第十四話 傷跡の由来 悲劇の発端
時は3年前の6月20日の午後まで遡る。
この日は、19歳の博士号取得者である安達池が正式に虎視島に加入し、宇宙飛行士予備員となった日だった。興奮のあまり、池は下田と「身売り」のような契約書に署名した後、真っ先にこの朗報を家族に伝えた。
「私も十香子も、君と一緒に祝えなくて、本当に残念だ…… 時間があれば一度家に帰ってきて、みんなで盛大にお祝いしよう!」
「今なら時間あるよ、親父! 虎視島での見聞をみんなに話したくてたまらないんだ~~~!」
「おお、じゃあ陣港駅に着いたら連絡してくれ。仕事が終わったら迎えに行くから。夜は十香子に豪華なディナーを用意してもらうよ!」
「了解!じゃあ今すぐ出発するんで、また後でね、親父!」
京空市の都心駅、改札口の前に立っていた池は電話を切った。決める前に準備を整える――池はまさに生粋の行動派だった。
「文緋にも知らせとこう。アイツにもしばらく会ってないな~」
池は、今頃学校にいるはずの文緋にメッセージを送ると、すぐに返信が届いた。
「いい話って……まったく、こういう時しか帰ってきてくれないのね。まあ、ちょうど今日、アタシも超ビッグニュースが発表したいから、仕方なく一緒に祝ってあげるわ~」
「その言葉、『おかえり』って意味に受け取っていい?」
「お兄ちゃん、陽の国語の理解力がひどく低いね。昔、国語の試験はどうやって合格したの? まさかカンニングしたんじゃないでしょうね~」
文緋の素直でない上に毒舌な性格は、どうやらその後の3年間で身についたものではないようだ。
夕方6時10分、笑顔あふれる親子の3人を乗せた自動車が、陣港市の住宅街にある古い家の前にやって来た。
玄関先で彼らを出迎えたのは、放課後、誰もいない家で留守番を強いられていた安達文緋だった。当時の文緋はすでに抜群の美貌を持っていたが、あくまで普通の高校2年生に過ぎなかった。
車から降りて、楽しそうにおしゃべりをしながら自分の方へ歩いてくる三人を見つめながら、文緋は、たとえ家族であっても、どうしてもあの三人に馴染めないような気がしていた。
「……履歴書にリチャード教授に師事した経歴がなければ、虎視島も君を採用してくれたとは限らないよ!まあ、その話は置いておいて、もう時間も遅いし、十香子、早く夕飯を準備して。」
「お父さんを見てよ!毎日私をこき使うことしか考えてない……文緋~~~ぼんやり立ってないで、こっちおいで!食料を台所まで持って行って!」
文緋は少し躊躇したが、従順に池と十香子の前に歩み寄り、食材の詰まったエコバッグを受け取った。ほんの一瞬のことだったが、池は文緋が明らかに自分の視線を避けていることに気づいていた。
「おっ! 久しぶりだね、文緋~! ほら、お前にもお土産を……」
「ああ。お帰り、お兄ちゃん。じゃ、アタシ先に入る。」
池に挨拶を終える暇を与えず、顔が少し赤くなった文緋はエコバッグを提げて、振り返らずに家の中へ入っていった。
「……持って来てあげるよ。こいつ、ちゃんと挨拶くらいしてくれればいいのに……」
「気にすんな~あの子は小さい頃からずっと君にそうだったじゃないか?いつも塩対応のふりをしてたけど、実は超兄コンなんだよ~」
「万象国から帰ってきて以来、会うたびに彼女は相変わらずだ。こんなに長い間会っていなかったんだから、少しぐらい変わったかと思っていたのに……」
「おい────、二人ともそこで突っ立って何してるの? 早く中に入って!」
久々の四人家族の団欒。その場にいる誰一人として、これが無期限の別れの始まりになるとは思いもしなかった。
栄えある帰郷の際に与えられた特権は、あらゆる家事を免除されることだった。よって、池は台所で母の手伝いをする必要はなく、ご馳走がテーブルに並ぶのを待つだけで良い。台所で母のそばで忙しく動き回る文緋の姿を見て、池はこの滅多に会えない妹と仲良くしようと決めた。
「母さん、悪いんだけど、ちょっと文緋を借りていい?」
野菜を切っていた文緋は、包丁がまな板に当たるリズミカルな音を突然止めた。
「そんなに気を遣うことないわよ!あんたたちずっと会えてなかったから、ちゃんと話し合うべきなんだ。さあ、文緋、ここはいいから、お兄ちゃんと少しおしゃべりしてきなさい~」
「はい~~~~~」と、わざと声を伸ばして答えた文緋は、きょとんと池を横目で見てから、池の後をついてリビングへと向かった。
その後、池はソファの上に置いてあったおしゃれなお菓子箱を両手で持ち上げ、文緋に差し出した。
「ほら、さっき渡しそびれたお土産だ。京空で買ってきた。」
文緋は平然と箱を受け取り、口元がわずかな笑みをこぼしそうになった。だが、自分の体面を気にした彼女はその笑みを必死にこらえ、半信半疑の面持ちで池に問い詰めた。
「いきなりプレゼントをくれるなんて、何か悪いことを手伝わせるためにアタシを買収しようとしてるの?あっぶねぇ~~~危うく引っ掛かるところだった!」
「お前がケーキ一箱くらいで買収されるような人間だとは思わないよ。」
「ケーキ――― 本当? 本当? どこのお店? どんな味?」
大好物のプレゼントだと聞くと、文緋は体面を気にするふりを完全に捨て、情熱的で明るい笑顔を見せた。
「京空の老舗で、地元のマスコットキャラクターをモチーフにしたシフォンケーキ専門店なんだ。可愛くて美味しいし、お前もきっと気に入ると思うんだ。まあ、『小洋屋』のケーキと比べられるかどうかは分からないけどな。」
「ケーキなら何でも大好き~~~こんなに長い間会ってないのに、アタシの好みを覚えていてくれたなんて~さすが天才のお兄ちゃん!」
文緋は池を褒めながら、目の前にあるケーキの箱を夢中で見つめ、右手は我慢できずに箱の蓋に伸びていた。
「ご飯前にお菓子なんて食ったら、ご飯が食えなくなっちゃうよ!やっぱこの悪い癖、全然直ってないね。」
「わかったよ~わざわざケーキを買ってきてくれたんだから、今回は聞き入れるわ~じゃあ、開けて見てもいい? いいよね~~~?」
「見ているうちに、お前がつい『口で見る』ことにしてしまいそうだから……」
「絶対にそんなことない―――! お兄ちゃんの名誉にかけて誓うから!」
「ならいいけど……ちょっと待って、なんで俺の名誉にかけて誓うの!?」
「じゃあ開けるね~~~~~」
文緋はソファに座って箱を開けると、すぐに口元が綻んだ。
「す――ごく――かわいい――!京空市のマスコットってイルカさんなんだ~~~」
「あの海域にはよくシロイルカが現れて、地元の人たちに深く愛されていて、当地の漁業に豊漁をもたらす神様として崇められているんだ!」
「これ、名前はあるの?」
「確か『イミコ』って名前だっけ……」
「うん~~~名前もかわいいね~!」
池は、ケーキの箱を抱きしめて大喜びしている妹を見て、久しぶりの兄としての誇りが胸に湧き上がってきた。
「気に入ってくれてよかった~ところで、さっき送ってくれたメッセージに、今日お前も超ビッグニュースがあるって書いてあったけど、ちょっとだけ教えてくれない?」
「うーん~~~食事の時に発表するから楽しみに待ってね!じゃ、いただきます~~~ 」
「おいおい! ご飯の前に食べないって約束したじゃないか……」
「冗談だよ~~~」
兄妹二人が雑談している間に、見た目も香りも味も抜群の料理が次々と食卓に運ばれてきた。
「ご飯できたよ~~~! あんたたち、いつまでそこに座ってるの? 早く食べに来るんだ!お父さん────! ご飯よ!」
池と文緋はそれぞれの席の横に立ち、父親が二階から降りてくるのを待った。目の前に並ぶ豪華なご馳走に見とれる池にひきかえ、文緋は全く興味をそそられていない様子だった。二人の反応は、さっきケーキの箱を開けた瞬間とは、まるで正反対だった。
「うわぁ、いい匂い~~~やっぱり母さんの手料理は最高だね!それに比べたら、大学の食堂の食事なんて人間が食べるものじゃないよ……」
「よく生きてこられたわね、お兄ちゃん。せめてアタシみたいに料理を習ってはどう?」
「そんな暇なんてあるわけねぇだろ……あっ、お父さんが降りてきた!」
安達政が自分の席に腰を下ろしてから、兄妹二人はようやく席に着いた。
「おぉ、さすが十香子の腕前だな~見た目だけでも、京空の高級レストランに劣らんなあ!池のおかげで、こんなご馳走が食べられるんだ!」
「実は俺も、母さんがちょっとやりすぎじゃないかなって思うんだけど……俺のためにそこまで手間かけなくていいのに~」
「何言ってんの。家族なんだから。さて、早く食べよう。」
「母さんが来るまで待とう。みんなで一緒に食べたら家族団らんの雰囲気が出るし~それに……」
池は隣に座っている文緋の方をちらりと見やり、それから「安達池ボディランゲージ送信機」を起動し、彼女に向かって二度まばたきをした。これはこの兄妹だけの秘密の暗号で、他人が解読することは絶対に不可能だ。
「食事の前にビッグニュースを報告して、親にも喜んでもらえば、このご馳走がもっと美味しく味わえるんじゃない?」
文緋は池からのメッセージを受け取ると、照れくさそうに池の方へ一度まばたきを返した。
「いつからそんなに気が利くようになったんだ……」
二人のまばたきによるやり取りは、安達政の目にも逃れなかった。しかし彼はそれについて何も問わず、知らぬふりをして、大人から見れば少々幼稚なこの「遊び」を放任した。
今日のメインイベント――池の虎視島入社祝いパーティーが順調に開催され、普段からわがままで親の言うことを聞かない娘が兄の祝いパーティーを台無しにさえしなければ、それ以外のことはすべて許容できるのだ。
台所から最後の料理を運んできた十香子は、この家族パーティーの最後のピースだった。
「オッケー!これで料理は全部揃ったわ!あたしを待たなくていいから、熱いうちに早く食べてね!特に池、この料理は完食しないとダメだよ!」
「精一杯頑張ってみる……」
「食べる前に、まずは乾杯しないか?めでたい日だから!あたし一人だけお酒を飲むのはちょっと寂しいけど……」
4人の手元には飲み物が入ったグラスが置いてあるが、その中で赤ワインが注がれたワイングラスを使っているのは十香子だけだった。アルコール不足ゆえ、この乾杯の儀式には少しばかり楽しさが欠けていた。
「何を飲むかは二の次だ。何より大事なのは、池の夢が叶ったという『喜び』を分かち合うことさ!学者家庭の長男として、池が今や世間に注目されるような偉業を成し遂げた。私と十香子がこの十数年、池の育ちに心血を注いできた甲斐があった!研究所の同僚たちは皆、安達家に天才が現れたと褒めてくれた。それを聞く度に、本当に嬉しくてたまらないんだ!」
「それはそうよ~~~あたしだって大学で、池のことについてよく聞かれてるんだよ!しかも理学部の教授や航空宇宙工学部の専門家までが、うちの文学部にやってきて池のことを聞いたりして、本当に困っちゃったわ~」
池の優秀さを話題に、両親は自慢げにその「喜び」を分かち合っていた。そこには、長年の息子への希望がようやく実った満足感だけでなく、他人からの称賛に酔いしれる虚栄心も含まれていた。池の成功は彼自身の誉れというよりは、むしろ家門を飾るための装飾品のように思えた。
称賛の渦に飲み込まれそうになった池は、気まずそうな笑顔で親に付き合うしかなかった。一方、その「喜び」を分かち合うことのできない文緋は、黙ったままでジュースの入ったカップをぎゅっと握りしめ、カップに映る自分の顔をぼんやりと見つめていた。
いわゆる「蚊帳の外」とは、こういうものではなかろうか?輝きに満ちた兄と比べ、微かな光さえも放たない自分は、永遠に両親の誇りにはなれないのだろうか?一生、兄の陰に隠れて、安達家の「蚊帳の外」で過ごすしかないのだろうか?
いや、そうではない。兄の背中や両親の認めは、決して手の届かない存在ではない。この「ビッグニュース」を伝えさえすれば、両親もきっとアタシを誇りに思い、人前でアタシのことを自慢してくれるはずだ。
そうすれば、いずれ必ず兄の足跡に追いつける。
たとえ二人のスタートラインが随分離れていても、たとえ二人が全く異なる道を歩んでいても、それぞれ歩んできた距離は必ず等しくなるはずだ。
何より重要なのは、兄もアタシがそれを達成できると信じていてくれることだ。だからこそ、アタシは彼の期待を裏切ってはいけない。
池は文緋の落ち込んだ様子に気づいたようだったが、政と十香子は物思いに耽ける娘を完全に無視し、満面の笑みでそれぞれのグラスを掲げた。
「それじゃあ、二人ともグラスを上げて、家族みんなで乾杯しよう!」
「あっ、はい、お父さん……」
池は少し面食らい、やや危なっかしい手つきでグラスを掲げた。中のジュースが激しく揺れ、こぼれそうになった。三人はそうしてグラスを掲げたまま、文緋が加わるのを待っていた。
「グラスを持ち上げて、兄さんにお祝いの言葉を伝えなさい。」
父親からの冷たい命令。文緋は無反応だった。
「お父さんの言うことを聞いて、グラスを掲げなさい。今日はみんなにとってめでたい日なんだから、我儘に振る舞っちゃダメよ、わかった?」
「大丈夫だよ、お父さん、お母さん!そんな焦らなくていいから、あの……実は今日、文緋も……」
「乾杯する前に、一つ言いたいことがあるんだ────── !」
文緋は大声で池の言葉を強引に遮った。なぜなら、これこそが彼女の義務だったからだ。
「後で話せばいい。もしお前がまだ安達家の一員なら、グラスを掲げて兄に祝い言葉を言え!」
父の口調から、彼の不快感が募っていることが伺えた。
本来なら家族全員で盛り上がるはずなのに、今にも「蚊帳の外」の者によって興ざめされ、最悪の場合、喧嘩に終わる恐れがある。
この祝宴の主役であり、この家の将来の柱である池は、家族間の和を保つ責任があることを自覚していた。したがって、池は文緋の意思など構っている暇もなく、父と妹の間に介入しようとした。彼は口八丁で話術に長けた社会人であるというわけではないが。
「いい加減にしろ文緋!兄がせっかく帰ってきたのに、がっかりさせて帰らせるつもりか?」
「母さん!親父!俺の話を聞いて!今日は俺だけじゃなくて、文緋にとってもおめでたい日なんだ!彼女も今日、みんなに伝えたい良い知らせがあるんだ!まだどんな良い知らせかは分からないけど……せめて彼女の話を最後まで聞いてほしい!それから、みんなで一緒に祝った方がもっと楽しいんじゃない?」
「ふっ……なるほど、だからさっき兄妹二人が互いに目配せして合図を送っていたわけか……」
真相を極めた政は咳払いをして、平然と返事をした。
「まあいい、池がそこまで言うなら、私と十香子に聞かせてごらん。池の就職成功よりも喜ばしい知らせって、一体どんなことなの?」
「お父さん、ちょっと黙っててよ!ねぇ、文緋、ママに教えて。もしかして最近の試験で良い成績を取ったの?それとも学校で何か賞をもらったとか?」
文緋は感謝の気持ちでいっぱいな眼差しで池を見た後、政と十香子の方を向き、はっきりとした発音で、家族全員をびっくり仰天させる「良い知らせ」を告げた――
「明日から、アタシ、正式に退学するんだ!」
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