以上に難しいことだった。
どの模型も、多大な心血を注いだ大切な作品だ。選ばれなかった模型たちが、この活気のない空っぽの部屋に置き去りにされ続けることを思うと、自分は不甲斐ない主人だと感じてしまう。それは、自分の体を傷つけた時に感じる罪悪感と全く同じものだった。
これ以上ぐずぐずしていても仕方がない。長い間悩んだ末、中型の宇宙船模型を2つ持ち帰ることにした。模型ケースに入れて手軽に持ち運べるという利点がある一方で、両親の負担を少しでも軽減するためでもある。陽の国で最も先進的な宇宙船「鋭進号」を原型として設計されたこの2隻の模型宇宙船は、部品点数が多く、手入れにはかなりの手間がかかる。しかし、当分の間宇宙に戻れない僕にとっては、かえって最良の選択だった。ちょうど趣味に費やす余裕のある時間ができているからだ。
任務完了。階下へ降りるといい。
が、この極めて単純な動作を実行するのは非常に困難だった――というのは、僕の部屋を出るたびに、最初に目に入るものが、いつも文緋の部屋のあの木製のドアだったからだ。
「電子ピアノを持ち帰ってほしいって頼まれたからには、もう一度アイツの部屋に入っても構わないだろう?」というもっともらしい考えを抱きつつ、僕の手は思わずドアの取っ手に伸びてしまった。
妹の部屋の中は前回と変わらず、かつて女子の部屋だったとは信じられないほど質素なままだ。この地味な部屋の片隅に、文緋の引き出しと同じく、誰にも知られていない秘密が隠されているのだろうか?
「お兄ちゃんはやっぱりのぞき魔だ――― !」
頭の中に、前回文緋に罵られたあの言葉が突然よみがえた。文緋の心の中で兄の良いイメージを維持するため、あらゆる不審な考えを振り払い、部屋の中で最も目立つ物、つまりその電子ピアノの元にまっすぐ進んだ。意外なことに、その上に掛けられた防塵カバーは、ほこり一つないほどきれいだ。
「母さんは本当に気を配っているな……」
防塵カバーをめくると、電子ピアノを両手で抱え上げ、その重さを実際に確かめてみた。見た目はかなり薄っぺらそうな機械製品だが、実際に抱えてみると案外重く、体格の良い僕でさえ、これを背負って長距離を移動すれば、虎視島での訓練時の過酷さを改めて味わうことになるだろう。
文句は言っても、電子ピアノを専用バッグに詰め込んでいる両手を止めるつもりはなかった。パッキングを済ませた頃、親父の部屋からドアが閉まる音と、階段を降りていく足音が聞こえてきた――父の昼休みが終わったのだ。
足音が完全に消えるまで、僕は文緋の部屋から静かに出て、電子ピアノを自分の部屋へ運び込み、模型が入ったケースの横にそっと置いた上で、一階へ降りて両親の雑談に加わった。なぜ親父に文緋の部屋にいるところを見られたくなかったのか……その理由は、のぞき魔と誤解されることとは関係ないはずだ。
「池、なんでそんなに時間がかかったの?」
母ちゃんの顔には、少しばかりの疑惑が浮かんでいた。
「そんなに長くかかったか?たぶん、模型を選ぶのに時間がかかりすぎただけだと思うけど……」
「えっ、文緋が君に模型を持ち帰らせてくれたの?やっと私の手間も省ける!君の代わりにあのガラクタの手入れをするのは、ほんっとに骨が折れるんだから!」
「お疲れ様、親父……許可はくれたけど、持ち帰らせてくれたのはそのうち2つだけなんだ。次にまた許可してくれるかどうかなんて分からないし、まあ、彼女の気まぐれにはもう慣れているけど。」
「愚痴を言っているように聞こえるけど、顔はすごく嬉しそうね~」
母にそう言われると、頬が急に熱くなった。
「も、もちろん! やっと大好きな模型たちと再会できるんだから、嬉しくないわけがないだろ!」
「へえ~~、本当にそれだけのことなの?」
「そ、それだけ! 考えすぎですよ、十香子さん!」
「あなたたち何を話してるの? 聞けば聞くほどわけがわからなくなってきた。」
「はぁ……本当に鈍感な男性生物たちね……」
母は額に手を当てて呟いた。その仕草から、母が僕と親父に対してもう言葉も出ないほど呆れていることが伝わってきた。
実のところ、僕は母が想像するほど鈍感ではない。ただ、正直に気持ちを表現したくないだけだ。その点では、僕は親父と瓜二つだ。妹からのささやかな気遣いに大喜びするなんて、こんな兄は世の中に絶対にいるまい。絶滅危惧種に等しい生物だろう。
「どうせろくな話じゃないに決まってる……それより、池、一つ聞きたいことがあって。あの……この前、君が持ち帰ったケーキ、文緋は食べた?」
やばい、まさか親父まで同じ質問をしてくるとは……この夫婦は本当に息が合っているな。
親父に答える前に、母が絶えず目配せしていてくれるのが見えた。その様子はなんとなく文緋らしい。実際、母にヒントを貰わなくても、この質問に対するベストな答えが何かは分かっていた。
「もちろん食べた――― !全部、残らず食べ尽くしたよ!ケーキのくずすら一欠片も残ってない!お皿を持ち上げて舐め回すところだった!」
認める。答えにちょっと小細工をしたんだ。
僕の答えには主語が抜けている。つまり、この文は「文緋がケーキを完食した」とも、「他の誰かがケーキを食べた」とも解釈できる。例えば、僕、安達池が食べた、とかね。以上のことから、僕は親父に嘘をついたわけではない。
「ふ~ん、それはあの娘のやり方にぴったりだな。まあ、食べてくれたならそれで十分だ。」
望んでいた返答を得ると、親父は満足げにテレビを見始めた。
一方、精神世界にいる僕の分身はすぐに地面にひざまずき、習慣的に謝罪の姿勢をとった。
「ごめんなさい、文緋!わざとお前のイメージを食いしん坊のように描こうとしたわけじゃない! 状況に迫られて、やむを得ずそうしただけ! 許してくれ―――!」
この空間に潜んでいるかもしれない「謎の声」を除けば、誰もこの言葉を聞くことはない。その時、母がニヤニヤしながら僕の隣に座り、耳元で小声でこう囁いた――
「あんた、最近ウソが上手になったわね~~~次はないよ!」
「おいおい、母さん、さっきもそうしろって合図してくれたじゃない?」
母は悪戯っぽい笑顔で僕の肩をポンと叩き、また親父の隣に戻った。家庭の雑談が弾む中、僕と親は夕暮れ時まで、のんびりとアフタヌーンティーを楽しんだ。早めに京空に戻っても、ただ空っぽの家に一人でいるだけで、夕食の支度も大変だと思ったので、両親と一緒に夕食を食べてから、夜の列車で京空に戻ることにした。
「せっかく一緒に夕食を食べられるんだから、昔行きつけのファミレスでもどう? 駅からも近いし、食事が終わったら池を駅まで送ってあげるのも便利だし。」
「いいわね! どうせ家にはろくなものもないし、あたしも料理する気になれないし~」
「つまり、母さんがサボれる口実を作るために外食することにしたってこと……でも、俺もあの店には何年も行ってないな。子供の頃、文緋と二人で『あそこに行く』って聞くだけで、どれほどワクワクしたことか。」
「でも、あなた、あまり乗り気じゃないみたいだけど……やっぱり大人になると、子供の頃のようなワクワクした気持ちはなくなるものなの?」
母の鋭い観察力には感服するし、むしろ恐ろしいと言っても過言ではない。母の言う通り、以前のように「外に出られる」と聞いただけで胸が躍るような感覚は、もう感じられない。それは年齢のせいもあるかもしれないし、一方で、そばにいてくれた人がいなくなったからでもあるのだろう。いずれにせよ、今は偽りの表情の仮面をかぶって対応する必要がある。
「そんなことないよ! やっぱり楽しみなんだよ! ところで、外食しても親父は大丈夫?」
「何を言ってるんだ。外食くらいで、倒れちゃうようなことあるか!」
「もうやめてよ、お父さん! 何度言ったらわかるの、そんな不吉なことは言っちゃダメだって!」
「はいはい~じゃあ、出発しようか? もう時間も遅くなってきたし……」
「親父、母さん、先に車の中で待ってて! 持ち帰るものを取りに行ってくるから!」
僕は振り返って二階へ駆け上がり、持ち物をすべて身に着けた結果、こんな姿になってしまった―― ― 片手で模型用のケースを持ち、背中には巨大で重たい長方形の物体を担ぎ、普段使っているリュックは前向きにして、胸に抱えている。見た目は、修理工というか、戦場で重火器を背負った兵士というか……
この姿を見た、車の両側に立っていた両親は、本当に驚いた。
「なんでそんなにたくさん持っていくの? 引っ越すつもりなの? 一人でこれを全部持って帰ったら、疲れきっちゃうよ?」
「親父、宇宙飛行士の俺の体力を見くびらないでね~ これくらい、全然平気だ!」
「背負ってるのは、文緋の電子ピアノでしょ?」
「やっぱり母さんは目利きだね…… どうにもこれを彼女の部屋に置き去りにするわけにいかないんだ……」
「あたしが言わなくても、どうすればいいか分かってるみたいだね~じゃあ、車に乗ろう!」
「ちょっと待って、これがトランクに収まるか確認しなきゃ。池、手伝ってくれ。」
「はい!」
しばらく手間取って、トランクの雑多な荷物を整理した後、ようやく十分なスペースを空けることができた。僕は割れ物扱いのように、電子ピアノを丁寧にトランクに収め、それから親父と一緒に車に乗り込んだ。最初にやったことは、シートベルトを締めることではなく、運転手役の母に頼み事をすることだった。
「母さん、ついでに商店街まで行ってくれない? そこでちょっと買い物したいんだ。」
「いいよ! 『小洋屋』に行くんでしょ~?」
「分かったなら、早く出発してほしいんだけど……」
5分も経たないうちに、商店街の入り口に到着した。商店街は歩行者専用なので、ここから先は目的地まで歩いて行かなければならない。
「車の中で待っててね、すぐ戻るから!」
安達政と十香子は車の窓を開け、安達池の遠ざかっていく後ろ姿を思案げに見つめていた。
「政、今回はもう『池が買ったケーキ』って嘘つく必要ないよね~」
「そうね、今回は純粋に彼自身の気持ちだから、もう私の伝言役をやらなくていい。」
「ふ~~~、まさか息子を伝言役にしてたこと、自覚してたの?」
「うる、うるさい! そ、それはもう過去の話だ……」
「でも、池から聞いたんだけど、今朝も彼に文緋への伝言を頼もうとしてたんでしょ~?」
「なんで全部知ってるんだ十香子様……言わなかったことにする……」
「ならいいわ~」
「小洋屋」の店頭に派手な装飾も、目を引く看板もない。あるのは、小さなガラス扉から頻繁に出入りする客たちだけだ。この小さな街で最も有名なケーキ店である「小洋屋」の客足は絶対的に保証されており、文緋という大口顧客がいなくなっても、売り上げには影響しないだろう。「月隠の顔がよく訪れるケーキ屋」という売り文句で大々的に宣伝すれば、一夜にして全国で最も有名なケーキ屋に躍り出るかもしれない。
久しぶりに「小洋屋」に戻ってきたが、少しも違和感はなく、まるで自分の家に戻った風に、かつて僕の指紋がびっしりと付いていたあのガラス扉を押して中に入った。
「小洋屋へようこそ~~~!」
あまり聞き慣れない声の挨拶が聞こえてきた。それもそのはず、ケーキの種類や味は変わっていないものの、店員はとっくに当時の顔ぶれではない。そうでなければ、僕の顔は一瞬で気づかれていたはずだ。そもそも、かつて甘いものを極度に嫌っていた人間が、スイーツを売る店で顔見知りになること自体、異常なことなのだ。
当時の空間記憶と筋肉記憶に従い、は僕真っ先に定番のケーキが並んだショーケースの前に立ち、栗とバニラの2種類のケーキを指で指定した。店員はすぐにそれらを包んでレジへと運んでくれた。
支払いの際、レジの後ろの壁に日付を表示する電子時計が設置されていることに気づいた。普通の人にとっては単なる時刻を知らせる機械に過ぎないが、僕にとってそれは特別な意味を持つものだった。
店員に許可を得て、スマホを掲げ、時計とVサインをする自分を高画質で自撮った。レジの後ろにいた男女の店員二人もその様子を見て興味津々でレンズの範囲内に立ち、奇抜なポーズをとった――こうして、テーマ不明の奇妙な自撮り写真が誕生した。
「この自撮りが役に立つかどうかは分からないけど……とりあえず保険として取っておこう。」
ケーキを受け取り、自らカメラのフレームに割り込んできたユーモアたっぷりの店員たちに礼を述べると、急ぎ足で親の車へと戻った。
「お待たせしちゃった!さあ、出発しよう!」
「またあの2つの味だよね?」
「そうよ、親父。前回買ったのと同じ。」
「文緋は本当に飽きないわね~。でも、今日の箱、前よりちょっと大きいような気が……」
箱のサイズの違いは、母の鋭い目には見逃されなかった。最初から後部座席に座って、親父と一緒にいたほうがよかった……
「えっと、両方とも1切れずつ多めに買っちゃったから……」
「文緋、そんなに大食いなの?いくら妹を甘やかしても、あんなに大量に買ってあげるわけにはいかんだろ? 食べきれないと無駄になるじゃないか?」
「大丈夫だよ、親父。食べきれなかったら冷蔵庫に入れておけばいいし~」
「あの娘、作りたてじゃないケーキは好きじゃなかったっけ?」
「え? そ、そうなんだ? たった一日だけなら大丈夫じゃない?……ともあれ、母さん、早く運転して! お腹がペコペコなんだ~!」
「わかった~二人ともしっかり座ってね!」
「余分に買ったケーキ2切れは自分の分だし、しかも文緋と一緒に食べるつもりだ」なんて、自分のイメージに全く合わないことを両親に言うわけにはいかない。そうしたら、ますます「変わった」と思われてしまうだけだ。




