第二十六話 命懸けのアルバム争奪戦 戦術策定
クレジットカードほどの大きさのものに、「月隠の顔ファンクラブ終身名誉会員専用パス」という目立つ称号がはっきりと記されており、その下には清音の氏名と「番号068/100」の文字が表示されている。横には清音の指紋と思われるものが付いたチップがあり、身元確認用らしい。外見上、このパスは清音が特権階級であることを証明するものだ。
ある意味、入り口の前にいたファンたちが私たちを罵ったのは、確かに間違っていなかった。
「なるほど、道理でスタッフたちが清音を貴賓のように丁寧に接していたわけだ。このパスのおかげだったのか……見た目はかなり高級そうだけど、これには何か特別な権限でも付いてたりするのか?」
「ふふっ、言ったらお兄ちゃん、びっくりしちゃうよ!」
「そこまで大げさじゃないわ……先輩に正直に申し上げますと、私もこのパスを使うのは初めてなんです。所持者はこれを提示すれば、すべてのライブや各種オフラインイベントに無料で参加でき、会場では列に並ばずに優先入場できるそうです。しかも、一生有効とのことです。」
「それって最高じゃない~~~? 一生チケットを買わなくていいの? マジで超お得じゃん!それならチケット代で数百万ドルは節約できるんじゃない?今の高騰したチケットの値段で計算すると……」
「ねえお兄ちゃん、お金のことばかり考えないでくれる?まるで金に目がくらんでるみたい。これは『月隠の顔』の古参ファンだけが持てる地位の象徴なんだから~お金を出せば買えるものじゃないのよ!」
「わかったわかった、俺が俗物なんだ……じゃあ、この神パスがあるなら、ここで並ばなくてもいいんじゃない? 優先入場できるんじゃないの?」
「先輩、裏面の、裏面の利用条件をご覧いただければお分かりになると思います。」
手元のパスをひっくり返して見ると、下部の「利用規約」の中に、括弧付きの補足説明が明記されている。
(限定商品の発売にあたり、公平性の原則に則り、本パスでは当該イベントにおける「優先購入(列に並ばずに購入)」の適用対象外となります。あらかじめご了承ください。)
これを目にした瞬間、まるで頭上からバケツの氷水を被られたような気分になり、心の中で燃え始めた希望の火種は、一筋の煙となって散ってしまった。もしこのパスが使えたなら、今日の用事はかなり手間が省けたはずなのに……
「よりによってここで使えないなんて……つまり、尊い『終身名誉会員』である清音も、他の一般人たちと一緒にここで押し合いへし合いしなければならないわけだ。これじゃ『古参ファン』ならではの象徴と程遠いよ。」
そのメッセージを送って間もなく、誰かにふくらはぎを軽く蹴られた気がした。その力加減や感触からして、どちらも普段慣れてる感じで、言わずもがな文緋の仕業だ。彼女に蹴られたおかげで、自分が言い過ぎたことに気づいた。文緋の誇示をツッコミたかったのだが、清音に対して皮肉を言っているように聞こえてしまった。
「ごめん清音!そういう意味じゃないんだ!」
「いえ、大丈夫です。先輩のご指摘はごもっともです。私もこのパスの効力は少し大げさだったと思いますし、役に立てなかったのは本当に申し訳ないです。もしかすると、私はこの名誉に値しないのかもしれません。」
「そんなことないよ。この聖なるパスがなかったら、ここに入ることもできなかったんだ。明らかに大いに役立ったんだから、決して大げさなんかじゃないよ。そう思わない、文緋?」
「うんうん、同感だ! だって、陽の国全体を見渡しても、終身名誉会員に選ばれるのはたった100人だけなんだ! しかも、選抜されるには厳しい基準を満たさなきゃいけない。つまり、清音ちゃんがいわゆる『古参中の古参』だってことだよ!」
「そうそう、誇りに思うべきだ。『月隠の顔』が、あなたのような自分を深く愛してくれる大ファンの存在を知ったら、きっと嬉しくてやまなくなり、限定版アルバムを直々に手渡してあげるはずよ~」
「その通り! 絶対にアルバムを手に入れてあげるから! だから清音ちゃん、落ち込まないで!」
文緋がこのメッセージを送ると、清音の手をしっかりと握り、互いの十本の指を絡ませた。深く感動した清音は、文緋と僕に涙で潤んだ瞳を向けた。この喧騒に包まれた広場では、言葉も文字も必要なく、ただ一瞥するだけで、すべての感情が相手に十分に伝わった。晴れやかな笑顔を見せる清音を見て、僕と文緋はようやく安心した。
しばらく並んでもほとんど進まない列に、退屈してたまらない私たちは仕方なくそれぞれのスマホを取り出して時間をつぶすことにした。清音はワイヤレスイヤホンで「月隠の顔」の歌声に酔いしれていて、いくら外界の騒音が強くても彼女の精神世界に届かない。僕が気分転換にショート動画を見ようとした矢先に、文緋からの着信通知が画面の上部に現れた。
「嫌がらせばかり言うって、あんたの癖?」
「自覚ある。今になって『口は災いの元』って言葉の意味が分かった……ところでちょっと気になるんだけど、清音のこのパス、どうやって手に入れたの?」
「お兄ちゃん、本当に詮索好きね。他人のことにそんなに興味あるの?」
「ただ聞いてみただけなのに、なんで詮索好きになるんだ……それに、お前も清音のこと、よく俺に話してくれたじゃないか?」
「あたしが話すのはいいけど、あなたが詮索するのはダメよ~~~」
「そんな屁理屈あるか!じゃあ、俺は先に帰るよ。他人事に勝手に首を突っ込むのも、詮索好きってことだよね~」
「ああもう、教えてあげるわよ。このパスはファンクラブの条件を満たした会員にのみ発行されるの。例えば、あたしのバーチャルシンガーのアカウントをフォローするのは2年半以上、且つその間にフォローを解除していないこと、観たライブと参加したイベントの合計が最低100回に達していること、全アルバムとグッズを購入していること、 などなど、本当にたくさんの厳しい条件があるの。それに申請も必要で、条件を満たす会員の数が予想よりずっと多かったから、申請が通った人の中からさらに抽選で100名の終身名誉会員を決めることになったの。結果、清音ちゃんが当選しちゃったってことよ。」
「うん、続きを話して。」
「もうないよ? それだけだ~~」
「噓つき……清音の性格からして、もし抽選に外れていたら、どれほど悲しんでいたか分からない。親友としてのお前は、彼女が悲しんでいるのを見ていられるの?」
文緋はしばらく呆気にとられた後、返事をくれた。今、僕に背を向けている彼女の表情が、どんなものなのか見当もつかない。
「いつからそんなに鋭い洞察力を持つようになったの?もうあたしに追いつきそうね~」
「それって俺を褒めてくれるというか、それとも自分を褒めてるというか……で、清音はどうやって当選したの?教えてくれる?」
「本当に詮索好きね!抽選の前に、梢姉さんに事前に声をかけておいたのよ!だって梢姉さんも担当者の一人だから、清音の枠を確保してもらったの。これで十分分かりやすかったでしょ、お節介さん?」
「やっぱりそうだったんだ。ならば素直に教えてくれればいいのに、なんで隠してたんだ?」
「言ったら怒われると思ったもん。不正な手段を使ったとか、って説教されるに決まってるでしょ。」
いつも他人のことを第一に考えるこのお人好しを、どうしても責める気にはなれなかった。
「まあ確かにちょっと腹が立った。俺にもパス一枚残しておいてくれなかったなんて……どうやらお前の心の中で、兄である俺の価値は清音よりもずっと低いみたいだな。がっかり……」
「あなたが欲しがるなんて知らなかったもん!今まで一度もあたしのライブに来てくれたこともないくせに、あげても無駄だし~~~(笑泣き)」
文緋の返信の最後には、泣き笑いする絵文字がいくつか添付されていた。どうやら、僕がこんな反応をするとは思っていなかったようだ。しかし、これで文緋が本当に僕にパスを用意してくれなかったことが証明されてしまった……
「だって暇じゃなきゃ無理じゃん。毎回お前がライブやる時は、俺宇宙にいるんだし……俺の状況、お前も知ってるだろ?せめてそれくらいは理解してくれよ。もしスケジュールが合えば、毎回応援しに行ってあげる!ステージに上がって花を捧げるみたいな形で!」
「わかったよ~~~次ライブやる時はチケット取っといてあげるから~~~最前列の無料VIP席だよ!もし来なかったら、梢姉さんに兄貴をブラックリストに入れてもらうから!そうなったら一生入場禁止だよ~~~」
「そこまで容赦なくする必要はないだろ……安心していいよ、次回の『月隠の顔』のライブ開催時には、絶対に地球型惑星にいるから!」
この断固たる約束は、単なる僕の予想に基づくものではなく、残酷で哀れな現実が、僕にこの誓いを立てる十分な自信を与えてくれたのだ。今の僕にとって、宇宙はもはや届かぬ幻想と化している。
「ふふ~あんたが宇宙に逃げる勇気なんてないもんね!じゃあ、この特別ゲストの到着を楽しみにしてるわ~~~ところでお兄ちゃん、あたしのアルバムを清音ちゃんに届ける方法、もう考えた?」
「あっ、そうだ、この面倒な件もあったんだった。立てば立つほど忘れてしまいそうになってた……」
「おい―――!この記憶力7秒の金魚め!『世界一の優しいお兄ちゃん』としての責務を果たし、妹の悩みを解決してやるって約束したのを忘れたの!」
おかしいな、文緋はどうして僕が心の中で自分に付けた肩書きを知っているんだ……?
「忘れかけていただけで、本当に忘れたわけじゃない……ともあれ、現状としてはちょっと厄介だ。もし清音のあのパスが使えれば、すべてが解決するんだ。アルバムを発売所に送ってもらって、俺たちはパスで列の先頭に並んで、普通に買うふりをしてアルバムを手に入れればいい。そうすれば簡単に済むじゃないか。」
「じゃあ、なんでこの金魚の兄貴を連れてきたの? 水族館に放流しに来たわけじゃないでしょ! パスが使えるなら、あたし一人で簡単に済ませられるじゃん。いいから、何かいいアイデア考えてよ、お願い~」と、文緋は手を合わせてせがんでいる。
「ちょっと考えてみる。そのアルバム、今どこにあるの? まだ事務所に置いてある?」
「うん、まだあそこに保管されてるけど、梢姉さんと約束してあるから、いつでもスタッフに持ってきてもらえるよ。」
「今日、会場で発売されるアルバムの実際の枚数、知ってる?」
「ちょっと待って、梢姉さんに聞いてみる……たった……たったの1万枚! でも会場にはこんなにたくさんの人がいるんだから、列の最後尾にいる私たちには絶対回ってこない!」
この現場の様子を見る限り、アルバムが買えるどころか、パッケージの特典ボックスすら手に入れられそうもない。時には目的を達成するために、相応のリスクを負わなければならない。堅実派の僕でもその理屈は理解している。今こそ、一か八かの賭けに出るべき時だ。
「ならば、思い切って賭けるしかないな……アルバムが売り切れる前に、文緋、早く事務所の人にアルバムを会場に届けてもらおう!」
「了、了解!何かいい案を思いついたの?」
「確かに案はあるんだけど、ちょっと危険かもしれない……まあ、そんなことはどうでもいい、ともかくこっちで売り切れる前にそのアルバムを届けてくれ! あとは俺に任せて! そうだ、ついでに音量の大きいメガホンとかを持ってきてって伝えといて。そういう機材はあるよね?」
「あるにはあるけど、それ何に使うの?」
「あるならそれでいい、余計なことは聞かないで。あっちから少なくともスタッフを2人送ってくれ。1人はまず外せる印を清音のアルバムにつけて、それをこっそり販売所のアルバムの中に隠しておいて、もう1人はメガホンとかを列の最後尾まで持ってきてって。事務所の人なら俺の顔を知ってるはずだ。至急だ!早く俺の言う通りに伝えろ!」
文緋はそれ以上尋ねることなく、僕と互角の超高速でメッセージを送り終えた。その様子は、隣でひたすら音楽に耳を傾けていた清音の注意を引くことはなかった。
「彼らはヘリコプターで来るって。会場まで5分もかからない。」
「そんなに大掛かりなの?でも頭上にはもうヘリやドローンがたくさん飛んでいるし、もう1機増えたところで不思議じゃない。それに、そうしないと間に合わないし。あとは彼らが来るのを待つだけだ。到着したら、清音を連れて先にここを離れて、広場の外周で俺を待っていて。アルバムを受け取ったら、すぐにそちらへ向かうから。ここには近づきすぎないように、いい?」
「 なんであたしと清音ちゃんが会場を離れなきゃいけないの?もしかして何か危険なことでもするつもり?ちゃんと説明してよ!」
文緋が焦った様子で僕を睨んでいるのが気配でわかった。だから、文緋のこのメッセージには文字で返信せず、代わりに顔を上げて文緋と視線を合わせ、再び真っ白な歯を見せた自信満々の笑顔で彼女に応えた。文緋の頭の中に設定された「安達池ボディランゲージ翻訳プログラム」で陽の国語に翻訳すると、その意味は--------
「兄さんは宇宙を自在に行き来し、何でもできるスーパー宇宙飛行士だってことを忘れないでね! こんな程度のリスクなんて、全く大したことはないよ!」
これは決して自画自賛ではない。僕は宇宙のガンマ線バーストを一発食らっても平気で生き延びた異形の生物なのだから、これくらいの自信と底力はあるのだ。
文緋は僕の笑顔の真意を察したようで、それ以上僕の意図を問い詰めようとはしなかったが、彼女の目にはやはり多少の不安が浮かんでいた。しかし、この少し重苦しい雰囲気は長くは続かなかった。なぜなら、ほど近い上空から、会場のあらゆる雑音を掻き消すほどの大音量のプロペラの轟音が響いてきたからだ──── 深青色と灰色を織り交ぜた大型のヘリコプターが、南東の方角から会場の上空へと急速に接近している。たけり吠える猛獣らしく迫ってくるその圧倒的な気迫は、陽光に照らされてひときわ迫力があり、たとえ遠く離れた地上に立っている者でさえもそれに畏敬の念を抱き、顔を上げてこの巨大な飛行体の雄姿を仰ぎ見ずにはいられない。
ヘリコプターの輪郭が次第にはっきりとしてくると、視力の優れた僕には、機体に「Spotted & Sparkling Entertainment」という文字が塗装されているのが見えた。それは「月隠の顔」が所属する音楽事務所の名前だ。文緋が事務所に命令を下してから、まだ3分ほどしか経っていない。この企業が業界のトップであることは、時間管理の厳格さからも窺える。
会場の皆がヘリコプターに見入っている隙に、僕は急いで文緋に最後の任務を命じた――清音をここから遠ざけること。
「これってあのヘリコプターだよね!!!」
「うん!!!これって『月隠の顔』の専用機なんだ!!!どう!!!すごくカッコいいでしょ!!!」
「自慢するどころじゃねい!!!俺が頼んだこと、覚えてるだろ!!!着陸する前に、早く清音を連れて行け!!!」
「わかった!!! お兄ちゃん、気をつけてね!!! ライブに行けなかったらブラックリストに載せられるって忘れないでね!!!」
おいおい、心配してるのはお兄ちゃんの安否なのか、それともブラックリストの長さなのか……
文緋は、まだ音楽を聴き続けている清音の手を掴むと、振り返って外へ駆け出そうとした。
「清音ちゃん!!! 歌を聴くのはやめて!!! お手洗いに付き合ってよ!!!」
「え……文緋、どうしたの? いきなり……」
「聞こえないよ!!! とにかく一緒にお手洗いに行こう!!! 兄ちゃんをここで並ばせていい!!!
「そ、そうだ!!! 俺がここで並ぶんだ!!!早く行って!!!」
「え——!? 待って、ちょっと待ってよ文緋!!! 先輩を、先輩を一人で待たせるのは、申し訳ない……」
「もう、時間を無駄にしないで清音ちゃん!!! 早くついてきてよ!!!」
文緋は油断していた清音を力いっぱい引っ張ったが、思いがけず力が強すぎて、清音を地面に転ばせてしまった。僕と文緋は慌てて清音を助け起こした。やはり、「急がば回れ」という言葉通りだ。
「清音ちゃん―――! 大丈夫か!!! アタシの力が強すぎたせいだ!!! ごめん!!! どこか痛くないか!!?」
「大丈夫、大丈夫、平気だよ……じゃあ、行こう!」
目ざとい僕が気付いたのは、清音が片手で傷だらけの足をこっそりと揉んでいることだった。地下鉄の駅からずっと走ってきて、さらにここで長時間立っていたせいか、傷ついた部分は明らかに腫れ上がっており、貼ってある絆創膏でも出血を完全に止められず、薄暗い赤色の血痕がにじみ出ていた。この状態では、これ以上長距離を歩くことは到底無理だ。そうすれば、傷はさらに悪化するだろう。しかし、ここで立ち続けていても傷の回復には何の役にも立たず、むしろこれから起こる混乱に巻き込まれてしまう。どうすればいいのか分からず、僕は一瞬、板挟みの状況に陥った。
その時、ヘリコプターは会場の隣に設けられた着陸可能な空き地の上空に到達し、下からスタッフによる着陸指示が出るのを待ちながら旋回している。頭の中で葛藤している時間はもうほとんど残されていない。どうせ文緋のためにリスクを負う覚悟はできていたのだから、ここで優柔不断に迷っているより、思い切って、とことんデカいリスクを一度背負ってみよう!
「じゃあ文緋、先に行くといい!!!俺と清音がここで並んでるから大丈夫!!!」
「え~~~~~?」
文緋は驚きで両目を丸くし、現状が全く把握できない混乱状態に陥っていた。仕方なく、僕は再び兄妹二人だけの「暗号通話モード」――つまり、瞬きを連打する――を使わざるを得ない。
「清音はこの状態じゃもう歩けないから、しばらく俺に面倒を任せてくれ!お前の一番大切な友達を、俺がしっかり守ってやる!早くここから逃げろ!」
「なんで急に気が変わったの!!!アタシもここに残る!もし本当に危険があるなら、アタシだけ逃げ出すなんてできないんだもん!」と、文緋も「秘密通信」を使って、しぶしぶながら返事をくれた。
「お前さ、一度くらい兄の言うことを聞いてくれないか?でないと、たとえブラックリストに入れられても、お前のライブに絶対行かないからな!」
この手は実に効果的だった。文緋はそれ以上反論せず、立ち上がって心配そうに僕と清音を見据えた。そして、何かを決意したかのような力強い口調で、私たちに向かって叫んだ。
「清音ちゃん、ここでしっかり休んでて!!! すぐ戻るから!!! それにあなたも―――!!! 清音ちゃんをちゃんと面倒見てね!!! もし清音ちゃんに一本の髪の毛でも傷つけたら、この役立たずの兄貴をボロボロにしてやるから!!!!!!」
「承知したお嬢様!!! 早くトイレに行け!!! ここには俺がいるから!!!」
「水筒を寄越せ!!!」
「え? こんな時に水筒なんて何に使うんだ!?」
「早く寄越せってば!!!」
戸惑いながらも、僕はリュックから文緋のために用意していた水筒を取り出した。文緋はそれをひったくるように奪い取り、ゴクゴクと大きく一口飲んだ。水筒を返してくれた時、彼女の目には、抑えきれない感情を必死にこらえている様子が垣間見えた。しかし、彼女が僕に背を向けて、振り返りもせず出口へと駆け去った後、彼女が必死にこらえていたものが一体何だったのかは、もはや知る由もなかった。遠ざかっていく彼女の背中を眺めながら、僕はなぜか少し後悔の気持ちを抱き、この危ない決断が果たして正しかったのかどうか、疑い始めた。




