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第二話 初の定例身体検査 当日

 5月31日(木)、午前7時37分。


 文緋の「歌声アラーム」に頼らずとも自発的に起きられたことは、普段なら間違いなく「魔法や奇跡の存在が証明された」といった類の珍事だ。この慣れない起き方で、僕は布団から抜け出し、カーテンを開けて青空と顔を合わせると、手早く着替えを済ませ、部屋のドアを開けて階下の洗面所へ向かった。

 最初に視界に飛び込んできたのは、キッチンで忙しく動き回る文緋の姿だ。本来ならありふれた日常の一コマであるはずだが、僕はなんとなく悲観的な視点でそれを見てしまった。というのは、文緋の手作り朝食をあと何回食べられるか分からないからだ。最悪の場合、今日の朝食が最後になるかもしれない。

 そこで、僕はもう一度わがままを言うことにした。「健康診断前の禁食」という常識は抜きにして、思う存分食欲を満たしつつ、文緋に不審に思われないようにしようと思ったのだ。


 身支度を終えた後、自分のネガティブな感情を隠すために、僕は洗面所の鏡に向かって気合を十分に入れ、いつもと変わらない自然な表情を装ってから、キッチンへ行き、文緋に挨拶をした。


「おはよう……」

「おはよう、お兄ちゃん。朝食はもうすぐできるから……あ~~~~~~~~~」


 元気なく朝食を作っていた文緋は、大きなあくびで僕に朝の挨拶を送ってくれた。彼女のどんよりとした左目の下にある三日月形の傷跡の表面は、少し黒ずんでおり、まるで真夜中に薄暗い雲に覆われた月のように見えた。

 一見して夜更かしによく見られる生理的特徴――目の下のクマ――だと分かるが、これは決してありふれた日常の一場面ではない。


「なんだか元気がないみたいだけど……昨夜も眠れなかったの?」

「まあまあだね……でも心配しないで。今回は絶対に、前回みたいに卵を炭みたいに焦がしたりしないから。」

「前回の『炭』だって、食えないわけじゃなかったけど……そういえば、俺が帰ってきて以来、お前の不眠の回数が急増してるね。」

「しっ、知ってるんだね。勘違いしないでよ、ア、アタシ、ある『唐変木』のせいで眠れないわけじゃな……はあ~~~~~」

「俺、ある『唐変木』のせいでって言ったりはしてないぞ……」

「真っ黒な炭の盛り合わせなんて食べたくないなら、さっさとあっちに行って座りなさい!」

「わかった、わかった、もう言わないからいいでしょ~」


 僕が虎視島に戻る日が近づくたびに、文緋はいくらか不機嫌な様子を見せたものだ。以前は、文緋のこの些細な感情の由来が分かっていない「鈍感で唐変木な僕」だったが、昨夜、彼女の本音を少しだけ聞いたことで、ようやくその理由が分かるようになった。彼女は無関心なぶりをしたり、「僕の足手まといにはなりたくない」と言ったりしたが、いざ別れの瞬間になると、その不本意な態度が露わになってしまう。やはり、どんなことでも口先で言うよりも実行するほうがずっと難しいものなのだろう。

 しばらくして、文緋が朝食を食卓に持ってきた。幸いなことに、約束を守った文緋は、僕の皿に「鉄板焼きの黒炭」や「焦げ炭の炒め物」といった「闇の料理」を実際に盛り付けるようなことはしなかった。


「おぉ……今日は昔ながらの京空風料理だね~」

「そうね、たまには気分を変えてみるのもいいわ。伝統料理は西洋風の朝食より手間がかかるものよ。」

「確かに、朝食にしては、これらのおかずってどれも簡単には作れないものばかりだ……」


 下味を付けた大根おろしと煮込んだ厚揚げが添えられた、脂の香りが漂う大きな鯖の醤油煮。表面に少量の鰹節が振りかけられ、ほのかな甘みのある味付けの卵焼き。そして冷やした出汁に少なくとも30分漬け込んだお浸し 。アサリの汁で煮出した吸い物と、小豆入りのご飯。

 こうした質素な具材でできた、レトロな趣のある料理のラインナップが、トレイに整然と並べられている。

 はなむけの食事として、心を込めたお惣菜は、高級食材を山盛りにした派手なご馳走に決して引けを取らない。


「じゃあ、いただきます~~~!」

「ねえお兄ちゃん、今日はコーヒーや牛乳なしでいい?この料理にはあまり合わない気がするんだけど。」

「うん、今日はそれらは飲まない。合わないものは逆効果になるだけだし……」

「そうそう! 例えば、空気を読まずに場違いな戯言をぶちまけたり、他人の気持ちを全く考えずに勝手なことを決めたり、あとは……」

「ちょっと待って、お前が挙げた例、なんだか聞き覚えがあるんだけど?」

「この唐変木も、やっと少し成長したみたいね~~~ 誰のことか分かったでしょ?」

「もちろん、ここには他に誰もいないし……とにかく、全部俺のせいってことでいい! でも、それより、さっき言ってた『あと』って何だったっけ?」


 文緋が挙げた僕の罪状に、なぜか強い好奇心を抱いた。


「あとは……この3年間、いつも……去ってほしくない時に限って、お兄ちゃんが勝手にいなくなってばかりだったこと。」


 その重々しい告白を聞いて、僕は一瞬おろおろし、どう謝ればいいのか全く分からず、ただうつむいて茶碗のご飯を口に搔っ込むしかなく、文緋を碌に見ることさえできなかった。


「おい~~~!ご飯が鼻に付くところだったじゃない!鼻でご飯を食べてるの?」

「あ……ごめん!取り乱しちゃって……」


 文緋の指摘で、恥ずかしさのあまり顔をお椀に埋めてしまいそうだった僕は無理やり現実に引き戻された。口元にべっとりと付いたご飯の粒は、遠くから見ると、まるでサンタクロースの真っ白なひげのようだ。


「まったく、ご飯が口の周りに付いてるじゃない。みっともないわ! 早くティッシュで拭きなさい!」

「文緋……さっきの約束、忘れてないよね?」

「え? いきなり何言ってるの?まずは口を……」


 口を拭う暇もなく、僕はスマホをポケットから取り出し、先日会場で文緋とやり取りしたメッセージ画面を開き、画面を彼女の方に向けて、先の質問の続きを投げかけた。


「次のライブ、最前列のVIP席のチケットを1枚取っておいてくれるってその約束、忘れてないよね?」

「もちろん、もちろん忘れてないわよ? なんで急にそんなこと言うの……」

「よかった! 昨夜、次のライブのリハーサルが上雲居の輝英館で行われるって言ってたよね? いつ?」

「来月、来月の13日よ?」

「チケットはどう? 確保してある?」

「まだ、まだよ。だって、ライブの1週間前にならないと、チケットの予約が始まらないから……」


 僕の突然の質問に少し慌てた文緋は、言葉がもつれる様子が、親友の長実清音とそっくりだ。


「どんな手段を使ってもいいから、とにかく俺が家に帰るまでに、この任務を必ず果たしてくれ! そうすれば、俺も約束を守ってあげる。その時は必ずステージに上がって、お前に花束を贈るから!」


 口元にご飯の粒をたっぷりつけたこの滑稽な姿で、僕は力強く雄々しい声を上げた。文緋が最もそばにいてほしい時に、いつも欠席だった不甲斐ない兄ではないことを、実際の行動で証明してみせる。

 口先だけの何千回もの謝罪など、過ちを正すために行うただ一つの具体的な行動には到底及ばない。


「うん、うん、わかったよお兄ちゃん……早く口を拭いてね。」


 文緋からの確約を得て、ついに僕は落ち着いて朝食を楽しむことができた。

 しばらく置きっぱなしな食事は、物理的な温度は下がっていたものの、口に運ぶと心地よい温もりが感じられた。舌先から食道、そして胃へと、その温もりが届く場所の全ての細胞が、この心を温める想いを僕の脳へと伝えてくるのだ。ご飯を一粒でも残したり、スープを一滴でも無駄にしたりすることは、僕の目には罰当たりな悪行に等しい。


「ご馳走さま……めっちゃ美味しかった! よく眠れなかったのに、朝食まで作ってくれて、本当にご苦労様!」

「別に大したことじゃないよ、むしろすっかり慣れてきたし……ところで、もう出発する時間じゃない? のんびりしてたら遅刻しちゃうよ。」

「うん、そうだな……そろそろ時間だ。じゃあ、行ってくる。」

「いってらっしゃい。気をつけてね。」


 僕と文緋の言動と本意は完全に矛盾し、「自己矛盾」という言葉を余すところなく体現していた。本当は僕に居てほしいと願っているはずの彼女が、僕に早く出発するよう急かしていた。一方、ここを離れたくない僕は、彼女が少しでも引き止めてくれることを期待していたが、その思いを彼女に伝えることは結局できず、黙ったまま玄関へ行き、靴を履いて家を出ようとする。

 出発直前、僕は振り向き、玄関で僕を見送る文緋に向かって、彼女にはもう見飽きているかもしれない自信に満ちた笑顔を見せた。


「夕飯は残しておいてね!」

「今日、あなたより早く帰るとは限らないからね。もしあんたが先に帰ったら、自分で出前を頼んで食べてね~」

「え? それなら、虎視島の食堂で夕食を済ませた方がいい……」

「好きにすればいい! ぐずぐずしないで、早くバス停に行きなさい!」


「ドン」という衝撃音とともに、玄関のドアが力強く閉ざされた。安達兄妹は再び、互いが見えない、まったく異なる二つの世界に引き離されてしまった。やや薄暗い玄関と、明るく照らされた屋外とは、鮮明な対照を成していた。

 ドアを閉めたところの文緋は、すぐに顔をドア横のモニターに近づけた。この現代技術を用いて兄妹の間の空間的な隔たりを打ち破る理由は、ただ安達池が去っていく姿を見送るためだった。池の後ろ姿がドアのモニター画面から消えるまで。

 文緋はドアに凭れ、仰向けになってぼんやりと天井を見つめながら、頭の中では池に託された任務を繰り返し回想していた。


「あの唐変木から花束をもらうまで、あと十二日も待たなきゃ……バラかな?」


 バス停と家との距離はわずか400メートルほどだが、それは地獄へと通じる最短の道かもしれない。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という諺は、まさしく今僕が置かれている状況や、虎視島という「虎穴」の実態を如実に表している。ゆえに、新学期初日、不本意ながらも登校路を渋々歩く生徒たちとは異なり、僕はきっぱりとバス停へと向かい、「虎穴行き」のバスに乗ることにした。

 これは、京空市に住む職員たちが毎日虎視島へ通勤する主な交通機関でもある——虎視島関係者しか乗れない京空市全域と虎視島を往復する無料専用バス。

 この専用バスは、下田が虎視島の寮に住むことを断った唯一の「異端者」である僕と、他の京空市の原住民である極少数の職員たちとのために特別に開設してくれたものだ。一見すると非常に思いやりのあるサービスに見えるが、実際には、私たちが虎視島に出入りする状況を監視しやすくするためである。何しろ、1台のバスを監視する方が、十数台の自家用車を監視するよりもはるかに楽だからだ。


 午前8時20分、僕は時間通りにこの専用バスに乗り込み、車内にちらほらと見かける顔見知りの常連乗客たちと共に、普通のサラリーマンと寸分違わず、退屈な通勤の旅を始めた。ここから虎視島までは20分ほどかかるが、9時前に到着するのは全然問題なし。ただ、このバスがもう少し、もっとゆっくり走ってくれればいいけど……ちょうど8時59分59秒の瞬間に到着するくらいのスピードで。

 途中で、最近一度も自ら連絡を取っていなかったリチャード先生にメッセージを送った。


「先生、おはようございます! 今、虎視島へ向かっています。どこで先生とお会いするのがよろしいでしょうか?」

「おはよう、安達くん。急ぐ必要はない。私たちは海底トンネルの入り口で、安達くんが来るのを待っている。」

「先生をお待たせして本当に申し訳ありません……少しお待ちください。あと10分ほどで到着します。」

「わかった。私が言ったことを忘れないでほしい。自分に過度なプレッシャーをかけないでと。これはただの定期的な検査に過ぎないのだから。」

「わかりました、先生……お気遣いいただき、ありがとうございます。」

 

 これから始まるのは、どの乗客にとってもすっかりお馴染みのセキュリティチェックの手順である。

 まず、海底トンネルに入るバスは、3590台の監視カメラによる全面的なスキャンを受けた後、虎視島の宇宙センター入口前の専用バス停に停車し、そこで乗客は降車する。

 その後、入口にあるチェックポイントまで徒歩で移動し、そこでスキャナーによる身元認証および全身の安全検査を受ける。これは普段飛行機に乗る前に行われる保安検査と共通点がある。

 最後に、更衣室のAI端末で、各従業員の生体情報を記録した、毎日無作為に生成されるバイオチップを受け取る。これは虎視島内のほぼ全域での通行、および島内における各人の位置情報の常時追跡に使用する。安全上の理由で、当日のみ有効である。

 これで一連の複雑なプロセスは終了となる。虎視島宇宙センターへようこそ。


 入口のゲートを抜けた途端、基地の本部棟の正門前で、僕に手を振っている先生の姿が一目で見えた。ところが、この前の隔離が終了して虎視島を去った時の情景に引き替え、今回は入り口の両脇に僕の帰還を歓迎する列はない。その代わりに、先生の後ろに立ち、苛立った目つきで先生の動きを厳しく監視している羽杉秘書と、あいつの両側に、かつて僕に心理的なトラウマを残した警備員18名がいるだけだ。

 この警戒態勢のような雰囲気は、明らかに以下のメッセージを僕に伝えている――


 今日、僕が直面するのは、決して「ただの定期検査」などではない。

 羽杉秘書と警備員たちへの生理的な嫌悪感を必死に抑え込み、僕が家で客を迎える時の取ってつけたような仮面を被り、ニヤニヤしながら小走りで先生のもとへ駆け寄って挨拶をした。


「先生、おはようございます!お待たせしてすみません!間に合ってよかったです。お久しぶりですが、お元気ですか?」

「おはよう、安達くん。いつも通りの元気な姿を見て、これほど嬉しいことはない。時間もちょうどいい。相変わらず、以前授業に来ていた時と同じように時間厳守だね。」

「まあ、この点については私も同感です。安達さんは確かに時間厳守で、入島して3年間の出勤記録には遅刻が一度もありませんね。本来なら皆勤賞を授与しても然るべきでしょう~」

「秘書さん、お聞きしたいのですが、ご多忙なあなたがなぜここにいらっしゃるのですか? これほど多くの警備員も連れてきて、まさか先生のボディーガードを務めるおつもりですか?ありがたいですが、お気遣いは不要です。」

「誤解ですよ安達さん~私はただ下田長官の命令に従っているだけです。最近、基地内のセキュリティリスクが高まったし、しかも今日は特別な日でもありますし、多くの貴賓がご来訪ですから、基地の警備レベルを強化するのは当たり前です。何より、教授と安達さんという模範的な先生と教え子の身の安全を守ることは最優先事項ですから~そうでしょう、リチャード教授?」

 

 横柄な態度の羽杉は、気兼ねなく皮肉たっぷりの口調で僕と先生を嘲笑った。これらの警備員の本当の役割については、とっくに見抜いていたが、今は喧嘩を吹っ掛ける場合ではない。そのため、先生と共にこの悔しさを飲み込むしかなかった。それは、千本の針を飲み込むよりも辛い気分だった。


「さて、ここで時間を無駄にしないでおきましょう。代表団の貴賓の皆様と下田長官が、第一研究室で安達さんのご到着をお待ちです! こちらへどうぞ!」

「行こう、安達くん。」


 先生の無気力な声は、何かを訴えているようだ。


「はい、先生、どうぞお先に。」


 持ち物をロッカーに預けた後、僕は羽杉たちの後をついて目的地へ向かった。基地の地下2階にある第一研究室は検査課に所属しており、宇宙から収集された各種サンプルや抽出物をはじめ、地球型惑星から宇宙空間へ持ち出される実験用動植物や微生物、さらに宇宙飛行士の健康診断に至るまで、検査項目の大部分が、地下2階の面積の5分の1近くを占めるこの広大な研究室で行われている。ここでは時折、他国の関連宇宙機関からの検査依頼も請け負うことがある。有償サービスという形で副収入を得ることも、虎視島の財政赤字を緩和する良策の一つとなっている。

 もちろん、以上は余談に過ぎない。しかし、僕の知る限り、第一研究室の検査員たちは日がな一日、目まぐるしいくらいに忙しい高圧的な環境下に置かれているはずなのに、まさか今日、僕のために手元の仕事を全部放置して、全員で仕えてくれるとは……ある意味では、これも「脚光を浴びる」一つの形なのだろう。

 普段は定期健康診断を受ける以外、地下2階に来る機会が滅多にない僕は、エレベーターの扉を開けて最初の一歩を踏み出した途端、あたかも新大陸に足を踏み入れたかの如き新鮮な気持ちに包まれた。ただ、一つ覚えておかなければならないことがある。この新大陸の住人は決して善人ではなく、毛皮を身にまとい血を吸う人食い人種である可能性が高いのだ。

 しばらく無言で歩いた後、羽杉が率いるこの「護衛隊」は、「研一」という文字が表示された金属製のドアの前にたどり着いた。羽杉と警備員たちは自らドア前のスペースを空け、腰をかがめて手を差し伸べるという謙虚な姿勢で、僕と先生に中へ進むよう合図した。


「こちらです。お二人とも、どうぞお入りください~」


 僕の目の前でゆっくりと開かれたのは、ドアではなく、獰猛な虎の広げた大口である。鋭い牙から大量の唾液が滴り落ち、自ら飛び込んできた獲物である僕を、いつでも引き裂こうと待ち構えている。

 その時、先生がそっと僕の肩を叩いた。僕が顔を先生の方に向けて、目に映ったのは、自信と慈愛に溢れた先生の両目だ。かつて大学のキャンパスで、学業に迷いや困惑を感じた時、この眼差しこそが僕の進む原動力となり、数々の難関を乗り越える支えとなってくれた。

 今回ももちろん例外ではない。先生の瞳から、僕の心を奮い立たせる励ましを感じ取ったからだ――


「安達君、自信を持って大胆に前進しなさい。たとえ君が猛虎と立ち向かうことになったとしても、私が必ず、君と共に最後まで戦い抜くから。」

ご感想とご評価を頂けましたら、幸甚の至りでございます。よろしくお願い申し上げます。

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