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第三十一話 体内と人生に漂う暗雲

 窓もドアも閉め切った浴室で、一人きりになった僕は、ついにあの「自然の法則に反する」という事実を検証する機会を得た。文緋は、僕が会場で遭遇した危険が具体的にどのようなものだったのかは知らないはずだが、先ほど彼女がほぼ崩壊寸前だった泣き顔を見た後、もう彼女に少しでも精神的な負担をかけてはいけないと痛感した。だからこそ、この過程は絶対に文緋には伏せておかねばならない。

 手際よく血痕とほこりで汚れた服を脱ぎ捨てると、僕は鏡の前に立ち、全身を隅々まで入念に点検した。虫眼鏡で体の毛穴一つ一つまで観察したくなるほどだ。


「嘘だろう……本当に俺にそんなことができるのか? 二次元のSF作品に登場するキャラクターのように、超強力な治癒力を持っているなんて……」

 

 見間違いではない。検証の結果は完全に予想通りだ。本来なら重傷を負い、血が止まらないはずの背中だが、この時、皮膚の表面に付着した乾いた血痕を除けば、傷の痕跡は微塵もなかった…… 皮下組織や内臓の出血といった内部損傷、または肋骨の骨折などの怪我をしたかどうかは肉眼では判断できないものの、全身が爽快で、不快感や痛みがこれっぽっちもないという体感からすれば、その可能性はほぼゼロだ。

 それだけでなく、表皮が破れた後のかさぶたさえもちっとも見当たらない。まるで背中の服にべっとりと付着した赤い液体が、僕の体から流れ出た血ではなく、どこかで誰かに赤いペンキをぶっかけられたかのようだ……

 文緋に指摘されなければ、「自分の体調があまりにも正常すぎる」ということにさえ気づかなかっただろう。この驚異的な回復能力はさておき、この前自分の体に願った三つ目の願いは、ある意味叶ったと言える。体が「無事」という概念の本質を捉える基準は、僕よりもよほど厳しいものだったのだ。

 だとすれば、さっき目が僕の命令に背いて勝手に涙を流したのは、一体どういうことなのだろうか?


 次の検証に進むことにした。ただ、その方法は少々残酷かもしれない――局所的かつ軽度の自傷行為を通じて、自分の痛覚、回復力、そして細胞の服従度を確かめるのだ。ちょうど浴室のドア脇の棚に、文緋が普段入浴剤の袋を開けるのに使っている小さなハサミが置いてあったっけ……

 僕は勇気を振るい、ハサミを掴んだ。震える手で刃先を左手の甲に向け、この少し血なまぐさい人体実験を始めようとした。

 百メートルの空から墜落した激痛に比べれば、これから受けるこの程度の切創など、取るに足らないものだ。しかしぶっちゃけ、自分を意図的に傷つけるという、ただ苦痛を生み出すだけの行為は、人生の苦しみから解放されたいと一途に願い、絶望に溺れる人間や、精神疾患に苦しむ哀れな患者でなければ、なかなか踏ん切りがつけられないものだ。

 ある意味では、僕も「解放されたい」と願っているのではないだろうか。「もはや正常な生命体としてあるべき姿で生きていない」という執着を手放し、自分に起こりうるあらゆる変化を恐れず、勇敢に、そして気楽にそれを受け入れること――それこそが、僕が貫くべき生き方なのだ。

 考えた末、僕はこれ以上躊躇することなく、ハサミをしっかりと掴み、自分の左手の甲に切りつけた。


「痛ってぇ――――――!」


 刃がきらりと光った途端、左手に2センチほどの鮮血の滲む傷口が現れ、それに伴ってズキズキと痛む感覚が手から神経の中枢に広がった。

 最初の実験結果が正式に判明した――僕の痛覚は完全に正常であり、中枢神経系が過度の刺激を受けて痛覚が遮断されているなどの状況は存在していない。


 次は2つ目の項目、回復能力と服従性の実験だ。会場にいた時と同様に、心の中で自分の左手にこうして命じた。


「我が器用で逞しい左手よ! どうか私の願いに耳を傾け、この沸き立つ熱き鮮血を血管へと戻し、自由に流れさせてくれたまえ! 勤勉で忠実な皮膚細胞たちを用いて、汝の聖なる姿を汚したこの傷を修復してくだされ!」


 称賛の言葉たっぷりの願いは、すでに我が左手にきちんと伝わった。あとはしばらく辛抱強く待つだけで、左手の傷口は肉眼で確認できるほどの速さで癒合していくはずだ。その様子は、超分子材料やナノロボットが自己再構成を行う過程と瓜二つ……かも?

 5分が過ぎ、10分が過ぎたが、僕が待ち望んでいた自己修復の気配は一向に現れない。目の前の傷口からは血が止めどなく流れ出し、浴室の床には真っ赤な血だまりができ、浴室全体がまるで殺人現場のような雰囲気に包まれている。


「おいおい……冗談だろ? 傷口が光速で治るどころか、血さえ止まらないじゃないか!!!」


 何度自分の体に懇願しても、返ってくるのはいつも同じ答え、つまり「梨の礫」で、何の反応もない。明らかに、従順性テストの結果は、僕の皮膚の上皮細胞、血小板、左手、そして身体そのものが、いわゆる「主人」である僕を裏切ったということだ。むしろ、これこそが正常な人間に見られる反応なのだろうか?会場で生み出された、人間の生理的限界を突破する一連の奇跡は、あくまでアドレナリンの作用による、儚く消え去る一時の産物に過ぎなかったのだろうか?

 さらに悪いことが次々と起こった。手から流れ出る鮮血を目にすると、どこか見覚えのある不快感がじわじわと込み上げてきた。あたかも数トンもの巨石が胸に圧し掛かるが如く、全身は群がる虫に噛みつかれているらしく、耳には無数の悲鳴や嘆き声がこだまし、呼吸さえも苦しくなった。これらの得体の知れない体感は、なんとなく言い知れぬほど馴染み深い......

 ご想像の通り、これが一昨日髪を切った時の情景の再現だ。この不気味な視点から見れば、赤血球、白血球、血小板を大量に含む血液が一滴、自分の血管から流れ出るたびに、それは無数の命を自らの手で殺すことに等しい。床に広がる血だまりは微小な形態の死体が山積みになった、ちっぽけな屠殺場そのものだ。

「死体」の数が増えるほど、僕の心の中に湧き上がる由来不明の罪悪感は一層重くなる。

 実験なんてまっぴらだ!今はただ、今にも僕を粉々に押しつぶしそうなほど重いこの罪悪感から、一刻も早く逃れたいだけだ!


 ドーンと浴室のドアが鳴ると、腰からの下半身をバスタオルで巻いた半裸の男が浴室から飛び出し、薬などの非常用備品が保管されている物置へと駆け込んだ。運命の悪戯だろうか、その半裸の男は、ちょうど物置で何かを探していた妹と出くわしてしまった。


「あ――――――――― !」


 兄妹は同時に金切り声を上げた。これは、いわゆる「心を通わせる」という現象のユニークな表現と言えるだろう……


「な、何で服も着ずに飛び出してくるんだ!!!!!!変態!!! 痴漢!!! 露出狂のバカ兄貴!!!」と、顔が真っ赤になり、目を固く閉じた文緋は、僕を完膚なきまでに罵った。

「誤解だ!!!僕は……絆創膏を探しに来たんだ!!!焦ってタオルを巻いて出てきたんで、わざと見せようとしたわけじゃない!!!ごめん!!!よかったら先に出ててくれない?絆創膏を探させて!緊急事態なんだ!!!』

「絆……絆創膏?ちょうどアタシも探してたんだけど、これ一枚しか残ってないみたい…』

 

 文緋は目を閉じたまま、手に持っていた絆創膏を僕に差し出した。


「一枚だけあれば十分だ!!! ありがとう文緋!!! ところで、どうしてお前も絆創膏を探していたの?」

「あんたって本当に物忘れがひどいね! さっき、アタシに手当てしといてって言ってくれたじゃない……その……アタシの膝のことだけど。」


 文緋のズボンの右の裾は膝の上までまくり上げられており、さっき玄関の前で転んで擦りむいた、まだ血の滴る傷が露わになっている。


「ほら、あげる。先に使うといいよ。膝の傷なんて大したことないから。それより、体のどこかを怪我したの?やっぱり病院で診てもらったほうがいいんじゃない?」

「別に、手の甲を少し切っちゃって、血が止まらなさそうだけど……」

「早く見せて!うわ......痛そう......なんでこんな風に切っちゃったの……一体、お風呂で何してたの!」

 

 僕が「血が止まらない」と言った瞬間、文緋はぱっと目を見開き、真っ赤なほっぺのままで、真剣に僕の手の傷の検査を行っている。どうやら彼女は、僕が全身に、一番肝心な部分を隠すための一枚のバスタオルを除くと、何も着ていないという事実をすっかり忘れていたようだ。


「まず消毒をしてから、絆創膏を貼るわ。ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね!」

「え?こんな些細なこと、自分でやれるよ……」

「じっとしてて!今日、アタシのためにあんなに頑張ってくれたんだから、これはアタシの……ささやかなお礼ってこと……言っとくけど、あんたのやり方が頭のいかれる奴しか思いつかないものだと思うけど!今度またこんなバカなことをしたら、大けがしても知らないからね!」


 ここまで言われたら、彼女の好意を断る理由なんてあるだろうか?

 文緋がひたむきに僕の傷を手当てしてくれる姿を見ていると、さっきまで僕を丸ごと飲み込んでしまいそうなほど重かった罪悪感が、ぱっと吹き飛んだ。その代わりに、何万年凍った氷河さえも溶かしてしまうような温もりが生まれた。それは、血のつながりという絆で結ばれた家族が、助け合い、寄り添い合う時にだけ感じられる温もりだ。

 これに懲りて、僕はこれから進むべき道を修正した。他人を傷つけないことを前提に、未来がどう変わろうとも、世間の非難を浴びることになろうとも、この唯一の妹を必ず守り抜くと誓う。


 夜10時を過ぎた頃、明立学院近くの学生寮で、一人の少女が自分のコレクション棚のど真ん中に置かれた一枚のアルバムと、その横にあるほんの少し血痕のついたギフトボックスを、ボーッと見つめている。

 ここが長実清音の住まいだ。安達池が会場を去った後、北崎の側近たちは意識を失った清音を入念に世話し続け、彼女が意識を取り戻した後、専用車を手配して安全に寮まで送り届けてあげた。これは北崎が約束を守ったというべきか、そもそも「終身名誉会員」にふさわしい特権だったというべきか?

 一つ確かなのは、このVIP待遇が安達池のおかげだということだ。一般の人から見れば、彼は少し特殊な能力を持ちさえすれば警察に正面から挑む度胸を据える危険人物に過ぎない。しかし、安達池の胸の中で、彼と共にこの騒動を乗り越えた後、清音の心には、この「危険人物」に対して特別な感情が芽生え始めたようだ。


「先輩はやっぱり以前とは違います……今の先輩は、私よりも文緋を大切にしているんです。」


 独り言をつぶやきながら、清音は血のついたギフトボックスを取り出し、両手で包み込むように持ち、もはや拭い去ることのできない血痕を指先でそっと拭っていた。従者たちが彼女を寮へ送る前に、新しいギフトボックスに交換しようと提案したが、彼女はきっぱりと断った。

 清音はスマホで池に感謝のメッセージを送ろうとしたが、何度も考え直した末にやめることにし、代わりに文緋にメッセージを送って池の安否を尋ねた。


「結局のところ、私こそが部外者なんではないでしょうか? 部外者である私が、あの二人の間に割り込むべきではありませんから……」


 文緋から兄妹二人も無事であることを知らせる返信が届くと、清音は満足げにギフトボックスをコレクション棚にしまい、鍵をかけた。


 同時に、消灯時間をとっくに過ぎた虎視島の宇宙センター寮内、ある小さな会議室には明かりが未だに消えていない。会議室内、プロジェクターに似た機械が設置されており、今日、晴海広場で発生した騒動の映像が映し出されている。映像の焦点は、空中に舞い上がるぼやけた人影に定まっている。

 その装置の前にある長い会議用テーブルの両側には、リチャード教授、下田勝聡、秘書、そして昨日をもって正式に虎視島に進駐した、主要国の政府機関および生物研究機関からなる合同研究チームの先遣隊の代表12名が座り、全世界に通用する万象語を用いて、この謎の生物に対する見解を述べ合っている。


「こんな貴重な映像資料を用意してくださって、下田長官には本当にお礼を言わなければなりませんね。さもなければ、この歴史的に極めて重要な瞬間を見逃すところでした!」

「それはそうと、この映像を下田長官はどうやって入手されたのですか?SNSで関連する動画が流れているのを見かけませんし、ニュース報道も一斉に沈黙しており、どうやら情報が封鎖されているようです……」

「それはね、実は私の秘書のおかげなのです。安達池の隔離が始まった当初、念のため彼に対して少し予防措置を施しておきました。そのおかげで、大量の貴重な資料を入手できたのです。」


 リチャード教授はこの言葉を聞くと、疑いの眼差しで下田を睨みつけたが、下田も引くことなく、教授に向かって得意げな冷笑を返した。


「下田長官、この人ですね? 虎視島の宇宙飛行士の一員って聞いていますが。」


 画面上に映る、ちっぽけでぼやけた輪郭は、高倍率で拡大された結果、肉眼でも識別できるほどにはっきりとしていた―――空中で女性を抱きかかえている男性の横顔。教授は、それが自分が最も大切にしている教え子であることを一目で悟った。


「そうです。顔認識と生体情報の照合の結果、彼は我らが虎視島の第3編隊の隊員、番号10510、たった22歳の傑出した青年、安達池であり、今回の生物研究の重点観察対象でもあります。

「この驚異的な能力は実に素晴らしいですね! これは非常に研究価値の高いサンプルですとも、そう思いませんか、リチャード教授? 何しろこの安達池は、教授が大変苦労して育て上げた優秀な人材ですから。」

「これからの実験日が、本当に楽しみですね! 近い将来、あなたの教え子が全人類の健康事業の発展を推進することになるでしょう。それについて、リチャード教授、喜んでおられるはずです。」

「ごもっともです。この安達君の体内には、人類の生命のあり方まで変えることのできる鍵が秘められているのです! 私たちの協力と、各国政府機関の強力な支援を通じて、その鍵を十分に活用できて、そして全人類の福祉に役立てると確信しています!」


 代表たちの安達池への関心は完全に燃え上がり、各方面の勢力に囲まれた教授にとって、自身の「著名な学者としての身分や業界での地位」は、無力極まりないものに見えた。発言権が微々たるものであり、もはやこの既成事実を覆す力はないと痛感した教授にできることは、再び下田を呼び出して詰め寄ることだけだ。

 そこで、会議終了後、教授は最後に会議室を後にしようとしていた下田を呼び止めた。


「下田、ちょっと待ってくれ。聞きたいことがある。」

「おや? これは実に珍しいことですね。私のような者には、博学多識な科学者である教授に教えることは何もないはずですが……」


 下田の話を最後まで待たず、すでに怒りに燃えていた教授は、腕で下田の胸を押さえ、壁に押し付けた。


「リチャード・ライアード教授!!!命知らずにもほどがある!!!下田長官に手を出すなんて!!!すぐに警備員を……」

「待て、羽杉くん、警備員を呼ぶ必要はない。むしろ教授の質問を聞いてみたい。私が答えられる範囲であれば、どんな質問にも必ず答える。」

「しかし、万が一教授が危険な行動に出たら……」

「安心するがいい。教授も、こうした行動がどのような結果を招くか、よく分かっているはずです。そうでしょう、教授?」

「このクソ野郎……一体、安達池に何を仕組んだんだ!」

「ああ、その件か~ まあいいさ、大したことじゃないですから。私の秘書に説明してもらいましょう。何しろ、具体的な措置の実行者は彼ですからね。」

「長官! これは重要な機密です。関係のない者に口外無用なのではないでしょうか?」

「この機密にはもはや存在価値がない。君も分かっているだろう? 教授に話してやれ。」

「長官がそうおっしゃるなら、私もこれ以上隠すつもりはありません。」

「早く話せ!!!」と、怒りの炎が迸った教授は羽杉に喚き立てた。

「基地の『秘密保持業務及び情報保全に関する協定』第3章第2項の規定に基づき、秘密保持条件を満たす対象者に対しては、 基地側は『必要な秘密保持措置』を講じる権限を有している。したがって、安達池が隔離された当初、携帯電話の返還を求められる前に、我々はそこに不可視の監視プログラム『全視全知』を仕込んだ。これは適切なタイミングで遠隔起動が可能であり、その『タイミング』とは、ちょうど安達池が虎視島を離れた当日であった。」

「何だって……『全視全知』?あのスパイプログラムみたいなものか???」

 

「全視全知」とは、多国の情報機関が共同開発した監視プログラムである。その機能は、利用者が全く気付かないほど隠密な状態で、設定上の制限を迂回して、全種類のスマートデバイスに保存されたデータを読み取り得る。カメラをはじめ、 マイク、生体情報、入力方法、位置情報、周囲の音声収集に限らず、ありとあらゆる機能権限を強制的に取得できる。


 おまけに、防ぎようがないのは、人為的な制御の下で、このプログラムが短時間で、当該デバイスと同一のネットワーク環境にある他のデバイスに遠隔から侵入し、かつ発見されない点である。コンピュータウイルスの拡散能力など、これに比べれば子供だましに過ぎない。


 簡単にまとめると、このプログラムが仕込まれたスマートフォンなどのスマートデバイスは、他者による全面的監視のための「道具」へと完全に変質し、物理的に破壊する以外にはこのファントムを駆除する術は存在しない。


「どうやら教授もご存じのようですね。そう、私たちは情報機関から正式な認可を受け、このプログラムを合法的に使用できる全国でも数少ない機関の一つです。のみならず、安達池の雇用契約書には個人情報の収集範囲についても明記されています。今回講じた措置は法的に完全に正当な行為であり、たとえ法廷で争ったとしても、安達池に勝算は全くありません。」

「つまり、貴様はこんなあくどい手段であの録画を手に入れたのか?」

「無礼極まりない!私たちは『全視全知』を通じて、ドローンのカメラ映像を遠隔共有しただけだ!これらは全て機密保持のためだ!」

「私の秘書が十分に説明したでしょう?もうお手を離してもいいですか?」

 

 言うが早いか、下田は右手を下から上へと一振りし、教授が下田の胸元に押さえつけた左腕を上に弾き飛ばした 。そして素早く教授の後ろに回り込み、上へ振り上げられた教授の左腕を掴んで背中に反り返らせ、自分の肩で前へ押し出すと、教授は体ごと壁に打ち付けられた。まるで警察に逮捕された犯人らしく、教授は下田に壁に押し付けられて身動きが取れず、手錠さえあればまさに典型的な逮捕シーンそのものだ。

 警備員にも匹敵するほどの素早い動きばかりでなく、抜群の格闘技術も持つ下田は、決して指揮室に籠って手先に指図ばかりする飾り物ではない。


「離せ……この畜生め……」

「私の堪忍袋にも限界がある、リチャード・ライアード教授。これ以上余計なことを詮索すると酷く痛い目を見るぞ。おとなしく自分の仕事をすることをお勧めする。そうすれば、あなたにとっても、私にとっても、そしてあなたの最愛の教え子である安達池にとっても、良い結果になるだろう。」

「絶対に……お前らに安達池を傷つけさせるものか……」

「どうやら教授は、ご自身の置かれた状況をまだ理解されていないようですね~しかも、これは明らかに全人類に福音をもたらす偉業なのです。いかなる意味でも彼を傷つけるとは言えませんぞ? 安達池が検査のために戻ってくるまでの間、よく考え直して、それから決断を下しても遅くはない。彼の運命は教授、あなた次第だ。」


 下田は息もできないほど苦しんでいる教授を放し、ついでに会議室内の電気を消してから、羽杉秘書と共に立ち去った。暗闇の中で跪いたままで、苦しそうに喘ぐ痛ましい姿だけが、そこに残された。


 意気揚々とした下田は、秘書からの熱烈な称賛を受けていた。


「長官の神算鬼謀には心底感服しております!代表たちの興味を引く映像を取得しただけでなく、安達池の弱みも掴むことができたとは、実に一石二鳥ですね!」

「これも羽杉君の手柄だ。後で、君の報告書にその功績を記載し、上司に報告してやる。」

「長官、お引き立ていただきありがとうございます! ただ、安達池のスマホに不具合が生じたようで、『全視全知』の情報伝送が午後からずっと中断したままです。これでは、今後の監視を続けることは残念ながら不可能でしょう……」

「構わない。我々が得た情報量は十分だ。あとは彼が戻ってきて検査を受けるのを待てばいい。」

「まさかあの安達池の妹が、全国的に有名な超人気アイドル『月隠の顔』だとは、信じられないですね! この弱点は間違いなく大きな利用価値があるはずです。そうでしょうか、長官?」

 

 下田は陰険な冷笑を浮かべながら軽くうなずいた。零時を告げる鐘の音とともに、秘書と共に通路の突き当たりにある扉へと足を踏み入れた。


 真夜中、安達池の部屋。おそらくこの一日の出来事にまだびくびくしていたせいだろう、ベッドに寝転がった池の頭の中では様々な暴風雨が荒れ狂っており、どうしても心を落ち着けて眠りにつくことができなかった。

 無意識に左手をベッドサイドテーブルへと伸ばし、この静寂に包まれた長い夜を紛らわすためにスマホを取ろうとしたが、そのテーブルの上には、テーブルランプ、デジタル時計、「探求の眼」の勲章が入ったケース、そして今日のピンチを奇跡的に回避した宇宙飛行士手帳以外に、何も残されていない。これは、明日新しいスマホを買いに行かなければならないという最優先事項を、池に思い出させた。

 手を引っ込めた瞬間、窓辺から射し込む淡い月明かりを頼りに、池は自分の左手にある、まだほのかに痛みを伴う絆創膏の貼ってある傷口を目にした。すると、池はふと深い思索にふけった。不眠症の患者にしてみると、思索は諸刃の剣である。寝つきまでの退屈な時間を紛らわすことはできるが、もともと混乱している脳に、さらに火に油を注ぐような逆効果をもたらす可能性もあるのだ。

 

「傷口はまだ痛む……自分の体のはずなのに、だんだん自分自身が自分らしくなくなっていく気がする……人間の限界を超えたことを成し遂げられたのに、今はまた普通の姿に戻って、人間と非人間の間をさまよっている……俺は一体どんな存在なのだろう? 俺はまだ、文緋が知っているあの安達池なのだろうか?」

 

 不運なことに、今回の思索の結果は、前述した通りの逆効果となってしまった。


「ああ!めんどくせー!!! やっぱり早く寝たほうがいい! お前たちが俺の言うことを聞くかどうかは別として、とにかく今、命令する!我が脳細胞たち、我が体よ、早く俺を眠らせてくれ――――――!」

 

 空の月は徐々に西へと沈んでいった。いつの間にか、池はついに夢の世界に旅立った。

 これは池の体が再び池の願いに応えたのか、それとも単なる自然な入眠の過程だったのか?この問いには、おそらく池自身でさえ答えられないだろう。

 安達池が虎視島に戻り、初めての定期検査を受ける日、すなわち5月31日まで、あと10日。多分その頃には、池の体内で起こっている変化や、池が追い求めている答えが、すべて明らかになるだろう。

 しかし、真実に近づきすぎること――それは果たして良いことなのだろうか?

ご感想とご評価を頂けましたら、幸甚の至りでございます。よろしくお願い申し上げます。

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