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第九話 検査終了

 もう目を開けたのに、なぜ目の前には真っ暗で何も見えないのか?


 そうだ……ミクロの世界に生きる生命体として、そもそも目など持つはずがない。だから、かつて「安達 池」と呼ばれる肉体の中で見た光景は、やはりただの幻だったのだろう。

 私は、肉眼では観測できないほど微小な細胞に過ぎないことは分かっている。

 しかし、数十万億の「私」から成るこの個体は、決して軽んじられる存在ではない。

「私」と、この個体が一体となり、生死を共にする依存関係にあるからこそ、この肉体の正常な機能を維持し、その要求を満たすために自らエネルギーを燃やし尽くすこと───それが、私が死ぬまで果たすべき役目であり、命をかけても裏切ってはならない使命なのだ。

「この移ろいゆく三千世界を見ることが永遠にできない」という、ミクロ生命体に特有の悲劇的な宿命は、この肉体には絶対に繰り返させてはいけない……だから、目を覚まして! 私たちのために、この世のありとあらゆるものをはっきりと見極めてください、ご主人様────!


「安達君……安達君……早く目を覚まして……」


 耳には、まったく聞き覚えのなく、出所も分からない声と、懐かしい中年男性の声が重なり合っていた。次第に、後者の音量が優勢になり、やがて前者を完全に覆い隠してしまった。


「おかしいな、麻酔ガスの効き目はとっくに切れているはずなのに……安達君! 聞こえるか?」


 もちろん、はっきりと聞こえている。目にも入っている。

 頭上の無影灯は、僕が目を覚まして最初に目にしたものだった。左斜めを見れば、僕を呼び覚ました声の主が見える――

 ベッドのそばに座っているリチャード先生だ。


「先生……お忙しい中、わざわざ見舞いに来てくださったんですね。私が隔離されていたことも、お聞きになったんですか……?」

「よかった、安達君、やっと目が覚めたね……でも、一つ訂正しておこう。君はとっくにあの辛い隔離生活から抜け出しているんだ。今日は虎視島に戻って検査を受ける日だ。覚えてるかい?」

「あ……そうでした、そんなことがあったような……頭の中がごちゃごちゃしてて、日付さえも分からなくなってしまいまして……。」

「それも無理はないよ。麻酔から覚めたばかりだから、確かに頭は一時的に混乱してしまうものだ。焦る必要はない、少し休めば大丈夫だ。」

 

 僕は手を挙げて自分の耳を覆った。先生の説明通りなら、さっき聞こえたあの不気味な雑音にも納得がいく。単なる幻聴に過ぎず、全身麻酔を受けた臨床例ではごくよくあることだ。

 しかし、自分がまだ隔離期間中だと錯覚してしまうのは、麻酔薬の残留効果だけではない。身体が感じる、鉄板のように硬いこの感触、なんと懐かしいものだろう…… まるで隔離病室のあの特製ベッドとそっくりだ……

 強烈な条件反射で、僕はベッドから飛び起きた。振り返ってそのベッドを見ると、瞬く間に全身を悪寒が駆け巡った。室温が一定に保たれた検査室にいるはずなのに、思わずガタガタ震えてしまっている。


「さあ、行こう、安達君。」


 先生は僕の唐突な反応に驚いた様子もなく、静かにドアの方へ歩いて行き、ドアを開けてくれた。

 その瞬間、僕は思い出した。

 これが、意識を失う直前に最もやりたかったことだった――ドアを突き破って、この地獄のような場所から逃げ出すこと。

 そこで僕は、ほぼ一目散に、ドアまで十数歩という短い距離を駆け抜け、健康診断エリアの通路で立ち止まり、乱れた呼吸を整えようとした。

 先生は僕の後ろにやって来て、背中を軽く数回撫でてくれた。


「もう大丈夫だよ、安達君。すべて終わったんだから、落ち着いて。」

「先生……本当に申し訳ありません……見苦しいところををお見せして……」

「安達君がそんな反応を見せてくれたおかげで、むしろ私は少し安心できたよ。」


 僕は理解できない表情で先生を睨んだ。これが先生から出る言葉だとは、到底信じられなかった。


「私の言いたいことを誤解されているかもしれん。決して他人の不幸を喜んでいるわけじゃない。さっきのあの反応は、私から見れば、普通の人なら誰にでも起こりうるごく自然なストレス反応に過ぎない。もし安達君が、あのベッドや、あのような扱いに慣れてしまって、当たり前のこととして受け止めているとしたら、かえってとても心配になってしまう……」


 先生は慈しみ深い笑顔を見せて、僕に心を開いてくれた。


「少なくとも、私がこれまでやってきた全てのことには意味があったと証明できた。安心して、安達君。あなたがこの苦しみから解放されるように、私は全力を尽くしてみせる。さあ、行くぞ。」

「先生……ありがとうございます……」


 僕は危うく少女のように先生の胸に飛びつき、情熱的なハグをするところだった。

 この前隔離されていた時と同じように、僕という厄介な学生の為に、先生はいつも僕の目が届かない場所で抗い、闘い続けてくれた。相手が権力を振りかざす覇者であれ、社会の頂点に君臨する支配階級であれ。

 今回どのような成果が得られたのかは分からないが、一つだけ確かなことがある――前回と同様、先生は最後まで立ち続け、勝利を収めたのだ。


 先生に続いて健康診断エリアを出ると、遠くから円卓の周りには人がとっくにいなくなり、椅子も空いているのが見えた。研究室では、元の職員の一部がすでに自分の持ち場に帰ってきた。

 無論、この職員たちは僕の件について全く知らないわけだ。だから、僕と先生が出てくるのを見ても、彼らは特に気にも留めず、せいぜい軽く会釈をして挨拶する程度だった。僕の件により無実の職員たちの一部が巻き込まれてしまったかもしれないと考えると、自分の罪の重さがまた一段と増したように感じた。

 何も変えられない僕は、それを見ないふりをして、先生に続いてその場を後にした。


 エレベーターへ向かう途中、突然、首に微かなひんやりした感覚が走り、その中に些かなヒリヒリした痛覚も混じっていた。触ってみると、指先には即効止血用ゲルと、その中に混ざったかさぶたが少し付着していた。

 首にあるこの正体不明の傷は一体どうやってできたのか。先生はきっとその内情を知っている一人に違いない。


「先生、今日の検査の結果ですが……」

「ああ……大きな変化はなく、前回の結果とほぼ同じだ。そもそも、十数日という短い期間では著しい改善が見られるのは難しいんだろう。でも正直、あの要人たちも少しがっかりしているようだね~。次回の検査には、もう来ないだろうな。」


 その答えの口調は軽やかで自然で、嘘ではなさそうだ、と、一応そう判断した。だから僕も同じ口調で会話を続けることにした。


「やっぱり次もあるんですね……あの大物連中を満足させられなかったなんて、なんか少し残念な気がします~どう言えばいいか……何億ドルもの大儲けを逃したような気分?」

「確かに、これは出世への近道と言えるだろう、安達君。だが、世の中にタダ飯なんてないってことは、君も分かっているはずだ。」

「冗談ですよ、冗談……自分がどんな状況にあるかは、私だってよく分かっています。でも、先生がいれば、たとえ先が危機に満ちていても、必ず勇気を出して進み続けます!それに、いつまでも先生の助けに頼っているわけにもいきませんし……」


  先生の足音が突然止まり、僕もそれに続いて立ち止まり、先生に心を開いた。


「次は……私が先生を守らせてください───!」

「結構よ、安達君。私が君に守られる日が、永遠に来ないことを願っている。」

「え……? でも、先生への恩返しをしたくて……」


 僕の熱意が先生の冷たい後頭部にぶつかったかと、少しがっかりしたと思ったら、先生は振り向いてにっこり僕を見つめ、その真っ白な歯並びは、僕が文緋によく見せる笑顔と全く同じだった。


「君の言う通りだとしたら、将来いつか私がピンチに遭うってことになっちゃうじゃない?ならやめておこう~晩年まで平穏に生きたいからね、安達君~」

「あ……私の言い方が悪かったんです!『守る』なんて言うべきじゃありませんでした…なんて言えばいいでしょうか……『お手伝いする』と言うべきでした!次に先生が必要とされた時は、ぜひ私に一肌脱がせてください!」

「はいはい~それじゃあ覚えておくよ~うーん……もう時間も遅くなってきたし、まずは食堂で昼食を食べよう。安達君も腹が減ってるんじゃない?」

「まあ、それほどひもじくありませんけど……」

 

  先生の腕時計を見ると、もう午後2時を少し回っていた。空腹とはいえ、あまり食欲は感じない。きっと文緋の伝統的な朝食でお腹がいっぱいになってしまったせいだろう。てっきり健康診断の注意事項に違反したら先生に叱られるとばかり思っていたが……


「もうこんな時間ですよ!先生、まだお食事は済ませていないんですか?」

「安達君がぐっすり眠っていて、いびきまでかいていたから、起こすのに結構時間がかかってしまったのよ。」

「先生、私をからかわないでください……」


 食堂へ向かう道に、先生と僕の笑い声が響き渡った。今まで先生とこれほど気楽に雑談した記憶は、大学のキャンパスに、あの世間の喧騒とは無縁だった青春の日々の中にしか残っていない。


 がらんとした食堂で軽く食事を済ませた後、僕は上層部から休暇をもう少し楽しみ続ける許可を得た。今の虎視島は、僕にとってかつてほど魅力的ではないとはいえ、この時の僕は、もう少しここに留まることを拒んではいなかった。しかし、しつこく僕を催促し、虎視島から「追い出そうとする」人は、他ならぬ先生である。

 先生の指示に従い、僕は更衣室へ行って身の回り品を受け取り、それから先生と一緒に地下3階の出口へと向かった。


「荷物は全部揃ったか?」

「ええ、全部持っています。」

「スマホは? 中身は確認したか?」


 先生は僕のスマホを特に気にかけているようだった。これも、この刑務所みたいな場所に長くいるうちに身についた条件反射なのだろう。


「ご安心ください、先生。確認しました。今回、あの下田は私のスマホをいじってはないはずです。ご覧の通り、すべての機能が正常に動作しています。」


 僕はインターネット接続、写真撮影、録音といった基本的な機能を先生に見せ、確かに使用が制限されている兆候がないことを証明した。

 前回隔離された時とは違い、いわゆる「安全上の必要性」を理由に、僕のスマホはただの電子の煉瓦に改造されてしまった。彼らがどうやって僕のスマホの保護措置を突破したのか、知る由もない。

 実際、知っていたとしても意味はない。というのは、これは契約書に明確に記されており、従業員側が遵守しなければならない条項だからだ。


 午後3時30分頃、複雑な気持ちで、先生と共に駐車場を通り抜け、海底トンネルの入口前に到着し、循環バスに乗って京空市へ戻ろうとした。皮肉なことに、今日、虎視島に戻るまでは、僕はあえて先生との会話を避けていたのに、別れの瞬間が来ると思えば、卒業を控えた高校生が長年自分を指導してくれた担任の先生と離れたくないような気持ちになった。

 ある文学作品で読んだ一節を思い出す――「人間とは、実に気まぐれで矛盾に満ちた生き物だ」。僕も例外ではないのだろう。


 バスに乗る前に、僕はここに来るまで何度も試したものの、一度も成功しなかったことをもう一度試みた――先生に「帰ってください」と説得することだ。


「先生、見送らなくていいですよ。半月すればまた戻ってきますから~」


「作り笑い」「苦しみの中で楽しみを見つけ出す」といった言葉は、今の僕の心境を表すのにこれ以上ないほどぴったりだ。そうでなければ、こんなつまらない冗談を言うはずがない。


「さあ、バスに乗りなさい、安達君。前にも言った通り、余計なことは考えずに、休暇を思う存分楽しむがいい。」

「わかりました、先生! じゃあ、行ってきます!」

「それと、お父さんにも伝えておいてね。ご馳走してくれるって約束、忘れないでって。」

「ご安心ください~父はきっと先生に贅沢な食事を用意して差し上げますから!」


 僕はバスに乗り込み、窓際の席に座って先生に手を振った。率直に言って、人生でこれほどの不幸に見舞われたとしても、僕はある意味では自分が幸運な人間だと思っている。なぜなら、このトンネルのどちらの端にたどり着こうとも、僕を大切にする人がきっとそこで待っていてくれるからだ。

 バスはトンネルの中を穏やかに走っていた。ポケットから宇宙飛行士の手帳を取り出し、表紙を開くと、裏に貼られた家族写真が相変わらず鮮明に目に入ってきた。


「どうやら今日の夕食は出前になりそうだ……文緋にメッセージを送って、何を食べたいか聞いてみようか?」


 ただ出前を食べるだけじゃつまらないな、と思った。なら、この出前に少し特別な「スパイス」を加えてみたら?

 そこで、スマホを取り出そうとした手を止め、静かに写真を見つめながら、バスに身を任せ、トンネルの反対側へと向かった。


 家に帰ると、真っ先に首に残ったジェルと血痕を拭き取った。不思議なことに、首をきれいに拭いた後、針の刺し跡などの出血箇所がどこにも見つからず、肌はいつも通りつるつるだ。傷口が小さすぎて、肉眼では見分けがつかないだけなのかもしれない。

 そんな理由で自分を納得させた。今、こんな些細なことに好奇心を向ける時ではないからだ。


「まだ時間があるし、まずはどの出前を頼もうか……」

ご感想とご評価を頂けましたら、幸甚の至りでございます。よろしくお願い申し上げます。

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