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第十二話 清音との食事 後編

「だったら、その『敬意』を表すべきじゃないか~~~」

「喜、喜んで! どうか、先輩、ご指示を――― !」


 その時、清音の頬は、海鮮丼のマグロの赤身と同じくらい真っ赤になっている。まさか僕の「指示」に何か変な妄想を膨らませているんだろうか……大人の世界には、マスターと奴隷の関係を模したゲームがあるらしい。「奴隷」は「マスター」の命令に無条件に従わなければならず、いくら恥ずかしくて人前ではできないようなエグい命令であっても……

 言葉では言い表せないほどの火照りが僕の肌から迸り、周囲の空気を大幅に加熱した。あっという間に、エアコンが数台効いて涼やかで快適な料理店は、蒸し暑いサウナ室へと変貌してしまった。

 この熱の源は言うまでもなく、僕の最悪な妄想に他ならない。

 健全な成人男性にとって、異性への妄想はごく自然で正常な生理現象だ。しかも目の前に座っているのは容姿端麗な少女であり、僕の言いなりになる態度を示してくれているのだ。こんな状況に置かれても、平然としていられる男性など、この世に存在するわけがないだろう?


「ご……ご主人様……暑い……暑い……」


 ふと、どこからともなく助けを求めるようなうめき声が聞こえてきた。少し騒がしい店内でも、はっきりと聞き取れた。理性を三割ほど取り戻した僕は周囲を見回し、自分が確かに変な叫び声が響くラブホテルや風俗店ではなく、普通の飲食店にいることを確認した。

 これで、この切れ切れの声がどこから来ているのか断定できた。声質には多少の違いがあるものの、今朝起きた時に現れた幻聴と同じ原理だ。


「暑い……ご主人様……お願い……助けて……私たちの……体を冷やしてほしいです……これ以上暑くなると働けません……」


 その声が耳の奥で繰り返され、うんざりするくらいにしつこく響いている。


「やかましい―――!分かったよ!すぐに冷やしてやるから、もういいだろう!」


 頭の中でその奇声に返事をすると同時に、テーブルに置いてある氷水の入った水差しを取り、コップに氷水をたっぷりと注ぎ、一気に飲み干した。ひんやりとした感覚が瞬く間に全身に広がり、その冷却効果は頭にバケツ一杯の氷水を浴びせるのにも劣らず、効果てきめんだった。

 すぐに、助けを求める声と灼熱感が共に消え去った。


「先輩、大、大丈夫ですか?」

「あっ、 大丈夫、大丈夫。丼のイクラがちょっとしょっぱくて……」

「そ、そうなんですか。それじゃあ、さっきの話ですが……」


 清音はまだ真っ赤な顔のままで僕の指示を待っている。冷静になった僕はすぐにその流れに乗じ、今日の会う目的へと話題を振った。


「じゃあ、心置きなく命令させてもらうよ~ !よく聞け!君に……」

「うん、うん……」


 まだ言葉を最後まで聞いていない清音は緊張のあまり歯を食いしばり、唇さえも震わせていた。


「君に……このライブのVIP席のチケットを2枚買ってきてほしいんだ! いいかな?」

「え……? 先輩、先輩のご要望は、それだけ、それだけなんですか?」


 僕の「指示」を聞いた後、目の前のその顔には呆れた表情が浮かび、ほんの少しの落胆も混じっているように見えた。もっとも、後者はまた僕の気のせいかもしれない。


「そうだよ、それ以外何だと思ったの?」

「い、い、いいえ! 絶対に、絶対に、絶対に、変なことは考えていませんから―――!」

「落ち着いて!そんなこと言ってないよ!また周りの人に注目されちゃうから……で、チケットの購入ってお願いできる?」

「もち、もちろんです!先輩のお役に立てれば、光栄です!」

「そこまで大げさじゃないよ~じゃあ頼む!お金は後で渡すから!」

「費用の件は、お気になさらないで……」

「だめだめ、事前に調べてみたんだけど、VIP席の値段はぼったくり並みに高いし……それに値段は抜きにして、そんな他人の好意に便乗するようなことするわけにはいかない! もし本当に俺を先輩として尊敬してくれているなら、この件では遠慮しないでくれ!」


 以前考えていた通り、清音の力を借りて自分の計画を実現させることは、便乗行為とは言えない。だから僕は、大義名分を持って清音にそう言い切った。


「先輩がそこまで、そこまで断固としたお考えなら、私もこれ以上、これ以上無理を言いません。もし、もし差し支えなければ、お教えいただけませんか? 先輩は今回、誰のためにチケットを購入されたのですか? ご自身で、ご自身で観に行くのですか?」

「いやいやいや、俺のようなアイドルとか流行りなどとは全く関係ない田舎者なんて、ライブに行くわけねーだろ~」


 すでに一番良い席を予約済みだという件は、決して清音には言えない。チケットの出所を説明できないから。


「実は、俺の同僚の二人に買ってあげたんだ。彼らも『月隠の顔』のファンで、ちょうど休暇中だったんだ。それに、彼らは俺の先輩でもあるし、普段からよくお世話になっているから、この機会で感謝の気持ちを伝えたいんだ。君も知ってる通り、宇宙飛行士も一応職場の一種だし、他のメンバーと良好な関係を築く必要があるから……」


 今回、その場しのぎの言い訳には、明らかな矛盾があった――単に同僚と仲良くするためだけなら、これほどの出費はちょっと度を越しているのではないか?


「そうなんですか……本当に、本当に残念ですね……でも、先輩、ご安心、ご安心ください。お任せいただいたことは、必ず、迅速に解決いたします!」


 先輩である僕への100%の信頼があるだけあって、清音は全く疑いを持たなかった。


「サンキュー清音!本当に助かるよ! そういえば、君はチケットを買わなくても入場できるんだろ?」

「はい、名誉会員はVIP席に直接着席できますが、席を自由に選ぶことはできず、オンラインで予約を申し込んだ後、主催者側が席を割り当ててくれます。」

「まあ、それは合理的だな……俺も会員になれたらいいなあ~」

「先輩もついに、ついに『月隠の顔』に興味を持ってくれたんですか―――?」


 清音はいきなり興奮して声を上げてしまった。周囲の客たちは、もう何度目か分からないほど私たちのテーブルに視線を向けている。ぶっちゃけ、こいつら、何度も僕と清音を見ても飽きないみたいだけど、逆に僕の方が、見られすぎてうんざりしてきちゃった。


「シ―――ッ!静かにして!また誰かに見られてるよ!」

「あっ!つい、つい声を漏らしてしまって……本当に、本当に失礼しました!どうかお許しください!」

「まあいい。とにかく、これからのことは君に任せるぞ~さあ、早く食べよう!」

「はい、チケットを買い次第、すぐにご連絡いたします!」


 こうして、今日の最初の任務は無事に完了した。肩の荷が下りた僕と清音は、のんびりと会話を交わしながら、美しい景色と美味しい料理を堪能した。視覚と味覚の二重の楽しみで、時間の流れをすっかり忘れてしまった。


「あ……そろそろ時間です。先輩ともう少し、もう少しお話ししたいところですが、残念ながら午後は、午後は学校に戻って試験勉強をしなければなりませんので……」

「本当だ、もうこんな時間……学校まで送ってやる。」

「お、お手間をおかけしてはいけません!今日、先輩にお会いできただけで、この上ない幸せです!」

「じゃあ、ここでちょっと待ってて。トイレに行ってくるから。」

「はい、お待ちしております!」


 お手洗いとレジはどちらも我々の席の後ろにある。お手洗いの入り口まで行く途中、僕はこっそり方向を変えて、店の入り口の横にあるレジへと忍び寄った。


「すみません、23番テーブルのお会計をお願いします。」

「はい、少々お待ちください。23番テーブル……すみません、お客様、23番テーブルはすでに会計済みです。」

「え?いつですか?誰が支払ったんですか?」

「お客様と同じテーブルにいらっしゃる女性です。当店のオンラインショップでお支払いいただきました。」


 また僕の気のせいかもしれないが、レジの店員が女性への迷惑行為の疑いのある不良兼ヒモ男である僕を、見下している様子に思えた。


「オンラインショップ?そんなサービスもあるんですか?」

「はい、お客様。当店のオンラインショップでお支払いいただけますが、この機能をご利用になるには会員としてログインしていただく必要があります。」

「つまり、あの女性は貴店の会員ということですか?」

「そうです。あの方は当店の常連さんです。」


 清音が放つ会員としてのオーラに目を見張った。毎日あちこち飛び回っている彼女には、一体いくつの会員資格があるのだろう? この調子でいけば、いつ清音が突然、国会議員に当選しても驚かないだろう……


「オンラインショップでお支払いいただくとポイントが貯まります。一定数のポイントが貯まると、様々な料理やギフトと交換できるので、とてもお得ですよ!もし興味があれば、アプリストアで当店を検索してみてください……」

「いいえ、結構です。お邪魔してすみませんでした。」


 店員の勧誘をきっぱりと断り、急ぎ足で清音の元に戻った。


「ごめんごめん。お待たせしちゃった!」

「い、いいですよ先輩。じゃあ、そろそろ行きましょうか。」

「あの、お会計のことですが……」

「ご、ご安心ください、もう、もうお会計は済ませてあります~先輩と約束、約束していたんですから!」


 僕は仕方なくため息をついた。

 その後、清音と一緒に料理店を出た。レジの前を通り過ぎた瞬間、私たちを見送る店員が、僕と清音に対して全く異なる態度を取っているのをはっきりと感じた。おそらく店内で、この特別な扱いを受けているのは僕一人だけだろう。

 地下鉄の駅まで歩いていく途中、思わず清音に、その料理店の会員になった経緯を尋ねてしまった。


「今日は本当にすまなかった。おごってもらった上に、入場券まで頼んでしまって、迷惑ばかりかけて……」

「いえいえ、こちらこそ、先輩の、先輩のお役に立てて幸甚に存じます!それに、先日の件、ずっと、ずっとお礼を言う機会がなかったんです。お詫び、お詫びしなければならないのは私の方です!」

「ぶっちゃけ、さっきトイレから戻った後、ついでに会計をしようと行ったんだけど、店員に『もうお支払いは済んでいます』って言われて、本当にびっくりしちゃった……あの店、もう前に来たことあったの? しかも、あそこの会員だって?」

「は、はい! わざと、わざと先輩に隠そうとしたわけじゃありません。ただ、先輩の楽しみを、楽しみを台無しにしたくなかっただけなんです……」


 さすが文緋の親友だ。二人とも、他人のことを考えすぎるほど思いやりのある良い子たちだ。


「俺に隠し事するって、むしろよそよそしいじゃないか?よかったら俺の前では遠慮しないでほしい。文緋と接している時みたいにね。だって俺は単なるあなたの先輩じゃなくて、幼馴染でもあるんだから~」

「先輩のご期待、ご期待に応えられるように、自分の欠点を克服して頑張ってまいります!」


 清音は僕の方に向いて笑顔を見せてくれた。その温かい微笑みには少しギクシャクした感じが込められていて、まるで僕のこの言葉が彼女の期待に完全に沿えず、仕方なくそう反応してくれたらしい。

 とはいえ、あくまで憶測だけだ。彼女の本当の期待が何なのか、僕には見当もつかないのだ。


「それにしても、あの店の料理って本当に美味しかったね。道理で君の行きつけの店になってるわけだ~」

「実は、私が始終、あの店を訪れているのには、それなりの理由がありますが……」

「当てさせてもらおう。もしかして、あの店の『ポイントで景品交換』サービス目当てだったりするの?」

「そういうわけではございません……先輩に笑われるかもしれませんが、実は、文緋の、文緋のためなのです。かつて文緋からこの店の話を聞いたことがあって、ぜひ一度訪れてみたい、と言ってくれたので、文緋より先にお店のメニューを全て味見してみて、彼女の好みに合う料理を見つけ出しておこうと思っていたのです。そうすれば、いつか文緋を連れて行く時に、彼女の口に合わない料理を注文してがっかりさせてしまうことがなくなりますから…… 」


 心に大きな衝撃を受けた僕は何も言い出さず、清音の心のこもった配慮に深く感服した。他人から見れば清音の行動は余計なことかもしれないが、今の彼女はあたかも聖女の如く、生きとし生けるものを照らす聖なる光を放っているように見える。

「文緋のためなら何でもやる」という僕が一方的に始めたこの勝負は、僕の負けで終わった。しかも完敗だった。

 しかし、これで諦めるつもりはない。約束したことは実現するまで、絶対に立ち止まってはならない。たとえ僕と清音の勝敗結果に何の変化も起こさなくとも。


 地下鉄の駅で清音と別れた後、僕は一人でカフェに座り、コーヒーを少しずつすすりながら、次の仕事に取り掛かった。スマホの画面上で指を素早く動かしてから、僕は「数カ国語に精通し、口達者な中年の大文豪」に次のようなメッセージを送った―――


「お母さん、親父の体調はどう?今朝は病院に行く予定だったよね?医者は何て言ってた?前回行った時より少しは良くなった?」


 メッセージを送信してから、「大文豪」からの返信が届くまで、コーヒーを一口飲み込むほどの時間しかかからなかった。


「病院に行くことなんて、お父さんよりあんたのほうがよく覚えてるじゃない~(笑) 安心して。先生によると政の体調は良くなってきてるって。あんた、毎日メッセージ送ってくれて心配する必要なんてないよ~ まるで心配性のおばあちゃんみたいだわ~」

「嘘じゃないといいんだけど……」

「あんたったら、自分の母親を疑うなんて!?ママはそんなに嘘つきなイメージなの――! (ガチ泣きの絵文字付き)」


 幸い、コーヒーを一滴残らず飲み干しておいたおかげで、おふくろのこの滑稽な演技を見て、口の中のコーヒーを噴き出すことにはならずに済んだ。


「はいはい、俺の気のせいで悪かったな~お母さんもね、親父の看病で無理しすぎないでよ!」

「了解~心配しなくていいよ、池おばあちゃん!」

「ならいい……親父が元気なら、来週の水曜日、つまり13日、親父と母さん空いてる?」

「来週の水曜日?別に予定はないと思うけど。どうしたの、また家に帰ってきてタダ飯を食おうってつもり?」


 この大文豪の毒舌に鋭く反論しようとした矢先に、すぐに届いたもう一件のメッセージにより、タイプ中だった指が宙に浮いたままに固まった。


「もし文緋のライブに誘おうって考えてるなら、言っておくけど、父さんは絶対に同意しないよ。」

「さすが母さん、何事もお見通しだ……でも、その日は文緋にとって特別な日なんだ! とても記念すべき日なんだ! ぜひ二人で彼女と一緒に過ごしてほしい! 入場券は俺が用意しておくから、母さん、お願い、何とか親父を説得してくれないか!」

「あの日を覚えてるのはあなただけじゃないわよ!文緋がデビューした記念日だっけ?」

「やっぱ母さんも覚えているんだ……」

「実は政も忘れてないのよ。ただ、あのジジイはわざと忘れたふりをしているだけ。この2年、この日になると、こっそり『月隠の顔』の記念イベントやライブに関心を持っていたわ。彼の顔を潰さないように、あたしもわざと知らないふりをしてあげたまでよ!」


 もし母さんの言うことが本当なら、親父が自分の面子を気にする度合いは、僕の想像の枠を飛び越え、全人類が到底及ばない高みに達していることになる。別の見方で捉えれば、これは揺るぎない事実を裏付けている。つまり、親父の心の中では、やはり文緋のことをずっと気にかけているということだ。


「でもね、文緋のことを気にすることと、政が文緋の理想や彼女の選んだ道を受け入れられないことは、まったく別の話だよ…… だから、お父さんがなぜ文緋のライブに一度も見にいかないのか、君もわかるだろう?彼はそんな頑固で矛盾だらけの人間なんだから。そうでなければ、この3年間に、とっくにライブを見に行くことくらいできただろうに。」

「ってことは、親父を説得する可能性は本当にゼロってこと?」

「あたしが試してやってみるけど、あまり期待しすぎないでね。(ため息の絵文字)」

「じゃお願い、母さ……」


 さっきまで母さんに感謝しようと思っていたが、よく考えた上で画面上のキーボードの削除キーを強く押した。

 文緋に両親と仲直りしてもらうために全力を尽くすこと――それが母さんがこの前、僕に託した任務である。この重責を引き受けたからには、逆に母さんに押し付けて達成してもらうわけにはいかない。


「いいよ。明日実家に帰って、自分で親父を説得してライブに行ってもらうから!」

「そうか~それなら任せたわ!じゃあ、あたしは何も知らないふりをし続けて、あなたが帰ってくるのを待ってるね!あ、そうそう、明日は碌な御馳走は出せないけどね~」

「まさか本当に俺がタダ飯目当てで帰ると思ってるなんて……じゃあ、明日の朝帰るから、出発する前にまた連絡する!」


 スマホをしまい、カフェを後にし、一人で横海大通りをぶらぶらと歩いている。海からの、ほんのり塩の匂いっぽい風が襟元を優しく撫で、少し先から聞こえてくる波の音が胸に響く。

 紺碧の海、蒼い空、目に入るものは何もかも、果てしなく続く青い景色である。

 前方を眺めると、淡黄の砂浜の上で、日光と海を楽しく満喫する人々の躍動している姿が見える。笑い声と、時として砂浜の上空を飛び交うカモメの群れの羽ばたき音が織りなすのは、まさに夏の定番の楽章。

 心理学において、青色は憂いと寂しさを象徴する色である。この澄み切った青い光景に囲まれているのは僕だけではないが、その中に秘められた憂いと寂しさを心に感じ取っているのは、僕だけなのだ。

 明日、故郷へ帰ることへの不安も、希望が打ち砕かれることへの懸念も、それゆえに、ますます強まっていく。

 果たして僕は、自分に課せられた責任を果たせるのだろうか?もし失敗したら、どう対処すればよいのか?たとえ成功したとしても、僕は何を得られるというのだろうか?

 さまざまな疑念を抱きながら、このまっすぐな横海大通りを、一瞬も立ち止まることなく、その果てまで歩き続けていった。

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