第十話 日常に潜む非日常
午後9時過ぎ、一日かけてのリハーサルを終えた文緋は、重くなった両足を引きずりながら、池の家の正門にたどり着いた。
体は疲れ切っていたが、心の中にある期待感という「刺激薬」が、肉体の疲れをすべて吹き飛ばしてくれた。
正門の隙間から見えるのは、暗闇に包まれた家である。外壁には月明かりが点々と降り注ぎ、近隣の家々の明かりを背景に、ひときわ浮き立っている。
この光景を目の当たりにしたと思ったら、文緋の「刺激薬」の効果はあっという間に切れた。体の疲れがぐんと増し、玄関まで歩く力さえ残っていないようだ。
「やっぱり……帰ってないんだ……せめてメッセージくらい送ってくれないか、このバカ兄貴。」
期待に取って代わる苛立ちと落胆を推進力に、文緋は何とか玄関まで進むことができた。気力の抜けた声でいつもの「ただいま」と呟くと、文緋はリビングへ歩いて行き、電気を付けた。束の間に、家の中全体が明るく照らされた。
ところが、照明が点くと同時に、食卓にうつ伏せになっている後ろ姿が突如として文緋の視界に飛び込んできた。その姿に、疲れで閉じかけだった文緋の目が無理やり開かされた。
「何者だ! お、お兄ちゃんか?」
明かりが点いてから約15秒後、とうとうその後ろ姿がゆっくりと起き、そして何かを思い出したように椅子から飛び上がり、文緋の方を振り向き、手足を振りながら嬉しそうに話し始めた。
「お帰り~ 驚いたろう~俺、今日は虎視島で泊まらなくていいんだ! どう? すごく嬉しいだろ~」
「驚いたのは確かだけど、嬉しいかって……別に喜ぶことなんてないわ。ただ家に帰れるだけじゃないの?」
「おいおい、そんなに冷たくならないでよ……俺はわざわざ家に帰っていないふりをして、お前に『深い悲しみから一転して大きな喜び』というギャップを味わわせようとしたんだぜ~」
「なるほど、だからメッセージ一つ送ってこなかったんだ……」
このささやかな不満の言葉は、文緋の口からは出なかった。
彼女はまっすぐ池のそばへ近づき、さっきまで池が座っていた椅子に腰を下ろし、顔を池に向けて少しからかうような口調で、池の「サプライズ計画」に潜む欠陥を指摘した。
「アタシが電気をつけた瞬間に、あんたが飛び起きてダンスを踊ってくれたら、ほんのちょっとだけ驚いたかもしれないわね~ずいぶん長い間あんたの背中をじっと見てたのに、ずっと寝てたなんて、雰囲気台無しよ。」
「それは俺のせいじゃないよ。もっと早く帰ってくればよかったのに。誰もいないような雰囲気を醸すために、電気をつけるわけにはいかなくて、座っているうちにうっかり寝そうになっちゃって……知ってるだろ、真っ暗な場所に長くいると眠くなっちゃうんだ……」
「本当にベタなアイデアね。男ってみんなこういうつまらないことするのが好きなのね~」
言葉には軽蔑のニュアンスが込められているが、話し手の表情は雲が晴れ渡った空のように明るい。部屋に入る前の憂いを帯びた顔と比べれば、全く別人のようである。
「独創性がなくて悪かったわよ……ご飯は食べた?」
「まだ……」と答えきる前に、キッチンにあるオーブンに点灯されている「保温」という文字が文緋の注意を引いた。
「ちょっと待って、オーブンで何か焼いてるの?」
「それ、見たか? お前の視力、俺と互角だな~」
池はオーブンの前に立ち、中に入っていた「正体不明の物体」を食卓に運んだ 。
それは12インチのマルゲリータピザだった。保温機能のおかげで、ピザの表面からまだ湯気が立ち上っており、長時間保温したにもかかわらず、焼き加減も程よく、ただ見た目は少し地味で、何か仕上げの色合いが足りない様子だった。
「今日の夕食はこれに決めた!定番のマルゲリータピザ!」
「マジか~~~見た目は本当に食べられそう……お兄ちゃん、いつピザの作り方を習ったの? 教えた覚えはないんだけど?」
「そりゃあもちろん~~~俺が作ったわけじゃないよ……実はこれ、出前を頼んだんだ。俺はただオーブンに入れて保温しただけ……あ、そうだ、おまけのバジルの葉を振りかけなきゃ!」
池はキッチンから個別パックされたバジルの葉を持ってきて、ピザの上にまんべんなく撒いた。熱さで引き出されたバジル特有の爽やかな香りが辺りに広がり、マルゲリータピザの定番の三原色――赤、白、緑の三色が揃った。
「いい香り……」と、文緋は鼻を近づけ、そのふくよかな香りに絶賛の声を上げた。
「以前、この店のピザを気に入っていたよね。」
「この味、前に注文したハーブのアロマにちょっと似てる!」
「あんなものは控えめにしたほうがいいぞ。また匂いで気絶したくはないし……まだご飯食べてないんじゃない?『一人でご飯を食べるのが嫌い』なんて言うセレブさん?」
「もちろん~~~~~~~食べてないわ!」
「そんなに誇らしげに答える必要ある?」
「でも、なんで急にデリバリーを頼もうなんて思ったの?お兄ちゃんは、アタシがお弁当を買って食べようとする時に、いつも『栄養がない』って小言を言ってるくせに。」
「お前も忘れっぽいね……今朝、俺が家を出る時、もし俺が先に帰ったら自分で出前を頼むって言ったじゃないか。約束はちゃんと守ったよ~」
「約束を守る」という言葉が、文緋の心に、もう二度と思い出したくないある記憶を呼び起こした。
「それに、この後のライブも、約束通り見に行くよ! 兄として、言ったことは必ず実行しなきゃね!」
「ちょっとトイレで手を洗ってくるから、先に食べててね、お兄ちゃん。」
文緋は立ち上がってトイレに駆け込み、ドアを閉めた。
「あれ?なんでわざわざトイレで洗うの? キッチンでも手を洗えるのに?」
文緋に関する新たな謎がまた一つ生まれた。
文緋の動機を分析するよりも、腹ペコだった池はまずお腹を満たすことにした。数分後、文緋はのんびりとした様子でトイレから出てきた。目の端がわずかに潤んでおり、白目の部分に赤みが見えたが、残念ながら池はその変化に気づかなかった。
「うーん……手を洗うのにどうしてこんなに……時間がかかるんだ? ピザが……冷めちゃいそうだよ。」
「まず口の中のものを飲み込んでから話してくれない? 女の子の前でそんなことするのは失礼だよ。じゃあ、いただきます!」
喉の奥がゴロゴロと動いた後、池の声もはっきりとした。
「ふぅ~、やっぱお腹が空いてたな。食べるのが速すぎてごめん~ところで、さっきのライブの話だけど……あの……俺のVIPチケット、確保できた?」
「約束を守るのはあなただけじゃないわよ~」
文緋は手元のピザを一旦置き、手を拭いてからスマホを取り出し、手が空かない池の目の前に画面を差し出した。そこにはバーコード付きのチケット画像が表示されていた。
「6月13日 午後7時30分、上雲居東立区一丁目2-1、輝英館、『月隠の顔 デビュー3周年記念ライブ』専用バーコード付き入場券(VIP席限定)、購入者氏名――安達池、座席番号 第1列第150号」
以上が、文緋が約束を果たしたことを証明する領収書だった。
池はこれに大興奮した。もし時間を早送りできるものなら、池は時計の針を26周も右回りに回そうと思っている。たとえそれが2回目の検査の日がますます近づいていることを意味するとしても。
「ほら、最前列、真ん中のベストポジション、あんたのために取っておいたよ。もし来なかったら……」
「いくら度胸があっても、約束を破りやしない!本当にありがとう、文緋!もっと早く言ってくれれば、お前を都心の高級レストランに連れていくのに……俺と一緒にピザを食わせてごめん!」
「そんなに謝らなくていいよ、妹として当然のことだし……それに、このピザ、すごく美味しいし。」
「ならよかった~このチケットをねだる時、北崎さんはお前を困らせたりしなかった? こんなトップクラスのチケット、とんでもない値段で売られてるんじゃない? タダで手に入れて、北崎さんが気の毒に思えるくらい……」
「そんなことないよ~これって、アタシのライブなんだから~梢姉さんに迷惑をかけるのはちょっと気が引けるけど、アタシが頼めば、VIP席を貸し切るのも全然問題ないのよ~!」
「そこまでしなくていいよ、せめて事務所にもチケット収入を残しといてほしい……でも、もし可能なら、あと2枚くらい欲しいんだけど……」
池は後半の言葉を口にしなかった。口にする前に、すでに考えを変えていたからだ。
「文緋にもう一度チケットを頼んだら、絶対にバレてしまう……別の方法を考えたほうがいい。」
チケット情報を頭に刻み込む過程で、池は長い間見落としていた細部に気づいた――今回のライブは、文緋のデビュー3周年記念イベントということだ。
「3周年、6月13日……それって、3年前にあの曲が世に出た日じゃないか?」
池も文緋と同じように手にしたピザを置き、素早く手を拭くと、スマホを取り出して動画サイト「EverybodyTube」のアプリを開いた。検索バーに曲名を入力すると、すぐに文緋の代表作「君とつながる星空」が検索結果のトップに表示され、アップロードの日付はまさに3年前の6月13日だった。
「やっぱりそうだった。まさか、こんな重要な日をずっと気にかけていなかったなんて! でも文緋も、なぜ俺に教えてくれなかったんだろう……この作品がなければ、今日の『月隠の顔』は存在しなかったはずだ! ひょっとして彼女も、これほど記念すべき日を重要視していないのか? いや、きっと何か理由があるはずだ、絶対に理由があるはずだ……!」
文緋をめぐる謎がさらに深まりつつあるのを見て、池は論理的思考を基に、あらゆる理由を考え尽くした。ただ、同年代の女性と接する機会がほとんどない男子にとって、それはやはり難しすぎだ。
「何してるの? スマホを見つめてボーッとしてるけど。ピザが冷めちゃうよ。」
「え? い、いや、VIP席のチケットが届いてすごく興奮しちゃって、まだ落ち着かないだけ……」
「ふん~~~妹のライブを観るのが、あなたにとってそんなにワクワクすることなんだね~~~」
「う、うるさい! ピザを食え!」
どうせ心の奥底には文緋に関する疑問が山ほどあるのだから、もう一つ増えたところで何の問題があるだろう? お互いの生活が平穏に続いてさえいれば、謎を解き明かすきっかけはいつか必ず現れるし、真相が明らかになる日も遅かれ早かれ訪れるはず……たぶん。
少なくともこれからは、池は6月13日というこの特別な日を二度と忘れることはないだろう。
「この3年間、本当にお疲れ様だった。」
心の中でそう呟いた後、池と文緋は二人でピザを完食した。このありきたりな「サプライズ計画」は、兄妹のげっぷの音とともに無事に幕を閉じた。
その後の日々は、ライブの準備に専念することになる。
初めて虎視島に戻って検査を受けて以来、僕の生活に何か変化があったと言えば、概ね以下の二点にまとめられる。
第一に、チケット販売開始日まであと何日あるかを指折り数えることが、日課の1つになった。すでに会場で一番良い席を予約できた幸運者として、他の人たちと一緒にチケットを奪い合うのを見られれば、ダフ屋と勘違いされるかもしれない。
しかし、家に帰ったその日の夜、僕はすでにこの考えを固めていた。それは、ずっと前から心の中で練り上げていた計画だった。
第二に、次第に僕が疑問を抱くようになるきっかけは、毎朝、眠りから覚める時、僕を目覚めてくれた「歌声の目覚まし時計」が、無線機から聞こえてくるような、かすれた人の声に差し替えられつつあることだった……その途切れ途切れの声は、時には低く呟いたり、時には叫び声を上げたりして、具体的な内容は聞き取れないものの、一つだけ紛れもない事実があった――
この声は、僕が検査室で目を覚ました時に聞いたもう一つの声と極めて似ている。
この現象は朝起きる時だけ発生するものであるため、僕は引き続きこれをごく普通の幻聴の症状だと結論づけた。おそらく、あの忌々しい麻酔ガスの効きすぎが原因で、残った神経系の症状が消えるまで相当な時間がかかるのだろう。
6月7日、木曜日。文緋のライブのチケット販売が正式に始まる日となった。
静かに訪れた朝は、しっかりと閉めてあるカーテンに窓の外に止められていた。薄暗い寝室からは、微かだが規則正しい呼吸音が聞こえている。布団に包まれたこの体は、その大部分が依然として熟睡状態にあるが、ただ一箇所だけが他の部分より早く目覚め、全身を目覚めさせる役割を担っている。
これは本来、自身のDNAに刻み込まれた生理的な日常行動であるはずだが、ここ数日観察していた異状の通り、今日もこの役割を担っているのは、やはり文緋の「歌声目覚まし」ではない。
「ご主……ご主人さま……そろそろ……お時間です……」
耳には、とっくに聞き飽きたあの歌声は聞こえず、唯一聞こえるのは、ぼやけた断片的な人の声だけだった。まるで誰かが使い古された無線機を僕の耳元に押し当てて話しかけてくるらしい。しかも電波の状態がかなり悪いような感じ。
「目……開けて……お願いですから……目を開けて……」
「電波」がどれほど悪かろうと、この出所不明の声は僕との会話を止める気などないようだ。本質的に言えば、これは純粋な低周波ノイズ――現代人が神経衰弱を患う主な原因の一つだ。
「そろそろ……そろそろ起きます……」
「うるさい……うるさい!!! 起きたらいいんだろう!」
声の出所が分からなかったため、仕方なく自分の耳のせいにした。頭の中で両耳に寝起きの苛立ちをぶちまけた後、のろのろと目を開けた。
周囲は目を閉じた時と何ら変わらない。カーテンの強力な遮光性のせいで、一瞬自分が盲人になったかと錯覚した。ベッドサイドのデジタル時計に目を向けることで、やっと自分の目に異常がないことを確認できた。
「7時59……あっ、8時だ。そろそろ起きなきゃ……」
時計を見た約2秒後、表示されていた数字が7:59から8:00に変わった。認めざるを得ないが、このおかしな「無線機目覚まし」は、以前の「歌声目覚まし」と同じくらい時間厳守だった。
「この麻酔ガスめ、きっと自律神経を傷つけたに決まってる。そのせいで毎朝、こんな意味不明な音が聞こえるんだ!」
ここでむっとしても始まらない。今は、体の自己修復能力に頼り、傷ついた自律神経をできるだけ早く修復し、この嫌らしい雑音を頭から追い出してくれることを願うしかあるまい。
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