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第十三話 傷跡の由来 序章

 日が暮れた。

 この家にまだ生活の気配がわずかに残っていることを証明してくれるのは、テレビの音だけだった。

 最近、文緋が帰宅する時間がますます遅くなり、彼女の帰りを待つ時間もますます長く感じられるようになった。そこで僕は、リビングでテレビを見ながらスマホをいじるという、現代人が時間を潰す定番の方法を採用した。

 テレビでは、先週末の全国サッカーリーグのハイライトが放送されている。白熱した攻防のシーンも、ゴールを決める素晴らしい瞬間も、すべて競技スポーツならではの魅力を放っており、この待ち時間をそれほど退屈なものにさせない。

 10時半に近づいた頃、ロングソファに寝そべて睡魔に襲われかけていた僕の意識は、清音からの一通のメールで呼び覚まされた。


「先輩、ご依頼の件はすでに完了いたしました。以下にVIP席の電子チケット2枚のリンクを添付しますので、ご確認ください。また、ご友人が入場する際、スタッフにバーコードが表示された画面を提示するようお伝えいただけますでしょうか。」


 チケットに記載された名前には苗字がなく、それぞれ「政」と「十香子」とだけ記されている。個人情報保護方針により、チケット購入時にフルネームの提供は不要だったため、清音に購入者の個人情報を伝える際、意図的に苗字を省略した。彼女は僕の親のフルネームをずっと知っていないからだ。

 この2枚のタイムリーに届いたチケットは、明日の行動にかなりの自信を与えてくれた。1ヶ月分の給料に近い金額がかかったとはいえ、清音の口座へ振り込んだ瞬間、僕は一度もまばたきしなかった。ファンたちが自分の推しにお金を捧げる時、たいていこれほど断固たる決意を持つものなのだろう。

 とにかく、無事に終わり次第、必ず清音にしっかり恩返しをしなければならない。まずはお礼のメッセージを送ろう……


「ねえ~~~~~誰にメッセージ送ってるの?」

「うわああああああ――!」


 幽霊のようにソファの背もたれの陰から現れた文緋が声をかけてきたせいで、度肝を抜かれた僕はソファから飛び上がってしまった。久しぶりの「気配ゼロの背後暗殺術」は、やはり僕には効果抜群だ。


「いつ帰ってきたの!俺を驚かして死なせるつもりか!」

「玄関で『ただいま』って言ったでしょ!テレビの音量をそんなに大きくしてるから、何度も呼んだのに全く聞こえなかったじゃない。スマホばかり見てたくせに、しかも変な笑顔で……」


 それは事実だった。眠気をしのぐために、確かにテレビの音量を少し上げていたし、文緋が帰ってくる音が聞こえなかった可能性もある。それに、仰向けになっていたので天井しか見えておらず、文緋がこっそり僕のもとに近づいてくる様子は当然見えなかったのだ。


「はいはい~俺が悪かった~もういいだろ、スーパーアイドルさん~」


 テレビを消しながら、台本を読むような口調で文緋に謝った。


「まあ、毎晩ここでアタシの帰りを待ってくれてるんだから、今回は大目に見てあげるわ~」


 文緋はハンドバッグをテーブルにポイッと投げると、僕が横たわっているソファに倒れ込もうとする姿勢を見せた。その意図を察した僕は、すぐにソファの上に伸ばしていた両足をどかした。すると文緋は顔を下に向け、ドサッと、僕が空けておいたソファのスペースに落ちた。


「まあ、こっちに責任もあるわ。だって、大声で叫ぶ気力なんて全くなかったし……」

「ふーん、超有名人が反省するなんて信じられない……謝るんじゃなかった……」


 文緋はふにゃふにゃした拳で僕を軽く叩いた。


「調子に……乗るなよ!」

「すまんすまん~こんなに疲れてるんだから、早く休んだほうがいいよ。俺もちょっと眠くなってきたし、あ~~~~~」


 僕はあくびをしながら文緋の頭を優しく撫で、立ち上がって部屋に戻ろうとした。


「まだ教えてないわよ、さっきニヤニヤしながら誰にメッセージを送ってたの……」

「あ、あれは……同僚が宇宙から送ってきた爆笑ネタだよ! 宇宙では退屈だから、たまにチャットグループで互いに面白い話を送って気分転換してるんだ……まあ、かなり下品なネタだけどね~~~聞いてみる?」

「アタシの耳は、アタシが創作した音楽を、聴くのに使うんだ。アンタたちみたいな、スケベな宇宙人の下ネタを、聴くためのもんじゃないわ……」


 ソファにうつ伏せになった文緋は、のろのろと手で耳を塞ぐ仕草をしてから、げっそりした様子で答えた。

 どうやらうまくごまかせたようだ……君たちに「スケベな宇宙人」という汚名を着せてしまって、本当にごめんなさい! 同僚の皆さん!


「じゃあ、俺は部屋に戻るよ。お前もそこでダラダラしてないで、さっさとお風呂にに入って寝なよ! おやすみ!」

「おやすみ、お兄ちゃん……」


 文緋はなかなか起き上がろうとしない。仕方なく、僕は微笑みながら首を横に軽く振った。

 二階の部屋に戻ると、ドアに寄りかかって階下の物音に聞き耳を立て、文緋の足音と浴室のドアが閉まる音が聞こえてやっと安心した。

 その後、清音におしゃれな言葉がいっぱい詰まったお礼のメッセージを送ったが、10分近く待っても返信はなかった。


「もう11時を過ぎたな……彼女はもう寝てるんだろう? まあいいや、お礼はまた今度しよう。俺も寝る……」


 スマホを置こうとした途端、わざとタイミングを計っていたかのように、清音からの返信がスマホの画面に表示された。


「今回は先輩の方がよそよそしいですよ~おやすみなさい!」


 清音の僕に対する態度に、確かに何か変化が起きているように感じた。しかし、自分の変化さえはっきり把握できていない僕が、そんな結論を下す資格があるのだろうか?

 様々なことを考えているうちに、次第にこの世界との五感のつながりを失っていった。


 一晩が過ぎ、朝8時近くになった。なぜ僕がこんなに正確に時刻を知っているのか? 理由はただ一つ、僕の脳内にある正体不明の声が、毎朝この時刻が近づくと、たゆまず僕を起こしてくれるからだ。


「ご……ご主人様……そろ……そろそろ時間です……起きてください……お忘れなく……今日の……予定は実家に帰り……ご両親にお会いすることです……」

「朝っぱらからうるさいな……起きるからいいだろ!」


 人間が眠りから覚めたとき、最初にすることは目を開けることだ。しかし、僕には他の人間よりも余分な手順が一つある――幻聴の症状に妥協してからでないと、目を開けることができないのだ。

 普段、目が覚めた後は幻聴は完全に消えてしまうのだが、昨日の料理店での出来事をきっかけに、自分の症状がさらに悪化しないかと心配になり始めた。

「幻聴目覚まし」であれ、文緋の「歌声目覚まし」であれ、少なくとも一つ変わらないことがある。それは、僕の体内の「二度寝遺伝子」が相変わらず欠落しているということだ。だから、たとえ今日、陣港に戻る予定がなくても、寝坊は現実的な選択肢ではない。

 僕はゆっくりと上半身を起こし、両手で耳を塞ぎ、離してはまた塞ぐ――それを何度も繰り返した。


「これからは本当に、文緋の『歌声目覚まし』が聞こえなくなってしまうのか?」


 心の中で何度も自問した。とっくに聞き飽きていたはずの声なのに、今となっては計り知れないほど懐かしく感じられる。失って初めてその大切さに気づく――この心理現象は、人間にとって決して珍しいことではない。


「今は自分のことを考えている場合じゃない……急いで準備をして出発しなきゃ。」


 このところの習慣通り、僕は一人で一階で毎朝の決まった手順を実行していた。

 それにしても、文緋が家にいないのは、ある意味では良いことだ。こうすれば、「今日も陣港に戻って両親に会う」ということを彼女に報告する必要がないからだ。

 前回のあの不愉快な思い出は今でも鮮明に記憶に残っているし、あの焦げた目玉焼きと、舌先に広がったあの苦味も、今でも忘れてはいない。

 文緋が用意してくれた朝食を慌ただしく平らげた後、僕は一秒たりとも無駄にせず、9時25分発の千通線に乗りに家を出た。あいにく、今日に限ってまたしても雨で、まるで神様までも僕を妨げようとしている気がする。


「やっぱりこんな天気なら、家で思いっきり寝坊するに限るなあ!」


 頭ではそう思っていたものの、体は自分の意に反してバス停へと早足で向かっていった。時間的にはまだ余裕があったはずなのに、水しぶきでレインブーツが汚れるリスクを物ともせずに、徐々にスピードを上げていき、やがて全速で走り出した。

 どうやら、僕はこの家から逃げ出そうとしていたようだ。というか、朝に限ったこの家から、というべきだろうか。

 前回に比べ、今回はなんと30分も早く駅に到着した。切符を買ってホームに入ると、ベンチを一つ見つけて座り、スマホを取り出して母に状況報告をした。


「おはよう、母さん! もう京空駅で電車を待ってるよ。いつも通り、10時55分に陣港に着く予定。着いたらまた連絡する!」

「了解!今日帰ることは、お父さんにはまだ言ってないの。疑われるから。でも、お父さんをどう説得するか、あらかじめ考えておいたほうがいいわよ。この件に関しては、政の態度はダイヤモンドよりも固いんだからね。」

「臨機応変にやるよ。万が一、状況が収拾つかなくなったら、何とかしてくれる?」

「大丈夫、ママに任せて!言っとおくけど、お父さんに『物理的な手段』を使って無理やりライブに連れて行くなんて絶対にダメよ!」

「『物理的な手段』って何だよ……まさか、親父を縛って会場まで運べって言うの?」

「あんた、本気でそんなこと考えてたの???(驚きの絵文字)」

「最初にその方向に誘導したのは母さんじゃない────!」

「冗談だよ~あなたって、いつもすぐに真に受けるのね~」

「今そんなことしてる場合か……とにかく、陣港に着いてからまた連絡。」

「OK~~~ 気をつけてね! あ、そうそう、昼ご飯は碌なものは出せないからね。」

「それって、昨日も言ったじゃない?」


 物理的な手段か……これはまったく新しい発想だ。やむを得ない状況なら、本当にそうするしかないのかもしれない。


 定刻通りに到着した千通線の列車に乗り込み、昨日母が言ったあの言葉を思い返した――


「お父さんは、文緋の理想や彼女の選んだ道をどうしても受け入れられない。」


 これこそが、私たちの家族にわだかまりをもたらし、父と娘が対立するようになった根本的な原因だ。子育て方法が過激すぎて且つ息子に愛情が偏った父親と、自分自身が親に大切にされず認められていないと感じ、両親から離れて出世を志す娘、そしてその二人の間に立ち、板挟みになっている兄である僕。


 誰も思い出したくないあの記憶が、池の頭の中で少しずつ蘇りつつあった。

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